私と演劇鑑賞(1)

社会人となった23歳の頃、人から誘われて、演劇鑑賞のサークル的なものに入り、舞台を見始めました。
入社して初めての勤務地が地元の広島となり、配属となった頃です。
高校時代には幽霊部員に近かったが、演劇部に入っていて、発声練習やら、メイクの練習をしたりしましたが、演劇部員とは名ばかりで、同級生に頼まれて人数あわせに協力した程度の記憶しかありません。
ただ、どういうわけか、高校時代の卒業アルバムには、演劇部員として写真が出ていて何かにつけ有難い。
演劇部の顧問が、地学の先生をされていた山田洋次監督の弟さんだったというのは後で知ったのでしたが。

20代の前半から始まった演劇鑑賞は33歳で広島を離れるまでに、文学座、俳優座、劇団民藝等の新劇中心に8年間で100公演以上観るところとなった。
サークルに入っていたので、公演後はいろいろと寸評会的なものをやったり、台本を事前に入手したりして、鑑賞中心ではあったが、結構、演劇青年でした。
その上、広島に来る劇団四季や宝塚公演やテント劇場も好きで見たりした。
地元の広島大学や比治山公園でのテント劇場は臨場感があり、観客である自分が舞台に上がって演じたくなるような気分にさせるものがあり、虜になった。舞台と観客席との敷居を感じさせなかった。

東京に転勤になって以降は仕事が俄然忙しくなり、帰宅出来るのも遅くなり、演劇鑑賞どころではなくなった。
その後は知り合いの女性が小さな劇団にいて、数年に一度、お付き合いで見る程度でしたが、最近、縁あって演劇鑑賞を再開しました。
広島と違って東京は舞台の公演回数も多く環境的にも恵まれているので何かにつけ楽しみです。

写真は文学座の北村和夫さんと杉村春子さん
(学22期 Y・Y)

続・人間ドックのすすめ②

 人間ドックで腹部大動脈瘤が見つかった。

昨年7月、私は大学病院で大手術を受けた。手術前に行った全身の精密検査で、今度は冠動脈(心臓を動かす大切な動脈)に疾患が見つかる。3か所が閉塞寸前だという。青年外科医の勧めで、冠動脈のバイパス手術を行うことになった。

◇驚くべき遭遇

手術を前にした昨年11月の週末、私は日比谷公園を訪れた。陽光を浴びてベンチに座り、友人と話し込んでいた。

隣のベンチに青年が座った。彼は感染防止のため、マスクをしているが、容貌があの青年外科医によく似ている。だが、まさか本人とは思わなかった。そのとき、青年の携帯電話が鳴った。どうも病院とやりとりしているようだ。声の記憶。間違いない。

電話が終わった。私は「先生」と声をかけた。先方も驚いている。

偶然、青年外科医と患者が日比谷公園で出会う可能性はあるかもしれない。だが、同じ日、同じ時刻に隣のベンチに座るとは・・・。

―この青年は天が遣わした医師ではないのか

 帰宅後、妻に話すと、妻も驚いていた。

◇大手術

 令和4年、正月。家族とともに新年の宴を催した。大いに酒を飲む。愉快な宴だった。大手術の日程が迫る。正月休み明けに仕事の引継ぎを行った。

 【1月13日】

大学病院に入院した。大手術に備え、検査が続く。

 【1月17日】

妻と同席で手術の説明を受ける。手術中に死亡する確率は1・3%という。

手術同意書に署名する。

 【1月18日】

大手術の朝を迎えた。よく眠れた。窓のカーテンを開ける。快晴だ。見事な朝日が昇る。なんの不安もない。心境は澄み切っている。

 午前8時30分、手術室に入った。全身麻酔。手術中の記憶はまったくない。

  《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》

外科医3人。長時間に及んだ手術後、集中治療室に運ばれたようだ。

私は病床に横たわっている。執刀した外科医が声をかける。

「手術終わりましたよ。起きてください」

声ははっきり聞こえる。意識は鮮明だ。だが、体が動かない。

声を出せない。眼も開かない。

なんとか意志表示をしようと思う。あちこち、動かしてみる。

眼。顔面。左手。右手。指先。だめだ。まったく、動かない。

おや。右足の指が動くではないか。足の指をぴくぴく動かす。

「眼は開かない。声も出せないが、意識はもどりました。先生の声

も聞こえます」(と、私は伝えたかった) 

