センタービルでダンスパーティー開催(ラストダンスは私に)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年8月トピックス】

山口での学生生活の楽しみといえば週末の土日のダンスパーティーでした。
3年生の夏に季節工として日産の追浜工場でバイトをし、パイオニアのステレオを購入しましたので、同じ高校の仲間に助けて貰いダンスパーティーを主催しました。

チケットを印刷し、販売を開始。
茶道部等の著名で部員の多いサークルなら前売りも捌けますが、同好会名で組織力もなく、前売りのチケットは今一歩でした。
当日券に期待する以外にはありませんでした。
オープンして暫くの出足はさほどではありませんでしたが、その後は立錘の余地もない程の盛況でした。

事前や終了後の税務署への届け出や申告等も大変勉強になりました。
大袈裟ですが、起業の喜びとはこんなものかといったことを経験することが出来ました。

選曲も自分の好きな曲を選びました。
ベンチャーズの「クラシカル・ガス」や、映画「ガラス部屋」のテーマ曲、堺正章の「さらば恋人」を流した記憶があります。
エンディングの曲は越路吹雪の「ラストダンスは私に」でした。

大学の講義では見掛けた記憶もないのに暗闇の中でミラーボールに照らし出された顔はお互いに忘れられないという人も多いです。💦
ダンスパーティーでは私は大抵は「壁の花」ならぬ男性なので「壁のシミ」でした。
(学22期 Y・Y)

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名畑ゼミの思い出 -3 サマーキャンプ計画編

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 8月トピックス】

馬島は、山口大学から約125kmの浜田漁港から北東に約2km、
瀬戸ケ島の西約600m、東西約680m×南北約240mの無人島。
島名はかつて馬を放牧していたことに由来するそうです。
島には常用できる電気・水道・ガス・トイレの類いはなく、
水はポリタンクで持ち込み、火はたき火と卓上コンロ、
明りはカーバイトライトと懐中電灯。計画・準備は念入り(?)に
行いました。

–計画書らしきものより–

まずは今回のソフトボール大会において日頃の練習成果をいかん
なく発揮され、みごと準優勝という輝かしい成績を勝ちえたことは
まことにすばらしきことと考えます。ごくろうさまでした。

さて、我々名畑ゼミにおけるこのたびのサマーキャンプの意義に
ついて少々触れておきたいと思います。

我々現代人は人間の叡智によって勝ち取った文明の上に安住の日々
を送っています。しかし、文明から切り離された現代人は非常に
無力な存在にしかすぎないものであることを忘れてはなりません。
例えば福岡における水不足[注1]。水道の蛇口をひねると水が出る
という生活に慣れていた人々は、それを常識だ、あたりまえのこと
だと思っていました。それがひとたび水が止まると、それだけで
生活は成り立たなくなってしまいました。宮城沖地震[注2]に
おいても仙台では電気・ガス・水道が止まってしまい、大変な
出来事として報道されました。

そこで我々は文明社会からまったく隔離された無人島で生活を行ない、
自然の中にとけこんだ数日間を過ごすことで現代文明社会について
あらためて考えてみることにしました。

日程

1978年7月11日(火)

A.M.09:00 出発 山口大学正門前に集合
自動車 名畑号3名 有冨号4名 古賀号3名 柴田号1名 計11名

※自動車を持ってくる人はオイル、冷却水、空気圧その他点検を
忘れぬこと
※ガソリンは満タン入れの満タン返しにて、満タンにしてくること

A.M.10:00 津和野
A.M.12:00 浜田着(三島号[注3]速力不足のため約3時間をみて
おくことにした)
浜田で食料、酒などを購入(約1時間)
P.M.01:00 渡島
P.M.01:30 着島
P.M.03:00 テント設営。薪・庵など作成
P.M.?           (太陽が水平線に隠れるころ)夕食

時間による束縛をすることは無人島生活の主旨と矛盾する。
腹が減ったら食い、日が昇れば起き、沈めば寝るのが一番のぞま
しい姿である。しかし、そこは現代人の悲しさ。何らかの方針が
なければ不安で仕方ないであろう。
よって、大雑把なものを決めておく。

7月12日(水)

太陽が昇るころ起床→朝食→あそび→昼食→あそび→夕食
→あそび→ねむる

※あそぶ
あそぶといってもそこは無人島のこと。海に潜るか、魚を釣るか。
そこで、トランプ、マージョン、将棋、碁などは持っていった
ほうがよいと思う。また、12日の夜にはキャンプファイヤーを
やりたいが、山火事にならぬように注意めされ。

7月13日(木)
12日と同じ

7月14日(金)
朝食をすませたのち、後片付けをすまし、テントをたたみ
出発の準備をする。

P.M.00:00 離島
P.M.01:00 浜田着
P.M.04:00 山口にたどり着く(神のご加護あれ!)

