名畑ゼミの思い出 -6

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 8月トピックス】

■■卒業を前にした9期生のゼミに対する感想

『それにしてもなんとなんとよく騒いだものじゃ。

酒にマージャン。ソフトボールにバレーボール、バドミントン、バスケット、ボーリング。コンパだらけに合コン、カクテル・パーティ、無人島キャンプなどなどなど。

貧乏暇なし集団である我々名畑ゼミ、面々はよく耐えることができたものだ。しかし、しかし、この忍耐力こそ未来の力強い味方となるのだ。

よくやった、われら仲間たち!

(追記、勉強もやりました…)』

『山大広しとはいえども名畑ゼミほどスゴイ集団はない!

スポーツマッチはすべて参加。課外に特訓さえする。酒が大好き。マージャン大好き。勉強大好き。女大好き。男大好き。

「ルーズルーズ」「東大一直線」「パイレーツ」「亀有公園前派出所」「巨人の星」などを加えて割ったような好青年の集団である。まるで変態集団「バラ族」の中に置かれたサクランボのようでもあり「ベルサイユのばら」のようでもあった。[注1]

他のゼミの連中は名畑ゼミに一目置いている。[注2]

まさにゼミ生や先生を含め理想的な環境であったように思う。

一方、女に縁がないというかモテない、悲しいほど純情な小心者集団。いつも「女」に関しては哀愁が漂っていたが、それもよかった。』

[注1]

「ルーズルーズ」

         コンタロウ作「ルーズ!ルーズ!!」。ルーズすぎる怪盗を描いたギャグまんが。

「東大一直線」

         小林よしのり作。東大受験をネタにしたギャグまんが。

「パイレーツ」

         江口寿史作「すすめ!!パイレーツ」。プロ野球チーム「千葉パイレーツ」を舞台としたギャグまんが。

「亀有公園前派出所」

         秋本治作「こちら葛飾区亀有公園前派出所」。同派出所を舞台としたギャグまんが。

「巨人の星」

         梶原一騎原作、川崎のぼる作画。スポーツ根性まんがの代表作。

「バラ族」

         1971年創刊の男性同性愛専門雑誌『薔薇族』から転じた、BLの旧隠語。

「ベルサイユのばら」

         池田理代子作。男装の麗人オスカルを主人公として、フランス革命前後を描いた少女まんが。

[注2]

エビデンスはありません。

『この4年間、最後までクラブ活動に没頭していたので、ゼミ活動に積極的に参加しなかったことを残念に思っています。しかし、ゼミを通していろいろな思い出もできました。

名畑ゼミの連中はとにかくタフな者ばかりで、無人島キャンプ、カクテル・パーティ、はたまた人々の眠りを襲う深夜の下宿巡りなど、小心者の私は驚かされてばかりいたような気がします。でも、他のゼミでは経験することのできない貴重な体験でした。』

『実に多彩な個性をもつ小心者達が、学生の特権である比較的自由で勝手気ままなやり方を生かし、フランクな人間関係を作り上げた。すなわち、ゼミを自分たちに引き寄せることに成功した。しかし、一方で危機感が足りず、退廃的傾向のあったことを無視してはならない。』

『3年の時、ぼくはまじめなまじめな学生さんであった。そのぼくをここまで変えてしまったは、誰だ!

毎晩毎晩、麻雀。(´Д`)ハァ…

しかし、なかなかいい仲間を多く持ったと思う。サマーキャンプ、カクテル・パーティ、その他いろいろ。まったく未知の分野も経験できた。勉強の方もなかなかおもしろかった。

残念なことは、東南アジアを実際にみられなかったことである。』

『名畑ゼミ9期生の特徴は「飲む、打つ、買えない」であり、スポーツ好きの集まりでもある。ソフトボール準優勝、バレーボール4位という実績からみてもわかるように、ただ好きなだけではなく実力もあったのである(個人の実力?+チームワークの力!)

私はゼミの時間は寡黙の人であり、スポーツマッチ、コンパ、マージャンにおいては大活躍の人であった。もっと勉強すればよかったと後悔の念にたえませんが、ゼミの愉快な連中を知り得たことはうれしく思う。』

『乙女のひとり言

そう、名畑ゼミの9期生って変わっているのよね。

いつも男ばっかり集まって魔の三角地帯[注3]なんて所で何かやってるみたい。

「××」

あれ? 何か言った?

ああ、飯塚さんね。いつも変なこと言っているの。〇〇とか△△とか。いや~ね、恥ずかしいわ。

「寝させへんで~」

あれは柴田さんかな、それとも三島さんかしら。

「ゴニョニョ」

あの人寝ぼけてるのかしら。そうだ、古賀さんは低血圧だったんだわ。

アレンジボールが好きなのは下尾さん。パチンコじゃないのよ。

女の人を連れたイカス人は有冨さんっていうの。

道着の人は真田さん。男らしい人。私好みよ。

あの真面目な人、恵谷さんっていうのよ。いい人よ。

あそこでニラメッコしている人たち、木月さんと野村さんよ。きっとお金でも借りっこしているのよ。

名畑ゼミにはライバルが二人いるの。前川さんと南さん。二人ともかわいい人よ。でも私、負けないから。

とにかくいい人ばっかり。素敵なゼミよ。』

[注3]