 だが、外科医は想定外の反応をした。

 「あ、けいれんが始まった」

 「違う。違う。これは意識が戻った意思表示なんです」

 (と、私は伝えたかった)

私は、力をこめてさらに右足の指を動かす。

外科医が心配そうに言った。

 「けいれんが激しくなった。脳に血栓が飛んだのかもしれない」

そうじゃない。そうじゃない。意識が戻ったことを知らせる意思表示なんですけど・・・。         

 完全に意識を失ったように見え、横たわって、眼も体も動かせない人でも「誰が来たか、わかる。枕元で自分の名前をいいなさい」とよく、いわれる。

あれは本当なのだ。体験した私には断言できる。(続く)

 (東京支部 S)

木戸孝允 ③

人脈が豊富で、政治的センスに優れ、先を見通す識見に優れていたとされる木戸孝允公。

交渉・調整能力が高いためか「長州の外交官」とも呼ばれ、討幕を仕上げ、維新を形作ることに貢献した長州藩の大物だ。

また木戸は、士分でこそないが優れた人材を見つけて登用し、活躍させるのがうまかった。木戸の縁で開いた花が、伊藤博文と大村益次郎の二輪ではなかったか。

◆伊藤博文

伊藤は木戸の義弟(木戸の妹・治子の夫)で長州藩士・来原(くるはら)良蔵の育み(はぐくみ)となった。松陰が「ああ、我の尊信するところの者、ひとり桂(木戸)と来原とのみ」と語った、その来原だ。来原と松陰は昵懇の仲で、来原の紹介で伊藤は松下村塾生となる。来原は伊藤を義兄の木戸に紹介し、木戸は伊藤を雇人とした。

吉田松陰処刑後の遺体を南千住・回向院に埋葬したのが木戸であったが、その脇に居たのが8歳年下の伊藤だった.

また木戸は伊藤を他藩同志の伝達役として使っており、こうしたことも伊藤の顔を広げ、伊藤を世に出す契機となったようだ。

こうしたことから伊藤は木戸から知遇を得たことに感謝し、木戸に対し最大級の賛辞を与えている。

しかし、伊藤は木戸から最後まで「雇い人」として遇されたことに納得がいかず、わだかまりがあったようで、後々「(木戸公の)度量はひろく大きくはなく、随分困ったことも多かった。」とチクリと心情を吐露している。こうしたこともあったためか、伊藤は木戸のライバルの大久保利通と通じるようになってゆくが、これにはこうした溶かし切れないわだかまりがあったことが背景にあるのかもしれない。

◆大村益次郎

吉田松陰は江戸伝馬町処刑場で最期を迎えたが、木戸は松陰を小塚原回向院(えこういん)で葬った帰りに、見事な手さばきで腑分け(人体解剖)をしている人物に遭遇し、驚嘆する。

腑分けの見学者にその人物の名を聞いた時から大村との縁が始まる。この時、桂(木戸)は27歳、村田蔵六(大村益次郎)は36歳であった。

当時木戸は長州藩で藩政を掌握していたが、大村益次郎は宇和島藩に出仕し、100石取りの士分となり、幕府の蕃所調所(ばんしょしらべしょ・洋学の研究・教育機関)教授であった。木戸はその大村を、その職を捨てさせ口説き落として安い食い扶持で長州に招いた。招く方も無茶な招き方をしたが、招かれる方もよくぞ応じたものだ。しかも木戸は大村を軍の総司令官に据える。藩の重役の反対を押さえて。

その期待に応えて、村田は四境戦争(幕府・長州戦争、いわゆる第二次長州征伐)、彰義隊との戦い、戊辰戦争で大きな活躍をする。

大村が死ぬ前、九段に招魂社建立という願いを聞き、またその境内に桜を植える願いを聞き届けたのが木戸孝允であった。

(学23期kz)

安田ダンス教室(山口市)

