おいでませ山口館記念セ-ル

令和4年6月4日開催の東京支部総会・食事会で、山口県東京事務所に出向中の横山拓郎さん(学66)から、「おいでませ山口館」記念セ-ルの案内(下記HPより引用)がありました。期日は間近ですが、興味のある方は是非足を運んで見てください。
 詳細は下記「3.おいでませ山口館」をクリック、次にURLをクリックしご確認ください。
                              東京支部 事務局

イベント情報

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おいでませ山口館で「20周年感謝祭SALE」を開催いたします

梅雨が近づいてまいりましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか?

おいでませ山口館では、6/3(金)~6/12(日)まで、「20周年感謝祭SALE」を開催いたします。
皆さまのお陰で、おいでませ山口館は本年開業20周年を迎えることができました。
日頃の感謝の気持ちをこめて、人気商品を特別価格で販売いたします。
また、6/6(月)~6/12(日)の期間毎日、3,000円以上お買上げの方先着30名様に、福を呼ぶ「幸ふく土鈴」をプレゼントいたします。

皆さまのお越しを、心よりお待ちしております。

おいでませ山口館記念セ-ルをPR 横山拓郎さん(学66)

69歳で起業 (その1)

2020年の5月、まさにコロナが猛威を奮わんとする時に異業種4名で起業した。

日本では従来、大麻は絶対禁止の薬物として認識されてきたが、世界の動きをみると医療用や健康増進用として近年合法化する動きが加速している。こうした中、日本でも動きがみられ、国会議員の間でも勉強会が始まっている。

2013年夏、米国CNNの医療ドキュメンタリー番組で、週に300回のてんかんの発作を起こす少女が、麻の成分CBD(カンナビジオール)を用いることで発作が週1回に劇的に改善したと報じられた。米国では2017年にFDA(アメリカ食品医療品局)が大麻成分の新薬を承認し、WHO(世界保健機構)がCBDの有効性、安全性を公式に認めた。それ以降、全米で医療・健康増進の大麻関連ビジネスが盛んになり、そこに雇用や投資が集まる「グリーンラッシュ」が始まった。多くの企業がCBD含有の機能性食品を販売しており、CBD入りの飲み物、キャンデイ、グミが店頭、スーパーに並んでいる。

また、2018年にはトランプ大統領が農業法案にサインし、これより大麻は米国で農作物として扱われるようになり、また世界アンチ・ドーピング機構が薬物検査対象から除外したことで、スポーツ界では試合前の緊張感緩和や不眠対策用にCBD飲料が広まっている。

日本では、大麻草の葉や花に含まれる成分THC(テトラ・ヒドロ・カンナビノール)は覚醒作用があるため絶対禁止となっており、茎と種子からとれたCBDのみ合法となっているが、欧米では医療用、産業用(ヘンプ)を嗜好用と区別し、研究も試験も栽培も活発化している。

薬理学上、常習性という観点からすると、大麻はカフェインと同レベルであり、コーヒー並みになっている。むしろ問題なのは、ヘロインと同レベルのアルコールの方だ。両者の中間がコカインとニコチンとなっている。

最近、日本でも動きがみられるようになっており、国会議員の間でも勉強会が始まった。本年5月10日に国会議員主導でCBDについての勉強会が議員会館で開催された。そこでは、タイで日本向けの品種改良タイプを国と大学、企業が一体となって研究開発中だとする報告があり、そのあと厚労省の担当者から国内の現況が発表された。

大麻草は、石油から造られる素材、例えば住宅用断熱材、自動車内装材、強化プラスチックなどと代替可能で、バイオ燃料にもなる。

また大麻草は中国の代表的な植物由来の薬品学研究書「本草綱目」にも掲載されており、薬草でもあった。放射性物質も吸収でき、生育も早く、3か月で10メートルにもなる品種もある。しかも肥料なしで生育できる。このように、調べれば調べるほど日本の産業復活に資する植物といえる。これが起業の目的の一つでもあった。

