ソリの合わない二人の英傑 その3 勝と福澤の語学対決

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年9月トピックス】

◇オランダ語

勝も福澤も海外を理解するために最初は蘭学から入った。使用言語はオランダ語。当時、開国前の日本が西洋社会の窓として開かれていたのが長崎の出島であった。

勝がオランダ語に最初に触れたのが江戸城に据えられた大砲だったという。大砲の砲身脇にオランダ語が書かれていたのだ。勝は海防には蘭語読解が必要であることを認識し、これを契機にオランダ語習得に熱を上げて、当時では貴重であった蘭和辞書ズーフ・ハルマを筆写するに至る。そしてペリー来航(1853)の3年前に蘭学・兵学塾を開いている。

他方、福澤も父が蘭学の盛んな気風だった豊前中津藩の家臣だったことから蘭学修行に励む。全国から秀才が集まる緒方洪庵の適塾を経て、安政5年(1858年)には中津藩の命を受けて江戸の中津藩邸の蘭学塾で蘭学を教授している。

◇外国語の読み書きと会話力は別物

横浜での出来事。福澤が横浜でオランダ語が通じないと思った経験をする。横浜で出会ったのは蘭語ではなく英語だった。

世界を動かしているのは大英帝国。オランダは西欧の小さな一国であることを気づかされた瞬間だったのかもしれない。ここで英語の必要性を痛感したのだろう。そこで、福沢は英語を勉強して米国渡航に臨んだ。

咸臨丸で到着したサンフランシスコでのこと。同じ船に乗った勝海舟が現地の者と「対等に会話していた」現場を福沢が目撃する。英語を話せた勝と、この時には残念ながらまだ英語を思うように操れなかった福澤。

ここでも福澤諭吉の勝海舟に対する嫉妬が生じたのだろう。

(学23期kz)

咸臨丸

直木賞作家の渡辺淳一さんが...

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 9月トピックス】

2014-5-5mixi日記投稿分より引用

直木賞作家の渡辺淳一さんが亡くなられたそうです。
築地の聖路加病院に入院されていると人伝てに聞いていましたので、心配していました。
ご冥福をお祈り致します。

若い頃に、「化身」(1986年)「別れぬ理由」(1987年)の二冊を読んだ記憶があります。
1997年の「失楽園」は映画館で視聴。
昨年、私が入院中にテレビでの医療に関する討論で激論を戦わす先生の姿を拝見しました。
又、最近では週刊誌に連載されているエッセーを楽しみにしていました。

私の一番の思い出は先生の行きつけとかいう銀座の超一流のお店に行ったことです。
もう、30年前のことですが、ゴルフ場を経営し、株の仕手と言われた某バブル紳士の方と広島のマスコミ関係のUさんの紹介で知り合いとなり、一緒に虎ノ門の画廊のような事務所を案内された後、銀座の夜のお店に招待されました。
その時、渡辺先生がお気に入りの店だということがわかりました。
女性スタッフは女子大生風で超一流でした。
店のロールスロイスで送迎されたのを今でも鮮明に覚えています。
世の中、こんな世界があるのかと。(笑)

知り合ったバブル紳士もその後、事業に失敗し、破綻。
どうされたのか、消息もわかりません。
バブル期の一夜のあだ花だったのでしょうか。
(学22期 Y・Y)

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ソリの合わない二人の英傑 その2 勝海舟と福澤諭吉

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年9月トピックス】

立憲君主制を支持する福澤諭吉と連邦共和制を支持する勝海舟。あるべき国家像を異にする両者はさまざまなところでぶつかる。

もっとも、前稿で述べたように福澤は勝を「心底嫌っていた」が、勝は福澤よりも11歳年上のため、福澤の物言いを、苦々しく思いながらも半ば意識的に受け流していた感があるのだが。

◇咸臨丸に乗り合わせた勝と福澤

うるさ型の福澤が珍しく尊敬した人物がいる。

日米修好通商条約批准書交換のため遣米使節団で、正使一行が乗った米国軍艦ポーハタン号の随伴艦・咸臨丸の総督(司令官)に任じられた木村摂津守喜毅だ。

木村は毛並みが良く軍艦奉行、若手官僚のホープであった。勝は格下の艦長。福澤は木村に頼み込み、従僕という立場で渡航が叶ったのであり、立場上木村に頭が上がらない。この木村と勝と三人が同じ咸臨丸に乗り合わせたことがある。

