帆立尽くし

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年12月 トピックス】

<岡山支部・岡山Bさんからの投稿>

今日はとあるところで“帆立尽くし“(安くて旨し)
先ず“帆立弁当“ ごろごろ感の野菜が旨い 帆立の味が染み込んだ炊込ご飯はもとより♬

次は“帆立特蕎麦“この“特“とは特別盛りは勿論、お得な盛りとくる
新蕎麦で自家製…
但し、“目黒のさんま“ではないが、さんまは七輪で肴からの脂も熱量にして焼き上げる、蕎麦はもっともっと欲しいと思う位、「軽め」に有り難さがありそうだ…(笑)

つけ出汁は帆立の旨味が凝縮されている 小ぶりの帆立で出汁をしっかり取り、衣をつけカラッと揚がったデカい帆立で満足をさせようとする二段仕掛けです
鴨南蕎麦と同様、鴨も帆立もうまい葱を背負ってこないといけないが、この蕎麦出汁の底に潜む斜めに包丁の入った葱は噛むと少しねっとり♬ これまた旨い♬

“とあるところの蕎麦“喰っても、喰ってもまだ蕎麦がある 帆立出汁でわんこそば特盛のお饗しを頂戴した感じ
禅宗の教えで“唯足るを知る“とは上手く言ったものだ

(岡山 B)

第5回長州歴史ウォーク・幕末風雲上野編 開催

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年12月 トピックス】

鳳陽会(山口大学経済学部同窓会)東京支部は令和6年11月30日、東京・上野周辺で第5回長州歴史ウォーク・幕末風雲上野編を開催しました。

大村益次郎(長州)が指揮する新政府軍と徳川幕府を支持する彰義隊が激突した現場を巡りました。

◇快晴の西郷像前で再会

この日は朝から快晴となりました。上野公園のイチョウが明るい陽光を浴び、黄金色に輝いています。

午前10時、西郷隆盛像前に同窓生らが集合しました。

笑顔で再会を喜びます。

西郷像前

写真撮影の後、移動して塩塚保支部長が新政府軍と彰義隊の戦いの背景と概要を説明。

彰義隊の犠牲者を悼む「戦死之墓」に向かいます。参加者の中に僧籍の男性がいて読経。皆で手を合わせました。

◇戦いの現場を巡る

 慶応4(1868)年5月15日朝、上野戦争が始まりました。

いざ、最大の激戦地、黒門跡へ。

西郷が指揮する新政府軍(薩摩軍が主力)と彰義隊が激突した現場です。

彰義隊は黒門前に前線基地を設営しました。高台には大砲を据え、鉄砲隊を配備しています。いかに精強の薩摩軍といえ、容易に前線基地を突破できません。新政府軍は苦戦しました。

 続いて清水観音堂へ。高台に建っており、眺望が開けます。

この周辺でも激戦が繰り広げられました。当時の様子を記した錦絵が堂内にかかっており、参加者は錦絵を眺め、戦いを偲びます。

彰義隊本営跡を歩き、寛永寺を参拝しました。

寛永寺前

◇長州軍の戦い

長州軍(約200人)は、最新鋭の銃を装備。新政府軍の他藩の兵士ともに江戸城から団子坂下に進撃していきます。彰義隊が立てこもる寛永寺の西北、三崎坂を攻め上る作戦です。

ところが、当日は激しい雨が降っていました。三崎坂は雨でぬかるんでいます。

進軍は困難を極めます。

 一方、彰義隊は坂の上に防衛陣地(約150人)を築きました。

坂の途中の寺院にも伏兵を配置して迎え撃ちます。新政府軍が前進すると、横の寺院から伏兵が銃撃。日本刀をかざして斬りかかってきます。新政府軍の大村藩(長崎)の隊長は重傷を負い、戸板に乗せられて戦線を離脱しました。