現在、我々は粉末原料(アイソレート)を食の基準で世界一厳しいヨーロッパの英国やルーマニアから輸入したものを、日本で加工、製造販売している。この4月には高濃度水溶性CBDを大学研究機関と共同開発した。さらに、ビール製造会社とCBDノンアルコールビールの仕込みも始めた。

販売は自社サイトと大手通販サイトで行っているが、実店舗も福岡、秋には名古屋で、また東京でもオープンする予定だ。

ビジネスを展開するにあたり、山大経済同期のM君に顧問をお願いして、アドバイス、協力を頂いている。

(学23期 元ワンゲル T.H.)

ゴルフ 何でそうなるの! ①

どこの同窓会の会報をみても、ゴルフの集合写真が載っている。鳳陽会の会報もしかり。

独りでもできるし、年をとってもできる。一面に広がる芝生と、遠くに見える木立の中で、白球が晴天の青に吸い込まれてゆく。一番飛ばないクラブの番手を使っても野球のホームラン級のタマが出る設計になっている。打っては、歩き、また打っては歩く。電動カートを使っても15000歩、シングルプレーヤーでも10000歩程度歩く。厚生労働省が健康保持・増進のために推奨しているのが1日9200歩(男子)であり、日頃運動が足りない働き盛りの者にとって、もってこいの健康的なスポーツだ。

そして、何よりも仲間同士でゴルフを楽しくできる機会が巡ってくること自体がありがたい。幸せの「リトマス試験紙」だ。

すなわち

  • 家族に迷惑が掛からないような日程が取れて
  • フトコロに多少余裕があり
  • 体調は万全で、
  • 会いたい仲間との愉快な時間の共有

どの一つが欠けても、ゴルフはできないし、できても楽しくない。

さまざまなリスク要因を乗り越えてこそ、気分の良いゴルフができ、ラウンド中にも、またホールアウト後にも、話が弾む。

しかし、これまでの40年余りのゴルフを振り返れば、色々なハプニングがあった。

◆グリーン・エッジからの暴発

ゴルフを覚えたての頃、職場コンペでのこと。

何とかグリーン脇まで来たところで、各人がアプローチショットに入る。

私の組にはうるさ型のエライさんがいた。エチケット・リーダーのご本人は、ご自分の球を早々とグリーンに乗せ、みんながグリーンに乗せるところを眺めておられた。仁王立ちに、腕組みをして。

私の番が来た。ピンまで10メートルほどの短い距離だ。

何のことはないだろう。勢いを殺した柔らかいアプローチショットをすれば、難なく寄せられるはずだ。

豈図らんや

ショットを放った瞬間、アッ!

「トップ」してしまった。

球が飛び出し、こともあろうかエライさんの股の間を、低いうなり声をあげて突き抜けた。

ボールがあと数センチ右か左に行っていれば膝の皿にヒビが入ったかもしれない。

ボールがあと20センチほど上に行っていれば・・・

私のサラリーマン人生も少し変わったかもしれない。このエライさんは人事も与る最終責任者だったのだから。

アプローチを舐めちゃいけない。

(学23期kz)

上がらない日本の賃金③ 

労働側の要因 その2

◆増える非正規労働
バブル崩壊による第1次就職氷河期、リーマンショックや東北大震災による第二次就職氷河期もあり、正社員になることを諦め、週4日あるいは週3日と自分のスタイルに合わせた働き方を志向する若者も増えている。最近では非正規労働が労働力の4割にもなっており、これも平均賃金が伸びない一因になっている。
 非正規労働と正社員では賃金や福利厚生がかなり異なる。最近では同一労働同一賃金、すなわち同じ職務を担う非正規労働者の待遇を正社員の待遇に近づけるよう動きもみられるが、いまだ両者の隔たりは大きい。
しかし、いち早く非正規のパートタイム労働と正社員との待遇格差を撤廃した国があった。オランダだ。