[注1]
福岡県福岡市で1978年(昭和53年)5月から翌1979年(昭和54年)
3月まで続いた渇水のこと。年降水量が少なかったため、287日間に
わたって時間指定断水による給水制限が行われた。

[注2]
1978年宮城県沖地震のこと。
6月12日17時14分発生。マグニチュード7.4、仙台の震度5

[注3]
SUZUKIのオフロードバイクTS250 通称ハスラー250。
単気筒2サイクル車。加速、最高速共あまりよくなかった。

–(以上)–

感想編へつづく。

学27期 三島

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名畑ゼミの主要行事 -2

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 8月トピックス】

ゼミ誌第6号(昭和61年10月発行)にちょうどよい記述がありました
ので以下に引用いたします。

『ゼミ生諸君のかねてからの要望もあって、名畑ゼミのこれまでの
行事にどのようなものがあったかを書き記しておくことにしたい。
私のアルバムと記憶に残っているものに限られるので、初期に
なればなるほど欠落が多くなっている。

期 卒年 員数 サマーキャンプ ゼミ旅行等
0 1970 12   -          -
1 1971  12       -                          -
2 1972 14       -                          -
3 1973 16     北浦・萩                  -
4 1974 10    馬島(I)                  -
5 1975  4     祝島                          -
6 1976   9       -                        四国一周
7 1977   13  馬島(II)                -
8 1978  12  -                             沖縄
9 1979  12  馬島(III)              九州、ゼミ10周年記念パーティ
10 1980 12  -                           南紀
11 1981  13  馬島(IV)               -
12 1982  14 見島(I)                 青海島・長門 タイ
13 1983  13 馬島(V)                川棚・豊北
韓国(釜山・慶州・ソウル)
14 1984 15  見島(II)            -
15 1985 12  壱岐                   -
16 1986 15  角島                   -

無人島キャンプは1973年夏に浜田市出身の長崎君の紹介で馬島に
乗りこんだことに始まり、その後馬島へは4回、ほぼ隔年に出かけ
ている。13期の馬島キャンプは雨に降られてたいへんであった。
灯台の廃屋の崩れかけた床の上にたむろして、雨が止むのを待った
ことを憶えている。「島守」が故人となられたこともあって、
1984年以降はこの島に出かけていない。

80年代になると東南アジア旅行が多くなっている。費用の節約の
ために観光ルートに乗っていくよりないが、できるだけ多くの
オプションをつけて、農村へ入り込んだり現地の工場を訪ねたり
している。(以下略)

1986年5月2日
名畑 恒

これらゼミ行事について「名畑 恒先生のご退官にあたって」
(*)で当時の瀧口経済学部長は次のように述べておられます。
『理論の実践の場として離島における夏合宿や年度末の東南アジア
ヘのゼミ旅行やゼミ単位でのボランティア活動を通じて、学生たち
は確実に行動力を身につけ逞しさを増していきました。』

行事の多くはゼミ生自ら計画して準備・実行し、振り返りを行う
スタイルでした。次回はサマーキャンプの一端をご紹介いたします。

(*)添付資料の説明
出典:
「東亜経済研究 名畑恒教授退官記念号」巻頭言(2003年3月発行62巻1号)

(つづく)

学27期 三島

山口七夕会年次総会&懇親会

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 8月トピックス】

令和5年度 山口七夕会年次総会が8月5日(土)10時30分~飯田橋のインテリジェントロビー・ルコであり、昨年に続き2回目の出席となりました。(昨年5月末入会)

総会は議長役の秋草史幸会長の挨拶で始まり、令和4年度事業報告、秋草会長が再任され、令和5年度事業計画等の議事進行。
伊藤山口市長のご挨拶及び入江市議会議長のご祝辞がありました。
休憩を挟んで、伊藤市長による山口市の先の水害報告、新庁舎建て替え計画、国宝瑠璃光寺五重塔屋根葺き替え工事等の近況報告があり、「大内文化と山口市のまちづくり」と題する興味深い講演が1時間余りありました。
その後、休憩を挟んで昼食懇親会があり、歓談後、山口県東京事務所清水新所長のご祝辞、商工振興部中村部長他による山口市ふるさと納税のご案内等があり、14時40分大変な盛り上がりの中、山口市総合政策部吉村部長による中締めとなりました。