 戦いの現場で解説を聞き、長州軍の奮闘に思いを馳せました。

 団子坂下に到着。さあ、昼時です。

気の合う仲間とそば屋、中華料理店、韓国料理店などに入り、昼食。ビールを飲みながら、談笑するグループもありました。

◇文豪たちの旧居跡

 午後は団子坂を上り、文豪、森鴎外の旧居跡へ。

森鴎外は山口に近い津和野出身です。少年のころ、上京し、東京大学医学部を卒業。ドイツに留学し、軍医の道を進みます。また、精力的に執筆を続けました。

もうひとりの文豪、夏目漱石も近くに住んでいました。

旧居跡で代表作「坊ちゃん」を巡る逸話が紹介されました。坊ちゃんに登場する人物のモデルとなった教官が松山から山口高商(山口大学経済学部の前身)に赴任。校長を務めたというのです。本人は否定したようですが、同窓生は興味深げに聞き入っていました。

◇アームストロング砲

 東京大学周辺を歩き、赤門へ。加賀藩が徳川将軍の姫を迎え入れたとき、建築された門です。今もなお、江戸時代の雰囲気を色濃く残しています。

東大赤門前

 新政府軍の佐賀藩は東大が建学された高台にアームストロング砲を配備しました。

彰義隊が立てこもる寛永寺を砲撃。彰義隊に動揺が走ります。薩摩軍は黒門を突破。長州軍は三崎坂を攻め上ります。彰義隊は敗走していくのです。

 ゴールは黒門跡です。全行程を完歩した同窓生は晴れ晴れとして、達成感に満ちています。

一本締めで現地解散。

有志は上野の九州料理店へと流れていきました。この打ち上げがまた、楽しいのです。

同窓生の皆さん、来年、参加しませんか。

(鳳陽会東京支部事務局) 