カルチェラタンの近在に比較的多く9期生の下宿が集まっており、遊び相手を求めるメンバーに強襲されていた。

『花なき山、山都逍遥歌は いとあはれなり。

春の遠足にてこの歌覚えしに 暗唱したりて こんぱのおりに歌うはいうべきにあらず。

山都逍遥歌は覚えにくしあれど、この歌 歌うほどにあはれをさそうふぜいなりしか。

こんぱは月一回にて 夏はびあぱーてぃを行ふ。

かくてるぱーてぃはおもしろけれど、相手おらずは このうへなき問題となりにしものなり。

そふとぼーるは三年組の弱さに驚くものなり。安部ゼミの敵討ちなど思いだによらぬことなり。

学内ぜみ大会は負けることよるされぬものなり。

鈴木ぜみ 関下ぜみなど赤子と同じものにて、あの本を読めばあの本に従い、この本を読めばこの本の信者となる烏合の衆と心得たり。』

『とても良い雰囲気でしたが、溶けこむのが遅かったので残念でした。』

『気を使ってもらったり、迷惑をかけたことも多かったことと思います。先生をはじめ、皆さん、どうもお世話になりました。ありがとう!』

『勉強より遊んだことの思い出が多い。名畑ゼミにはいってよかったと思う。』

(次回で終わり)

学27期 三島

恩師の訃報(鞆の浦出身の青髭先生)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 8月トピックス】

2007-11-30mixi投稿分より

昨夜、久しぶりに日吉の自宅に帰ったら小学校時代の恩師(5、6年次担任)の奥様から喪中葉書が届いていた。
それも、今年の一月に亡くなられている。

一昨年、秋に帰省した際、広島でお会いした時は、万が一の時にはY君(私)に連絡するように連絡リストを作って家族に託しているので、棺を運んでくれと言われたことがあります。
私も今頃知るなんて、何という落第生であるか。
きちんとウオッチングしておかないで、不義理な人である。

酒が好きで、あちこちが悪く入退院を繰り返しておられた。
年賀状のやり取りはしていましたが、私が39歳で二度目の広島勤務となった時に広島市民球場で、それらしき人を見つけ16年ぶりに再会しお付き合いが始まった。
居酒屋でサシでよく飲んだ。
大のカープファンで結構、野球談義に花を咲かせた。
会社のクラシックコンサートにもご招待したが、奥様と来られたことは一度もなかった。
私の知らない女性が多かった。

最後は国立大学の付属小の副校長を務められた先生からは教育論を聞かされた。
小学校時代に、ぼんやりしてあまり成績の良くなかった私には、耳の痛い話であった。

45歳の時に、私が幹事で正月に同窓会を開いた。
三人の恩師をお呼びした。
私は仕事もそこそこに、全力投球した。
町立の小学校で50名程度の単一クラスであったが、地元を始め、全国から実に30数名が集まった。
33年ぶりの再会もあった。
先生にも絶賛していただき大変喜んでいただけた。
酒が好きな先生で、いつか、いきつけの居酒屋近くのキャバレーにロシアのダンサーが来日ということで悪友の先導で行ったら、先客の先生が女性とボックスに座っておられて生徒の私は閉口したことがある。
又、クラスメイトに歓楽街で夜のお店をやっている女性がいて、同窓会をドタキャンしたので先生をお連れしたら、恩師に向かって、「そこのおじさん、座る席がないよ。」と言われ苦笑したこともある。
生徒も歳月が経ち、先生の顔を覚えていないのは仕方がないが。。。

45歳の時の同窓会も、私が東京に転勤となり、5年毎にやろうということで、地元の人に引き継いだが、その後は一度もやっていない。
3人の恩師を入れて皆で一堂に会することももうない。
そういえば、弟さんがおられ修学旅行で別府、阿蘇に行った時に下関駅のホームに生徒に挨拶に来られた。
後に弟さんは山大農学部出身で当時、シモラク牛乳に勤められていたのを知った。
先生のご冥福をお祈りします。

写真は広島の歓楽街、新天地の「酒処石松」です。
カープ優勝時には必ず報道されます。
二代目の奥様が母校基町高校の先輩で、覗くと恩師の先生がカウンターで、ひとりで呑んでおられました。
(学22期Y・Y)

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名畑ゼミの思い出 -5

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 8月トピックス】


■■ゼミ10周年記念パーティ奮闘録(ゼミ内報より)


★★ 序章 意義

名畑ゼミ10周年とゼミ誌発刊を記念して、我々はカクテル・パーティを行うことにした。

日時:1978年11月26日(日) 6:00P.M.
場所:かめ福ホテル

★★ 第一章 計画

だいたい就職活動が一段落ついたころのこと。「カクテル・パーティをやろう」とわが幹事三島氏が言い出した時、我々は半信半疑のままなんとなく賛成した。ここで強い反対意見が出なかったことがそもそも運のつきであった。

パーティに向けて活動が始まったが、みんな半信半疑のままだったことから非常にいい加減で、実際には何もやらなかった。そしていよいよ本当にやらなければならないと実感した時、我々は焦った。パートナー探しという難題と、実行可能なプログラム作りとその準備の期限が目前に迫っていたのだ。

