石門心学と高商・竹中教授

◆日本のマックス・ウェーバー

石門心学の祖である石田梅岩。江戸時代、京都の農家の次男に生まれた。商家への丁稚奉公の中で独自に勉学を重ね、45歳で講席を開いた遅咲きだ。

勤勉、貯蓄を唱え、正面から商人道の是を説いた石田梅岩。後に「石門心学」として多くの者の心を捉えた。

石門心学は防・長二州の私塾でも大いに流行ったとされ、長州藩は天保6年(1835年)から藩校の教目に石門心学を取り入れている。

天保の世は一揆が多発していた。長州藩でも天保2年に「長州天保大一揆」が起きており、民衆の教化に心学を用いたのだ。

後世に与えた影響の度合いという点で、石門心学は広瀬淡窓の大分・咸宜園(かんぎえん)や緒方洪庵の大阪・適塾を凌ぐとの評価もある。

石田梅岩が生まれたのは1685年。梅岩と同様に、勤勉と倹約・貯蓄に近代資本主義の成り立ちを見たのがM・ウェーバー。ウェーバーは1864年生まれであり、梅岩は彼より200年も前に生まれている。

◆勤勉と貯蓄

梅岩が講席を開いた時は、元禄バブル後、世の中が乱れ、飢饉や百姓一揆が起きていた時であった。徳川吉宗の下、柳沢吉保による享保の改革で倹約令が出される中、勤労と節約が身を救い、世の中を救うとする道徳哲学は民衆の心にも浸透しやすかったのだろう。

「人、三刻働きて三石の米を得る。われ四刻働きて三石と一升の米を得る」、また「諸行即修行」として勤勉を説いた。

また健康悪化で雑炊「二食」となったことを契機に二食を続け、「残った一食が乞食一人を養う、これ実(まこと)の倹約」とし、木一本、菜一葉でも粗末にせざれば民の辛労を助く、と倹約を心掛けた。

◆「賤商論」の否定

もう一つの柱が商行為の是を説いたことだ。当時は儒学が一般的な教学であり、中でも家康以降朱子学が基本の教えとなる。この中では「士農工商」いう固い身分的な階層制度が社会に介在していた。

しかし梅岩の思想は、「人の性(さが)は天から受けし「小天地」であり、身分の違いなく四民平等」であること、また商人の利益は「天理であり武士の俸禄と同等」であるとし、商行為を劣等視する「賤商論」を否定した。

当時からすると驚くべき革新的な主張であったろうし、商人・町人は拍手喝采したに違いない。

こうした思想は幕府側の治世の通念と異なるが、幕府はこうした思想を抑圧しなかったのか。

抑圧するどころか、なんと幕臣も石門心学の門下に入り、心学を学んでいるのだ。

梅岩の話は肩が凝らない。講席への参加には銭を求めず、儒教をベースとしながらも、仏教や神道のほか市井の俗書も「心の磨ぎ種(とぎぐさ)」として活用している。取り上げる題材も、家の後継ぎ問題、嫁姑の問題など身近なもので、書物はあくまでも参考書であり、各人それぞれ自分の頭で考え、自分なりの解を得ることであることを重視したという。

このため石門心学は商人の道、町人の道というだけではなく、「人の道」を説くものとして武士階級にも賛同者が広がっていった。

◆心学の広がりと「三方よし」

梅岩は自らの思想を広める弟子にも恵まれた。手島堵庵(とあん)は石田梅岩の最も良き祖述者となり、石門心学の普及に大きく貢献した。

また堵庵の弟子・中沢道二(どうに)は道話者として優れ、石門心学の普及に努めており、寛政の改革を行った松平定信の側近も中沢道二の門下に入ったという。

石田梅岩には「実(まこと)の商人は先(方)も立つ、我も立つことを思うなり」との教えも残っており、これが近江商人の「三方よし」につながっていったともされる。

◆山口高商・竹中靖一教授

石田梅岩の研究では山口高商教授に竹中靖一(やすかず)先生がおられた。竹中先生は「石門心学の経済的思想」で学士院賞を受賞されている。

竹中先生は大阪生まれで京大・経済を卒業。在学中に恩師から石田梅岩の経済思想を学び、心惹かれたという。昭和7年(1932年)に山口高商に講師として赴任、昭和9年(1934年)に教授に就任。この間山口高商の沿革史編纂主任を務め、その間経済思想史への関心を強めたという。