山口市幹部職員を含めて70名余りの方が出席され、盛り沢山の趣向を凝らした企画の数々に首都圏から山口市を応援する弾みになりそうです。
94歳と95歳になられる古くからの会員のお二人の方が久しぶりにご一緒に出席されていて、年齢を感じさせないご挨拶や余興の披露があり、私は元気を頂きました。
今回、30代~40代の若い世代の方の出席が多かった印象があり、これからが楽しみです。
帰宅後、以前購入していた「大内氏がわかる本(入門編)」で早速、勉強しました。
(学22期 Y・Y)

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名畑ゼミの思い出 -1

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年8月トピックス】

私が所属した名畑ゼミ(9期)について昔語りをしたいと思います。
名畑ゼミを知らない方もおられると思うので、まずは簡単に紹介を。

研究分野:経済発展論
指導教官:名畑 恒(なばた ひさし)先生
出身:岐阜県
生年:1940年
ゼミ担当:1969年~
退官:2003年
没年:2012年

略歴・著作等については「東亜経済研究 名畑恒教授退官記念号」(2003年3月発行62巻1号)に詳しく載っています。国会図書館にもマイクロフィルム化されたものがあります。
https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000002-I6543335-00

ゼミの生い立ちや指導方針については、ゼミ誌第1号(1978年発行)に名畑先生ご自身による記述がありましたので以下に引用します。

『私のゼミナール活動は1969年の秋からである。長期間にわたって経済学部の本館が占拠されるという不幸な事態の中で岡倉伯士先生が急逝され、先生亡き後の岡倉ゼミを私がお世話するという形で私のゼミナール指導は始まった。岡倉ゼミの研究領域が国際経済学だけでなく、寡占問題やマーケティングまでに及んでいたために、当初の卒論指導では安田充先生や鈴木重靖先生に迷惑をおかけせざるをえなかった。伊藤敏夫君、宮川信治君、松見俊一君などの岡倉ゼミ最終期生は、わずか半年のつき合いであった。したがって、「名畑ゼミ」の第一期は、橋本博君が幹事をつとめた井手昇君、森山信治君、山田隆君たちのゼミナール(1971年卒)であるということになる。もちろん、「純粋」の名畑ゼミは1972年卒業の浅野敏夫君、佐伯秀政君、久芳鋭治君、町田章君、村河勝信君たちのゼミである。(中略)

いま想えば、ゼミを初期にさかのぼればのぼるほど学問以外の領域でゼミ生諸君の私的な領域に立入ったケースが多かったものである。一人の人間の生きざまにかかわる未熟で生硬な議論をゼミ生諸君に直接ぶっつけたこともしばしばあった。

私はいまも当時言ったことについての基本線を変更してはいないつもりであるが、表現の仕方は年とともに少しづつ変わってゆくのを感じている。怒れる若者、打ちひしがれた若者、心やさしい若者。時代とともにゼミ生諸君の気質も移り変わってゆく。私にはそれらをフォローするのが精一杯であったけれども、決して迎合はすまいとまじめに考えだしたのはこの二、三年来のことのように思う。』

履修時間でのゼミ活動は、指定図書を輪読し担当箇所を皆を相手に解説したり、卒論に向けた研究成果の発表・検討が主でしたが、時間外の行事がまた楽しいものでした。コンパやキャンプ、パーティ、ゼミ生の誕生会等の日程調整のため、3階北西(グラウンド)側突当たりの研究室には幾度となくうかがいました。

(つづく)

学27期 三島

江戸時代後期の幕府役人と農村との関係の一例

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年8月トピックス】

横浜市鶴見区に県立三ツ池公園という緑豊かで広い公園があり、中の池の堤上に「千町田に引くともつきじ君が代の恵みもふかき三ツ池の水」という歌碑がひっそりと建っている。その裏面には天保十四年(1843)上末吉村」の銘がある。詠み人は藤原増貤とあるがネット検索しても名前にヒットすることはなく、10人中9人はその名を知らないと言っても過言ではない。本名は奥村増貤(ますのぶ)と言って文政の末(1830年)頃から武蔵国の25か村に所在する増上寺領の役人として領村の支配に務め、困窮者救済や用水設備の普及、勤勉な農業従事者の表彰などに携わって領民に大変慕われた人であり、件の歌碑は奥村の功績を称えるために領民がこぞって建立したものである。

