青春のアルバイト ②

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部 トピックス

 (青春のアルバイト①はアーカイブで。2021年10月に掲載)

◇肉体労働のアルバイト

アルバイトでは決まって肉体労働だった。

細かい事前知識は要らず、体力に任せて働くことができ、時給が比較的高かった。

2年生の夏みのこと。大学の掲示板に県の農業試験場敷地の周囲にサルビアを植えるアルバイト求人の張り紙を見つけた。アルバイト代は1日1000円。このため時給に換算すると150円程度だったか。他のアルバイトの時給より2割ほど割がよく、当時は魅力的に映り、高校時代からの仲間3人で応募した。

炎天下の作業

サルビアの花を植えると言えば聞こえが良い。しかし作業は肉体労働だ。

機材を運び、植える場所を掘り起し、苗を植え、整地し、水を撒く。

しかし農業試験場は広かった。作業は過酷なものだった。

山口は内陸性の盆地気候で、夏はかなり暑くなる。木陰はなく炎天下での作業が続く。たまらずシャツを脱ぎ、上半身裸で作業をこなした。

顔が火照り、喉が渇く。10時半の休憩時、火照る身体に一気に流し込む清涼飲料水。何ともうまかった。当時コカ・コーラが30円。ファンタもそれくらいだっただろう。

休憩の後は現場に戻り目のくらむような暑さの中、作業を再開するが、すぐに大粒の汗が吹き出す。眼に沁み込んで視界が霞む中での作業が続く。

現場の「親方」の指示で、12時きっかりに作業をストップし、昼食。

しかし、見渡す限り近くに食堂はなかった。国道を挟んだ雑貨屋で腹の足しになるものを探すが、パンしかない。仕方なしに、パン二つとまたしても清涼飲料水で150円程度。パンはコメと違い喉が渇く。追加でもう一つコーヒ―牛乳を買う羽目に。

今から考えれば劣悪な環境にあるアルバイト先であった。しかし、二十歳前の若い当時、身体をいじめ、辛さに耐えることが一種の快感でさえあった。

午後からはある程度仕事の要領を覚え、比較的スムースに作業を終えたのだろう。午後のことはよく覚えていない。

◇シゴトを終えて

日給1,000円。作業の終わりに現場監督から手当の封筒をもらう。街に戻り、汗を流しに湯田の銭湯「清水湯」に。

ザッと湯をかけてザブンと湯船に浸かった!・・・といきたいが、そうはいかない。

腕と背中の皮膚が“やけど”を起こしかけており、湯に浸かるにも相当難儀した。

入浴料は覚えていないが、意外と高かった記憶がある。200円まではいかないが180円くらいだったろうか。当時セブンスターが100円だった。

そこから晩飯へ。

まともな飯にありつけること。これが一日の最大の喜びであり、褒美である。この喜びを味わうために、朝から夕方まで頑張ってきたのだ。

300円ほどの定食を食べて一息。

しかし残った稼ぎは300円を切っている。何とも侘しい。

◇賭けに出る

残り銭をいかに使うか。ここでおよそ経済学部生らしくない行動に出る。つらい労働の後は理性が薄れる。向かうは繁華街。チューリップが断続的に開いた過去の「成功体験」にすがり、パチンコ台に向かう。100円で玉を買うも、手のひらに銀玉がほんの少し。瞬く間に銀玉がアウト穴に吸い込まれていく。「百万ドル」がだめならハス向かいの「山口ホール」だ。しかし、思い描いた楽園への壁は厚く、高い。

つらい労働の後は強い刺激を得て眠りにつきたい。しかし酒を買おうにもポケットはすっからかんだ。仕方なく貯金を取り崩す羽目に。何のためのアルバイトだったのか。学費の足しにもならんじゃないか。

情けない。

空しく、薄っぺらな一日。生きていく大変さを思い知らされた貴重な経験だ。

◇アルバイト代の価値

入学した年度の授業料が年間12000円であった。月にして1000円。一日のアルバイト代でひと月の授業料が賄えたことになる。若い諸君には申し訳ないが、ありがたい時代だった。

(学23期kz)

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

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鳳陽会東京支部総会・食事会開催(再掲)