しかし、福澤同様、運悪く木村も勝より7歳年下だった。勝は上司であっても年下の者には上から目線の口をきく。

米国までの航海中、道半ばにして勝艦長が上司の木村司令官と対立し、勝が船を停め、ボートで帰国しようとする場面が記録に残っている。福澤が尊敬する木村司令官に勝が不服の態度を示すこうした場面も、福澤にとって勝への反発を強めたのだろう。

司令官の木村は評判の良い人物で、米国でも良い評判が立った。サンフランシスコまでの航海で傷んだ咸臨丸の修理費を米国が免除してくれた際も、「義理が立たぬ」として、持参していた資金のうち2万千両(約25億円)をサンフランシスコの大火で夫を失った婦人団体に寄付している。

木村は帰国後も幕府の役人として無事に勤めを果たし、人目を惹くこともなく、静かに現役を退いた。

福澤が尊敬した木村喜毅、号は「芥舟(かいしゅう)」。

海舟ならぬ、もう一人の「かいしゅう」だった。

◇新政府で出世した勝、在野で大活躍した福澤

勝は明治新政府になってからも新政府内で出世し、伯爵となり、枢密顧問官を務めるまでに至る。

こうした新政府でも華々しい活躍をした勝は、静かに幕府を去った木村司令官とは異なる。また、福澤も新政府からの誘いを辞し、在野で大活躍した。

新政府では、福澤がかつて敵視していた長州閥が大きな権力を握っていたからかも知れない。

◇「学問のすすめ」 福澤の真意とは・・・

茶目っ気のある福澤先生。

「学問のすすめ」の出だし、「人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」。

福澤の言葉のように引用される言葉だが、残念ながらこの言葉はトーマス.ジェファーソンが起草した米国独立宣言一説を和訳したものとの説が有力だ。

福澤が「学問のすすめ」の、福澤がこの言葉を用いた真意は何だろうか。

思うに、年長者の勝海舟に接する福澤諭吉自身の態度の決意表明であり、また年下を見下す勝海舟に対する福澤諭吉の反発だった、と解釈するのも面白い。

勝海舟とは異なり、幕臣のあるべき姿として将軍・慶喜を立てた福澤であったが、同時代に福澤諭吉同様、徳川慶喜公に尽くし、果ては名声を博した人物がもう一人いる。

渋沢栄一だ。福澤に続き、次の1万円札の顔となる渋沢栄一。

この二人、奇妙な縁でつながっている。

(学23期・kz)

ソリの合わない二人の英傑 その1 勝海舟と福澤諭吉

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年9月トピックス】

第1回長州歴史ウォークでは氷川神社から乃木神社まで赤坂周辺を巡ったが、赤坂を好んだ勝海舟の住居跡も訪ねた。

勝海舟を好む歴史愛好家は多く、3年前の2020年にも勝海舟記念館が洗足池(大田区)のほとりに開館した。

しかし、この勝海舟、江戸本所(墨田区両国)の下級武士から身を起こし、幕末の偉人となったが、クセのある人物だったようだ。

勝が「合わない」といった人物の中で有名どころは徳川慶喜、娘婿となった佐久間象山が挙げられるが、豊前(大分)中津藩の下級武士であった福澤諭吉と火花を散らせた話も有名だ。

同じ下級武士出身で幕臣となった勝と福澤。歳は勝が福澤より11歳上だった。勝は年下を小ばかにし、上から見下すような態度をとるクセがあったようだ。

福澤諭吉自身も慎み深い性格ではなかったようで、福澤に対する人物評価も、人格円満との話はあまり聞かれない。クセのある者同士の勝海舟と福澤諭吉、この二人はソリが合わなかったようだ。特に福澤は勝を「心底嫌っていた」という。