 奥村は一介の地方役人であったが、高野長英に師事し、伊能忠敬から測量を学び、渡辺崋山とも交友があった進歩的合理主義者であった。その優れた技術を見込まれて鳥居耀蔵・江川英龍ら幕僚による江戸湾巡視(1839年)の際には渡辺崋山から測量技術者として推挙されたものの、寺侍という身分を問題視した鳥居(南町奉行、蛮社の獄の仕掛け人)の意向により参加を許されなかった経緯がある。

 私が住む横浜市北部の4か村(王禅寺、石川、川和、荏田)は家康が江戸に入国(1590)後ほどなく第2代将軍徳川秀忠の正室であるお江の化粧領地となったが、お江が死去した後は徳川家菩提寺である増上寺領となり、江戸時代を通じて奥村のような寺役人が管理の責を担った。

 因みにお江が江戸城で死去した際は、先の4か村の村人3.5百人が剃髪し、白装束を着てお江のお棺を江戸城から青山火葬場まで運ぶ他、火葬儀礼の下働きを担っている。幕府はこれを大きな恩義として上述の村には大幅な年貢の減免特権をその後200年近く与えた。従い近世までこれらの村は他村に比べ大きな恩恵を享受した。奥村が主として勤仕した天保年間には川和村の名主であった信田太郎右エ門が同8年、15年の日記(幽篁日記)を残しており農民のくらしや寺役人との関係がよく分かる。

 天保年間(1830~1844)は全国的な大飢饉が繰り返し発生し、農村も大きく疲弊したため、奥村は少しでも食い扶持を残したい村側と年貢の収量を高めたい増上寺との間の板挟みとなり苦慮した。

領民側に与する姿勢が大であった奥村は個人としても大きな借財をかかえていた為退役の意向を示したが、村役人たちは奥村の借財を肩代わりすることを申し出て400両を25か村に割り付けて奥村を支えたことが信田日記に記されている。

 奥村は天保12年(1842)に江戸で病没したが、村役人たちは奥村の葬儀のために3日間江戸に滞在している。信田名主の詳細な日記が後世に残ったために、江戸後期における幕府の地方役人と農村との関係がかいまみえる一例である。

(22期YY)

お見合い雑感(ザ・ホテルヨコハマ編)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年8月トピックス】

30代半ばの頃に会社の先輩夫婦(学部の先輩でもある)に薦められて、横浜の山下公園近くのザ・ヨコと呼ばれ親しまれた「ザ・ホテルヨコハマ」という一流ホテルのラウンジでお見合いをしたことがあります。

当時は写真付きの年賀状を毎年、作製していて、たまたまお相手の方が先輩夫婦から6人の美女に囲まれたその年賀状を見られて申込みがありました。
私はその美女6人を差し置いての「ちょっとマッタ!」の挑戦に少なからず期待しました。
釣書を交換することなく、ぶっつけ本番で。

当日は先輩夫婦に加え、女性のお祖母さんも同席され、緊張が走りました。
何でも大手の運送関係の勤務先では○○部屋と呼ばれている女性でした。
確かに私は大の相撲好きで、ふくよかな女性は好きですが、後で先輩の話では、私は横を向いて窓の外の山下公園見ていて全てを察したそうです。

私はサラリーマン時代に一時M先輩の門下生で落第生でしたが、公私に大変お世話になったM先輩は病魔に侵されて、確か40代半ばの若さで亡くなられ、故郷広島の広島駅近くのお墓に眠られています。

つまらぬ投稿をしました。

写真は山下公園ですが、本文とは一切関係はありません。💦
(学22期 Y・Y)


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寮の友、下宿の仲間 ④平川編

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

【2023年7月 トピックス】

◆平川での下宿生活

三年生の時にあたる昭和43年(1973年)、経済講堂の老朽化もあり経済学部が学都開闢の地・亀山から平川の吉田キャンパスに移転した。これに伴い私も亀山のふもと・白石町のプレハブ長屋から平川の下宿に移った。

大家さんの苗字を取った竹〇下宿。所在は山口市黒川●●3番地。

今でも3ケタの地番まで覚えている。これは、当時親切で、温和な人柄の下宿のT夫人(いわゆる下宿のおばさん)にお世話になり、卒業してからも年賀状のやり取りをしていた時期があったからだろう。