長州歴史ウォーク(上野編)に参加して

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年12月 トピックス】

11月30日(土曜)、快晴。

師走直前にしては風もなく、暖かくさえある。

歴史散策の集合場所は西郷像の前。

内外からの観光客の皆さんが入れ替わり立ち代わり、西郷さんの姿をシャッターに収めていく。

それもそのはず、西郷さんの背後には青く澄み切った晩秋の空と見事に色づいたイチョウの葉。

集ったのは13期から71期までの経済学部同窓生のほか、人文学部、理学部、また歴史ウォークに興味をお持ちのゲストを含め、総勢30名超。

乳母車を押しての参加あり。

また、なかには和服姿の参加者もおられ、一行に華やぎが加わった。

散策コースは、午前中が新政府軍と彰義隊との間で繰り広げられた上野戦争の戦いの模様を振り返る趣向だ。

まずは西郷像の前で、記念撮影。

西郷像近くにある彰義隊の墓を振り出しにスポット、スポットを回ってゆく。

散策の説明者は東京支部の塩塚支部長。

なかなか堂に入った説明ぶりだ。

ところどころにクイズを織り込み、参加者の注意を逸らさない。

コースの振り出しは彰義隊の墓。

ここで激しい内戦が繰り広げられた。

墓の前で、お参加者の一人から、お経を唱えさせて頂きたいとの申し出があった。

真言宗智山派僧侶・鈴寿(今橋克寿)さん。

一週間前の日本寮歌祭でたまたま鳳陽会と席を同じくした旧制高知高・高知大の方で、歴史散策の前日夕方、参加申し込みをされた御仁だ。

壮絶な戦いで散っていった犠牲者へ、一同お経を拝聴し、鎮魂。

実にありがたい。

彰義隊が立てこもった上野の山にある東叡山寛永寺は、徳川将軍家の菩提寺。

京都御所の鬼門を守る比叡山延暦寺に倣い、江戸城の鬼門である東北を守るため、天海大僧正によって創建された寺で、東の比叡山ということで東叡山・寛永寺となっている。

上野戦争でも姿を留めた清水(きよみず)観音堂。

清水観音堂から見下ろした処にある不忍池。

これは琵琶湖に見立てて作られている。

次に回ったところが移築された根本中堂。根本中堂があったところは、今では噴水広場になっている。

この中に寒松院があり、慶喜公が江戸時明け渡しのために慶応4年2月にここに移り住み、同年4月に水戸に移るまで、「葵の間」で蟄居した。

次は谷中霊園へ。

ここには慶喜公の墓がある。

慶喜公は慶応4年7月に駿府に渡り、宝台院で謹慎。

明治2年に謹慎が解かれるが駿府に残り、約30年後に東京小石川に戻る。

大方の徳川歴代将軍は徳川家霊廟に葬られているが、将軍職を返上した慶喜公は神式での弔いを望み、徳川将軍家の墓所には入っていない。

徳川慶喜公墓所

谷中霊園を出た後は、長州軍が攻め上った谷中・三崎坂ルートを逆に辿り、坂を下り切った団子坂下で昼食。

午後からは、文豪の居住跡や大学周辺を回る、「谷根千」の文学・アカデミックコースだ。

団子坂下から団子坂上へ。

かつて団子坂には水戸の両側に菊人形の店が所狭しと並んでいたとされるが、今では見る影もない。

またこの界隈には文人も多く住んでおり、江戸川乱歩も団子坂で古本屋をやっていた。

乱歩の作品にも団子坂が出てくる(D坂の殺人事件)。

団子坂を上がり、左に折れたところに「観潮楼」と呼ばれた森鴎外の旧居跡・鴎外記念館が建っている。

記念館を背に遠くを見遣れば、ビルの隙間からスカイツリーが覗く。

鴎外が観潮楼に転居した後にはロンドン帰りの夏目漱石が住み、ここで「吾輩は猫である」を世に出す。

「猫の家」として知られているスポットだ。

ここから東京大学沿いに進む。

途中、赤門前で再度記念撮影。

最後のスポット東大医学部・鉄門と無縁坂へ

「鉄門」も「無縁坂」も鴎外や漱石の作品によく出てくる。

ここだったのか!

我々一行が鉄門付近に留まっていると、無縁坂を上って鉄門をくぐり、構内に入っていく学生君が何名かいた。

東大理三。

常人離れした、とんでもない秀才なんだろうな。

鴎外の「鴈」に出てくる無縁坂

東大病院から無縁坂を挟んだ反対側には旧岩崎庭園がある。

今回は時間がなく入館はしなかったが一度は訪れてみたいとことろ。

終戦後間もない時にはGHQのニューニューディーラーが多い民政局と覇権を争った保守派のG2、ジャック・キャノン少佐率いる秘密情報機関・キャノン機関があったところ。

松本清張が好んで描いたところだ。

平成時代には最高裁の司法研修所が建っていたが、埼玉・和光に移転した後、都立庭園になっている。

入園料は400円。

65歳以上は200円と半額になっているのが、ありがたい。

年間パスポートもあるという。1600円のところが、65歳以上800円。魅力的だ。

ここを含む都立庭園共通の年間パスポートはあるのか。

あった。4000円。

ここでも期待を裏切らず、65歳以上は2000円となっている。

(学23期kz)

「日本人論」の欠片 その12 八百万のカミ

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 12月トピックス】

◆Buddhist

国際線に乗ると入国する国によっては、入国カードに「宗教」について書かされる欄がある。

その欄には「Buddhist」と書くべし。その昔、先輩からはそう教わった。この記載がなければ「無宗教」ということになり、大変なことになる。

M.ウェーバーによると「宗教とは行動様式であり、人の行動を意識的、無意識的に突き動かしているものの総称」としている。

社会学者らしい。

ここには社会的な伝統や慣習や、道徳も含まれていることになる。

こうした定義からすると、「無宗教者」はどのような規範に基づいて行動する人間か見当がつかず、神を信じない無神論者はとある国の国家が定める宗教を破壊しかねない危険人物とみなされ、恐ろしいことになりかねない。

