大相撲五月場所を迎えて


山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年5月 トピックス】


・大相撲五月場所が10日(日)から両国国技館で始まりました。
今場所は横綱大の里が先場所の4日目からの途中休場に続き、左肩鍵盤損傷という診断で初日から全休です。
稽古も全く出来ない状態ではやむを得ません。

又、先場所連続優勝すれば横綱昇進を期待された安青錦はまさかの負け越しで今場所カド番となりましたが、場所前の稽古で左足首を痛め休場となり、痛みが引けば途中出場もあるようですが、治療に専念し、来場所10勝以上を挙げて、大関復帰に賭けてほしいです。
無理して途中出場し、土俵生命に影響するような怪我はしてほしくありません。
ということで、以前から日本人横綱大の里の一強時代到来を予想し、大の里ファンには良いが、年6場所の内、5場所を優勝すれば白鵬の45回の優勝を破るペースとなり、大相撲人気は落ちると危惧しましたが、他の力士の台頭ではなく大の里がこういう形での失速は残念でなりません。



・今場所は豊昇龍の横綱になって初めての優勝なるかと期待しましたが、初日に敗れたばかりか、右足を痛め2日目からの出場が心配です。
大関再復帰した霧島の連続優勝なるか、大関琴櫻の久々の復活なるかと思いましたが、初日早々、琴櫻は小兵の藤の川に完敗でした。
関脇に昇進し、安定した力を発揮し始めた熱海富士は曲者一山本に躱され、やられました。
ダークホースと思われた関脇昇進の琴勝峰も黒星スタート。
優勝争いは、まだ始まったばかりですが、稽古十分の霧島中心に展開か。



・応援している力士では先場所から応援し始めた霧島白星スタート。(一推しの幕下40枚目に昇進した光星竜(174㎝、124.9kg)の音羽山部屋の部屋頭)
阿炎は良い相撲で動き回り白星発進。
勿論、阿炎-霧島対戦の時は阿炎を応援。
平戸海、王鵬、若元春、玉鷲黒星スタート。
今場所から台湾絡みで応援し始めた十両東白龍は白星スタート。
幕下、深井改め朝ノ龍白も星スタート。
三段目、山口市絡みで応援している若輝元、先場所7番相撲で怪我し全休。
大ショック。
序二段、大当利黒星スタート。
初日は光星竜、木竜皇、千代大宝、翔傑の取組みはなし。

追記)写真はベースボール・マガジン社「相撲」より借用
(学22期 Y・Y)(会社法、永倉ゼミ)
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三人の財界巨人 その2 藤田伝三郎①

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年5月 トピックス】

◆五指に入る大富豪

世に出回っている、いわゆる”豪商物語”の中には高田屋嘉兵衛、岩崎弥太郎、五代友厚、渋沢栄一、伊藤忠兵衛らと並んで、藤田伝三郎の名が出てくる。

明治45(1912)年、72歳で他界した時には「日本で五指に入る大富豪」ともされた。

藤田伝三郎を指す形容として「明治実業界の傑物」、「明治財界の風雲児」とされるものもあるが、「大阪実業界の重鎮」、「関西実業回界の大立者」など、西日本の財界を代表する形容が多く、「住友と並ぶ西の二大富豪」とするものもある。

初代の五代友厚(薩摩)に次いで、二代目の大阪商工会議所の会頭を務めたためだろか。

また、その土地(地域)に対する一大勢力を張った重鎮としての影響力という観点では、「実業界の巨人と称すべきは、東の渋沢栄一、西の藤田伝三郎」(吉本義秋「大阪人物小観」(明治38年))とするものもあり、調停ではあたかも「親分」のように、もめごとを収めたという話が残っている。

◆秀吉格の伝三郎

藤田伝三郎を評する者は、その手掛けた事業内容が似ており、美術収集にも精を出した大倉喜八郎(越後)と対をなすとして、「東の大倉、西の藤田」と評した者もいた。

また、日本で最初のデパート・三越の基礎を作った実業家・高橋義雄は、明治の実業家と戦国時代の英雄を対比させ、藤田を豊臣秀吉になぞらえた。

というのも五尺の小身、天下を圧する豪胆、網島に大伽藍を建て、比肩なきほど書画骨董を収集して明治に引き継いだのがその理由というのだ。

「西の藤田伝三郎、東の渋沢栄一」と藤田を豊臣秀吉と見做すならば、渋沢栄一は誰に相当するか。

先の高橋は渋沢栄一を上杉謙信と見做した。

(なお、上記・高橋氏は藤田のライバル大倉喜八郎を武田信玄、岩崎弥太郎を織田信長と見做している)