下宿では7名の長屋のほか、母屋にも貸し間があり、さらには二つの棟の間には蔵に手を加えた離れにも一人住まいの部屋があった。

学生も所属学部はさまざまで、経済のほか、教育、医学部、農学部など、都合10名ほどの学生がお世話になっていた。

◆物理学科・Ⅿ君との出会い

この下宿には準硬式野球部の入居者が多かった。代々、先輩からの紹介・引継ぎがあったからかもしれない。この「準硬式閥」の入居者の中に文理学部・物理学科の同級生M君がいた。やはり福岡の名門K高校出身だ。ジェームス・ボンドを愛し、普段は物静かでハンサム、身のこなしもダンディーなM君だ。しかし、私の冗談がツボにはまると、アゴが外れんばかりに面相を崩して爆発的に笑い出す。腹を痙攣させながらしばらく笑いが止まない。この彼と大変ウマが合った。

彼は名古屋に勤め、山口の長府に自宅を構えていた。出張の折にはお互いの自宅に泊まり合う仲で、年賀状を欠かすことはなかった。

爆笑殿下のⅯ君、勤めの最後の勤務地は東京と相成り、仕事を終えた後、待ち合わせて飲みに出かけた。

退職後は、山口に戻ると思いきや、山口の自宅を閉じて、東京に居を構えることになった。

東京人となったM君。彼には東京に、家族ぐるみの交流があった準硬式野球部のY先輩がいた。そのY先輩は経済出で、私とは鳳陽会の1年先輩に当たる。しっかりした先輩で、いつもにこやかで朗らかだ。私と先輩とは、その下宿で入れ違いになったのだろうか、重なってはいないように思う。

Ⅿ君を通じて私も交流の輪に入れて頂いたことで、また一つ輪が広がった。

◆下宿の集い

Y先輩、Ⅿ君、その奥方お二人を含めた5人で会食会をスタートさせた。コロナ前の話だ。奥様はご両人とも山口のご出身。Y夫人は直木賞作家・古川薫氏と同窓の教育学部のご出身、Ⅿ夫人は我々男子学生が憧れた山口の女子大出(現・県立大)で、その古川氏とは同郷の下関で、近隣だったという。

会食会は定期的に続き、春には上野で花見をしようということになった。

コロナの話がちらほら出始めた頃だ。

せっかくならこの花見の会に、九州在住で下宿の後輩(農学部・院)N君を呼ぶことを考えた。

2020年早々に、彼に連絡を取ったところ、娘さんが東京在住ということもあり、彼は早速航空券を予約した。

◆コロナに敏感だった農学部生N君

コロナの発生源が中国・武漢として世界のニュースになり始めたのは2019年の12月で、日本で騒ぎになったのが年明けの札幌雪まつりでの集団感染だったように思う。

すると彼から連絡が入り、コロナがとても心配なので東京行きを取りやめるという。

私としては、コロナは中国・武漢や北海道の雪祭りの話なので、まだまだ大丈夫、さほど心配することもないのではないかとして、彼の上京を促したのだが、彼の決意は固かった。専門的にウイルスについて学んでおり、ウイルスの怖さを知っていたのだ。

そのうちに関東でも、屋形船での感染や、ダイヤモンド・プリンセス号横浜入港時の模様が報道され、コロナ感染の話があれよあれよと全国に広がっていき、下宿の花見の会は中止とせざるを得なくなった。

◆下宿にいた経済の同級生

下宿長屋には経済学部の同級生が二人おり、二人とも北九州の名門計K倉高校出身。そのうちの一人I君が私と背中合わせの部屋に入っていた。英国の前衛ロックをマニアックなステレオセットで聴いており、下宿の壁が薄いため私の部屋までよく聞こえたが、私も好きなタチなので気にはならなかった。

ある時彼から、スピーカーを買い替えたので聴きに来ないかと誘いがあった。4畳半の部屋に入ると、「ふすま大」のスピーカーが2台鎮座していた。プレーヤーに針を落とすと低重音が下腹に響く。アルミサッシのガラス窓も震えていた。それでも我々二人は演奏に耳を澄ませた。