先に挙げた先生の著書は石門心学について多角的な視点から記述した800頁の大著である。

(学23期kz)

追記

私の学生当時、M.ウェーバーの講義を受けた。先生の名前は「中村貞二」先生。

Web検索してみるとヒットした。

兵庫・神戸市生まれ。

1953年(昭和28年)に山口大学経済学部卒。

1958年に一橋大学・大学院社会学研究科博士修了。

山口大学助教授から東京経済大学教授へ。2002年同大学を退官。同大学名誉教授、とある。

講義を受けたのは、中村先生が山大経済の助教授時代だったのだ。

中村先生に石田梅岩の評価を伺ってみたかった。

人間ドックのすすめ②

昨年(2021年)2月、私は人間ドックを受け、腹部大動脈瘤が見つかった。破裂すると、命の危険がある恐ろしい病気だ。私は大学病院に行き、手術を受けることになった。

◇大手術の日程

6月30日、再び、大学病院に行った。前回の診察で青年医師から減量を指示されていた。体重が重いと、手術時、負担が大きい。76㎏の体重を72~73㎏に減量するようにー。私は素直に従い、減量に努めた。この日の体重は73・6㎏だった。

大学病院の検査・診察は2回目だ。時間がかかることはわかっている。文庫本を持参し、長期戦に備えた。午後2時、血液検査。午後4時、頭部のMRI検査。

夕方、ようやく青年医師の診察を受ける。入院日と手術日を告げられた。

7月9日入院。7月13日手術。

 手術は心臓血管外科の医師4人が担当するという。手術時間は4~6時間。大手術だ。退院後、1カ月は自宅療養となる。

 入院日に合わせ、仕事を前倒しして進めた。

      

◇恐ろしい体験談

入院前、友人に腹部大動脈瘤手術を受けることを知らせた。

すると、友人は恐ろしい体験談を語り始めたではないか。

 妻が倒れる前夜、夫婦は談笑しながら、夕食をともにとった。

妻は食欲もあり、普段とまったく変わりがなかった。

翌朝を迎えた。朝食後、友人は「行ってくるね」といって先に会社に向かった。 

妻も仕事をしており、遅れて出たそうだ。

夕方、妻は帰宅した。妻は用事があって近くの知人宅を訪れた。玄関先で立ち話をしている最中、妻が突然、倒れこんでしまった。驚いた知人は直ちに救急車を呼んだ。妻は大学病院に運ばれた。

 友人は仕事を終え、帰宅した。書置きがあり、急いで大学病院に駆け付けた。だが、妻はすでに死去していたという。

 死因は大動脈瘤破裂・・・。

妻も友人も大動脈に瘤ができていることをまったく知らなかった。

定期健康診断では見つからなかったそうだ。

          ◇お守り持参で入院

7月9日、入院の日。三女が運転する車で大学病院に行く。島根県出雲市在住の兄から送られてきた神社のお守り、そして東京都渋谷区在住の次女から届いた八幡宮のお守りを持参する。入退院受付で手続きを済ませ、病棟へ。夕方。妻と同席で、青年医師から腹部大動脈瘤手術の説明を受ける。

大手術の日が迫って来る。手術に備え、絶食となった。《続く》

(鳳陽会東京支部 S)

上田鳳陽先生

山口大学開学の祖とされる上田鳳陽先生。
名は上田茂右衛門纉明(もうえもんつぐあき)。長州藩下級藩士・宮崎猪兵衛在政の三男として山口大内氷上に生まれる。
山口の中心部に近い大内氷上。山口市の北部に東西二つの鳳翩山(ほうべんざん)があり、号・鳳陽の「鳳」は鳳翩山から、また「陽」は南を意味するため、山の南に位置する出生地・大内氷上を指すとする説がある。
しかし、「鳳」には優れた人物の意もあり、また「陽」は光の差すところでもあることから、「鳳陽」の号には、もっと意欲的な意味が込められていたのかもしれない。

幼少の頃、上田平右衛門清房の養子となり、清房亡き後。上田家を継ぐ。
幼いころから学問、こと文学を好んで学んだという。
寛政12年(1800年)、32歳にして藩費生として萩の藩校明倫館に入学し、文化6年(1809年)まで9年にわたり儒学や国学を学ぶ。
明倫館には10代半ばに入学、学びの規定年数は3年というのが通例であるのに照らし、異例に長く学んだようだ。