オランダでは、かつて経済危機に陥った際、パートタイム労働者の賃金・福利厚生を正社員並みに高めた。また半日勤務でも取りやすくし、しかも生産性を落さないよう「ワークシャエリング」できる環境を整えた。
こうしたこともあり、1週間を仕事に、趣味に、そして社会活動にと使い勝手の良い働き方ができて、しかも正社員並みの時間給が払われる。しかも、民間と行政のはざまでこれまで手の届かなかった社会活動分野に積極的に参加する者が増え、今やオランダはNPO大国になっており、行政の側も多いに助かっているようだ。
日本でも検討に値しよう。

◆賃金の低迷と学生生活
これまで見てきたように、1997年以降、20年以上にわたって賃金の低迷が続いた。
このため、コロナの前にあたる平成30年時点の統計で、約5割の学生が奨学金に頼っており、今後の奨学金の返済を苦に親元を離れての独り暮らしを諦め、実家から通える就職口を探す学生も出てきているという。
 こうしたところにコロナが襲った。
コロナ禍では学生のアルバイトの口が少なくなり、学資を稼ぐ手立ても限られることになった。それよりも、学資の出し手である親の賃金も下がり、場合によっては解雇されるに至り、学生生活を続けることができなくなった事例も報道された。
授業料は決して安くはない。こうした中での賃金低迷が続けば、大学教育の危機にもつながりかねない。
世界に伍し、あすの社会・経済を背負うのは日本の若者だ。

これではいけない。
(学23期kz)

ザビエルのふるさと、バスク出張記

司馬遼太郎の「街道をゆく」で「南蛮へのみち」が取り上げられており、鳳陽会の皆様にもお読みになった方が大勢いらっしゃるのではないでしょうか。

バスクはフランスとスペインの国境にそびえるピレネー山脈の東西に位置しており「南蛮へのみち」の題材となった舞台でもあります。

 バスクはフランスとスペインの強国に挟まれており諸々の事情で独立もままならず、今はスペインの自治州として独特の文化を有して存在感を示しています。

地政学的にはウクライナや朝鮮半島にも通じるところがありますが、幸い自由主義、民主主義が浸透している西欧に位置していることもあり戦火は免れています。

 ドイツに駐在していた頃、このバスク地方に度々出張する機会がありました。

 日本では美食の港街サンセバスチャンや牛追いで有名なパンパロナが良く知られており日本人観光客が多く訪れていますが、一方ではスペインでも有数の工業地域であることは知られておらず、意外に思われる方も多いと思います。

 デッユセルドルフから空路で1時間半の鉄鋼業の盛んなバスクの主要都市ビルバオに飛び、そこからレンタカーで2時間弱南下しモンドラゴンという都市を一泊2日の行程で訪れていました。モンドラゴンは労働者協働組合(coop)が発展した地域として知られており、工業製品から生活全般に亘る協働組合の成功例として世界中に紹介されています。

 モンドラゴンには欧州でも最大手の自動車向けを得意とする協働組合の鋳物会社があり、欧州一帯をマーケットに手広く活躍していました。この会社と業務提携の話を進めるのが出張の目的でした。

 日帰りの行程では無理でしたので一泊せざるを得ませんでした。宿泊は美食の港街サンセバスチャンを第一志望に望んでも、何時も観光客で混んでおり、泣く泣くビルバオに泊まるのが常でした。

 それでもビルバオはバスク第一の都市であり、賑やかな旧市街に雰囲気の良いバールや手軽に入れるレストランが沢山あって、夜の飲食を楽しむ事が出来ました。

 ご承知の方もいらっしゃると思いますがバスクは山口と縁が深いフランシスコ ザビエルの出身地でもあります。ザビエルはバスクの裕福な城主の子孫でバスク人です。青年時代はパリのカルチェ ラタンで哲学を勉強しており、その後バスクに戻りイエズス会を設立するに至りました。