★★ 第二章 準備

いよいよ準備が始まったが、それは開催日の二週間くらい前のことだった。
準備といってもカクテル・パーティなど経験がなく、何をやっていいのかわからない。開催が11月26日と決まっているだけ。その他のことは一切白紙の状態であった。

この時は「まだ二週間あるさ」と不思議に余裕があった。我々が本気で焦ってきたのはあと一週間となった時だった。

まず、パーティにおける様々な役割を決めるということから話し合いが始まった。

司会:木月氏
音楽:真田氏
受付:古賀氏、前川さん、南さん
装飾:有冨氏、柴田氏、野村氏、
会計:恵谷氏、下尾氏
渉外:飯塚氏、三島氏
ポスター作成:西田氏(10期)

以上のように各自の役が決まった。[注1]

次に、プログラムを作成することに全力が注がれた。カクテル・パーティはシリアスなものであるという常識を打破したいという名畑先生のご意向もあり、作成は非常に困難なものとなった。
プログラム上もっとも問題となったのはダンスであった。なにせダンスを踊れるのは真田氏一人。必然的に他ゼミ生は特訓せざるをえなくなった。血のにじむような努力の末、特に前川さん、南さんの女性二人の協力もあり、二日間という短期間でなんとか一応みられるようになった。
このような苦闘の結果、プログラムは次のようになった。

第一部
 司会者あいさつ
 名畑教授あいさつ
 幹事あいさつ
 乾杯

第二部
 自己紹介
 ダンス

結局、先生の意を反映したものとは言い難い、ごく普通のものになってしまった…。しかし、当初の精神を忘れてしまったわけではない(キリッ。

★★ 第三章 実行

ついにパーティ開催の日、11月26日となった。
みんなやや興奮気味に、かつ緊張した面持ちでパートナーを連れて会場にやってきた。

いよいよパーティが始まった。

第一部は少々かしこまった雰囲気の中で格調高く進行した。名畑先生のあいさつに、全員まじめに聞き入っていたのが印象的であった。
そして、乾杯。
全体の雰囲気もほぐれて立食パーティらしくなり、会話も弾んで盛り上がっていった。

第二部は自己紹介から。
やや不安もあったが、ユニークな自己紹介が続いてさらに場を盛り上げた。
最後に練習を積んだダンス。ブルース、ジルバ、ディスコと次々と流れる音楽の中で、みんな酒も回ってきたせいか、楽しそうに踊っていた。特に、名畑先生の独特な、とても愉快なディスコ風ダンスが印象的だった。

楽しいムードのうちに終会の時間となった。
我々は学部の愛唱歌である鳳陽寮寮歌(花なき山の♪)と山都逍遥歌(春を弔う落英か♪)を全員で合唱し、パーティを終えた。

★★ 第四章 結び

この行事を通じ我々名畑ゼミの団結力が発揮され、当初不安に感じていたパーティをなんとか成功に導いた。
名畑先生をはじめ、三木さん(8期)、三年生諸君(10期)、パートナーのみなさんのご協力に感謝したします。』

[注1]
結婚式等で裏方を手伝ったことがある方はお気付きかもしれませんが、なぜか「カメラ/撮影」担当がありません。その結果、開催した思い出だけが残るイベントとなってしまいました。

■■感想編

名畑ゼミ4年生の雰囲気 ~オカマのひとりごと~

わたしたち名畑ゼミのふんいき?
いいわよ

どうしてって?
そりゃ みんな仲がいいもの

勉強?
そりゃ してるわよ。びんびんよ

遊び?
そりゃ もう言葉をこえてるわ

そうそう この前カクテル・パーティってやったわよ
うふふ 楽しかったわ
お金に羽がはえてとんでいったわ。残念ね。
』(ゼミ内報より)

会場となったかめ福ホテルは2020.3から新築・増改築工事を行い、2022.9にリニューアルオープン。今は宿泊とバンケットで別々の営業となっています。
添付写真はパーティから40年後に撮影したもの。意図したわけではありませんが、ゼミ同期会で改装前の同ホテルに宿泊しました。

(つづく)

学27期 三島

趣味は将棋(へぼですが・・・)青春編①

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年8月トピックス】

私の趣味は将棋です。

地元の将棋同好会に入会。週末、定例会に参加して仲間と将棋を指しています。実力は1級。弱い。会員の多くは有段者です。8段の方もいます。先日、彼に話を聞くと、強豪・早稲田大学将棋部OBとか。強いはずです。

       ◇中学生で将棋を始める

私は九州の鉄の街、八幡出身。

中学生のとき、将棋を始めました。同じ中学のA君に誘われ、将棋を指すようになりました。ときどき、彼の家に友人が集まり、わいわいいいながら、将棋を楽しんでいました。

 しかしながら、私は剣道部です。放課後は毎日、剣道の稽古。週末も試合があり、将棋に割く時間はそんなにありませんでした。それでも少しずつ、将棋も面白くなっていったのです。