◆山口講堂小史
9年の修学を経て、齢40を超え地元山口に帰っている。
山口に戻った当時、学び舎はどのような状況であったのか。
日本海に面した萩には藩校明倫館があり、他方、瀬戸内海に面した三田尻(防府)には船頭から医者に転じた名物の漢学者・河野養哲が開所した越氏塾(えっしじゅく)があったが、内陸の山口は本格的な学問所はなかったのだ。
大内家24代弘世(ひろよ)の時代が始まる前は一農村だった山口。京に上り、京の町に感銘を受けた弘世は、山口の地形が京都盆地に酷似していたことから、町の通りに大路、小路と京風な名前を付し、山口を「西の京」として造り変える。
15世紀後半には京都を舞台にした応仁の乱もあり、乱を逃れた公家や文化人が西の京に身を寄せ、また大陸からの先進文明を取り入れたことから山口は文教の中心地となっていったが、36代大内義隆が家臣の謀反により大内家が滅びると山口も衰退し、意欲ある若者を惹きつける学び舎はなく、学問する上での「空白地」になっていた。
このため鳳陽翁は郷里山口で学問所創設に注力し、藩からの資金下給に加え近隣の豪商や富農の力添えを得て、文化12年(1815年)、中河原に私塾「山口講堂」を建て、山口に住む藩士の教育に当たったという。鳳陽翁47歳の時であった。

この「山口講堂」が山口大学の「淵源」であり、山口教育の礎となった。
山口大学8学部中、最も古い歴史を持つ経済学部の前身である山口高商の校歌に「仰ぐは鳳翩、臨むは椹野 基を文化の遠きにおきて 時世の進みに伴ひ来る」の「文化」とは講堂の開設された年(文化12年=1815年)の元号である。
文化12年といえば、どのような年であったのか。
杉田玄白が解体新書を著し、伊能忠敬が日本の測量を続けていた時に当たる。
外国に目を向けると前年の1814年に英国人スチーブンソンが蒸気機関車を制作し、産業革命の中で新たな技術が生み出されていた時に当たる。
この山口講堂は、萩から藩主が参勤交代の途中に立ち寄る先とされ、藩主はそこでの武道の稽古や勉学の様子を観閲したという。

明倫館の弟分、山口講習堂
当時は天変地異もあり、財政は逼迫、一揆も多発しており、藩の人材育成が急務であった。
1845年に鳳陽は藩の賛同を得て山口講堂を文武の総合学舎とする山口講習堂と改称し、萩の明倫館の支校的存在になっていく。
万延元年(1860年)には三田尻(防府)の越氏塾とともに、山口講習堂も明倫館の直轄となり、「山口明倫館」と改称された。このため諸役は明倫館から派遣されることになり、こうして私塾から「藩の学び舎」になったのであり、この翌年、1861年に長山(亀山)に移転している。

山口講習堂の存在感が決定的に増したのは、文久3年(1863年)を契機とする。この年に馬関戦争、すなわち関門海峡を封鎖し外国船砲撃による攘夷が決行され、それを指揮するため藩庁が萩から山口へ移転したのであり、翌年には城も移転する。これにより、政治と軍事の機能は山口へ、また文教も山口へと移転する。その後、明治3年(1870年)に維新政府の教育改革で山口明倫館は山口中学となるに至る。

鳳陽翁の人となり
学問を好み、博識であったという。山口講堂の開所にこぎつけた後、講堂の運営を門人に任せ、国学研究のため萩の明倫館で学び直している。
好奇心は旺盛、食欲も旺盛、健脚で髪は晩年まで黒々としていたようだ。また、老いてもなお読書の折には、眼鏡の助けは要らなかったという。
情緒豊かな先生であったようで、友人が訪ねてきた折には御馳走でもてなし、友人が去る時には、後姿が見えなくなるまで見送るのを常とした。
喜怒哀楽豊かに本を読んだようで、読んでは涙を流し、苦しきと思しき者には大声で励まし、悪人と思しき者を叱り飛ばしたため、何事が起きたかと度々近所の住人が駆け付けたという。
鳳陽翁は嘉永6年(1853年)、ペリー来航の年に85歳で没する。
墓は大内家の菩提寺のひとつである乗福寺にあり、毎年命日の12月8日には「鳳陽忌」が執り行われており、山大の学長や理事、鳳陽の有志代表諸氏が集い供養を行っている。
(学23期kz)
参考文献:山口大学「山口大学の来た道」 