 大西洋のビスケー湾に位置するバスクは好奇心旺盛な海洋民族でもあり、ザビエルもまたその血を受け継いでいた様です。

ザビエルのイエズス会は積極的に海外に布教活動を行ない、自身も宣教師としてインドのゴア経由で1549年に日本に初めてキリスト教を伝え、歴史にその名を残しています。

亀山公園に聳え立つ山口サビエル記念聖堂はサビエル来山口400周年を記念して1949年に建てられましたが、1991年に火事で消滅してしまいました。1998年に現代風なサビエル記念聖堂が再建されましたが、当初はモダン過ぎたようで以前の聖堂を懐かしく思われる方々も多かったと聞いています。そうは言っても時が経つにつれてモダンなデザインのサビエル記念聖堂も亀山の風土に馴染んできている様です。

 鳳陽会本部はこの亀山公園の一角にあり、すぐそばには県立博物館や美術館があります。

コロナ騒動もそろそろ収束しそうな状況で、海外からの観光客も日本への渡航制限が解除されてきています。

 青春時代を過ごした山口で旧友と同窓会を開催したり、あるいは奥方や家族を帯同して山口を案内するのは如何でしょう。

  <鳳陽会理事長 松永昭博(学21)>

 

米国での活躍を夢みて

<学生時代、就職、そして・・・>

山口大学経済学部2019年卒(67期)R.N.   

「将来はグローバルに、かつアメリカで活躍したい!」

そんな漠然とした夢を持ち、入学したのが山口大学でした。そんな漠然とした思いを現実にするために、試行錯誤した大学5年間(留学でプラス1年)だったと思います。

■大学生活のテーマは「アメリカ」

せっかく入った国立大学。4年間を無駄にしたくない。やるからには「スポーツ」「勉強」「留学」など、学生時代に出来ることは全てやってやるという強い思いがありました。

<スポーツ=アメリカンフットボール部>

「将来アメリカに行くなら、国技くらいは知っとかないとな」と思い、アメリカンフットボール部に入部しました。2年生の時QBをクビになったり、体重が軽く、よく先輩に罰としてボウズにされたり。。。振り返ると辛いことの方が多かったかもしれませんが、日々成長を感じられるアメフトは自分にとって非常に楽しく、悔いのない充実した4年間でした。悔しくて泣いたり、泥まみれになることが今後の人生であるのか。。。

<勉強=西洋経済史ゼミ>

「将来アメリカに行くなら、その国の歴史を知っておかないと」と思い、西洋経済史のゼミを選択。非常に指導熱心な教授の下、アメリカの建国から大国になるまでの経済史を学びました。普通のゼミとは異なり、3年間、毎週夕方18:00から24:00までみっちり活動をする特殊なゼミでした。教授とは現在でも交流があり(年賀状など)、私の”漠然とした夢”に行動指針を示してくださった尊敬する恩師です。

<留学=米国カリフォルニア>

アメフトを経験し、西洋経済史を学んだ上で、アメリカに1年間留学をしました。語学面の向上はもちろんのこと、「アメリカ建国を体験する」という目標を掲げ、西海岸のカリフォルニアから東のニューヨークまで約4000kmを2ヶ月かけ自転車で大陸横断を行いました。

結果、ロッキー山脈が越えられず、一部電車・バスを使いましたが。。。なんとか走破することができました。

■就職

米カリフォルニアに留学した理由として、「米国の最先端を見たい」という思いがありました。留学した当時、既にTESLAが走っていたり、Uberのサービスを受けられたり、”モビリティ”関連のサービスがアメリカでは一般的となっており、衝撃を受けました。

この経験から「モビリティ事業を通じて、グローバルに活躍したい!」と思い、モビリティ事業に力を入れており、かつグローバルに幅広い事業を展開するパナソニック(株)に入社することを決めました。

■その後

なんと入社2週間で彼女ができました(笑)。なんと彼女は、生まれも育ちも大学も東京、父親が元アメフト部、そしてアメリカからの帰国子女(しかもカリフォルニア)。1か月前の自分には想像もつかなかった出会いがありました。正直、研修中の松下幸之助の信条そっちのけでした。。。

奇跡的に2人とも東京勤務となり、22年1月に3年の交際を経て、結婚しました!