◇対立軸 その1.徳川慶喜を巡って

徳川慶喜を軸にすると両者は正反対の立場をとる。

そもそもこの二人は幕臣だ。このため福澤が慶喜を支えるとするのは当然だ。しかし、勝は同じ幕臣でありながら、「国家の体をなしていない徳川体制」をいち早く刷新すべきとの立場をとる。

これを国家観に引き延ばせば、福澤はあくまで幕府を中心に政治、外交を展開すべしとし、将軍・慶喜の絶対君主制を支持する立場、他方勝は、弱体となった幕府に雄藩・大名連合が取って代わる、いわば連邦共和制をとる立場だ。

こうした在るべき国家観の違いは、江戸城の無血開城に当たっての見解の違いを生む。

すなわち福澤は勝の江戸城の無血開城に異論を唱え、幕府として慶喜の指揮下で徹底的に薩・長と戦うべきとした。

他方、勝は幕臣でありながらも、弱体化した徳川幕府体制では西欧列強とは戦えず、薩摩藩と長州藩などの雄藩が軸となって国を建て直すべきで、薩長との戦(いくさ)をいわば「国内での小競り合い」との見方をする。

こうした異なる国家観を持つ両者は、薩摩藩、長州藩の動きに対しても見解の違いが出ることになる。

すなわち福澤は、幕臣として当然ながら薩長、特に長州を敵視していた。福澤によると「長州藩士は尊王攘夷を名目として、内心では邪心を抱き、幕府に代わって国政を壟断するもの」と激しく非難する。

勝は逆だ。逆というよりも、敵は国内ではなく外にいるのであり、既述した通り、「国内での小競り合い」では外国に勝てないとの立場であり、薩・長のスタンスに与する。

両者はそれぞれ発言力もあるし、弁も立つ。

異なる国家観を持つ両者。それゆえにいろいろな場面で火花を散らすことになる。

つづく

(学23期kz)

勝海舟記念館(大田区立)

子宝に恵まれた家庭

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 9月トピックス】

2008-5-10mixi日記投稿分より引用

長女24歳 教師
長男22歳 調理師学校学生
次男21歳 介護士
次女17歳 生徒
三女16歳 生徒 
四女11歳 生徒

私の家庭の子供です。嘘です。(笑)
私は子宝に恵まれず、そんなことは、ありません。(笑) 

昨日、広島から上京した小・中学校時代のクラスメイトの子供さんです。
昨日は奥様の実家が東京ということで、築地のホテルに前泊し、今日は亡きお父様の三回忌法要があるそうです。
奥様が、昨年に続き、わざわざ美容室に寄って、カットとヘアダイをしていただきました。
2時前に来店され、5時過ぎまでかかり、その間、近くのジョナサンに入ったり、神田の街を散策したり、喫茶店に入ったりしました。
みっちり、お互いの近況報告、クラスメイトの動静、職場である学校の話も含めて3時間談笑したことになります。
今回は、夜、学部の同窓会の準備が入っていて、築地の寿司屋に付き合えず残念でした。

広島にいる時に確か、5人の子供さんと思っていたが、私が13年前に上京している間に又、ひとり増えて、全部で6人とは驚かされる。
バレーボールチームが1チーム出来るではないか。(笑)
東京でも、クラス会をしたことがありますが、奥様とは十歳も離れていて、いつもラブラブらしい。
ひとりも育てたことのない私には、子育ての苦労の実感はないが、子育てが大変そうだなあという思いと、このあとの、将来が楽しみでいいなあというのが率直な感想である。
このO君は、子供の頃から、親分肌で、リーダーシップが取れ、目立つ生徒だった。
小学校が単一のクラスだったこともあるが、公立の中学校でも3年間同じクラスで、都合9年間一緒のクラスだった。
そいえば、幼稚園も一緒だった。
子供の頃からバレーボールの盛んな地域で、小・中学とバレーをやっていたが、高校は広島のバレーの名門のS高校に進み、3年間で6回も全国大会に出場し、そのうちインターハイ2回、国体1回の全国制覇3回、準優勝3回の偉業を達成してしまった。
今は母校で、高校教師をしているが、数年前までは、バレー部の監督をしていたことがあり、私も何度か、春校バレーで代々木体育館に応援に駆けつけたこともあります。