ただ、藤田観光、藤田美術館・・・という形で藤田の名前は残っているが、藤田伝三郎自身を知る者は意外と少ないのではないか。

大変もったいない話だが、これは理由なしとしない。

つづく

(学23期kz)

藤田美術館
藤田美術館

蝦蛄(しゃこ)入れ失敗 (マンション管理人はつらいよ)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年5月 トピックス】



・長州歴史ウォークに参加して、以前ですが、マンション管理人をされている方お二人にお会いする機会がありました。
又、私の学生時代からの友人が、私が長年マンション管理人をやっていることを知り、(私は3社の管理会社で5年半)自分で見つけてもう14年目のマンション管理人をやっています。

2012-4-8mixi投稿分より引用
・寿司ダネの蝦蛄ではありません。(笑)
しゃこと言っても車庫入れのしゃこのことです。
先週、往診の医師が居住者を訪ねてきて、立体駐車場を使われました。
最近になって外部の人が居住者を訪ねてきても、居住者が料金を支払い居住者の責任において一時的な利用が可能となりました。
これまでは親族や友人に限られていました。
近くに有料駐車場がないので便利になりました。

・ところが、その医師は70歳位のご婦人を訪ねて週2回往診にやってきます。
それも私の昼食時間に掛る時も多々あります。
そのご婦人もその医師を迎えられます。
ところが、先日は立体駐車場の利用が多い日で空いているところが限られていましたので、車庫入れが難しいところになったのです。
そして無理な角度で車庫入れをすることになり、新車の後部を立体駐車場の設備の柱にぶっつけてしまいました。
医師「そこに突っ立っていてどうして車庫入れの誘導をしないんだ!!」
私「操作盤の操作はしますが、誘導はこれまでもしていませんよ。」
医師「何おぅ、車の傍にいたではないか。」
住民のご婦人「そうだ、そうだ、車のところにいたではないか。」
医師「距離感がわからないので、困るではないか!!」
その後も応酬はしましたが、その医師は切れてしまい大声を張り上げて暴言は続きました。
「どうしてこんな車庫入れが難しいところに案内したのだ。平置きの空いている場所があるではないか。30分やそこいらの時間だよ。」
(単にあなたの運転が下手なだけです。)
「平置きは居住者が年間契約で借りておられて、たまたま外出等で不在なだけで置くことは出来ません。いつ帰って来られないとも限らずトラブルとなるので管理組合からもきつく言われています。」
居住者「お宅は融通が効かない。以前の管理人はいろいろと融通を効かせてくれた。管理組合に言わないと」
(この婆さん、昔のことを言って10年前で時間が止まっているのではないか。)
居住者のお客様(婆さん)がおられたので、なだめることも考えてこちらは言いたいことも限られます。
会社や管理組合に迷惑がかかると困ります。
その医師もそんなに取り乱したのでは血圧も上がり往診どころではありません。
「立っているだけでどうして誘導しないんだ。それが管理人の仕事ではないか」
(事故が起こった時に誘導が悪かったと言われ責任が掛ってきます。)

・往診を終えて帰る時も「無料ではなくお金を払っているのだから、車庫入れ誘導は当たり前だ」と言い放ち帰って行きました。
医師は特権階級意識が本当に強く困ります。(特注、経済学部を卒業され医師になられたI氏には大変お世話になっていて人格者です。)
人生の最終章だというのに初老の男二人と老婆一人の醜い光景でした。(笑)
(学22期 Y・Y)(会社法、永倉ゼミ)
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三人の財界巨人 その1

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年5月 トピックス】

◆長州の財閥

明治以降、長州・萩城下から伊藤博文、山県有朋、桂太郎、田中義一が宰相に上り詰め、彼らの側近として多くの旧長州藩士が明治の官界や軍人の世界で活躍した。

しかし、これとは別の世界もあった。

長州出身でありながら、政治でもなく、軍の世界でもなく、商工業の世界において我が国有数の企業体を作りあげた者たちがいる。

有数の企業体というより、むしろ屈指の「財閥」を産み出したといってもよい。

誇らしい話だ。

藤田伝三郎、久原房之介、そして鮎川義介の三人だ。

◆長州の中では・・・

彼らが活躍し始める少し前は攘夷を巡って反幕府の立場をとる急進派(いわゆる正論派)と、幕府に恭順を示す保守穏健派(俗論派)との間で長州藩の藩論が二分された時代があった。