◆八百万のカミ

一神教の国に比べると、我が国では発言や行動はかなり自由だ。

一神教を縛る哲学や規則にとらわれなくてもよいからだ。

地動説を唱えようが、ガリレオのように異端裁判にかけられ、有罪にされるようなことはない。

学校の先生が進化論を教えようが、米国南部の先生のように、問題にされるようなことはない。

また無神論でも、当局に引っ張っていかれたり、寺や神社から問い詰められることもない。

一神教の世界では死刑にあったり、火あぶりの刑に処せられることもあった。

また、日本では、宗教的上の権威の併存状態があった。

すなわち、

儒学者が仏教を批判することもアリ。

国学者が仏教と儒学を批判することもアリ。

仏教がどのように反論しようと自由。

幕府は騒擾に発展しない限りタッチしなかったし、できなかったとされる。

自由な世界じゃないか。

◆可畏(かしこ)きもの

本居宣長はカミを「尋常ならずすぐれたる徳のありて可畏(かしこ)きもの」としている。

可畏きもの・・・

可畏(かしこ)きものとは、辞書には「深い敬意や恐怖を感じ、心から尊敬するという意味を持つ言葉」とある。

権威あるもの、感動を与えるもの、神々しいもの、それらは全て「神」となる資格を有しているということか。

自由な日本で、大らかな世界が生まれたのかといえば、そうはいかなかった。

イデオロギーが存するところには、「カミ」が担ぎ出され易い。

歴史を振り返っても、暴力的な運動や活動でさえ、それらを権威づけるために権威を有する者が「カミ」として「信者」によって担ぎ出されてきた。

この「カミ」には経典がない。

ここに「信者」による利己的で勝手な解釈が入り込む下地がある。

◆では、経典がある一神教の経典、聖書やコーランでは解釈が入り込む余地は無いか。

そんなことはない。

正統派と異端、正論・正義と俗論。洋の東西を問わず、これらの両論の争いが繰り広げられてきたのが人類の歴史だ。

(学23期kz)

懐かしい味、残業時の出前

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年11月 トピックス】

◆西新橋には多くのメシ屋があり、夕食によく食べていた。

しかしあまり行ったことはない。

どういうことか。

出前だ。

◆かつて大部屋で比較的長く勤務したことがあった。

ワンフロアーで70~80人いたろうか。

夕方6時頃になると、残業に備え、その日の2名の当番クンが残業する職員に一人づつ注文を取る。

●●から出前が届くと「●● 来ましたぁ」と当番君。

別の店▲▲から出前が届くと、「▲▲ 来ましたぁ」と大声で叫んで知らせてくれる。

◆大声で知らせないと、出前に気付かず、食べ時を逃し冷めてしまい、仲間うちで小さな問題になったことがあった。

中には小柄ながら、仕事部屋にふさわしくない、とんでもなく大きな声で叫んでくれる当番君もいた。

その時には、その「大声クン」、ただ者ではないかも、とは思っていた。

その大声クン、国会議員となり、昨今では年収の「壁の問題」で時の人となっている。

◆出前の注文も、簡単ではない。

ラーメン、うどんでもトッピングのバリエーションがある。

焼きそばでも硬焼きそば、柔らかい麺、ぱりぱり炒麺、具の大盛・普通盛、餃子を付けるか付けないか。

また、出前の注文のタイミングも6時、7時、8時頃に。

うどんやラーメンの場合、早く食べないと麺が伸びるが、ただ、中にはうどんやラーメンをすぐに食べず、ふやけさせ、太らせて食す猛者もいた。

◆当時は、土曜日は半ドン。

その時にも昼飯を出前でとっていた。

それから徐々に隔週で土曜半日となり、間もなく完全週休二日制となり、土曜の出前は自然消滅と相成った。

以前は職場の近くに、先輩から引き継いだ多くの名店があった。

役所、公社・公団があったため、つい数年前まで土曜も店を開いていた。

うどん、ラーメン、中華屋、イタ飯、蕎麦屋、寿司屋、和食、焼き鳥、焼きとん・・・

◆2020年の東京オリンピック開催が決まった頃からだろうか、飲食繁華街を含み一帯が再開発の対象となり、多くの老舗のメシ屋、居酒屋が姿を消した。

中には店を移転して営業を続けている昔の出前店がある。

ありがたい。

出前・・・若く働き盛りの頃の懐かしい、想い出の味。

最近では、用事を作っては店の大将や、出前を届けてくれていた昔馴染みの店員クンに会い、昔の味に出会うために足を運ぶことを楽しみにしている。

(学23期kz)