上がらない日本の賃金③ 

労働側の要因 その1

厚生労働省の統計によると、日本の平均賃金は1997年以降、上がっていない。むしろその時から10%も下がっているのだ。

新型コロナによる物流停滞やロシアのウクライナ侵攻を契機とする資源高に加え、円の対ドルレートが20年ぶりに一時130円を超え、生計費の上昇が見込まれる中、賃金が上がって行かなければ教科書的にはスタグフレーションが待ち構えている。

これではいけない。

本稿では日本の賃金の上昇を阻む、働き手側の要因について考える。

 ◆給料は会社任せ

1980年代の経済的成功により、あらゆる方面で日本が賛美された時期がある。労働制度、雇用慣行もその例に漏れず、終身雇用、年功序列、組合別労組のいわゆる「三種の神器」が日本的雇用制度として国際的にも評価された時代があった。バブル崩壊後もこうした雇用慣行が続いたことで、結果的に雇用の流動性が阻害されることとなった。

働く側の意識も「会社に任せておけば大丈夫。年功序列で給料は毎年上がって行く」という意識があとを引いた。

多少古いデータになるが、人材系シンクタンクが「仕事をする上で大切なこと」を問うた国際比較可能なアンケート調査結果(2012年)をみると、欧米諸国や途上国では「高い賃金・充実した福利厚生」と答えたサラリーマンが70~80%を占めたが、日本人の会社員は39%と突出して低かった。むしろ、賃金よりも「会社での人間関係」、「自分の希望する仕事内容」と答えた者が50%程度と、賃金は最重要の関心事ではないとの結果が示された。

 こうした回答結果は、日本では他の企業での賃金水準が必ずしも明らかではなく、自分の置かれている客観的な賃金水準についての認識がない、ということが密接に関係しているのかもしれない。

 雇用の流動性の低い日本では、同業種・他企業の賃金・福利厚生水準が一般的に比較困難であることが、会社に対して賃金引上げ要求を難しくしている面もあるのではないか。

 ◆学び直しに消極的

企業経営にあたっては、環境の変化に従って、利益の多いところでビジネスをするのが鉄則だ。

その際には雇用者をより付加価値の高いところ、より競争力の高いところといったところに配置転換することが避けられず、それに伴い、雇用者も新たな事業に即応したスキルを身に付ける必要がある。

こうした学び直しに積極的なのが北欧諸国だ。休職に追い込まれた北欧のサラリーマンがITを学び直し、米国の巨大IT企業で高給をとり、働き始めた例が先日新聞紙上で紹介されていた。

他方、日本では職業訓練というと暗いイメージがある。「失業ゆえの職業訓練」というイメージだ。

なぜか。

終身雇用の日本では一般的に就職と就社は同義語で「失業」とは無縁の社会であり、多少荒っぽい言い方をすれば、波はあったものの、高度成長期以降バブル崩壊まで学び直すこともなく、安泰ともいえる完全雇用時代が続いたる。このため、失業や転職に必要な職業訓練は、事実上例外的なものと位置づけられてきたのではないか。

しかし、事業環境が激しく変化し、他の先進国とも、また追い上げる途上国とも激しい競争を強いられる時代にあっては、学び直しをしなければ良い職を得られず、経営サイドも生産性上昇、それに伴う利益も期待できず、世界の潮流にも追いつけない。

各種アンケート調査結果でも、日本人は新たな分野の知識を習得する「学び直し」に対して消極的だという結果が出ている。

なぜだろうか。

これまでは職場の先輩がOJTで仕事を教え、新入社員は先輩に付いて仕事の仕方を覚えた。こうしたビジネスモデルが変わらないことを前提としたOJTは年功序列制度と相性が良かったのだ。

しかし事業環境が急速に変わったことに伴い必要な習得技術が変わり、先輩方はこれまでのように後輩にOJTで教えることが難しくなってきている。

最近ではこれまで先輩からOJTで育ってきた現在の管理職の層が、積極的に学び直しをする意識が希薄だとする

見方を目にする機会が増えたように思う。

(学23期kz)