 令和4年6月4日(土)鳳陽会東京支部総会が、アルカディア市ヶ谷にて、コロナ対策を講じて3年ぶりに開催されました。
 昨日の天候とは打って変わって素晴らしい天気に恵まれました。
 9時30分受付開始に伴い徐々に会員が集まり、久しぶりの再会にあちこちに会員の輪ができ会話が弾む様子が見受けられました。
 49名の会員が参加のもと,10時総会開始、財務諸表、人事案などの議案審議が進み各議案全員の拍手にて承認されました。
 今回、松永昭博支部長(学21)が本部理事長就任に伴い退任顧問に就任、新たに塩塚保事務局長(学23)が支部長に就任されました。そのほか葛見雅之さん(学23)が事務局長に、若村年彦さん(学34)が副支部長に、山口勝裕さん(学40)が常任監事に就任されました。
 引き続き、小林進副支部長(学23)の乾杯の音頭で食事会が始まり、思い出話、近況報告と会話が弾んでいきました。
 亀山で学んだ世代、移転中に学んだ世代、吉田キャンパスで学んだ世代等々山大経済学部校舎に対する思いはそれぞれですが、山口大学経済学部を思う気持ちは皆同じようで各世代間での会話も進んでいきました。
 後半には、旧支部長と新支部長との引き継ぎの熱い握手、若人の紹介挨拶と進み最後参加者全員での記念撮影を終え、山都逍遙歌が流れる中解散となりました。
 さてその後皆さん 真っ直ぐ帰宅? 親しい仲間での懇親? 世代を超えた仲間での懇親?

 

 来年も6月第一土曜日、アルカディア市ヶ谷にて東京支部総会を開催する予定です。コロナも収まりより多くの会員が参加されることを祈念して止みません。

 令和4年東京支部総会・食事会の状況写真


再会を祈念して、参加者全員で記念撮影

  松永支部長総会開催に当たりご挨拶
   塩塚事務局長 総会議案説明
   総会議案審議 会員の様子
  大草豊監事(学8)による監査報告
新役員 左から                                               原田仁監査役(学21)、塩塚保支部長(学23)、若村年彦副支部長(学34)、山口勝裕常任幹事(学40)
  小林進副支部長(学23)による食事会前の挨拶 乾杯の音頭
  食事会 会員懇談の様子
  食事会 懇談の様子

若人紹介 左から                                                   
篠田郁香さん(学58)、黒川詩歩子さん(学66)、横山拓郎さん(学66)、仁井山竜さん(学67)

  支部長、事務局長他?次会

        

関東常磐会(山大工学部)主催・講演会のご案内

鳳陽会東京支部では関東に拠点のある山口大学各学部同窓会との交流を図っています。

この度、山大工学部・常磐会関東支部から来る10月8日(土)に開催される講演会の案内が届きましたのでお知らせします。

講演テーマ「持続可能な社会を目指した脱炭素エネルギーへの展開」

講師は山大工学部・院51年修了 松永 烈氏

参加希望者は下記「参加申し込みフォーム」から各自申し込んでください。

(「来場希望」か「オンライン視聴」か選択制)

なお、参加申し込みは下記常盤工業会ホームページから入ることもできます。

http://park14.wakwak.com/~tokiwa

鳳陽会東京支部 事務局


常盤アドバンスドレクチャー2022 in Tokyo開催のお知らせ
 
常盤アドバンスドレクチャー 2022 in Tokyo 「未来を切り開く技術開発」講座を、以下のとおり開催いたします。
 今回は東京会場にて対面式にて開催、同時にオンライン配信を行います。ご参加ご希望の際は、来場ご希望か、オンライン視聴ご希望かを選択いただきますようお願いいたします。
申し込みサイト
 https://ws.formzu.net/fgen/S79709566/


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開催日時 令和4年10月8日(土)15時00分より16時30分
東京会場 港区立産業振興センター ホール小(120名収容)
      https://minato-sansin.com/function/
      (開場時間:14時30分)
配信方法 Zoom・Youtube を使用


主  催 関東常盤会
共  催 一般社団法人 常盤工業会・山口大学工学部
受講対象 山口大学工学部卒業生・学生
受 講 料  無料

連絡先  一般社団法人 常盤工業会 事務局
        TEL 0836-32-7599  FAX 0836-22-7285
        E-mail tokiwa@bc.wakwak.com