「おぴっぴ」は閉店
移転前
移転後 ハイカラな看板に

亀山の経専・経済学部、平川の経済学部を知っている数少ない先生、肱黒先生

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年11月 トピックス】

岡山支部 岡山 B(学32期) 

変動論の肱黒和俊先生といえば、70年、80年代当時の経営学科の看板教授であろう。

先生が通られた後は、少し甘い香りのいい匂いの”肱黒先生の香い”がすると言われていた老紳士の教授であった。

◆肱黒先生は84年に退官されます。各教官(教官と言う言い方自身も昔風の官立の学校雰囲気が漂う)退官前の授業はお得な授業で、退官祝いとして「優」を安売りするという伝説がありました。これはかなりの皆さんが恩恵に預かっているはず。

授業では、”財務会計と管理会計の違い”を丁寧に説明され、”固定費、変動費、準変動費について”概念的なことをしっかり教授されていました。

ある授業の時、先生曰く「実際の会計の詳細の扱いは各企業さんで取り決めがあるので、それは各企業さんに入って覚えるとして、皆さんは今しっかりした会計の考え方だけ習得しておけば問題ない」と言い切られました。これは名言でした!

◆前垂れ学校とも称された旧高等商業学校の系譜にある学部を卒業した関係か、偶々就職した会社では経理、管理を担当することとなった。

その段階で、既に”財務会計と管理会計の違い”だけはしっかり押さえていたのです。

新入社員として、赴任した博多では一応「経理がわかる新入社員」としての位置づけでした。(一応、先輩が言われていたのを敢えてそのまま記載(笑))

しかし、どこの業界にも意地悪だったり、少し若手を啓発する先輩はどこにもいます。

監査室の監査の時、北の水産学部出身のある主幹が新人の自分を捕まえて、「君は会計の一般原則をしっているかい?」と聞いてこられました。これは明らかに試されたのです。

どの年代にもいた、要領の良さと先輩からの伝承を大切に、単位を取得していた愚かな学徒にとっては全くの『詰問』です。(笑)  答えることはできません。。。

俄かに借り上げ社宅に帰って、学生時代の簿記論担当の永野先生(後に法政大に移り、税務試験委員に)が授業で使用していた教科書を探ると確かに最初の方にあります。

(永野先生は、学籍簿の数字を8桁精算表の一部に使用して回答させるなど工夫をされていて、誰でも同じ答えが出来ないように設定された問題を出題された)

【】しせしめけほた【】  ➡ 「原則」の頭文字一文字を取っている

1. 真実性の原則

2. 正規の簿記の原則

3. 資本取引・損益取引区別の原則

4. 明瞭性の原則

5. 継続性の原則

6. 保守主義の原則

7. 単一性の原則

です。若くて仕事を覚えることにも一生懸命だった自分は、先ず肝に銘じて、【】の言葉を

呪文のように覚えました。

その後経理の仕事、会計監査、公認会計士の監査時、これを少し話すといろんな意味で「免罪符」となる呪文のような言葉となりました。(実はこの原則についての深い理解も必要)

◆亀山、平川と時代を経て、卓越した教育力を持った肱黒先生の授業での哲学と少し社会人になって啓発された機会を生かし、その後工場総務、経理他の仕事をすることになりました。

経理とは離れ、他部門に移っても、監査業務を受ける事は実務を回す管理能力を評価されることにもつながる。若き日に、学び舎で、職場で、学んだことが色褪せることはなかった。

そして、肱黒先生のDNAは板垣先生に、また板垣先生から中田先生にと脈々とつながれ、管理会計論、原価計算論の授業に生かされていったであろう。

(他には70年代、80年代に活躍された、濱田先生、鈴木重靖先生他の先生がいらっしゃいました。関連投稿を望みます)

岡山 B(学32期) 

日本寮歌祭に参加して

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年11月 トピックス】

(学23期kz)