昨年の正月の1月9日のことです。
最近、毎日のように東京在住の学生時代の友人とCメールでやり取りしています。
話が学生時代に一緒に一時期、社交ダンスを習いに通った掲記ダンス教室の話になりました。
ダンス教室を主宰されていた安田羊佑先生(男性)はお元気であろうかなと。
50年位前の話なので、いくら何でも亡くなられているのでは?となりました。
ネットで検索して、今日恐る恐る思いきって電話してみました。

女の方が電話に出られ、本人と代わりますと言われて吃驚しました。やったあ。
当時、私は40代後半に見えたので100歳近いかと思いましたが、年齢を聞くと92歳とのことでした。
ご健在でした。
思い出話を暫ししました。
社交ダンスとは別に日本舞踊も教えておられ、素質を見込まれた友人の付き添いで、一日だけ中河原のご自宅に行き、日本舞踊も習いました。

昔、安田先生からダンスをやっているとノイローゼになることはないと教わりました。
先生がお元気なのは矢張り社交ダンスや日舞をされているからなのだと友人と話しました。
健康の為に社交ダンスでも再開しますか。
華麗なるステップは踏めますか?

(学22期 Y・Y)

続・人間ドックのすすめ①

 私は昨年(2021年)2月、人間ドックを受けた。

重大な疾患が見つかった。

腹部大動脈瘤・・・。

放置すると、破裂。死に至る恐ろしい病気だ。昨年7月に大学病院に入院。外科医4人による大手術を受けた。手術は成功し、無事、退院した。

 このときの闘病記は「人間ドックのすすめ」(ホームページ下段のアーカイブ、2022年3月に収録)で紹介した。

 あれから1年が経過した。自宅療養を経て、社会復帰。仕事、役職、趣味、旅行、そして孫の世話・・・。元気に暮らしている。

 ところで、この闘病記「人間ドックのすすめ」には続編があるのです。

◇冠動脈に異常

 昨年7月、腹部大動脈瘤で大学病院に入院した。そのさい、全身の精密検査を行った。心臓カテーテル検査で、私の冠動脈に異常が見つかった。冠動脈は心臓を動かす大切な動脈だが、3カ所が閉塞寸前という。

大学病院の一室で説明を受けた。特殊な手法で撮影した心臓周辺の生々しい写真を、若い外科医が示す。確かに3カ所の血管が極めて細くなっている。閉塞どころか、ちぎれてしまうのではないかーと不安になるほどだ。

青年外科医は恐ろしいことをいった。淡々と・・・。

「閉塞すると、心臓が止まる恐れがあります」

青年外科医は、まず、喫緊の課題である腹部大動脈瘤の手術を実施。数カ月を経て、体力が回復してから、冠動脈の手術を行うことを勧める。私に異存はない。

「お願いします」

◇ふたつの手術方法

腹部大動脈瘤の手術が無事、終わった。1か月間の自宅療養後、私は、冠動脈手術について調べた。複数の手術体験者にも話を聞いた。

冠動脈の疾患にはふたつの手術方法がある。

【カテーテル手術】

狭くなった血管に手首や太ももの付け根などから細い管を通して拡幅する。胸部を切開しないので、身体への負担が少ない。数日で退院できる。ただし、再発する恐れがあるという。薬も大量に服用しなくてならない。

【バイパス手術】

全身麻酔をして胸部(喉元から胃袋のあたりまで)にメスを入れる。心臓をおおう胸骨を切開し、冠動脈をむき出しにする。足などの血管を切り取って、冠動脈につなぎ、バイパスを開通させる。完治するが、手術時、大量に出血。身体への負担も大きい。切開した胸骨が回復するまで3カ月を要する。

さらに恐ろしいことに手術中に死亡するケースもまれにあるという。

昨年9月、大学病院で診察を受けた。冠動脈疾患の手術方法について相談する。

私はカテーテル手術を希望した。

だが、青年外科医は、疾患が3カ所(しかもカテーテル手術が難しい箇所)あることなどを理由にバイパス手術を勧める。

私は逡巡した。その日は結論を見送った。

10月に2回目の面談が行われた。

結局、信頼する青年外科医の方針に同意した。

(東京支部 S)

名菓舌鼓

山陰堂
(山口市中市町)