写真は仕事でお付き合いのあったテレビ新広島のご担当の方が、東京迄送って頂いたビデオです。
(学22 Y・Y)

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メシヤ、我が想い出 ⑥ 番茶

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年9月トピックス】

◇番茶

たしか、この屋号だったと思う。私の好物が鯖の塩焼き。鯖の塩焼き定食を出す店で、ヤマグチで一番気に入っていた店が番茶だ。鯖の焼き上がりは炭で黒っぽく、焦げの苦みが多少気にはなったが、それを割り引いても十分満足できた。

鯖にはシジミの味噌汁が添えられており、だしがよく効いていた。

御飯もうまい。一粒、一粒にコクがあり、うまい。さだめし有名銘柄のコメを使っていたのだろう。

当然ながら、大き目の茶碗に盛られた御飯を、一粒たりとも残したことはない。

週に一度はこの店に通った。

ここに経済学部の同期生で福岡の名門県立高校C丘高校出身のF川君がアルバイトをしていた。軽音楽部のリーダーで、身体は大柄。四十男にありがちな、でっぷり太った体型だ。腹も見事な太鼓腹。

髪は独特なラーメンヘアー。そのラーメンヘアーを伸ばしており、だらしなく垂れたラーメンヘアーを、時折面倒くさそうに顔を振って正す。

不思議なのは、昼といい、夜といい、いつ店に行ってもF川君がその店にいたことだ。

授業はどうしていたのか?

単位は大丈夫か?

部活は大丈夫か?

取り纏め役として部活に顔を出さなくていいのか?

ほんとにアルバイトなのか?

何か事情があるのだろうが、その問いを彼に向けたことはない。

その店では鯖の塩焼きを堪能することに専念したかったからだ。

というわけで、このF君、私の中では卒業するまで、謎多き人物のままであった。

(学23期kz)

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

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大学前と山口駅前のお店マップ(1984年頃)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 9月トピックス】

投稿用にゼミ誌等を読み返していたところ第4号(1984年6月発行)に大学前と山口駅前のマップがあり、あいまいになっていた位置関係を思い出すことができました。ご参考までに投稿いたします。

■■「大学通りマップ」の個店案内

1  レストラン四季                          学生さんはいかない。お客は少なめ!!

2 ジョイフル                                 レコード・リースです。チェックは厳しい

3 ちこちゃん食堂                          むかしながらの庶民食堂

4 コーヒーの実                              日によって量が変わる

5 トゥモロー                                 カレーがおいしい

6 ―粒                                            コーヒーの実がいっぱいの時は一粒へ

7 あんこう、長州ラーメン            古いいまんが読み放題。ラーメン屋も始めました

8 カルチェラタン                          カップルでモーニングを…

9 お好み焼き ごん太                     広島焼き

10 中村サイクル                             暴利ををむさぼる。今やファミリーバイク屋さん

11 小僧ずし                         10円のコピーをおいてます

12 バッティングセンター         暗い学生は一人でゲームを!!

13 酒の三平                                    酒屋さん

14 双葉                                           高くて、量は少ないが、うまい

15 ほら男                                        コンパ帰りの行きつく先はココ

16 木の実                                        狭くて、学生さんはいかない

17 丸久平川店                                 大学通り初のスーパー。山口市民も買い物にくる

18 あとう                                        おちつける。でも一見スナック風

19 重宗商店                                    やさい新鮮。女の子に人気あるみたい

20 徳光商店                                    丸久のパワーにおされぎみ

21 河村文具                                    試験期にはコピーのラッシュ

22 長門館                                        第3の学食。女の子はいかない

23 (プランセン改め)クイーン          いまだに無愛想なおっさん

24 白鳳                                           フライそばとからあげ定食は絶品!!

25 巨泉                                           地味で暗い。モーニングはおいしい

26 文栄堂                                        学生さんの本屋さん。独占企業

27 たぬき                                        安くて、おいしい

28 泉ラーメン                                 学生さんはいかない

29 ことぶき                                    人が少ないのでおちついて食える。満腹はむり

30 安奈                                           売り出しの時、パンスト10円!! ライター20円

31 イソップ                                    店主がコロコロ変るなぞの店

32 弥生                                           時間とお金があれば弥生。車で行けない

33 大福                                           たこやきも始めました

34 K&K                                           ママがおもしろい。馴染みの客が無料労働

■■「山口マップ」の個店案内

1  キャラ                        キャラランチが絶!!