◆11/24(日)に都内ホテルで全国日本寮歌祭が開催された。

開催時間は11時から。

テーブルにはすでに日本酒、焼酎、つまみが用意されている。

◆開会挨拶などセレモニーの締めくくりに、壇上で「檄」を披露したのは鳳陽会東京支部の塩塚支部長。

なかなか堂に入った立派な檄の飛ばしぶりであった。

◆参加校はナンバースクールや高商、また旧制高校や私立大学を含め約60校が参加した。

各校の参加者は、やはり東京に支部のある参加者が多いようだ。

我々鳳陽会は東京支部が参加。上は毎回参加の大御所・6期の井上大先輩、下は卒業3年目・71期・井藤君まで10名を超えた。

我々の参加者の中には、書道展で大賞を受賞され、夕刻から山手線の真反対の離れた会場で受賞セレモニーを控えた18期の田口先輩も駆けつけて頂いた。

◆各校の参加者はそれぞれの法被を纏う。

我々の法被は鮮やかな橙色で、前襟左には白地に「山口高商」、右には「鳳陽会」と書かれ、背中には山口高商の徽章が染め抜かれている。

◆挨拶セレモニーが終わり、さっそく乾杯。

各校が順番に寮歌を披露し、威勢のいい掛け声に会場から手拍子と拍手が起きる。

馴染みのない寮歌であっても、主催者側で各校の寮歌を載せた冊子が参加者に配られているため、一緒に口ずさむこともできる。

我々の出番は14時過ぎ。

それまで酌み交わしが進み、だいぶ出来上がった状態で登壇。

みなさん燃料満タン、元気が湧いている。

◆登壇した我々は鳳陽寮歌「花なき山」を披露。

一列横隊で肩を組み、列の両翼では山口高商旗がはためく。

嬉しいことには、日ごろから交流のある小樽商大の「緑丘会」、長崎商大の「瓊林会」の皆さんが、大挙して壇の両脇、また後ろの2列目に応援に駆けつけてくれた。

もちろん、小樽商大や長崎高商の時には我々鳳陽会も登壇、応援した。肩を組む列の中に入り、旗をひらめかせた。

また、我々の卓の隣が第7高等学校造士館・鹿児島大学だったこともあり、「薩摩」の皆さんも壇上に上がって応援していただいた。

ここで、幕末に維新を生む力となった「‥同盟」が期せずして再現する形になった。

◆会の途中でも各校の皆さんと交流が進む。

私と卓を同じくした六高・岡山大、高知高・高知大の皆さん・・・

このほか、応援団よろしく学生服を纏った「都の西北」のW大・現役学生君が訪ねてきてくれ、面識ができた。三田の事務所に一度お邪魔したいという。

いいじゃないか。

◆バンカラが歌う寮歌の合間に、一筋の涼風がそよぐ。

各校から参加した女性の皆さんが壇上に集合・整列し、旧制三高ボート部の琵琶湖周航の歌を斉唱。

その間、男性諸君は壇の下で連なり、ボートを漕ぐ。

毎年恒例の出し物だ。

各校の歌が続き、会の終わり間際には、誰からともなく踊りが始まり、周りの皆さんも輪になって踊る。

そして、お開き。

来年の再会を約して・・・

その後は、同好の士どうしが連れ立ち、場外であらためて盃を酌み交わした。

(学23期kz)

塩塚支部長の檄
琵琶湖周航の歌

日本寮歌祭開催 東京支部有志が鳳陽寮寮歌熱唱

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年11月 トピックス】

鳳陽会東京支部事務局

 第64回日本寮歌祭が令和6年11月24日、東京・日暮里のホテルで開催されました。全国の大学同窓生が参加しました。鳳陽会東京支部は若者や現役・シニア世代が結集。伝統の鳳陽寮寮歌を熱唱しました。

 ◇開会式で檄(げき)

午前11時から、開会式が行われました。開会宣言や実行委員長あいさつなどの後、鳳陽会東京支部の塩塚保支部長が壇上で、声高らかに檄(げき)を発しました。

「いざや歌わんかな 熱き血潮のおもむくままに いざや歌わんかな 青春の讃歌を 我ら 寮歌の灯を高く掲げ 混迷の世に一筋の光を献ぜん」

会場から大きな拍手が沸き起こります。

 そして参加者全員で乾杯。いよいよ、寮歌高唱が始まります。各大学の同窓生は母校の寮歌を次々に歌っていきます。旗を振り、歌い、踊るのです。

 ◇薩長同盟結成

山口高商の伝統を受け継ぐわが山口大学経済学部は後半に登場します。決められた席でしばし談笑。たまたま、会場で隣り合わせたのが鹿児島大学(旧制第七高等学校)でした。酒を酌み交わすうちに意気投合。急きょ、薩長同盟が結成されたのです。