         ◇中学生将棋大会

 ある日、八幡で中学生将棋大会が開催されました。中学からA君と私が出場しました。弱い私は2回戦で敗退しました。強いA君は順調に勝ち進み、決勝戦に勝ち上がったのです。

 決勝戦の舞台は特別です。負けた選手全員が将棋盤の周りに集まります。大会を運営する大人たちも大いなる関心を持って立ち会います。注目の一戦です。

 さあ、決勝戦が始まりました。持ち時間(考える時間)は確か30分だったと記憶しています。序盤戦。二人は時間を使わず、駒組を進めていきます。中盤の難解な局面。A君は熟考し、1手指します。すると、相手はノータイムでさっと指す。再び、A君は考え、時間を使って次の手を指します。今度もまた、相手は

ゼロ秒でさっと指す。局面は進み、A君の王将は次第に追い詰められていきます。残り時間わずか。A君の表情は苦しそうです。一方の相手は持ち時間を一切使わず、涼しい顔。A君は持ち時間を使い切りました。ついに投了。完敗でした。

 自信家のA君にとって痛い敗戦はショックだったようです。満座の中で恥をかいた・・・。A君はその日を最後に将棋を断念。二度と将棋を指すことはありませんでした。

 月日は流れます。高校受験の季節が巡ってきます。A君と私は八幡中央高校に進学しました。入学式の後、別の中学から進学してきた同級生の顔を見て驚きました。中学生将棋大会決勝戦でA君を完膚なきまでに叩きのめし、再起不能に追い込んだあの男がいたのです。   続く

 (鳳陽会東京支部 S)

松陰考 その1

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年8月トピックス】

松陰は長州藩士杉百合之介の次男に生まれる。幼名は寅次郎。寅年生まれであった。

5歳にして長州藩山鹿流兵学師範の叔父(父の弟、杉家次男)吉田大助の家に養子に入り、吉田家を嗣ぐ。

「吉田家を嗣いだ」ということは明倫館に出仕して山鹿流軍学を講ずる定めとなったのであり、軍学を講じたのは松陰の意志ではない。

その養父が早世したため、「吉田家の学問」山鹿流兵法を叔父(父の弟、杉家三男)の玉木文之進が教育を施す。

玉木は四書五経を始め山鹿素行の平易なものの詰め込み教育を四六時中、スパルタ式に行ったようだ。

松陰がなまじ「できる子」であったため、文之進のスパルタ詰め込み教育に拍車がかかったという。

NHKの大河ドラマで文之進の役を奥田瑛二が「しかめ面」で演じていたが、はまり役だったように思う。

◆11歳で御進講

11歳の時に、当時二十歳(はたち)であった藩主毛利敬親の御前で素行の武教全書・戦法論を講じた。講義の巧みさ、そして藩主の問いにもよどみなく答えたため、厚いお褒めの言葉を賜ったという。

毛利敬親は何よりも有能な人材を愛する藩主であり、松陰が野山獄に押し込められていた時も、時々食事の箸を止め「寅次郎は何をしちょるのかのう」と独り言をつぶやいたという。

◆松下村塾での松陰

松陰は月謝をとらなかった。

「師道の緩みの原因は弟子から報酬をとることにあり」とする。

萩にあって青年知識人が私塾を開き、月謝はなし、和漢に渡る文学(イソップ物語)、私学の素養、青森から九州まで全国行脚で知識人を通じて知り得た情報、また実体験に基づいた体験談や内外の情報まで講じ、塾生にとっては博覧強記の人物と映ったようだ。

「つまらない」明倫館の講義にあきたらなかった高杉晋作。祖父や父から止められていた村塾へ入門する。自らの実体験を織り込んだ講義に触れ「学問が生きている」と感じたという。

また、松陰は自分のことを「僕」と呼び、塾生に対しては、たとえ少年であっても「あなた」と呼びかけ、塾生を「諸友」と呼んだ。

師としての松陰も塾生とほぼ同様の歳。若かったからだ。

また、入門希望者に対して「自分は師たりえない人間であるが、兄弟になったつもりで一緒に勉強しよう」と言っている。入塾者に最初に与える言葉が「しっかり勉強なされませい」だ。

塾生に対しては年齢、身分の差を取り外し、すべて平等に扱ったという。

◆ひととなり

本来は茶目っ気があり、活動的で、ユーモアを愛する者であった。

酒・タバコはやらず、囲碁は打たず将棋も指さず、極めて禁欲的であり、独身であった。

人を引き付ける不思議な磁力を持っていたという。

言葉遊びが好きなようで自分のことを二十一回猛士と呼んでいることは有名だ。

吉田家に養子になる前の苗字は杉。杉の字の「偏(へん)」は十と八、それに「旁(つくり)」はハネ3本で合計二十一。

吉田は吉田の吉の「冠(かんむり)」が十一に「口」がひとつ、田は「口」の中に十があり、合わせて二十一に口二つで二十一回となる。

睡眠時間が短かったためか、講義中に居眠りし、机に伏して眠ったという話も残る。

◆松陰と経済

松陰が松下村塾で力を入れたのが地理と歴史、それに意外なことに算術であった。ことあるごとに「算術・経済」を口にし、塾生たちを叱咤激励したという。

品川弥二郎が語るには松陰は「士農工商の別なし。世間のこと、算盤珠をはずれたるものなし」と常に戒めたという。

当時15~6歳の弥二郎は「(松陰)先生の経済、経済というのは何のことかわからず、ただ経済とは金儲けのことだとのみ思われ、奇妙なことを言う先生だと思った」と松陰の想い出を正直に語っている。