2  文栄堂                        山ローの本屋さん

3  もぐらの里                  大きなチョコパフェとスパニッシュライス

4  江戸金                        とんこつ九州の味

5  グリンパーク                ケーキがうまい

6  プチ・ラ・パン           スパゲティーの専門薔

7  ルナ                          学生の店

8  モスバーガー              ギヤルのたまり場

9  びんの底                    アダルト感覚

10 ラール                        コンパの店

11 チュラム                     白木造りの喫茶店

12 ぶるうべる                  からいカレーの店

13 万両                          おふくろの味

14 一八                          山口で一番うまいおでん

15 百万ドル                      遊び台が多い

16 山口ホール                   遊び台が多い

17 ナショナル会館           ダメ!!

18 蛇の目                        コンパの3次会で…

19 デルホール                   デナイ

20 こがねや                      九州味ラーメン

21 みほり峠                      学割うどん300円

22 シェフ                        手造リケーキ

23 Fan―Fan                    ファンシーなGoods

24 亀山ラーメン               150円の山口の味

25 ビストロ・ド・フォンデュ  2人のためのランチとディナー

26 いこい食堂                  コンパのメッカ

学27期 三島

33年ぶりの再会

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 9月トピックス】

2007-8-8のmixi日記投稿分より引用

昨日は夕方6時から東京・大門の大手鉄鋼会社の健康保険組合会館で、学生時代の経済学部の同期のメンバー(学22期)12名が集まっての宴会があり参加しました。
来年は我が学年が学部の東京支部総会の幹事当番ということで準備の打ち合わせを兼ねての宴会でした。

大阪からの出張者2名の特別参加があり、一人はこの4月に会ったが(大手商社に就職した同じゼミの宴会部長的存在の人)、もう一人は卒業以来、実に33年ぶりの再会となった。
私は一番に到着していて、後から到着したT氏は最初、全く知らない人かと思った。
それもそのはず、どちらかというと痩せていて学者肌でスラリとした美青年だったT氏はまるでごっついイノシシのような体型となり(失礼)、髪は薄く白くなっていたのである。
メガバンクに勤務していたT氏は7年前に退職して関連の総合研究所で働いているという。
T氏も私の変わりように(学生時代は58㎏の体重が80㎏近くなり)、当初は全く覚えていなかったが、そのうち思い出したようだ。
 
私は商法の会社法の永倉ゼミに属していたが、成績優秀で同じゼミの幹事であったT氏には世話になり、休学して上から落っこちてきたYさんにはいろいろと気を使いましたという。
かたじけない。遅ればせながらお礼をいった。
卒業ゼミ旅行は先生を入れて雪の金沢(兼六園)や福井の東尋坊に行ったことも話題になった。
利害関係がないので、無邪気な話に終始し、久しぶりにリフレッシュした一夜となった。
たかが同窓会(?)、されど同窓会といったところか。

写真は旧山口大学経済学部 亀山校舎
(学22期Y・Y)

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名畑ゼミの思い出 -7

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部【2023年 8月トピックス

■■名畑先生について

『一言でいうと、とてもおかしな先生

そばにいると心を開いてしまう (就職相談時のコーヒーはとてもおいしかった)

すぐ悪ノリする (ゼミ10周年記念パーティのときはすごかった)

歌を大きな声で歌う (入ゼミ後の登山で鳳陽寮寮歌を指導されたときは驚いた)

ゼミの時間にはとてもシビアになる (普段とあまりに違うためとまどった)

ソフトボールの名投手 (一度は打ち砕いてみたかった)

なんといっても山大一の先生です』

『いつも陽気で明るい先生は、いつも長い目で私たちをみてくださいました。

皆がよいゼミだったというのも先生なくしては語ることができません。』

『飾り気がなく、ゼミ生に対しても体でぶつかっていくような気さくな人柄に親しみを覚えました。

コンクールで函館に行く時、教職員に寄付をお願いして回ったところ、学部で最高寄付者は名畑先生でした。相手にしてくれない教授が多い中であの時は名畑先生が仏様に見えたものです。