山口大学が壇上で歌う時、鹿児島大学が応援に駆け付けます。鹿児島大学が歌うときは山口大学が応援するのです。

いよいよ本番です。

同窓生は山口高商の校章が入ったオレンジ色の法被(はっぴ)を着用して壇上に立ちます。伝統の旗を誇示しました。

寮歌高唱の前、塩塚支部長が檄を発しました。

「明治維新の策源地 長州・山口に 士魂商才の学徒あり」

檄文の節目、節目に同窓生が「ウオー」と叫びます。会場の全員が注目するなか、同窓生は肩を組みます。寮歌は肩を組んで歌ってこそ、味わいがでるのです。

明治時代から続く伝統の鳳陽寮寮歌「花なき山」

(佐々政一作歌)を1番から4番まで熱唱しました。

「花なき山の 山かげの 月も宿さぬ川の辺の 

はせに立ちたる 学び舎に 起き伏す友よ いざつどへ」

寮歌を歌い切りました。達成感がこみあげてきます。会場から大きな拍手が沸き上がりました。同窓生たちは意気揚々と壇上を降りていったのです。

 ◇三高商の絆

 日本寮歌祭には長崎大学(長崎高商)と小樽商科大学(小樽高商)が参加しました。鳳陽会東京支部は両校同窓会との交流を重ねています。会場で肩を叩き、再会を喜びました。そして寮歌高唱の際はお互いが応援し合ったのです。

次回の日本寮歌祭も三校が力を合わせ、盛り上げていくことを誓いました。

第65回日本寮歌祭は令和7年11月23日、東京・日暮里のホテルで開催されます。

同窓生の皆さん 日本寮歌祭に参加しようではありませんか。伝統の寮歌を歌い継いでいきましょう。

(鳳陽会東京支部事務局)

山口大学経済学部のぼり
鳳陽会東京支部有志
鳳陽寮寮歌高商
小樽商大
長崎大学
日本寮歌祭実行委員会
日本寮歌祭乱舞

新蕎麦を食す

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年11月 トピックス】

<岡山支部、岡山・Bさんからの投稿>


◆例年に比べ、青々とした蕎麦のままだったので収穫が1週間遅れ、先日11/23(土曜)が解禁日となったそうです。
会計を済ましたお客様が口々に店の方に、「美味かった♬ 有難うございます」とお礼を言って、店を後にしています。
店主は明大野球部OBで星野仙一氏の2期後輩だそうです。
デカい男の蕎麦打ちです(笑)


◆I蕎麦は福井産の種を岡山の地で店主自ら栽培。

旧農家の自宅を改修して、蕎麦好きの店主が蕎麦好きのお客さんの為に提供しているとのことです。

(岡山 B)

そうだったのか、上野戦争 ③開戦

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年11月 トピックス】 

上野戦争の舞台となったのが寛永寺だ。

◆寛永寺・・・その優れた立地

三代将軍家光が江戸城の鬼門(東北)を封じるため、京における比叡山延暦寺に因んで僧・天海が東叡山寛永寺を建てた。

その立地は、道は八方に通じ、海岸にも近く、隅田川という水利にも恵まれていた。

また、古来比叡山の天台座主(ざす)が宮家から座に就くのに相応して、京から宮様を迎えて輪王宮を立て、家康以来の将軍家の霊を祭主させた。

この寛永寺、寺とはいうものの、実のところは「江戸防衛の拠点」として造られたようだ。

これを裏付けるように、大田道灌も江戸城を築くにあたり、現在の場所にするか、上野にするか,

決めかねたとされる。

すなわち、仮に奥州方面から攻め込まれた場合、正面にあたる黒門口だけ守備を固めれば事足りる天然の要塞にもなるとされた。

◆名物僧・覚王院義観

またここには寺を仕切る名物執当がいた。覚王院義観(ぎかん)だ。

慶応3年(1867年)に京から宮様・公現入道親王が見え、輪王寺門跡を継ぐと、義観はそれと同時に輪王寺宮の執当となり、覚王院の号を授けられ、寛永寺の寺務全般を統括することになる。