松陰の愛読書の一つは太宰春台の産語であったという。四民が職分を尽くして富国殖産に努めるべきとした政治経済論書。産業や民生経済政策が論じられており、時代を超えた有用の書として注目されていた本だ。

◆アキレス腱—語学の才に欠けた松陰

勝海舟や佐久間象山、大村益次郎、福沢諭吉と異なり、語学の才能には恵まれなかったようで、蘭学の学習を放棄している。

このため、原書を読むことはできず、翻訳書にすがるほかなかったようだ。

アヘン戦争の全貌を伝える阿芙蓉彙聞(あふよういぶん)。江戸末期の儒学者で浜松藩主水野忠邦に仕えた塩谷宕陰(しおのやとういん)が記した本を読むほかはなかったようだ。

松陰も人の子。アキレス腱はある。

(学23期kz)

10・8決戦(中日vs巨人)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 8月トピックス】

今季のセ・リーグは広島東洋カープが阪神タイガースを追っていますが、岡田阪神、安定した強さで逃げ切りそうな勢いです。
パ・リーグはオリックスが今年も強いですね。

10・8決戦は1994年10月8日に行われた中日ドラゴンズ対読売ジャイアンツが日本プロ野球史上初めてシーズンの勝率が同率首位で並んだチーム同士での最終戦直接決戦となった試合です。

中日は高木(守道)監督、巨人は長嶋監督でした。
私が広島勤務していた28年前のことです。
私は最終決戦を前に、地元名古屋での最終決戦となることや、巨人キラーの今中の先発が予想されるということで、下馬評も中日有利ということで、7割方優勝を信じていました。

それでも勝負事、緊張しながらも、ラジオ中継、その後、テレビ中継を食い入るように観た記憶があります。
中日が優勝したら、優勝決定後に歓楽街の広島の流川に繰り出し、思い切り祝杯に酔えると楽しみにしていたし、行きつけのスナック2店には大判振る舞いの大量のボトルキープの約束をしていた。
ところが、巨人の4番の落合にライトに先制ホームランを打たれた。
又、序盤の二塁ランナーの中村が牽制で痛いアウトになった記憶や落合が立浪の打球の捕球の際、足を滑らせて負傷退場した記憶が鮮明に残っています。
それにも増して覚えているのは、ラジオを聴いていて、中日の今中がノックアウトされて、中日の投手コーチがマウンドに向かったが、NHKのラジオ解説をしていた星野仙一さんが、「あの中日の投手コーチは何だ。マウンドに向かうのに下を向いて行っている。」との叱責であった。
その中日の投手コーチが、お付き合いがあったTさんであった。
敢えて星野さんは明治大学出身で子飼いだったTさんの名前を言わなかったのである。
打撃コーチだったKコーチ、バッテリーコーチのIコーチとも当時は広島遠征で来広の度に飲み歩いていた。
(写真2枚目の後列3人は広島・流川を飲み歩いていた頃の3コーチです。メガホン持っているのが私です。)

中日は3-6で最終決戦に敗れ、勝利の女神は微笑まずに、それから一週間は、私は会社に行っても、悔しさと意気消沈から、ほとんど死んでいた。
後にも先にも、31年間、中日を応援していてこれ以上緊張した試合もないし悔しい思いをしたこともない。
その後、10・8の屈辱を思い出しては、アンチ巨人の思いは強くなり、あの日のリベンジの日々は続いていて中日を応援しています。
私がその後、中日の監督だった落合監督を好きになれなかったのも、あの10・8の怨念かもしれない。(笑)
そうそう、広島市民球場に特注の中日のユニフォーム姿で応援に行っていた頃、試合が終わって帰る際に、ファンから高木監督に間違えられたのを思い出しました。(笑)
(頑固な風貌と重い背番号87ゆえに)
写真1枚目はドラゴンズが1999年セ・リーグの優勝を決めた翌日の横浜ベイシェラトンホテルでの写真
(学22期 Y・Y)

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第5回 ヒロシマの高校生が描いた「原爆の絵」展in有楽町(改訂版)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 8月トピックス】

2023年8月13日(日)~19(土)
11:00~18:00(初日は13:00~、最終日は17:00)
東京交通会館「2Fギャラリー」(三菱UFJ銀行隣り)
(東京都千代田区有楽町2-10-1)
【協力金(入場料)500円】(税込、中学生以上)*小学生以下及び障がい者は無料
【主催】井伏鱒二先生生誕125周年記念「黒い雨」プロジェクト実行委員会
【問い合せ】TEL090-2754-5652(東京事務局:大越)