人間ドックのすすめ①

◆腹部大動脈瘤     

昨年(2021年)2月、私は首都圏のクリニックで人間ドックを受診した。

私は元気だ。健康そのものに見える。だが、親しい知人(彼もまた、元気だった)が突然、脳出血で緊急入院した。健康を過信してはいけないと実感し、2年前から人間ドックを受けるようにしている。

 薄暗い検査室。腹部エコーを担当する女性が静かに告げた。

 「腹部大動脈瘤が昨年より大きくなっています」

 昨年の腹部エコーで腹部大動脈瘤が見つかった。

しかし、自覚症状はない。元気いっぱいだ。よって昨年の段階では、さして気にせず、放置していた。

 健常者の腹部大動脈は直径2㎝程度という。私の大動脈には瘤(こぶ)がある。昨年は直径5・5㎝だったが、今回は6・1㎝に拡大しているという。

 検査担当の女性はこういった。

 「先生(医師)からお話があると思います」

 人間ドックの検査項目をすべて終えた。最後に医師との面談がある。

 男性医師が厳しい口調でいった。

 「腹部大動脈瘤が大きくなっています。放置すると、破裂しますよ」

 破裂すると、命の危険があるという。

  「大学病院などで精密検査を受けてください。おそらく手術になるでしょう」

 これはおおごとだ。帰宅してネットで「腹部大動脈瘤」を検索した。

 無症状で、ある日、突然、破裂する。恐ろしい病気だ。これは放置できない。

 地元の医院に行く。かかりつけ医の女性医師に腹部大動脈瘤の件で、大学病院への紹介状を書いていただくようお願いする。その場で紹介状を書いてくれた。予約は自分でとるつもりだったが、女性医師は「こちらで予約をとりましょうか」という。予約をとっていただけるのなら、こんなありがたいことはない。受診希望日を4件ほど記す。待合室で待機する。しばらくして予約がとれた。受診日は5月19日に決まった。

大学病院

 朝、車で大学病院に行った。駐車場に車を停める。

午前8時、初診受付に行く。診察券を発行してもらい、心臓血管外科外来受付へ。待合室で待機する。患者が多い。

 初日なので診察だけかと思っていた。ところが、多くの検査を受けることになった。血液検査、心電図、レントゲン、免疫力、血管弾力性、心臓、そして造影剤を投入してのCT検査・・・。

 それぞれの検査で長時間の順番待ち。ああ、文庫本を持ってくればよかった。お昼を過ぎたが、CT検査を控えているので、昼食をとることはできない。

 午後4時、CT検査を行った。その後、再び、心臓血管外科外来の待合室で待機する。夕方、ようやく私の順番が来た。ドアをノック。診察室に入る。白衣の青年医師が座っていた。驚くほど若い。若いが、落ち着いている。経験に裏打ちされた自信が漂っている。信頼できる医師と直感した。

青年医師は単刀直入にいう。

 「このまま、放置すると、破裂するおそれがあります。投薬による治療はできません。手術しましょう」

 「はい。わかりました」

ふたつの手術方法

 続いてふたつの手術方法について図解を示しながら、ていねいに説明する。

1.人工血管置換手術 

腹部を胃袋のあたりからへその下まで20~30㎝切開する。腹部大動脈の上下を止血し、動脈瘤にメスを入れる。動脈瘤を開く。内部の血栓などを取り除き、きれいにする。人工血管を装着する。その後、動脈瘤を使ってラッピングするように人工血管を包む。

2.ステントグラフト内挿手術

日本では2006年にステントグラフト製品が認可された。新しい手術方法だ。人工血管にバネ状の金属を取り付け、これを細かいカテーテルの中に格納する。脚の付け根を4㎝切開。動脈内に挿入する。動脈瘤まで運び、ステントグラフトを留置する。