 ・・・・・・・・・・  講座の概要  ・・・・・・・・・・

 講座 
 持続可能な社会を目指した脱炭素エネルギーへの展開

 講師 松永 烈(いさお)氏(院資源51年修了)
  産業技術総合研究所 地圏資源環境研究部門 名誉リサーチャー

 -講座概要-

 地球環境に大きな影響を及ぼす温暖化の防止に向け、二酸化炭素の排出量を実質ゼロ、更にはマイナスにするカーボンニュートラルへの取り組みが急激に進んでいる。長年地下資源の開発利用に関係した研究に携わってきた経験を基に、カーボンニュートラルに向けた動きの背景や化石燃料に代わる再生可能エネルギーの開発利用の動向について考える。

山口代表の下関国際が大金星

夏の甲子園準々決勝で下関国際が春夏連覇を目指す優勝候補筆頭の大阪桐蔭相手に5-4と接戦を制し、逆転勝ち。
仕事で試合はテレビ観戦出来ませんでしたが、途中、ネットで7回にトリプルプレーをやったと知り、得点経過は不明でしたが、善戦しているとは思いましたが…。

仕事が終わって、動画を観ましたが、凄い試合でした。
天晴れ、下関国際。
山口県民や山口県に縁のある人の誇りとなるのでは。
下関国際が先制点を取り、大阪桐蔭の焦りを誘えば面白いとは思いましたが、先制点の2点を初回に取られて、9回表の土壇場での逆転でした。

山口大会では山口市の西京高校を応援していましたが、春季大会優勝の宇部工業を破っての下関国際の甲子園出場でした。
下関と言えば昔は下関商業や早鞆高校でしたが、最近は下関国際のようです。
下関国際は下関市伊倉にあることを最近知り、山口県庁に就職した学生時代の友人K君がいて一度、泊まりに行ったことや下関市内での結婚披露宴に出席したことを思い出しました。

山口県は阿武町の誤振込み騒動、安倍元総理の銃撃事件、猿被害事件と続きましたが、久しぶりに全国区の明るい話題です。

写真は現在のJR下関駅と昔の下関駅
(学22期 Y・Y)

テント劇団が山大にやってきた

Y・Yさんが投稿した「私と演劇鑑賞(1)」を楽しく読みました。

広島で公演されたテント劇場は臨場感があり、虜になったーと書いていました。

あの記事を読んで、青春時代の記憶が蘇りました。

   ◇

 1970年代、演劇界は野心的なテント劇団がものすごい勢いで活動していました。通称「紅(あか)テント」や「黒テント」などがトラックにテントを積み、全国を旅して公演していました。

 実は山口大学にもテント劇団がやってきたのです。わたしは実行委員会の一員として公演の裏方を担当しました。

 劇団の大型トラックが吉田キャンパスに到着しました。巨大なテントを荷台から下ろします。高い支柱を立て、テントを張る。劇団員だけでは手が足りない。学生たちもテント設営作業を手伝いました。情宣活動も行いました。

さあ、公演が始まります。テントの中の客席(地べたに座る)は満席。若い熱気が高まっていきます。テントの支柱を駆使した躍動感あふれる舞台は圧巻です。大きな歓声と拍手がわき、公演は大成功でした。        

    ◇

 さて、今夜の宿はどうするか。

数多い劇団員をホテルや旅館に泊める余裕はありません。

思いついたのが経済学部(亀山キャンパス)の一角に建つ通称「迎賓館」です。賓客が経済学部を訪れたさいの宿泊施設(だったと思う)でした。

 劇団員はその夜、「迎賓館」に宿泊したのです。

 翌朝、わたしは様子を見に行きました。劇団員は起床し、洗顔をすませたころでした。わたしは女優さんたちとにこやかに会話していたのです。

 そこへ、K教授が現われました。ふだんは冷静な先生ですが、なにやら険しい表情です。

迎賓館に怪しげな連中が泊まっているーとの通報があったようです。

おぼろげな記憶を元に会話を再現してみます。

 「困るよ。許可なく、外部の人を勝手に泊めちゃ」

 ―えっ、許可がいるんですか。

  (経済学部当局の許可は得ていなかった)

 「これからは、ちゃんと、事前に届け出るように」

 ―はい、すいません。

 K教授は学生の過激な活動や、やんちゃな言動にも理解を示す先生でした。

おかげでその場は丸く、納まりました。

劇団員は心地よく、次の公演地に向け、旅立っていったのです。

 思えば、おおらかな時代でした。

 (元山口大学経済学部生 S)