【8月13日の投稿】
今日の東京は台風接近の影響もあり、雨模様で湿気の多い一日となりました。
こうした中、母校の広島市立基町高校の創造表現コースの生徒が被爆者の体験を直接聞き取り、絵画として描いた「原爆の絵」展に一昨年、昨年に続き行って来ました。
初日のオープンの13:00に到着し、事務局長の大越貴之さんにご挨拶し、1時間45分かけて約35点のパネル展示を鑑賞しました。
描いた場面の説明、描いた高校生のコメント、被爆体験証言者のコメントもあり、素晴らしい催しでした。
又、特別展示…基町高校卒業生(富田葵天さん)による平和祈念の油彩原画5点の鑑賞も併せてしました。
是非、皆様にも会期中に足を運んで頂きたい。
(学22期 Y・Y)

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名畑ゼミの思い出 -4 サマーキャンプ感想編

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 8月トピックス】

『★第1話

カリフォルニア・シャワー♪[注1]を聞くと、無人島へ行った連中はあの筆では書き表すことができようがない強烈な悪夢を脳裏に、あたかも京都知恩院の大釣り鐘の中へ頭を突っ込みガーンと一発鳴らされたような思いを受けるはずである。人間が野性に戻ることはまさにあのような状態をいうのだろう。

朝、いつとはなしにむくっと起き上がると一番心が惹かれるのはメシの心配であった。とにかく腹が減る。この時カルチェラタン[注2]のモーニング定食が恋しかったこと!

「メシができたぞ~」

悲鳴とも聞こえる声があがる。野性に戻った連中、そこに存在する理念は【弱肉強食】のそれであった。一斉に右手に昨日使った割りばしを持ち、左手におかずを入れるおわん。我も我もと、砂糖にたかる蟻の如くおかずに殺到する。
三島がヒステリックな叫び声をあげた。
「押すな~」
真田がわめく。
「作ったもんが先や~」
まさに地獄絵である。

めしを食べ終えると人間の心から野性は去って行く。連中の顔にはパチンコでチューリップに玉が2個同時に入った時のような安堵の表情とも、マージャンでリーチ一発ツモの時に味わう満足感ともとれるエクスタシーが漂うのであった。

(第1話 完)

[注1]カリフォルニア・シャワー
サックス奏者、渡辺貞夫が1978年にリリースしたジャズアルバム、およびそのタイトル曲。島に滞在中BGMとして延々と流れた。

[注2]カルチェラタン
当時、山口大学正門から湯田温泉に抜ける県道200号線(山大通り)と椹野川沿いの県道61号線(山口小郡秋穂線/旧称平川バイパス)が分岐する古曽交差点そばにあった喫茶店。

★第2話

そもそも無人島などへゼミ旅行で行くなど山口大学経済学部広しといえど他のゼミであろうか。いわんや何々をや(反語法で”いやあるはずがない”の意)。
このような事態に陥った原因は?
いかなる背景のもとに成立の憂き目にいたったのだろうか。

先見の明があったのは有冨と古賀だったろうか。彼らは無人島反対派の急先鋒だった。彼らは無人島という言葉からくる殺伐とした、まるで徹夜でマージャンをして4人とも±0であるような雰囲気を感じ、信州は上高地へ行こうとする案を考え根回しを始めたが【鶴の一声】。先生が無人島賛成の意を表明するにいたっては
「のれんに腕押し」
「ぬかに釘」
「月夜に提灯」
「不可の後のレポート」
「クリープのないコーヒー」[注3]
「下尾の親にリーチ」[注4]
「カビのはえたなめ竹」
まったく無意味なものである。

上高地へ行くなどと言い出せば飯塚がこういうであろう。
「少女趣味やね~」
どっちが少女趣味であろうか。

かくして無人島旅行は現実のものとなり、計画は進められたのだった。

(第2話 完)

[注3]
昭和40年代に俳優・芦田紳介が出演したCMの「クリープを入れないコーヒーなんて・・・」というキャッチコピーをもじったもの。今はブラック愛好者も多く死語となっている。

[注4]
麻雀で親になったら無双と化す下尾9期生に対し、手牌/待ち牌を変えられない役で挑むこと。

★第3話

旅行とは出発する時が一番楽しいものであり、それはエロ本をこれから読もうとする時の、最初のページを開く瞬間のこれから起きるであろう事への期待と不安が混じった感激とも共通するものである。出発の時に南さん、前川さんが弁当を作って門出を祝ってくれたのにも感激したが、この感激は前者の感激とはまったく異質のもので誤解なきようにしてもらいたい。

弁当をもらったお礼としておみやげなどを買って帰るのが当然のことで、買わなかった我々は糾弾されてしかるべきだが、我々は一度野性に戻ったことで悟りを開いたのである。

悟りを開いた者はおみやげは買わないのである。

悟りを開いた者はゼミの発表には力を入れないのである。

このように悟りを開いた我々は、夜中に他人の下宿に押しかけ他人を起こす事を当然と思うのであって、その点恵谷はまだまだ悟りが十分ではなく、
「堕落しきっちょる~」
などと叫ぶのであろう。

(第3話 完)

★第4話

太陽が水平線に沈むとカーバイトライトに火がともり、特有のにおいが立ち込める。枯れた松の枝を集めたキャンプファイヤーの炎が轟々と立ち昇り、天を焦がす勢いである。海のかなたに浮かぶ漁火の明かりとは対照的な動と静の光の共演である。