急進派の代表が村田清風・周布正之助・高杉晋作で、農村支配の強化を目指した。

他方、保守穏健派の代表が坪井九右衛門・椋梨藤太で、彼らは重商主義を唱え、商人を味方に寄せた。

この争いで、急進派が勝ち、坪井は投獄抹殺、椋梨も処刑され、商人重視の系譜は薄くなる。

しかし、こうした中から萩を後にし、たくましく成長したのが3人だ。

◆三人の財界巨人

  • 明治時代に活躍し、「西の渋沢栄一」といわれ、藤田グループを作り「西の渋沢栄一」と呼ばれた男爵・藤田伝三郎
  • 藤田伝三郎の甥で、明治の後半から大正時代にかけて実業界で活躍し、昭和には政界に転じた久原財閥の総帥・久原房之介
  • 久原房之介の義理の兄で昭和に入って活躍し、日産コンツェルンの創始者となった鮎川義介。

この三者は親戚関係にあった。

◆藤田伝三郎

主に明治の時代に活躍した藤田伝三郎は橋梁、鉄道、繊維、土木、金融、新聞など多くの事業に手を広げ、果ては商工会議所の会頭へと上り詰め、八面六臂の活躍をする。

裸一貫から一代で藤田財閥をつくりあげた。西の渋沢栄一といわれるゆえんだ。

また、著名な経営者を育てるとともに、美術品の収集を図り、慈善事業にも力を注いだ。

藤田組(現・DOWAホールディングス)の創始者で、民間人初の爵位(男爵)を受ける。

しかし、主たる事業となった鉱山事業が経営不振になった際、事業を甥の久原房之介へ譲る。

◆久原房之介

藤田伝三郎から譲り受けた鉱山業が経営不振になった折、久原は事業を奇跡的に立ち直らせる。

鉱山業にとどまらず、幅広い事業に活躍し、その中には小平浪平率いる日立製作所も誕生させた。

久原は鉱山事業に見切りをつけて事業を義理の兄の鮎川義介に譲り、本人は政界に進出する。

政界では立憲政友会総裁となり、日中、日ソの関係復興に尽力し、一時は吉田茂と総理の座を争ったこともあった。

◆鮎川義介

久原からバトンを受け継いだのは鮎川義介。

鮎川にとって久原は11歳年上であるが、鮎川の妹・清子が久原房之介の嫁になっており、久原は鮎川の義理の弟にあたる。

鮎川も事業を受け継ぎながら政界にも身を置き、日産自動車、日立製作所を花開かせる。

◆井上馨侯爵

これまで挙げた三人が節目、節目で世話になり、経営が斜めになり資金に窮した時に頼みに行った先が明治の元勲・井上馨侯爵だ。

井上馨侯も三人と親戚関係にある。

すなわち、井上侯にとって鮎川義介は大甥だ。

久原房之介は鮎川の義理の弟で、久原の叔父が藤田伝三郎だ。

井上馨侯と藤田伝三郎はほぼ同年代で、井上侯が伝三郎より4歳年上にあたる。

藤田伝三郎、久原房之介、そして鮎川義介。

長州出身のこの3人が、明治、大正、昭和にかけ、実業界で大活躍する。

我々山口高商以降の先輩方も、彼らが創った企業に就職し、彼らのリーダーの下で働いた先輩方が多くおられる。

つづく

(学23期kz)

藤田伝三郎
久原房之介
鮎川義介

東郷平八郎 ⑥緻密な計算と鍛錬

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年5月 トピックス】

◆東郷は「運が良い男」、「強運の持ち主」ということになっている。

しかし、東郷は戦うに当たり、緻密な計算をしている。

運に頼って戦いをする男ではない。

◆東郷の確実な勝算の根拠

勝敗の決め手は、ずばり「兵力差」だ。

艦砲の命中率と砲弾の威力で測定される兵力。

敵方との差をどこまで広げることができるのか。

圧倒的な兵力差があれば、負けるはずがない。

両艦隊の大型大砲(大口径砲)と射程距離の短い中型大砲(中口径砲)を比べると、大型はロシア勢が有利だが、中型を含めて考えれば日本側が優勢だ。

この優位さを活かすには、中型大砲の射程距離が有効な5000メートル以内まで接近した戦法をとる必要がある。

東郷は実際の兵力差を次のように計算した。

艦砲は発射速度によって命中率が異なり、発射速度が早ければ命中率が高まる。明治37年の日露黄海海戦で大打撃を受けたロシア軍艦の艦砲の発射速度は日本の約3分の1であったと計測されている。