 

木戸孝允 ④

◆抑え役、調整役の木戸

木戸は明倫館で吉田松陰に兄事している。吉田松陰から「事を成すの才あり」と見込まれ、また、久坂玄瑞や高杉晋作からは兄貴分と慕われている。

木戸自身、ペリー来航で国事に目覚めた尊王攘夷の「熱い」志士だが、長州藩士の前ではもっぱら抑え役に回っている。松陰、久坂、高杉が、より熱く、激しかったからであろう。

高杉の長井雅楽(ながいうた)暗殺に反対し、久坂の外国船砲撃(馬関戦争第一砲の下関事件)にも反対し、禁門の変を惹き起こす長州藩急進派を抑えにかかり、また吉田松陰の老中・間部詮勝要撃を断念させるべく、江戸から長州に下った。

そのどれもうまくいかないほど、若い長州藩士の血は熱かったともいえる。

さらには、酒で舌禍事件を起こす長州藩の重鎮・周布政之助(すふまさのすけ)を諫めるのも木戸孝允の役回りであった。

◆木戸孝允の評価

 ここでは木戸と同時代人の板垣退助と大隈重信に語ってもらおう。

板垣退助

「実に品格の良善なる人であって、終始機事を処理するに慎重であって、すこしも軽卒なところがなく、諸物に聡明で、温情に敦厚(とんこう)なる性質(たち)であった」とし、「優等生」たる木戸にて賛辞を送っている。

大隈重信

「木戸は正直真面目な人物であって、雄弁滔々、奇才縦横であるが、併しなかなか誠実な人であった。(中略)木戸は洒々落々とした所があって、思ったことは何でも喋舌ると云う風であるから、大久保の沈黙とは正反対である。木戸は詩も作れば歌も詠む、風流韻事は頗る長じていて、遊ぶことも騒ぐことも好きで陽気であった」としている。

また、「最も感心なことは長州出身ながら、薩長の専横跋扈を憤ってこれを抑えた」としており、薩長の「跋扈」を良しとしない佐賀藩出の大隈にとって、木戸は話せる存在であったようだ。

◆さいごに

明治の三傑の中では影は薄いように思われるが、これは名家の生まれ故のものであるかもしれない。整った風貌、温和な性格、文化・学問の素養、金銭に不自由することなく、若手を集め面倒を見た。

高杉の上海渡航に際しても、また長州ファイブのロンドン渡航に際しても、金銭の工面を含め、若手の面倒を見ることに裏で汗をかくこともしている

多方面での活躍ゆえ、後々顧みられる語り草の名場面とは縁が薄かった人物。また諫め役、たしなめ役という損な役回りに回った木戸孝允であった。

過去、木戸孝允が大河ドラマの主人公になったことはないようで、今後の企画を待つほかない。

幕末当時、木戸孝允、いや桂小五郎は龍馬と同じくらいモテたようで、大河ドラマでは気品漂う俳優に演じてもらうことになる。

さて誰にすべきか。

(学23期kz)

「夫・力道山の教え」

~最後まで決して諦めるな~

5
年半前の2017年3月28日になりますが、亀戸のアンフェシリオン(旧東京平安閣)まで講演会を聴きに行って来ました。
講師は力道山夫人の田中敬子さんでした。

私は小学生の頃、毎週金曜日の夜8時~は三菱電機提供の日テレ系の広島テレビでプロレス中継があり、家族で固唾を飲んで観たものです。
外国人レスラーを相手に劣勢だった力道山の空手チョップが炸裂し、母は「やっちゃれ、やっちゃれ」と広島弁で連呼したものです。
我らの力道山はル・テーズ、ミスターアトミック、ブラッシー、デストロイヤー等と勇敢に戦ったものです。
吸血鬼ブラッシー戦では会場ばかりではなく、全国のテレビ視聴者に死者が続出しました。

講演会は冒頭に貴重な懐かしい秘蔵フィルムの映像の上映紹介があり、田中敬子さんから秘話の数々の紹介もありました。
最後は鳴海剛リングアナウンサーの力道山の紹介に当時にタイムスリップし、感動の余り大粒の涙でした。(参加者約240名)

(学22期Y・Y)

