山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2026年5月 トピックス】
◆振り出しは家業の醸造業
商家の4男に生まれた伝三郎。
16歳で家業の醸造業(酒・味噌)に従事するも、18歳の時に父が死去。
この時、伝三郎は家業を兄の鹿太郎に任せ、後継ぎがいなくなった分家の事業(やはり醸造業)の再興を願う母の望みに沿う形で分家の事業再興に取り掛かる。
醸造方法の研究をし、各種の改良を加えることにより、3年後の文久3(1863)年、伝三郎が23歳の時に事業は黒字化し、分家の事業再興を果たしている。
◆長州の内憂外患
伝三郎が分家再興を果たした時とは文久3(1863)年。
この年を含めた一両年は長州藩の運命の岐路となった大変な事件が立て続けに起きた時期にあたる。
長州藩内では幕府に対する姿勢で、これまで革新派(正義派)と保守派(恭順派または「俗論派」)が主導権争いをしてきた。
この年には保守派が藩内を掌握していたが、そうした中、攘夷決行の勅令に基づき、長州藩が外国船籍を攻撃し、下関戦争が始まる。
しかし宮廷内では急進派長州藩に手を焼く会津・薩摩の両藩が京から長州藩の締め出しにかかる。
長州はこれに対し反発し、京での復権を狙う。
翌年には新選組による長州藩士の討伐事件が起こり、これを契機に長州藩兵が京に上り、禁門の変が起きる。
これで長州藩は朝廷に弓を引いた形になった。
◆禁門の変の直後、攻撃を受けた四国連合艦隊が長州を攻撃し、長州は内憂外患の状態に陥る。
こうした中、幕府は長州征伐に乗り出し、長州藩内では高杉晋作などの急進派が追われることになる。
高杉は場合によっては追われる危ない身でありながらでも、連合艦隊との講和交渉役に抜擢される。
何とか交渉を乗り切りながら、藩での革新派の失地回復を図り、ゆくゆくは倒幕へ向けて、功山寺で挙兵した。
◆伝三郎と奇兵隊
藤田伝三郎は商人ながら、攘夷思想を有し、こうした革新派(「正義派」)に賛意を示し、京にも上り参戦している(藤田翁言行録―注)
伝三郎は「奇兵隊では良く働いた」と語っているが、どうやらその功績が認められなかったようだ。
これに不満を持ったたことも、伝三郎が大阪へ向かった要因のようだ。
伝三郎は醸造業だけではなく、掛屋(金貸し)も営み、資金的には潤っていたようで、奇兵隊への貢献としては、資金の寄付もしていたようだ。
しかし、伝三郎の奇兵隊への寄与にし方は下関の豪商・白石正一郎とは異なる。
伝三郎の奇兵隊への寄与は大きくはなく、奇兵隊の名簿にも藤田伝三郎の名は載っていないという。
しかし、藤田伝三郎の奇兵隊を契機とする軍閥との縁や官界長州閥とのつながりは、伝三郎の大阪での事業の成功に後々、大きな影響を及ぼすことになる。
注)藤田翁言行録とは-三井銀行大阪支店長当時、藤田伝三郎に呼ばれ北浜銀行頭取になった岩下清周がまとめた藤田伝三郎伝
(学23期kz)
参考
【出来事メモ】
◆【文久3(1863)年】
・3月
孝明天皇と徳川家茂が会見、幕府は攘夷を確約
・5月10日
攘夷実行期限にあたり孝明天皇から書簡(宸翰・しんかん)が発せられる。
・同日
長州藩では勅命どおり直ちに攘夷を決行。関門海峡を通りかかった米国船(商船)を砲撃
【翌日5月11日には長州ファイブが英国へ出発(密航にあたる)】
・6月3日
高杉が下関の豪商・白石正一郎邸で奇兵隊を結成。
・8月18日の政変
会津・薩摩の両藩による攘夷急進派の排除工作が奏功し、孝明天皇が宮廷から反幕急進派の公家や長州藩を宮廷から退去を命ず。
・8月19日
三条実美ら七卿が都落ち。
・10月には奇兵隊を除く遊撃隊が結成。京での巻き返しを狙う。
・秋口から翌年にかけて
攘夷派の動きが活発化。これに対し幕府は攘夷派排除・鎮圧へ。
◆【翌元治元(1864)年】
・3月27日
水戸藩で攘夷派の天狗党の乱が勃発。
・6月5日
池田屋事件。新選組が池田屋で会合中の長州藩士や攘夷派の志士を襲撃。
・池田屋事件を機に長州藩兵が京都へ。
・7月19日
禁門の変。 2時間で長州藩側が敗北。
・7月23日
第1次長州征伐。
・8月5日
四国連合艦隊からの報復攻撃あり。
・8月8日
高杉晋作が連合艦隊と和平交渉。
・11月11日
長州藩の三家老・四参謀の斬首、山口城の破却で幕府に恭順。
高杉も追われ九州へ逃走、また井上馨も恭順派に襲われ瀕死の重傷。
・12月15日
高杉晋作の功山寺挙兵
藩内の恭順派制圧と倒幕を睨む。
・翌年3月
高杉の反幕急進派、長州藩の主導権掌握