 ステントグラフト内挿手術は腹部を切開しないので、体への負担が少ない。手術後、短期間で退院できる。だが、新しい手術方法なので手術してから10年後、20年後の検証データが少ない。患部から血液が漏れて動脈瘤が再び、ふくらむ心配がある。その時は再手術が必要となる。10年~20年後といえば、私は80歳~90歳だ。果たして手術に耐える体力が残っているだろうか。

 青年医師は人工血管置換手術を勧める。私に異存はない。

その場で人工血管置換手術をすることを決定した。

  次は手術の日程だ。大動脈瘤を放置すれば、するほど、破裂する確率は高まる。青年医師は6月に手術をしましょう-と提案した。だが、私は新型コロナのワクチン接種の日程(2回目の接種が6月16日)などを考慮して7月中旬を希望した。結局、6月30日に再度、検査と診察を行い、手術日を決定することになった。

この日、検査・診察が終了したのは午後6時。朝の8時から10時間、大学病院にいたことになる。長い、長い1日だった。《続く》

 (鳳陽会東京支部 S)

寄付の文化 その3

◆寄付のかたち

「寄付後進国」の日本ではあるが、様々な取り組みもなされている。

生協を通じてユニセフ基金に寄付される取組みは1984年に始まっている。

また一食当たり20円(途上国の学校給食1回分に相当)が途上国に寄付されるテーブルフォーツー(TFT)。これは2007年から始まった日本発の取り組みだ。

最近では各種寄付行為が社会に浸透してきたようにみえる。

具体的な例を挙げてみよう。

・ふるさと納税

・クラウドファンディング

・遺言による遺贈寄付

・ポイント寄付

などがある。

また、12のジャンルから自分で寄付のポートフォリオが選べるsolidというのも出てきた。

また香典返しを慈善団体などに寄付する取り組みもなされ始めたという。もちろん香典を頂いた方に、故人の意志であることを事前に伝えておく必要はあるが。

「寄付をしよう」と構えなくても、料金を払う際に少額の寄付ができる制度もある。例えば、帰省する際に購入する航空券のインターネット決済の際、「寄付」のチェックボックスがあり、チェックを入れるだけで簡単に100円を寄付できるようになっている。最近ではチェックマークを入れないと、私自身、後味の悪さを覚えるようにさえなった。

◆遺贈寄付

終活の一環でまとまった額を寄付する手もある。

日本の高齢者は金持ちが多い。

統計では金融資産の3分の2が60歳以上の高齢者に帰属していることになっている。日本人の金融資産残高は死ぬ直前がピークになるようで、こうした国民は世界でも稀と言われる。

笑い話をひとつ。

今では故人となった長寿双子姉妹の金さん・銀さん。100歳を超え、お迎えが近い年になった頃でも「老後が心配」と呟いていた。

カネは墓場まで持って行けない。残された家族が相続税を払うようなことになる場合、この遺贈寄付という大技がある。

人生最後の締め括りに、母校や公的研究機関、お世話になった自治体、あるいは活躍して欲しいNPO法人に、遺言で寄付を申し出るのだ。

◆コロナ禍の困窮学生支援

また、今回のコロナ禍では、大学生諸君にもしわ寄せがいった。

困窮学生の救済は行政も行う。行政が行う支援は大がかりであるが、その反面、時間がかかり、しかも支援してほしい先に支援が向かうとは限らない。

これに対して個人的な寄付は、個人の判断で手を差し伸べたい先にピンポイントで支援を申し出ることができる。

◆魅力的な税額控除

最近思うところあって山口大学基金に少額ながら寄付することにした。

寄付を行った場合、確定申告で寄付控除を受けることができるが、母校では、学生へ修学支援する寄付金について「所得控除」ではなく、節税効果の高い「税額控除」が平成28年度以降適用できるようになっているのがありがたかった。

ただし課税所得金額が5000万円を超える富裕者の方はこの恩典に与ることができない。ご留意願いたい。

(学23期kz)

寄付の文化 その2

前稿では日本の寄付する人口や水準が欧米やアジアの韓国に比べて、かなり低いことを見た。本稿ではその原因について考える。

◆寄付する側の意識

寄付者の意識を見てみよう。ある程度の金額を寄付すればどうなるか。寄付した者は「富める者」とか「金持ち」とまではいかなくても、懐具合に余裕がある者とみられる。余裕がある者と見られたくないがために寄付を控えるという意識もあろう。懐具合を詮索されたくないのだ。