義観は優れ者で、相当な胆力を持ち合わせている。

広く学問にも通じ、輪王寺宮に諸学を講じ、僧を教える学頭でもあった。

また、彰義隊の思想的・精神的な支柱にもなっていたほか、幕府から財政逼迫を理由に集めた資金500両を「大名貸し」とした益で彰義隊に資金面の面倒を見ていた。

開戦前夜まで、輪王寺宮を守り、戦闘を避けるべく、宮様を動かしてまでも、新政府軍と交渉に向かっている。

宮様を守り、徳川を守る気概が強い。

新政府軍にとって、また戦いを回避したい勝海舟や、新政府の使者・山岡鉄太郎(鉄舟)にとっては手ごわい相手だった。

かなりの頑固ものだ。

この頑固さが、上野戦争の回避を難しくした要因の一つではなかったか。

◆開戦

天野八郎の部隊は寛永寺の輪王寺宮公現法親王を奉じて寛永寺の諸院に立てこもった。

その数、千人とも、千五百人ともいわれている。最盛期には三千まで膨れ上がったとの話があるが、上野戦争に参加した有志はその時に比べ、半減している。

勝海舟も彰義隊に武装解除を説いたが効を奏せず、新政府軍との摩擦が街中で頻発するに及び、大村益次郎を総指揮官とする新政府軍は彰義隊への攻撃命令を下す。

新政府軍が江戸城大手門前を出発したのが5月15日。連日雨が降っており、当日の早朝は霧雨だった。

5月15日とはいうものの、新暦では7月4日にあたる。

上野の山は蒸れるように暑かったようで、羽織を脱ぎ襯衣一枚の夏支度だったという。

彰義隊は本営寒松院を軍司令部とし、上野の八門(黒門、清水門、谷中門、穴稲荷門、車坂門、屏風坂門、新黒門、新門)に兵を構えた。黒門には最強部隊を配置している。

対する新政府軍の布陣は、薩摩・因幡・肥後が上野寛永寺正面の黒門口を、長州・大村・佐土原藩が背後の団子坂に回り、肥前・津・備前藩がアームストロング砲で側面から援護射撃を行う役回りだ。

開戦8時。

正面の薩摩軍が機を見て突撃を敢行するも、地形が味方していたこともあり、彰義隊の防戦はすさまじく、なかなか黒門は突破できなかったようだ。

午前中は一進一退。彰義隊がよく頑張ったという。

新政府軍には鍋島藩のアームストロング砲2門があったが、威力を発揮したのか。

爆音は周りを圧したが、命中率は悪かったという。

彰義隊が守る黒門を狙ったようだが、崩せなかった。

いや、計画に抜かりのない大村益次郎のこと。

敢えて黒門に命中させなかったのではないかとも思われる。

ものの本には、赤門から発射されたアームストロング砲が黒門まで届かず、不忍池に落ちたとされる。

赤門から上野の黒門まで約1キロメートル。

他方、アームストロング砲の射程距離は3400ヤード、3キロメートルもある。

何しろ、黒門が無傷のままだ。

おかしい。(謎解きは別稿で)

また、アームストロング砲派は空砲のみ3発だったという話もある。

上野戦争が決着が着いたのはその日の午後4時過ぎ。

彰義隊は新政府軍の前に敗れ去り、生き残った彰義隊員は大村が逃走経路として用意していた根岸方面から逃走した。

実質的なリーダーとなった副頭取・天野八郎も戦死はせず、上野の山からは逃げることができた。

天野は再起を期して江戸にも出没していたが、7月に捕縛され、獄中で病死している。

つづく

(学23期kz)

彰義隊の墓(上野公園)

銃弾の跡