第二の故郷山口市に思いを馳せ、日本橋の「おいでませ山口館」に時々足を運んでいます。
明治16年創業で130年余りの歴史を持つ老舗和菓子店です。
ふんわりとした求肥と白餡が一体となったほのかな甘さです。
箱パッケージで6個入り1,275円(税込)の高級和菓子です。
甘党の私に定番で堪りません。

21歳の学生の頃に知り合った女性が山口市湯田温泉の山陰堂のおみやげ売り場で働いていて、随分と足しげく通いました。
そして数年後に私が卒業する頃には山口市のメインストリートの道場門前をベビーカーを押して闊歩する彼女に遭遇し、固まってしまいました。👶
私にとってはほろ苦い思い出の名菓なんです。
💦
(学22期 Y・Y)

空手部哀歌 NO.3  

三途の川行きつ戻りつ篇

1. 明けない夜はない。いつか夜は明ける

地獄から何とか抜け出したい。退部は怖くて言えない。偽診断書作るか。とんずらするか。ーとまで思いつめていたが、あっという間に一年が過ぎ、類まれな順応性も発揮され、いつの間にかアスリート型に変身。
わが身の不幸を嘆いた日々もどこへやら。純朴な新人勧誘に精を出す2回生となりました。
悪い噂ばかり。男ばかりの不人気クラブに入ろうというような物好きはまず、いません。「こんな僕だってできるんだから」
ニコニコ、アリ地獄戦術で、哀れな子羊十数名が罠に落ちました。進んで入部した奇特変人が数名いたのにはビックリ。

2.つかの間の休息

学生運動華やか(一年前東大入試中止)で、授業ほとんどなし、稽古に備え、寮でゴロゴロという怠惰な日々。サンドバックの白帯は身体中殴られ、蹴られ、痛みなど何のその。
「オッ!!骨折れたかも、これで稽古休める」
残念!腫れてるが、骨折なし。
強い骨をくれ、雑に育ててくれた鬼母のお陰、いまだに骨折経験はありません。
当時、大学空手はプロ予備軍。頂点の拓殖大学をはじめ、東洋、大正、駒沢、天理、立命など強豪私大が覇を競っておりました。
そんな時代でしたが、山口にUターン就職した元拓大主将がコーチに来られ、わが校も強豪校の仲間入りを果たしたのです。
そりゃそうです。稽古内容は厳しいが、合理的な拓大流で鍛えられたのですから。
(優しく粒ぞろいの一年先輩は全日本選手権4位という偉業を成し遂げた。強豪私大OBの審判ばかりの試合で無名の国立校が準決勝進出ということは実力NO.1と同意)
私は、このコーチ登場を心待ちにしておりました。大会前の稽古は試合に備え、黒帯中心です。白帯は幹部のお世話と見学。まるで格闘技観戦の楽ちん稽古。下級生は時計係り、医薬品、おしぼり準備など雑用のみ。雑巾がけも念入りに。

3.三途の川を覗く

ある日のコンパのあと1回生を引率、二次会への移動の際、私は駅前大通で車にはねられ、数十メートル飛ばされました。
自転車にまたがったまま、アベックの車に追突されたのです。ボンネットからフロントガラスを割って運転席に転がり込み、急停車でフロントからスーパーマンのように飛び出した。顔から道路に落ちたが、幸い頭打たずに前方回転状態、ゴロゴロといつまでも転がった。
はいていた革靴は半分にちぎれ、自転車はグチャグチャ、助手席にいた彼女のほうがダメージ大きく、一緒に救急車で山口病院へ。初めての女性同乗が救急車!
医者は診察、消毒後、「もう帰っていいよ」と言ったが、保険屋の鬼母の命令で保険金規定日数まで無理やり入院。鬼母が飛んできて相手から賠償金取った。
ある日、病院から通っていたパチンコ屋で、車を運転していた彼とバッタリー。
「元気じゃん?」
「いやそれほどでも」
普通ならお陀仏になるところ。彼も死亡事故免れ、ラッキーじゃん。