また金銭的に余裕があるとみられることで他人に付け入られ、面倒なことにもなりかねない。

このほか、自分が寄付しなくても、自分よりはるかに「金持ち」がいるだろうから寄付は「金持ち」に任せ、自分自ら寄付することは僭越ではないかとの小市民的な意識もある。

こうした他人(ひと)と比較する意識が寄付を控えることにつながっているかもしれない。

 ◆寄付を受ける側の意識

他方貧しき人も「貧しい」と悟られたくはないはずだ。プライドが高いからだ。

行政や慈善団体からではなく、個人から寄付を受ける場合はなおさらだろう。

寄付を施しという言葉に言い換えればよくわかる。

他人から施しを受けたくない。すなわち清貧の思想だ。

外国とは異なり、日本では都会にいても、また全国津々浦々の山村にあっても施しを受けたいと手を伸ばす貧者や子供はいない。

道端で投げ銭の箱を置いて施しを受ける浮浪者はほとんど見かけない。貧しき者も個人から施しを受けようとは思っていないのだ。

外国ではどうか。

アジアに行っても中南米に行っても、アフリカに行っても、車が信号で止まれば貧民層の子どもが寄ってきて寄付を求める。

欧米先進国でも寄付の小銭箱を置いた浮浪者の姿が結構見受けられる。

しかし日本の浮浪者は銭を求めることはなく、寄付の期待もしていない。彼らは自分たちなりに稼ぐのだ。空き缶を集め、古紙を集めて、場合によってはホームレスの自立支援のために作られたストリートペーパーであるビッグイシューを売ってやり繰りしている。

 ◆個人の努力の問題に帰される日本の格差問題

このようにみてくると、日本では個人が個人を助けることは一般的ではなく、そういう風習から縁遠いと言える。

そこには日本の社会が決定的な格差社会ではなく、同質で比較的平等な社会であるからかもしれない。

現在日本でも格差が社会問題にはなっているが、例えば外国に見られるような人種差別など、個人の努力ではどうしても超えられない深い溝が横たわった決定的な格差社会となっているわけではないからだ。

このため恵まれないものが出てくるのは社会構造の問題ではなく、個人の努力不足の問題とみなされがちだ。

こうした個人の努力の欠如に対する日本人の意識は冷ややかだ。

ここには、自分の身内や仲間に対しては無条件に暖かい手を差し伸べるが、他方、これ以外の「他人」、しかも「努力不足の他人」に対しては冷たい視線を投げる日本人の姿がある。

 ◆他者へ暖かいキリスト者

他方キリスト教では弱者を救済することで天国への道が開けるとする。

このため、日本では見られないような人的支援を行う。例えば難民受け入れがそうだ。また異なる人種の子であっても、養子として受け入れ、自分の子と分け隔てなく一緒に楽しげに育てている家庭は少なくない。

ここには宗教の力が要る。

 ◆寄付を巡る問題点

また、日本において寄付金が少ない背景として次のような点も挙げられる。

  • 明瞭な活動実態報告がなされず、支出明細も公開されないことが多いこと(多くの主婦がこの問題点を指摘する)
  • 助け合いや支援・貢献は労働や奉仕活動の形で行う場合が多く、金銭で行うことは例外的であること
  • 国や特定の団体に寄付した場合は寄付控除の適用を受けることができるが、その際には確定申告が必要となること

こうしたことも寄付する文化を阻んでいる要因となっているのではないか。

(学23期kz)

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会員の皆様からのご寄稿をお待ちしています。

学生時代のアルバイト、サークル活動、同好会、旅行、就職活動

などの想い出や最近の出来事などについて、メールをお寄せください。

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山大ボート部・青春の合宿生活

私は1970年代に山口大学経済学部に入学しました。そして吉田寮に入寮したのです。入寮早々、漕艇部(ボート部)の先輩が新入部員勧誘のため、寮にやって来ました。

 ー試漕会をやるから、来てみないか。

 私は中学・高校時代、柔道部でした。でも、「ボート部か。面白そうだ」と思って試漕会に行き、入部することにしました。1年生で入部したのは3人です。経済学部同期のA君も一緒でした。彼はのちに主将になりました。