日本の艦砲358門、ロシアの艦砲245門。

このため日本の実質的な艦砲は358門の3倍、すなわち1074門と勘定できる。

これに対しロシアの艦砲は245門。

このためロシアの砲力は245/1074=23%、すなわち日本の約4分の1弱と計算される。

次に火薬。

日本の砲弾の火薬は「下瀬火薬」だ。

帝国海軍の技師・下瀬正充が開発した「黄色火薬」はロシアを含め他国海軍が使用していた炸薬の「黒色火薬」よりも2倍の爆発力・発火力があった。

下瀬火薬・・・大げさなようだが「まるで鉄板も燃焼させるほどの火力を有していた」ともされる。

下瀬火薬の威力が敵の2倍とすると、ロシア艦隊の砲力は半減し、日本の12%にまで落ちる。

それでも東郷はこうした数字の上での優位に満足せず、明治38(1905)年2月から5月にかけて猛訓練をし、艦砲の命中率を3倍に高めている。

これによって、ロシアの艦砲の兵力は日本のわずか4%という計算が成り立つ。

さらに東郷は駆逐艦、水雷艇隊の猛烈な夜襲電撃訓練で魚雷の命中率を数倍高める技術を磨いていったという。

◆こうした鍛錬の下、作戦計画は愛媛・松山出身の秋山参謀が立案したという陣形で戦う。

バルチック艦隊を迎え撃つ陣形が「七段の構え」で、その決め手が敵の前路を抑えて逃がさない「丁字戦法」だ。

しかし、こうした作戦を練り上げて、実戦に用いるためには、勘と度胸と鍛錬が必要だ。

チーム東郷はこれによって「確実な勝算」を得、それを「確実に実行」してバルチック艦隊をほぼ全滅させ、日本を勝利に導いた。

・・・「運の強い男」、東郷・・・

逆説的に言えば、「運の強い男」になるには、泥臭く、自分の納得がいくまでトコトン鍛錬に鍛錬を重ねる努力が必要なのではないか。

血と汗を流して、微かな運を手繰り寄せていく鍛錬の連続。

こうした鍛錬こそが、東郷平八郎を強運を浴びた「海の守り神」に変えた。

つづく

(学23期kz)

山縣有朋元帥の遺産

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年5月 トピックス】

◆山縣有朋元帥は、山口県萩出身。

1838年生まれで、伊藤博文初代内閣総理大臣と共に明治政府の最高指導者となり、内務卿・枢密院議長・総理大臣等を歴任した軍人・政治家。

元帥は、長州藩蔵元付仲間だった下級武士の家に生まれ、学問と槍の稽古に励んだ。学問を修めて松下村塾入り尊王攘夷運動に従事。高杉晋作が創設した奇兵隊で軍監となり、戊辰戦争で転戦した。

明治維新後の1869年に渡欧し、各国軍制を視察して1870年の帰国後に兵部大輔に就任。

西郷どんとともに御親兵組織と廃藩置県地方制度創設に尽力した。

◆皮肉にも西郷どんが下野し、西南戦争を起こした。山縣有朋は官軍のトップ・陸軍中将として討伐に出向いた。

田原坂の戦いのあと、筆者の出身地である延岡が戦場となった。

官軍の指揮をとったのが山縣元帥である。

和田越え戦い(出身中学の裏山)で、官軍は5万、薩軍は2千と、戦力差もあり薩軍は大敗し、九州山脈を敗走、鹿児島へ向かった。

西郷どんは最期迎える。

◆その後、元帥は、1873年に陸軍省創設し、陸軍卿に就任した。

1878年にはドイツに倣った参謀本部を創設し、初代参謀本部長に就任。

1878年、1882年と軍人訓戒、軍人勅諭を起案、頒布にあたった。1882年には、参事議長から内務卿、1885年に第一次伊藤内閣の内務大臣に就任し、黒田内閣でも留任。1884年に伯爵、1890年に陸軍大将に