(再び覗く三途の川 夏合宿)
海辺のお寺に1週間、朝昼晩の3回稽古。食欲もなく、水と塩、寝るだけの日々。
昼は炎天下、海岸砂地をひたすら走り、足腰鍛錬。
きつくて当たり前、いつか夜は明けるーの精神で走っていたが、急に体が動かなくなった。皆がどんどん離れていく。気づいた先輩が駆け戻って病院へ運んでくれた。意識はあるが心肺停止、「危うく死ぬとこやで」とお医者さん。
2日間、お寺で休養。稽古帰りの1年が人の気も知らんと「いいなー、いいなー」と。
君たち今度稽古の時しっかりお礼するから待っててね!と誓ったのでありました。

4.警備保障お出入り禁止

日給1500円(時給じゃありませんよ!)。正しいバイトでは防府競輪、徳山ボートなどの警備が一番割がよかった。会社の責任者は少林寺拳法道院長。職種柄、武道系の学生が多かった。
大勝ちしたおじさんの出口までのボディーガード以外、制服制帽で指定場所に一日中立つのみ。退屈だが、人間観察が面白い。
「ばれるとなめられるので、学生の身分は絶対明かさない」
「暴動が起こったら最初にやられるので制服を捨ててすぐ逃げる」
などと、指導を受けた。
ある雨の日の競輪最終レース。滑って落車続出。レース後、そばにいた爺さんが外れ車検を思いきりまき散らした。その後、順位訂正のアナウンスあり。爺さんが今ばらまいた当たり券を血相変えて探し回っていた。終わり頃、ふと足元を見ると、靴の下に当たり券が!
制服のまま、それを握って換金窓口へ。金を受け取ったとたん、数名の私服警官に囲まれ取調室へ連行。コッテリ絞られました。
部の斡旋で、バイト料は一部部費上納だったが、この不始末のおかげで以後、空手部はお出入り禁止。百叩きを覚悟したが、主将は笑って赦してくれた。

5.恥も外聞も捨てました

応援団のないわが校では、遠征・試合出発の際は山口や小郡の駅で、下級生が制服整列し、部歌、応援歌、押忍三唱(突きの基本型)などで上級生を見送ります。
歌の練習は入部してすぐ、やらされました。
恒例の鳳翩山登山も思い出します。単なる登山ではありません。鍛錬と発声練習、道着に高下駄、畳何枚分もある部旗を交代で捧げながら険しい山道を登ります。頂上まで水一滴も与えられず
・・・。

*私は見た!他校応援団の凄まじさ
関西のある応援団(”花の応援団”のモデル)が数十名、食堂にいました。全員起立。まず4年が食事。終わると、3年に許可着席食事。次2年、最後に1年、冷めきったカレーライス。
西日本大会の体育館の裏にて。無様な負け方をした某大学空手部が正座。学生服の応援団が彼らを制裁。なんだかんだ言っても、常識的な普通の国立大学でよかった。

次回は3回生時の驚愕事件。
(山口大学経済学部卒業生 N)

注 以上はフィクションで、実在の人物、組織とは関係ありません。―ということにしておきます。不適切な表現もありますが、作者の意図を尊重し、ほぼ原文のまま掲載しております。

初めての山口七夕会

令和4年 山口七夕会年次総会が7月30日(土)10時~新宿区揚場町のインテリジェントロビー・ルコであり、5月末入会後、初めて参加しました。
総会は議長役の秋草史幸会長の挨拶で始まり、令和3年度事業報告、令和4年度事業計画等の議事進行。
伊藤和貴山口市長のご挨拶及び市政紹介等があり、元 陸上総隊司令官 陸将 住田和明氏による『激動する安全保障環境とわが国の防衛』と題する講演会がありました。
その後、昼食懇親会があり、14時25分閉会となりました。

約60名の方が出席され、多くの方から名刺を頂き、交流し、首都圏から第二の故郷山口市を応援するきっかけとなりそうです。
特に椙山 俊哉前本部長から紹介された秋草会長とはお父様の経済史を受講した秋草 実教授の思い出話で盛り上がりました。
厳しいお父様だったそうですが、私は幸い優しくなられた時期だったようで良を頂きました。ほっ。

盛り沢山の年次総会でしたが、山口市政や国の防衛問題にも関心を持って勉強をせねばと痛感し、帰途に就きました。

(学22期 Y・Y)

おいでませ山口館へ

(東京都中央区日本橋2-3-4日本橋プラザビル1階)