第4回ヒロシマの高校生が描いた「原爆の絵」展in有楽町

2022年8月14日(日)~20(土)
11:00~18:00(最終日は17:00)
東京交通会館1Fギャラリー「パールルーム」
(東京都千代田区有楽町2-10-1)
【協力金(入場料)500円】(税込、
中学生以上)*小学生以下は無料

【8月15日の投稿】
今日の東京は台風一過で雲は多いものの晴れ間もあり、比較的穏やかな天気となりました。
こうした中、母校の広島市立基町高校の創造表現コースの生徒が被爆者の体験を直接聞き取り、絵画として描いた「原爆の絵」展に昨年に続き行って来ました。
初日の13:30に到着し、事務局長の大越貴之にご挨拶し、約1時間かけて約30点のパネル展示を鑑賞しました。
描いた場面の説明、描いた高校生のコメント、被爆体験証言者のコメントもあり、素晴らしい催しでした。
是非、会期中に足を運んで頂きたい。
(学22期 Y・Y)

もう一つの戦争

◇最強部隊の日系米兵442連隊

先の大戦では米軍に442連隊戦闘団という日系二世で構成された陸軍部隊があった。

当時、敵性市民とされた日系二世。彼らは西海岸の強制収容所から志願し、米国軍人として出征している。

主に欧州を中心とした戦線に派兵され、優れた戦果を挙げたことにより大戦期間中、米陸軍内では最も多くの勲章を得、米国陸軍史上最強の部隊ともいわれている。

当時は米国軍の中でも彼らに対する差別があったという。米国人から日系米兵は「いつ日本側に寝返るかもしれない」との疑念を払拭するためにも、彼らは懸命になって米国のために戦った。

◇日本戦で活躍した部隊:MSI

米陸軍には、日本から地理的に離れた欧州戦線に派兵された部隊とは異なり、日本戦で重要な働きをした日系二世の教育機関があった。それは米国陸軍諜報部(MSI:ミリタリー・インテリジェンス・サービス)語学学校。ここでいう「語学」とは日本語のことだ。戦前に3千名、戦後に3千名で、計6千名学んでいる。

この教育機関は日米開戦を見込んで開戦のひと月前の1941年11月に設置され、その85%が日系二世だったという。

彼らは日本軍の通信傍受、盗聴、捕虜の尋問、捕虜から入手した資料の解析で能力を発揮した。山本五十六連合艦隊司令長官の撃墜も、戦艦武蔵から発せられた暗号電文の解読も彼らの手によるという。

また、彼らは日本兵捕虜の尋問でも活躍する。

「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓があった。しかし、捕虜となった日本人は「日本人の顔をした日系兵」から話しかけられると、何でも喋ってしまったという。

見知らぬ外地で「日本人とおぼしき顔」を見つけると警戒が緩むものだ。話しかけても、怪訝な顔をされ、早口の英語が返ってきた覚えが私にもある。

日本兵捕虜の中には、尋問に頑なに口をつむぐ者もいたが、タバコを喫わせ、演歌を一緒に歌って心を和らげて、情報を得ていたという。

◇日系米兵の戦後

彼らは戦後、日本でもマッカーサーの出迎えや、ミズーリ号での調印式でも活躍する。戦後の占領軍と日本との間に入り、無用な摩擦が生じないように動き、活躍し、日本の戦後復興にも貢献した。

また彼らは、相当な規模の対日支援物資の寄付・支援などを通じて日本の戦後復興の手助けをしている。戦後間もない日本の高度成長に寄与したのは朝鮮戦争特需だけではないようだ。

◇人材を活用した米国

米国陸軍情報部にはこうした日系人だけではなく、ドイツ・オーストリア系隊員による部隊「リッチー・ボーイズ」もいた。彼らはナチスに追われた若者でユダヤ系ドイツ人も多く、対独戦における米陸軍の心理戦要員となり、連合国のノルマンデー上陸作戦では決定的な戦力になったとされる。