昇進した。

◆1889年には第一次山縣内閣組閣。

軍備拡張をめぐり民政党と対立し、自由党土佐派を切り崩して切り抜けたが、結局1891年に内閣総辞職。

この際に元勲優遇の勅語を受けた。

 以降元老として大きな政治力を発揮したが、それ以上に極めて文化人である。和歌を嗜み、殊に庭園を好み、作庭については一家言をはくした。

今日にも残る山縣元帥の名園には、京都の無隣庵、小田原の古稀庵、そして東京目白のホテル椿山荘東京があり、この三園をあわせて山縣三名園とよばれている。

◆元帥は明治天皇をはじめとする当時の政財界の重鎮を招き、椿山荘で国政を動かす重要な会議を開いた。

後の研究によると、山縣の庭園は、出身である萩の地形を再現したもので、ふるさとに思いを馳せたのではないかといわれている。

実際に萩の阿武川分流地点には、「萩の風景が山縣の原風景である」と刻まれた石碑がある。

◆最後に、私は転勤で1988年から93年まで栃木県矢板市に住んでことがあり、那須野が原にある山縣農場に関心があった。

渋沢財閥からの払い下げ地である。

矢板市から那須塩原市に行くの途中の開拓地だ。

住所は矢板市伊佐野で許可を譲り受け、1886年(明治19年)、伊佐野農場(のちの山縣農場)を開くに至る。

払い下げで得た土地は、およそ自然林150町歩、草山600町歩で、その多くは山林であった。

那珂川の支流の箒川から水を引き開墾を進めた。

入植者には、住まいを用意し、入植者の子弟のための学校を開くなど、細やかな配慮も怠らなかった。その甲斐もあって開墾も進み、1910年(明治43年)には以下のような歌を詠んでいる。

 篠原も 畑となる世の 伊佐野山 みどりに籠もる 杉にひの木に

自作農を育てる方針は元帥亡き後も生き続け、1934年(昭和9年)、3代目当主 孫の山縣有道は、山縣農場開設50周年を記念して、小作人36名に土地を分譲して自作農としている。

当時開かれた華族農場の多くは平地にあって、耕作を小作人に任せていたため、第二次世界大戦後の農政改革影響を直接受けたが、田畑の多くを小作人に譲渡済みで山林主体の経営となっていた山縣農場だけは、農地改革の影響をあまり受けることがなかった。

 上記遺産は、山縣有朋元帥が生きた証しで、吉田松陰の最後の弟子として愚直に生きたことを示している。

以上   学29 KY

山縣農場にある山縣記念館(栃木県矢板市)

東郷平八郎 ⑤抜擢

◆無名の東郷

海軍大臣・山本権兵衛は、同期の日高壮之丞(海兵2期・大将)を差し置いて、年上の東郷平八郎を第3代連合艦隊司令長官に任命した。

明治36(1903)年のことで、大抜擢といえる。

着任以前の東郷の任務は「舞鶴鎮守府長官」であり、新任務の連合艦隊司令長官を迎える者たちにとって、東郷の名は知られていなかった。

明治天皇から、なぜ東郷平八郎かと問われた海軍大臣・山本権兵衛は「東郷は運のいい男ですから」と陛下に奏したという逸話は有名だ。

◆司令長官の任に着く東郷を迎え入れる艦隊勤務中堅兵士たちの受け止めは、「ヨボヨボ下を向い歩く小さな男。戦争が起きるというのに、(海軍閥の)薩摩人だから任命されたのだろうが、こういう長官が来ちゃあ、こりゃあ叶わん」というような受け止めで、白けたものだったという。