7月16日(土)に「山口市の選りすぐり!名産品フェア」の最終日ということで行って来ました。
先ずは山口七夕会の役員で山口市観光大使でもあり、応援されていた関 周さんにご挨拶し、ご紹介頂いた西村弘文本部長代行、山口市役所職員で山口七夕会窓口の岡村さんとの4ショットが実現しました。

山口市名産品の中では、定番の御堀堂の外郎、山陰堂の舌鼓に加え、きれん製菓の栗外郎、あずき外郎、やまのわのラスク、出雲ファームの子ぎつねバウムコーヒー、椹野川漁協の小鮎の苦うるか焼き、山城屋酒造の純米大吟醸Princessを初めて購入しました。

先日、柳井市あさひ製菓の森永ミルクキャラメルとのコラボ商品のスイーツを東京では入手が難しく、宅配便にて直送して貰いましたが、今回、月でひろった卵の各種を初めて購入することが出来ました。
山口県内では店舗も多く、有名な商品のようですが、これまで全く知りませんでした。

(学22期Y・Y)

木戸孝允 ②

江戸での剣術修行

ペリー来航の1年前にあたる嘉永5年(1852年)、神道無念流で幕末江戸の三大道場の一つ「練兵館」から創設者斎藤弥九郎の息子・新太郎が、萩へ立ち寄る。その時、新太郎が藩に対して若者を江戸へ人を出し、諸藩士と広く交流させることを提案した。当時は長州藩でも藩外遊学を奨励していた時期にあたる。木戸は選考から漏れるが、自費で3年間の江戸遊学を申し出て、願が叶う。

実父に、元が武士でない以上、人一倍武士になるよう粉骨精進せよと言い含められ、剣術に励む傍ら、書物もよく読んだという。

木戸は俊敏性に優れていたようで剣の腕を上げ、仲間をまとめる力にも優れていたためか1年で練兵館の塾頭に駆けのぼり、藩命で長州に戻るまでの5年間、塾頭を務めている。

身長は175センチほど。当時としては高い方で、木戸の上段の構えは周囲を圧倒する気迫があったとも伝えられており、「剣豪」とも呼ばれたようだ。

剣術だけにあらず、柔道にも通じていた。木戸は酒で暴れる横の黒田清隆を腰で投げ飛ばしたことがあったという。黒田清隆と言えば180センチを超える薩摩の大男だったのだが。

◆交流

実父は剣に励むよう願うとともに、資金の支援を惜しまなかった。このため木戸の下には実父の和田家だけではなく、養父・桂家の両方からも結構な仕送りが届いており、カネに困ることはなかったという。

剣に励み、書を読み、豊かな懐事情もあり、同僚や後輩、また他の門人たちと大いに飲み、交流を深めていった。

当時江戸の三大道場には諸藩から有為の若者が参集しており、藩を超えた交流で人脈を作り、木戸自身の人間の幅を大きく広げたようだ。

この時の交流が偉業を成す際の人脈異形成に大きな寄与をしたように思える。

交流の広さは当時の長州藩の人物で他の追随を許さないとされる。

水戸藩士との成破の盟約、薩長同盟など藩を超えた連携で事を成す手法は木戸の「得意技」となった。

酒も好きで、強かったという。大酒で有名な「鯨海酔侯」・土佐藩主の山内容堂公と飲み比べても引けを取らなかったという。

◆風貌

木戸が二十歳ころ、とある茶屋での老婆から「非凡の風采なり。刻苦勉励すれば他日必ず栄達せん」との言を、とても気に入っていたという。

こうした木戸の風貌を、木戸に接した者は書き残している。

政治家やジャーナリストとして多彩な活躍をした福地源一郎(東京日日新聞社長)は、「自ずと首(こうべ)が垂れたのは慶喜公の御前に出た時、もう一度は木戸参議の前に出た時だ」としている。

また、オーストリアの外交官ヒューブナー伯爵は、「強烈に精神の力を感じさせる風貌であり、彼がものを言うとき、その表情は独特な生気を漲らせる」と記している。

さらに、公家の岩倉具視公は大久保利通公に向っては「大久保」と呼び流したが、木戸に対しては「木戸さん」と「さん」付けであったという。

(学23期kz)