私の就職活動

私は1978年4月に山口大学経済学部に入学した。
3年前に60歳定年を迎え、現在シニアとして同じ会社で気楽に働いている。約1年後の誕生日をもって65歳退職を迎える今、自分の就職活動について振り返ってみた。

就職活動を始めた時期
我々の時代の就職協定は、10月1日が会社訪問開始、11月1日が採用内定開始というルールであった。そのため、現在のように3年生のうちから就活についてそわそわすることもなく、のほほんと部活やバイトに精を出していたものである。また、パソコンやスマホがあるわけでもなく、一方的に送られてくる分厚い就職情報雑誌が唯一のとっかかりであった。

希望職種
 特に誇れるような特技、資格もなく、漠然とメーカー企業かなと思っていた。幸い、部活の一つ上の先輩2名が関西の大手電機メーカーM社に就職されていたので、8月頃から大学訪問と称して2週間置きに来山され、有望候補という評価で人事の方へ上げていただいていた。そのような中、夏休みで帰郷した際、中学、高校と一番仲の良かった友人(鹿大在学)と会った。彼の希望は保険会社。理由は勤務時間が短く、給料が良いからと。山口に戻り就職情報誌で調べてみると、確かにいい感じ。不純な動機ではあるがそこからM社と保険会社の二本立ての活動となった。

会社訪問解禁前日(9月30日)
 M社の方は先輩のおかげで、明日の朝一番でM社の会社説明会へ行き、採用担当役付者から内定を頂く運びとなっていた。一方、保険会社。9月に入り3社ほど会社訪問、先輩訪問をしたものの明確な手応えなし。30日の午後にN社に3年前に入社していたゼミの先輩からようやく下宿に電話があり、明日1日に湯田温泉のホテルで9時から会社説明会を行うから良かったら参加してみたら、とのこと。朝一番はM社へ行く旨を伝えると午後からでもいいよと軽い返答であった。

運命の10月1日
 朝一番、M社の会場へバイクで駆け付け、採用担当役付者と短時間の面談を受け、内定の方向の旨を頂く。しかし、自分としてはもう一つの第一志望であるN社の説明会も聞いてみたい旨を正直に伝え、会場を後にし、午後からのN社の会場であるホテルへ。
ゼミの先輩に初めてお目にかかり、26番目の来場者として採用責任者との面接を受けた。夕方までには結果を連絡するとのことで(ない場合は不合格)会場を後にし下宿へ帰った。それから2時間後、幸運にも電話があり、自分ともう一人の学生(すでに内定を数社獲得している強者)の2人に絞った、もう一度面接して決定したいとのこと。複雑な気持ちでホテルへ行き再度の面接。約10分後に内定の連絡を受け万歳!
でもここで礼を失してはならない。そのままバイクでM社の会場へ向かい、採用担当の方に丁重にお詫びをした。帰り際、駐輪場を出ようとしたところ、会場のビルの5階から“N社で頑張れよ~”と手を振りながら激励をいただいた。このシーンは今でも鮮明に覚えており死ぬまで忘れないだろう。
 その日の夜は内定食事会を開いていただき、その場で新幹線チケットを渡され、翌日にはN社本店の役員室で内定の握手をしたのであった。

振り返ってみて
 現在の就活状況と比べると、申し訳ないぐらい楽なものであった。特に、山大を卒業して40年間も勤めている会社が、結局たった1日程度で決まっていたというマンガみたいな話である。
ちなみに中学、高校の友人も同業のS社に入社したのであった。  
(学30期 yW)

山口十境詩

1372年(応安5年)冬、大内家第24代当主で中国の文化、歴史にも造詣が深かった大内弘世公が招いた明・洪武帝の遣日正使・趙秩(ちょうちつ)。一年半あまり山口・古熊にあった守護所大雄山永興寺に滞在し、つれづれなるまま近辺の名勝地を訪れ、山口十境詩を作っている。