また、名畑先生を語るには奥様のことを忘れてはいけません。コンパの都度押しかける我々をやさしく迎えてくださり、我々の底なしの腹を満たしてくださいました。また、あの酒の飲みっぷりのよさにも見とれたものです。

名畑先生、そして奥様のことは私の胸に強烈なイメージを残し続けることでしょう。』

『カゲで人の悪口をいうのは得意だが、明るいところでは何も言えない。一言でいえば、先生は我々のスターだ。』

『先生は勉強の方は非常にシビアにやり、また他方、遊びにおいては我先に立って存分にやり満足しちょるという風である。ぼくは非常に無邪気な人であると思う。就職の時、非常にお世話になった。』

『まさに学生気質を知り尽くした先生であった。ゼミの時間は非常に鋭いまなざしを黒縁メガネの奥から光らせる厳しい人となり、コンパ、スポーツの時は先生という立場を離れて学生といっしょに遊びまくるといった、とても愉快な先生であった。』

『先生と知り合えたことは、私の人生において大きな影響を与えることと思います。学問において先生から学びきれなかったことは、私が至らなかったためと反省しております。先生という人格に二年間ふれたことで、すばらしい大学生活を過ごせました。』

『本当に素敵な先生でした。』

『いつも女性の味方で、やさしい先生でした。』

『酒を飲まないことを別にすれば、すばらしい先生である。』

■■名畑先生による9期生の印象他

「やる気のある人の、やる気のある人による、やる気のある人のためのゼミ」

残念ながら、ゼミの実態は今のところまだまだそのような理想からはほど遠い。ゼミナール指導上の私の無能を棚に上げてそのようなことを平気で言える義理ではないが、研究テーマを中心にしたゼミのまとまりをどのように形成していったらよいのか、9期生諸君が展開してくれたさまざまな試行の中でさんざんに考えさせられた1年であった。

大学祭への研究成果を企画したり、東南アジア視察旅行を計画したり、3年-4年のサブゼミを実験したりしたが、いずれも不首尾に終わった。東奔西走してくれた幹事の労に対して心から感謝の意を表したいが、同時にあれほどのエネルギーをもってしてもなお打ち破ることのできなかった状況とは何かについて、9期生がつかみ取ったものを10期生に継承させていってほしいと思っている。

ゼミナール必修という現在の枠組みの中では、ゼミに入ってくる諸君の動機や意向があまりに多様であり、創造的研究の一点において統一をとることはきわめて難しい。平均的なところで統一を保とうとすれば、それは教官が学生と同一次元にまで入り込んでいって学生諸君の欲求に迎合するという悲劇を生みがちである。私自身もこの悲劇の体験を幾度となく苦々しい思いで繰り返してきた。けっして迎合はすまいと心に決めていても、単細胞的生活反応の悲しさ、ついつい学生諸君に乗せられて「悪ノリ」してしまう。

今年度も二年生諸君のゼミナールの配属が決定し、名畑ゼミは13名の新ゼミ生を迎えることになった。聞くところによれば、今年度のゼミ紹介はやる気のない人は一切受け入れないというほどの「格調高い」ものだったという。したがって、11期生はその点での厳しさを充分に意識した諸君であろうと期待している。

9期生は実によくやってくれた。この「精鋭」たちを上回る精鋭が来るのかと今から楽しみである。(一部編集)』以上、ゼミ内報より。

2年間の必修科目であったゼミナール。それぞれのゼミに特徴があり、今でも初見の同窓生には「どこのゼミでしたか?」と尋ねるほど。

他ゼミの「思い出」も拝見できれば、と期待して「名畑ゼミの思い出」を終わります。

拙い昔語りにお付き合いいただき、ありがとうございました。

学27期 三島

松陰考 その2 二つの事件

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年8月トピックス】

二つの出来事が我が国に及ぼした影響は誠に大きいものがあった。

当然年若き松陰にとっても大きな影響を与えた。

アヘン戦争とペリー来航だ。

アヘン戦争

天保14年(1843年)松陰14歳の時、我が国の朝野を「足元から震え上がらせた」アヘン戦争が起きる。

中国が「欧州の蛮国」英国に屈したという。その中国では欧州人が街中を闊歩し、地元民は欧州人に服従している姿が伝わっている。

途上国の中国ではない。

当時中国は我が国にとって、千年の長きにわたり、我が国の政治、文化の模範であり、儒者にとっては孔子や孟子を生んだいわば模範国であり、思想「先進国」だ。また、あの偉大な釈迦を生んだインドも英国の植民地になったというではないか。