この同級生I君、商社に就職したが、その後の消息は分からない。

◆縁

学部や学年は違えども下宿を通じて生涯の友となった先輩・後輩がいた。

また同じ下宿、同じ経済学部の同級生ながら、卒業後音信不通となった友人もいる。

出会いとつながりに感謝し、いま繋がっている縁を大切にしたい。

(学23期kz)

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

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宇部での全国総会余話(その2・同窓との出会い)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年7月トピックス】

◆同期のM君

ANAクラウンプラザホテル宇部。

総会の2次会は有志で、会場の15階のラウンジへ行くことになった。

案内してくれたのはM君。23期とネームタグにある。

23期といえば私と同期じゃないか。

海が見る眺望の良いところ。

M君の名刺を拝見すると、M商店代表取締役とある。宇部興産に就職し、退職と同時に会社を立ち上げたようだ。

宇部興産といえば地元の大企業。そこを退職し会社を立ち上げ、手広く事業を展開している地元の名士だ。

M君が席を立って、15階からみえる景色を説明してくれた。現役時代にお世話になったという宇部興産の工場もみえる。

彼は、このラウンジをよく使っているようで、ラウンジのマスターとも親しいようだ。

このM君、学校にはあまり出ていなかったというが、私も学校にはあまり出ていない。

経済のクラスは当時、50音順に経1、経2、経3と3クラスに分かれており、座席の並びもそうだった。

私は経1の班だが、M君は50音順では経3だろう。席も遠かったはずだ。

しかし、どこかで見たような気もする。

総会の懇親会では三都逍遙歌、鳳陽寮歌や山大学生歌をみんなで合唱した。

歌詞が配られ、歌えるかどうか不安だったが、みんなと歌い出せばどうにか歌えるものだ。

ということは、当時、私もみんなと一緒に結構歌っていたのではないか。

そういうことなら、M君と私も学校にあまり出ていないと言いながら、結構学校に顔を出しており、食堂や廊下で顔を合わせていたのかもしれない。

「どこかでみたような・・・」とは、こういうことかもしれない。

北海道支部のK支部長。名前を聞いても記憶にないが、彼ともどこかできっと出会って、話しているはずだ。「K」と言えば経1だから。

◆後輩のU君

総会帰りの宇部空港でのこと。

東京支部の活動にも積極的に参加してくれている鈴木ゼミのU君と宇部空港の待合室でばったり出会った。

総会に出ていたのだろうか。

昨日のことを思い出したが、記憶にない。

彼は東京から小田和正の公演を観に来たという。宇部空港で車を借り、泊りは湯田温泉ということだった。

小田和正を目掛けて、東京から「ご婦人方」がたくさん来ているという話だったが、小田和正は殿方にも人気があったのだ。

私が学生の頃、オフコース時代からヒットを飛ばしていた。からソロになっても人気が衰えない。高いキーでの澄んだ声は健在だ。

今ではキーを二つ下げないと小田和正の曲は歌えないが、彼は当時からキーは変っていない。お見事!

ポール・マッカートニーも然り。キーは落ちていない。参りました!

Uく君とは同じフライトで羽田に向かい、空港ターミナルに向かうバスでも一緒になり、湯田でのこと、宇部でのこと、公演のことを伺った。

それから1週間もしない間に、虎ノ門の料理屋で、またばったり出会ってしまった。お互い苦笑。

 ….. small world

重なり合う偶然。こんなこともあるものだ。

(学23期kz)

夏目雅子さんの歩道橋

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年7月トピックス】

学生時代に付き合いがあった同級生や先輩の出身高校に地元の山口高校、防府高校、下関西高校の人が多かったです。
防府高校出身の人は下宿しないで自宅から山口迄通っていました。(先輩は野村證券、同級生は松下電器、富士銀行に就職)
作家の伊集院静さんも防府高校の出身ですが、1学年上で立教大学に進学されたようですが。

昨年7月1日の出勤前に夏目雅子さんが、映画「時代屋の女房」で渡った品川区の大井の三叉路にある倉田歩道橋を渡ってきました。(ロケ地)
引っ越し前は歩いて直ぐの所に住んでいましたので、毎日のように外出の際に見ていた歩道橋ですが、渡ったのは6年半ぶり2回目でした。
38年半前の銀色の日傘を持った真弓役の夏目雅子さんに会えそうな気がしたのです…。
夏目雅子さんの菩提寺はご主人の出身地である防府市内の大楽寺のようです。
山口銀行のCMキャラクターを1977年から8年間もされていたのは初めて知りました。
(学22期 Y・Y)

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