◇同じ釜の飯を食う

 山口大学ボート部は春から夏まで合宿生活です。

宇部市の小野湖に合宿所がありました。合宿所には廊下が一本通っています。部屋には2段ベッドが置かれていました。部屋に壁はあるのですが、ドアはありません。廊下から全部、見通せます。  

宇部から山口までは遠い。公共交通も不便です。列車やバスで通学できません。ボート部員は乗用車やトラックに分乗して通学しました。帰りにスーパーに寄って食糧を大量に仕入れます。夕食は学生当番が作りました。カレーライスや豚肉と野菜のごった煮が多かった。たまに牛肉の差し入れがあって、その夜はすき焼きです。食堂でみんないっしょにアルミ製の容器で食べたものです。

◇エイトの朝練

 朝5時、起床。毎日、朝練をしました。エイトは、8人の漕ぎ手がオールでボートを漕ぐ。握力、体力、そして技術がないと、オールで水を捉えられない。オールがポンと浮く。こんな選手は戦力にならない。「お客さん」と呼ばれます。

私たちは「お客さん」にならないよう、日々、鍛錬していったのです。

◇いざ、全国大会へ

ボート部の最大の目標は8月に埼玉県・戸田で開催される全国大会です。

当時、新幹線は山口まで開通していません。大阪まで夜行列車で行き、大阪から新幹線で東京へ。列車を乗り継いで戸田に到着します。戸田で2週間、直前合宿を行い、最後の練習に励みます。こうして全国大会に臨んだのです。

だが、全国大会に出場するチームは強豪校ぞろいです。山大は予選敗退でした。

 その後、山大ボート部は実力を高めていきました。3年後、中四国大会で優勝しました。

◇創部50周年

 山大ボート部が創部50周年を迎えたとき、湯田温泉で総会が開かれました。私は参加しました。世代を超えて150人が集まりました。「よくボート部がここまでになった」と感慨深かった。みんな、あの合宿生活をともにした仲間です。世代を超えて交流しました。

 そうですね。ボート部の活動が、会社の仕事に活かされたか、どうか。役立ったことはないでしょう。また、ボート部に入って人生が飛躍したわけでもない。

でも、今、振り返ってみてボート部に入ってよかったと思っています。青春時代にいい経験をした・・・。 

(元山口大学ボート部員 O)

寄付の文化 その1

 寄付金といえば、米国の有名私大で羨ましいほどの寄付金を集めているのはよく聞く話だ。寄付金とその運用益で収入の半分を賄うという。何とも羨ましい限りだ。欧州の大学でも然り、アジアのトップ大学でも結構な寄付金を集めているという。

片や我が国の大学は独法化以降、国からの交付金が削減されたため財政が逼迫しており大口寄付金が欲しいところだが、なかなか寄付が集まらない。

最近ではコロナ禍で学生諸君のアルバイト先が限られており、また学資の出し手である両親も解雇や所得減になっていることから困窮学生が出てきた。大学でも学生支援に乗り出してはいるが、支援余力に限りがあることからホームページなどを通じて寄付を募る案内を出している。

◆宗教と寄付行為

 日本人の間では、寄付行為が社会に浸透しているとは言い難い。寄付はキリスト教信者の間で目立つ感がある。実際、キリスト教において寄付は愛の教えの端的な実践とされるのだ。

では、寄付行為はキリスト教に特有か。

否、ユダヤ教やイスラム教でも貧民救済は神の義にかなう贖罪の行為とされる。

仏教においてはどうか。

寄付、いわゆる「喜捨」は三法(仏・法・僧)を護持し、財への執着を解く功徳ある行為とされる。

またヒンドゥー教でも僧への施しは功徳ある行為となっている。

◆日本での助け合い

しかし、日本にも助け合いの精神はある。赤い羽根募金や交通遺児への募金のほか、阪神淡路大震災、東日本大地震や台風などの災害時には多くの義援金、救援金が集まった。

少なくともバブル期までは国際社会から「金持ち日本」と見られていた我が国。寄付人口や寄付金額の水準は他の先進国と比べてどのような水準にあったのか。「金満ニッポンでの寄付行為」は、他国と比べ遜色なかったのか。

事実は大きく異なっている。

◆寄付の国際比較

寄付白書(2017年、ファンドレイジング協会)をみてみよう。

以下、国別に

人口に占める寄付した者の割合、括弧書きで当該国のGDPに占める寄付金額の割合を示す。

米国:63%(1.44%)