その英国が日本を目指してくればどのようなことになるか。

備えなければ「第二の中国」、「第二のインド」となる。

松陰が師と仰ぐ松代藩士・佐久間象山は直ちに儒学を捨て、西洋流砲術を志す。

アヘン戦争を契機に国を憂えての遍歴が始まる。

清が大敗したことが気にかかっており、これまでの兵法が時代遅れではないかという疑問を持ちながら。

ペリー来航

もうひとつの大事件が10年後に起きる。

嘉永6年(1853年)、松陰24歳の時。ペリーの浦賀来航だ。

ペリー来航を契機に松陰は士籍を剥奪された後、密航の国禁を犯すし、萩に護送されて投獄される。

釈放後も監視される身ながら、かつて明倫館の兵学教授を務めた松陰の学殖は兵学の講釈にとどまらず、また単なる外国排斥の攘夷論者でもなかった

◆渡航を志すも・・・

1853年にペリーの来航を見た後、唐突に海外渡航を果たしたいとの意向を黒船に伝えるも乗船拒否。そこで、同年、長崎に来航していたロシア・プチャーチンの船に乗り込もうとしたが、クリミア戦争で予定より早く出航したためプチャーチンの船にも乗り遅れた。

また、次の機会に再度ペリーの船に乗り込もうとするが、無許可の海外渡航という国禁を犯す松陰を庇えば締結されたばかりの和親条約が水泡に帰すことを懼れ、ペリー側に乗り込みを拒否される。

◇なにゆえの過激な行動か

書斎の人にあらず、行動の人という松陰評がある。

山鹿流兵学を講じたが、もともと客観的に外側から物事を観察し著述する「学者」ではなかったのではないか。教育者であり、行動派の思想家だったといえるかもしれない。

蘭語などの外国語が不自由で、松陰の知識の総体は同時代の知識人より「かなり」低かったという評価もある。

なにゆえに過激になったのか

温和で純粋、丁寧、質素だった松陰は、藩主にも熱い忠誠心を持つと同時に何よりも天朝に絶対的な信頼を捧げていた。これが松陰をあのような言動に追いやったという見方がある。

また、アヘン戦争による清の窮状を踏まえ外国の来航を過度に不安視し、それゆえに勅許を得ずに条約を結んだ幕府が許せなかった。許せないというより、外国からの蹂躙に怯えたのだろう。

こうしたこともあり29歳、刑に処せられる1年前の安政5年(1858年)に水野土佐の守忠央(ただなか)暗殺、安政の大獄を進めた老中・間部詮勝(まなべあきかつ)要撃という過激な主張をし始める。

4歳下の木戸孝允が諫言役として江戸から萩に向かうが、松陰は頑なで、木戸の説得は失敗に終わり江戸に帰っていった。こういう頑固な一面を抱えており、安政の大獄の最後の犠牲者となった。

周りの人にも大変な迷惑を掛けた。藩主敬親、周布政之助、兄の梅太郎なかりせば早くに打ち首になっており、30までも生き延びていなかったのではないか。

一君万民

松陰を評価すべきはこの一点かもしれない。

これこそ儒教・朱子学に染まった士農工商の徳川の世を新たな世界、民主主義の世界に導いた当時の革命的な思想ではなかったか。松陰を評価すべき最大の点はここに存する。

清や朝鮮にできず、欧米列強と肩を並べる国民国家となったのは、「一君万民」思想が士農工商の階層性を破壊したからだ。

人々の階層を超え、藩を超え、天皇を中心に抱くオールジャパンとして列強国の一国として世界に踊り出る基盤を創り出したのだ。

(学23期kz)