このキャンプファイヤーの火を見ている漁船の漁師は何を思うのだろうか。(以下略)

(第4話 完)』(ゼミ内報より)

■■サマーキャンプ感想編2

『無人島に行って泳いだり、タコ・アワビ・サザエなどを採って食い、たき火を囲んで酒を飲み朝まで騒いだりといったサマーキャンプは思い出深く、大学生活の中で画期的なことでした。』(ゼミ誌第1号より)

過酷ですが楽しくもあったサマーキャンプで鍛えられた9期生でしたが、さらにゼミ10周年記念パーティという試練が降りかかるのでした。

『今一番困っているのはパーティのことであります。
本当は金もないし彼女もいないし出たくないのですが、出ないとゼミの単位をくれないそうなのでしかたがありません。』(ゼミ誌第1号より)

(つづく)

学27期 三島

永池先輩のこと ②

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年8月トピックス】

◆永池先輩の先輩の経歴

教えて頂いた。東芝内では有名人で、退職後に大学の先生になられた立派な方とのことだった。

歴史ウォークの道すがら、永池先輩と同じ東芝に在籍された複数名の方から、永池先輩の人となりについて簡単に教えて頂いた。

永池先輩は学15期。山大経済学部を卒業され、中央大学総合政策研究科博士課程を修了。

東芝に36年間勤務され、本社の経営企画、欧米や中国を中心とするアジアの戦略企画に携わり、ドイツの国立キール大世界経済研究所にも留学されている。東芝アメリカの副社長のほか、経営トップの特別補佐も務められ、いわば東芝の頭脳であったようだ。

平成15年に東芝を退職され、九大大学院経済学研究院教授として同大学院ビジネススクールで教鞭をとられている。

◆高等商業学校創設の背景

永池先輩の論考「旧制官立専門学校と山口高商」―その誇り高き歴史と意義―(平成20年3月)にも山口高商誕生の背景が記されている。

すなわち、明治政府は明治10年(1877年)、東京大を設立し、人材育成に資するため行政を中心に、司法・立法なども含め、国家の屋台骨となる人材の育成に向かう。本格的にこうした人材を全国的に多く輩出せんがために明治19年(1886年)には帝国大学令を出すが、紆余曲折を経て、ようやく京都帝大ができたのが明治30年(1897年)だ。

他方、日清戦争(明治27年)のあと、明治30年代には日露戦争(明治37年)があり、商工業の分野で目覚ましい発展の時機を迎える。

そうした時代にはそれまでの帝大によって排出される官僚のような人材だけでは間に合わない。産業の発展とともに、こうした分野に対応できる人材の需要が出てくるのは当然のことであった。すなわち工業や商業を担うビジネスの専門家集団だ。

そこで明治33年に東京高商が、明治35年には神戸高商が設立され、そして明治38年、全国3番目に山口高商が設立された。次いで長崎高商、そして明治43年の小樽高商設立と続く。

◆永池先輩の遺稿

先輩が残された論考の中には、当時の高等教育の中での高商の位置づけと山口高商の特色について以下のような記述がある。

●山口高商が設立された明治38年当初の頃、帝大卒は行政へ、高商卒は企業へと緩やかな棲み分けが出来ていた。すなわち高商などの専門学校は行政に向かう帝大と肩を並べる確率されたキャリアであった。

●企業は財閥企業を中心に近代化・大規模化し、明治末から大正の初めには高等教育機関の卒業生の就職先として、行政より民間企業の方が質的・量的にウェイトを増していき、帝大出身者も次第に新しいキャリアを求めて企業に就職し始める。

●しかし、帝大出身者が新たに身を投じ始めた企業とは財閥の中核企業である銀行であり、商・工業、新興企業といったリスクの大きい分野は専門学校出身者であった。

●企業が安定的に発展していき、一般企業の社会的な地位や評価が高まり、安定すると、やがて帝大出身者もそうした一般的な企業にも就職し始める。我が国の近代化はこうした過程の繰り返しであった。

従って産業の近代化の担い手は帝大出身者とは言えない。産業近代化の真の担い手は専門学校の出身者たちである。

●高商はそれぞれの地理的位置や歴史的な沿革から強烈な個性と得意分野を持ち、エリート意識やライバル意識が強かった。当時高商の学生は共通して帝大への強い対抗心を持っており、それが後の単科大学昇格運動にもなった。

●東京高商、神戸高商が広く世界全体を対象としたのに対し、山口高商はアジア、中でも北東アジアに強いという定評があった。語学は英・独・仏に加え中国語、朝鮮語、モンゴル語などアジアの言語が充実しており、他の高商に先駆けてタイプライターも導入した。

(同じアジアを目指した長崎大は東南アジアに重点を置いた)