日系、独系、ユダヤ系の米国人。こうしたあらゆる人材を活用し、情報戦を展開した米国は極めて有利に戦争を進めていった。

他方、日本はどうであったか。

敵国を研究することなく、「鬼畜米英」というプロパガンダで片づけ、言葉も敵性言語として使用を禁止、それに代わる日本語表現の研究に精力を注ぎ込むにとどまった。

◇アーリントン墓地

太平洋戦争時、敵性市民として弾圧を受けた日系二世に中で、米兵軍に志願し数々の戦果を挙げた442連隊。

戦争終結直後、時の米大統領は米軍の中で最も輝かしい功績を挙げた日系二世の442連隊を閲兵し讃えた。

「諸君が戦ったのは敵兵だけではない。偏見とも闘った。そして諸君は勝ったのだ」。

この連隊兵のうち60余名が「歴史的に特筆すべきマイノリティー(少数精鋭者)」として、ケネディー大統領らと共に国立アーリントン墓地に眠る。

(学23期kz)

フリーダムトーチの442連隊・部隊章

続・人間ドックのすすめ③

私は昨年(2021年)2月、人間ドックを受けた。

腹部大動脈瘤が見つかった。昨年7月、大学病院で大手術を行った。

続いて精密検査で冠動脈(心臓を動かす大切な動脈)に重大な疾患が発覚した。3か所が閉塞寸前という。今年(2022年)1月、大学病院で手術を行った。

◇白衣のお迎え

 大手術が終わった。私は大学病院の個室で横たわっている。体には何本もの管が付けられている。胸部からは出血が続く。

夜。高熱を発した。夢を見た。

―冬の日、私は九州の実家にいる。その日は九州には珍しく、大雪が降っていた。

私は庭に出た。

おや、だれか、いる。

祖母(故人)だ。白い着物を着ている。私と目が合った。微笑むことはない。無表情。なにもいわない。沈黙している。

私は雪景色を撮影しようと、いったん、家に戻り、カメラを探した。

だが、カメラは見つからない。しかたなく、再び、庭に出た。

なんと、祖母が同じ場所に立っているではないか。

突然、祖母はくるりと後ろを向いた。門を開け、黙って出ていく。

私はついて行かなかった。

 人生の最期にあの世からお迎えが来るという話はよく聞く。だが、ほんとうにお迎えが来るとは・・・。あのまま、祖母について行ったら、どうなっていたのだろうか。

◇リハビリ

 手術のあと、病棟でリハビリを行った。体に点滴などたくさんの管がついている。身体を動かすのは大変だ。だが、ベッドに横たわっていれば、回復が遅れる。

リハビリに励む。まず、ベッドから起き上がる。病室の椅子に座る。

座ることもリハビリの一環だ。さらに点滴を付けたまま、病棟内を歩く。肺機能回復訓練も1日3セット行った。若い看護師が「こんなにリハビリに熱心な患者さんはそういません」とほめてくれた。

 【1月22日】

順調に回復している。医師が足、腕、腹部についていた管を全部抜いた。

身体が一気に自由になる。シャワーも解禁された。おかゆの食事も始まった。

医師は「リハビリの効果があって回復が早い。まもなく退院できるでしょう」と微笑みながらいった。

【1月26日】

退院の日。妻が迎えに来る。タクシーでマンションに帰った。

昼食は妻の手作りの親子丼。おいしい。食後、妻の付き添いでマンションの外周を散歩する。マンションの友人たちと出会った。手術の成功と退院を報告する。みな、喜んでくれた。夜は鴨汁つけうどん。酒はまだ、飲めない。

シャワーを浴び、ベッドに潜り込む。心地よい眠気に誘われた。

◇自宅療養

 退院後、1か月は自宅療養だ。医師が具体的な指示をした。

  • 酒は当分の間、禁止
  • コーヒーは1日1杯
  • 水は1日2リットル飲む(相当な量だ)
  • 車の運転は禁止
  • 肉はおおいに食べる(手術で失われた血液を増やす)
  • 散歩を心がけ、距離を徐々に伸ばしていく
  • 重い物を持つのは禁止・・・など

私は素直に指示に従った。

1か月後、大学病院で診察を受けた。医師が微笑んでいった。

「数値がすべてよくなっています。お酒は飲んでいいですよ。現場復帰して、ばりばり仕事してください」

 私は3月から現場復帰した。元気に仕事をしている。酒もおおいに飲んでいる。これも人間ドックを受けたおかげだ。

みなさん、人間ドックをおすすめします。

 (東京支部 S)

追記

※大手術の結果、心臓から動脈にかけて、血流がきわめてよくなったようです。酒を飲むと、足の甲や指がピンク色に染まります。学生時代にもどったような気分です。