英国:69%(0.54%)

韓国:35%(0.50%)

日本:23%(0.14%)

米・英では3人に2人が寄付している。アジアの韓国をみると3人に1人が寄付しており寄付人口は欧米に比べて少ないが、寄付金額のGDPに占める割合をみると英国と比べても遜色ない水準にあることがわかる。

では日本はどうか。

寄付した人は4人に1人、寄付金のGDP比は米国の10分の1、韓国に比べても4分の1ほどにとどまっている

バブル時代からこうした傾向は変わっていないという。

◆寄付の報道 

大口の寄付があると、時々ニュースで取り上げられる。

先日も宮崎県のN市で精肉・飲食業を営んでいた方が事業売却した際、「地元の方に支えられ、共に歩いてきた感謝の気持ち」として、市に8億円余りを寄付した美談が報じられていた。

高齢者による自治体への「匿名」の大口寄付は時々報じられる。またタイガーマスクのランドセル寄付というのもあった。

こうした寄付行為は日本において一般的とは言えない珍しい行為であるがゆえに希少で価値あるニュースとして取り上げられるのではないか。

 ◆渋沢栄一の「泥棒袋」

ただ日本には私財を投じるにあたり、「分相応に」、また「付き合いで」金一封を、という文化もある。

ここに目を付けたのが渋沢栄一だ。まず隗より始めよと渋沢が行った寄付集めが語り草となって残る。

渋沢は自ら「渋沢栄一、金●●万円寄付」と書いた奉加帳と一緒に大きな鞄を持ち歩き、相手が逃げにくい形で寄付を迫った。寄付を迫られた者は面と向かって断わりにくい。寄付者は渋沢が携えていた大型鞄を陰で「泥棒鞄」と呼んでいたという。

また渋沢は、救貧・防貧の資金集めに、現在の帝国ホテル近くにあった貴族の社交場「鹿鳴館」でチャリティーバザーを開催し、上流・金持ち階級を相手にバザーへの出品を促し、資金を集めた。こうした華やかな催事会場では、地位ある参加者は互いに見栄を張りたがる。見栄を競わせ、これで結構な額を集めたという。

(学23期kz)

メシヤ 我が想い出 その4 利平

学生時代に通ったメシヤ。春来軒のように、当時にも増して流行っている店があるのは嬉しいことだ。数々の危機を乗り越えてきたに違いない。
しかし、一番の繁華街だった道場門前や湯田温泉界隈の名店のほとんどが蒸発してしまったのは何とも残念だ。
今回も、昔お世話になった店を50年ぶりに振り返ってみたい。

◇利平
湯田温泉街から少し入った落ち着いた店で、「オトナ」が行く店だった。学生が通う一般食堂とは異なり、少しばかり敷居の高い店だった。
暖簾をくぐるにあたり、暗黙の了解があったような気がする。

1. 学生と悟られない身だしなみで入店すべし
2. 連れを伴うべし
3. 友人見つけた際には目礼にとどめるべし
4. 騒ぐべからず 大声での談笑は慎むべし
5.   店内での割り勘精算は控えるべし

 ◇雑炊とシナ天
店の看板料理は雑炊だ。雑炊が出来上がるまで結構時間がかかる。この間、「つなぎ」として注文するのが「シナ天」だった。このシナ天、正体をとどめた具材はほとんど見当たらず、小麦粉を練ったものを油で揚げて膨らませた、ちぎり揚げだ。かすかに魚介類の風味があり、一緒に付いてくる上品な小皿に入った香草塩もどきに、少々絡めて食す。
結構ビールに合うのだ。
抵抗のない食感。それもそのはず、中をみるとスポンジ状になっている。我々は皮肉も込めてその一品を「空気の天ぷら」と呼んでいた。
メインの雑炊。
運ばれてすぐは煮立っており、手が出せない。少しずつ冷やしながら、すぼめた小口に運ぶ。
定食のどんぶり飯を食うが如く、ガッツリというわけにはいかない。
この雑炊、育ち盛りの男子学生にとって物足りないのは分かっている。しかし、おとなしく我慢していた。
これも「オトナ」の流儀。暗黙の了解の一つであった。
(学23期kz)