●山口高商は中国・韓国・台湾との交流も盛んに行ない、これらの諸国から多くの留学生が応募してきた。また、山口高商の生徒は満・韓への修学旅行が好例となっていた。

またこうした流れで、東亜亜経済研究所が設立(昭和8年1933年)され、満・韓・蒙の研究では全国的にその名を知られた。

●戦後GHQの指導で新制大学ができたが平凡な総合大学(ミニ東大)となり、山大経済学部もその中に埋没したかにみえる。

●1990年代に入り我が国はグローバリゼーションの波の乗り遅れ、また大学も海外の大学に立ち遅れ、

最近では、ビジネススクールなど、戦前には山口高商が担っていた実学重視の経営大学院が切望されるようになった。現在、母校でも高度職業人コースが新設され成果を上げつつあることは心強い限りである。山口高商ー山口大学経済学部の伝統と強みを生かした実学教育のさらなる充実を期待する。

◆九大教授時代

既述したように、永池先輩は東芝退職後、九大大学院でビジネススクールの教授を務められた。ビジネススクールとは、実学重視の経営大学院だ。いわば九大という官立の商業専門学校で教鞭をとられたのだ。

九大教授時代の永池先生はゼミ生を連れて、萩の松下村塾を訪ねるのが恒例行事であったという。

◆東亜経済研究

支那、満韓蒙。永池先輩ご指摘のとおり、山口高商が専門性を有し、得意とした地域。

先の大戦を挟んで政治体制が変わり、ヒトやモノの交流が抑制され、我が国とは微妙な関係が続いているようにみえる。

しかし、地政学的にお互いは重要な近隣国であることには変わりがない。

このためこれら諸国・地域との関係の重要性は、経済の側面にとどまらない。政治、文化、社会制度含めた幅広い分野での蓄積が重要であり、こうした資産を次の世代につないでいく必要がある。

しかし現在は、これら諸国と十分な交流が出来ているとは言えない。

逆説的に言えば、だからこそ、これまで蓄積してきた専門性、交流をしてきた人的つながりを活かして、調査・研究の蓄積を図ることが重要で、ここに東亜経済研究所の存在価値があると言えないか。

北東アジアの政治環境が変わったのはここ100年ほどの歴史しかない。

この先、30年、50年は社会、経済、そして政治までもが加速度的に流動化しないとも限らない。

山大・東亜経済研究所がこれら諸国・地域の学術研究、資料収集のメッカとなり、人材交流においても我が国の拠点となることを願っている。

永池先輩もそう願っておられるように思う。

永池先輩のご冥福をお祈りしたい。

(学23期kz)

永池先輩のこと ①

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年8月トピックス】

◆永池先輩との出会い

昨年12月3日に長州歴史ウォークで名所旧跡を廻った。

集合場所は両国駅改札口。

皆さんが揃ったが、スタートの時間が来たが、お見えになっていない参加者がいる。

15期の永池先輩だ。

永池先輩とは面識はない。

皆さんには先に最初の訪問地・回向院に向かってもらい、私も案内役の一人になっていたため先輩をお待ちすることにした。

なかなかお見えにならない。

途中で体調を崩され、お帰りになったのかもしれない。

色々な可能性を考えてみる。

そのうちに5分が過ぎ、10分が過ぎた。

変だな。

思い切って、予め調べておいた永池先輩の携帯電話に架けてみた。

応答なし。

15分過ぎ、20分が経過した。

先に出発してもらった一行とはかなり離れてしまった。

その後も間隔を空けて何度か電話するも、やはり応答なし。やはり変だ。

集合時間から20分も過ぎ、そろそろ諦めかけ、これで最後と決めた電話を掛けたところ、応答があった。

改札口でようやく永池先輩とお会いすることができた。

先生とは初対面だが、すぐに判った。

先生と二人、一行が向かった回向院に向かう。

道すがら先輩の生まれは長崎だとの話があり、私も生まれは長崎だ。長崎の話になった。また永池先輩の兄は長崎大の経済学部に在籍されていたとのこと。今回の歴史ウォークには、昨年夏に交流ができた長崎大学経済学部同窓会(瓊林会)の東京支部長も参加されていることを紹介した。

◆勝海舟生誕の地での写真

途中の行程で、JR両国駅の南、両国公園の一角に史跡がある。「勝海舟生誕の地」となっている。歴史年表を見、銅像を眺めた後、休憩も兼ねて備え付けの椅子で記念撮影ができるようになっており、折角だからと、永池先輩をお誘いし、先輩の写真を私の携帯に収めた。

◆お礼のメール

翌12月4日に写真を永池先輩に送り、次回もご参加くださいとお伝えしたが、すぐには返事が来なかった。

先生から返事が来たのはしばらく経ってからだ。

写真のお礼が書いてあり、「良い記念になりました。いい企画があったらこれからも参加したいと思います。ありがとうございました。」との丁寧なお礼のメールが届いた。

◆訃報

それから4日後の18日(日曜)に永池先輩がお亡くなりになったとの連絡が届いた。

そんなはずはない。てっきり人違いだと思った。

つい数日までメールのやり取りをしていたのだから。

先輩からのメールが届いた日時を確認してみると、12月14日(水)朝9時となっていた。
亡くなる4日前の14日(水)のことだ。

◆永池先輩の遺稿

永池先輩の著作の中に「旧制官立専門学校と山口高商」―その誇り高き歴史と意義―

というのがある。

永池先輩がみた山口高商の位置づけとその存在意義についての論考だ。

次稿で紹介する。

(学23期kz)