大内文化の最高傑作といわれる国宝の瑠璃光寺・五重塔の建立は70年後の1442年であり、この時には姿かたちはない。

 ◇十境

十境、すなわち趙秩が書き残した十か所の景勝地とは以下のとおりである。大内から宮野にかけた風景が描写されている。

1氷上(ひかみ)の滌暑(じょうしょ)(大内氷上)

2南明(なんめい)の秋興(しゅうきょう)(大内御堀乗福寺)

3象峰(ぞうほう)の積雪(大内川向)

4鰐石(わにし)の生雲(せいうん)(鰐石)

5清水(せいすい)の晩鐘(宮野下恋路清水寺)

6初瀬(はつせ)の清嵐(せいらん)(宮野江良)

7虹橋(こうきょう)の跨水(こすい)(天花)

8猿林(えんりん)の暁月(古熊)

9梅峯(ばいほう)の飛瀑(法泉寺)

10温泉の春色(湯田)

  ◇乗福寺

十境詩は漢詩で作られている。このうち乗福寺を舞台にした漢詩を紹介する。なお、漢詩の注釈については山口高校の教諭をされた荒巻大拙氏の著作「明使趙秩と山口十境詩」に詳しい。

この乗福寺は22代の大内重弘が建立し、大内氏の菩提寺のひとつとなっている。境内には大内氏の祖と伝えられる百済国の琳聖太子の供養塔のほか、上田鳳陽先生の墓もある。

上記2の「南明(なんめい)の秋興(しゅうきょう)(大内御堀乗福寺)

(南明とは南明山乗福寺のこと。秋興とは秋にもの思うこと。)

金玉樓臺擁翠微

南山秋色兩交輝    

西風落葉雲門静

暮雨欲來僧未完帰

金玉の桜台、翠微を擁し

南山の秋風、両(ふた)つながら輝を交ふ

西風に葉を落とし、雲門静かなり

暮雨来らんと欲して、僧未だ帰らず

この詩を読んだとき、乗福寺の住職は明国に渡っており、不在であったという。

◇倫子の方

大内氏の中で最も隆盛を誇り最後の当主となった大内義隆だが、一時は厚い信頼を寄せた家臣、周防守護代・陶晴賢(すえはるかた)の謀反から自刃に追い込まれた。この義隆の側室が倫子の方だ。義隆の重臣であった長門の内藤興盛の娘である。

義隆の没後、倫子の方が哀しみを紛らわせるために出かけたところが上記8の猿林(えんりん)で、現在の上山口駅の南方、鰐石川の東にある古熊神社一帯の山林だ。

ここには父・内藤興盛の墓もあり、義隆との間に生まれた鶴亀丸を連れて訪ねたようだ。

猿林(えんりん)の暁月(古熊)

曙色初分天雨霜

凄凄残月伴琳琅

山人一去無消息

驚起哀猿空断腸

曙色初めて分(あきら)かなり 天の霜をして雨(ふ)らしむると

凄々たる残月、琳琅を伴ふ

山人ひとたび去って消息なし

驚起すれば哀猿(あいえん)空しく、腸(はらわた)を断つ

当時はまだ野猿がいたのだろう。静寂の山林に響く野猿の鋭く甲高いなき声。断腸の哀しみを抱く胸に呼応する。

断腸の哀しみとは何を指すのか。

作者趙秩は大内弘世に招かれた時、日本が南北朝時代の混乱のため博多に抑留されていた。遣日正使としての役目を果たすことができないまま無念の日々を送っていた時のことを思い返していたのかもしれない。

倫子の方も断腸の哀しみの中で、我が子を連れ古熊・猿林を訪れていたようだ。

 

 昨年(2021年)11月、山口・竪小路で行われ、我々の同窓澁谷氏、香原氏が活躍した「まちなみアート」。

イメージキャラクターに選ばれたのが女優・タレントの青山倫子女史であった。

倫子さんには山口との縁が続いてほしい。

(学23期kz)