東郷が着任するにあたり、車の停車場まで迎えに行った者は幹部の一部だけだったという。

しかし、しばらくするうちに「東郷という人は偉い人だ」という噂が艦隊勤務兵の一部に広がった。

ひと月半もすると、誰も彼も東郷に頭を下げる。水兵までも甲板を歩く東郷さんに頭を下げるようになったという。

寡黙な人ながら、実戦経験は豊富で、実績があるということが分かってきたのだろう。

◆連合艦隊司令長官の直前は舞鶴鎮守府司令長官、その前の任務は佐世保鎮守府司令長官だ。

海軍鎮守府とは各地域の海軍基地での、船の建造・補修、海軍病院など海軍施設の運営・監督だ。

日本海の鎮守府はロシア・ウラジオストク港に対峙する形で設置されたもので閑職ではなかったとされるが、勇ましい役回りというわけではない。

むしろ地味な役回りにあたる。

このため当初は東郷平八郎の名前を知る人は少なかったのだろう。

しかし、やはり東郷はついている。

こうした日本海の舞鶴、佐世保といった海軍基地で勤務し、地形を知り、流れを知り風を知ったことが、

後に日本海海戦を戦う上で、かけがえのない経験となった。

つづく

(学23期kz)

佐世保鎮守府

上田鳳陽先生の風貌(AI画像)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年5月 トピックス】

◆かつてこのホームページで「上田鳳陽先生の風貌」(2023年2月)というトピックスが紹介された。

「上田鳳陽先生の風貌」(2023年2月9日、鳳陽会東京支部ホームページにアップ)

https://houyoukai-tokyo.exp.jp/3546/

「上田鳳陽先生」(2022年3月16日、同上)

https://houyoukai-tokyo.exp.jp/2277/

◆このトピックスに反応して、AIで作成した上田鳳陽先生の画像(文末)が事務局に届いたので紹介します。

上田鳳陽先生はかくありなんと思わせる画像!

作成者は経済学部観光政策学科の武本Timothy教授(エジンバラ大卒)。

山大経済学部には2003年から勤務されており、県内を自転車で巡りながら山口の魅力をYou Tubeで発信しておられるほか、空手にも興味をお持ちのようです。

これまで、上田鳳陽先生の画像は生成画像を含めて存在しなかったが、この画像が一つのシンボル画像となるかもしれない。

(事務局記)

武本Timothy教授から届いた上田鳳陽先生のAI作成画像

ピックルボールの報道が

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年4月 トピックス】

・日経新聞の4月23日(木)のハッシュドタグと4月26日(日)の文化時評に「ピックルボール街中に」と「ピックルボールでつながる」と題し、各々報道されていた。
私は高校一年の昼休みに食事を早々と切り上げ、校内のコートで興じた戦後広島発祥のエスキーテニスのことかと釘付けになった。
その後、55年の時を経て高校の東京支部同窓会でS先輩と再会し、エスキーテニスを一緒にしたあの時のSさんではないかと話しかけたらSさんで、中学、大学(Sさんは工学部)も一緒で縁を感じ驚いた。

・私は大学に入学してエスキーテニス部があれば入部したいと念じていたがなくて、軽い気持ちでバドミントン部に入部した。
(広島大学には今もエスキーテニス部としてあるようです。)
平川の体育館やザビエル聖堂を見上げる教育学部の体育館で厳しい練習にサークルの感覚の軽い気持ちで入部した私は不器用な自分はとても上達は無理だと他の新入部員と確か1ヶ月程度で退部した。
後に「流離の岸」という1956年の映画で、あの教育学部の体育館の内部が出て来た時は鳥肌が立ちました。

・それから時を経て東京支部総会でバドミントン部だった入学同期のY氏と再会し、今では総会の都度挨拶をする。
数年前にはY氏からお名前とお顔だけはしっかりと覚えていたM先輩を紹介された。
Y前理事長もバドミントン部の部長経験者というのは練習のランニングで遥か後方を追走した思い出があり存じ上げていました。
事務局長経験者のT先輩からは長州歴史ウォークの昼休みに食事でご一緒した際にY部長の前任者がスマートでそんなに大きくない人だったと伝えるとその方は教育学部の先輩だったと。
こうして、後期高齢者になり、何とも不思議な繋がりに縁を感じ、Chat GPT
を利用し思い出に耽る年齢になりました。

・話をピックルボールに戻して、ピックルボールはコートにおいて、プラスチック製で中空のポールに多数の穴があいたものを木製の固いラケットで打ち合う競技で、卓球・テニス・バトミントンを元に1960年代に米国で始まったラケットスポーツで、日本でも競技人口は急増中で2026年3月時点の推計では約33万人と前年比7倍超と急伸中とか。
紙面では人気の秘密が紹介されています。
今後のピックルボールの動向を見守りたいです。
追記)
写真は日経新聞より
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東郷平八郎 ④寡黙な薩摩士官の英国留学

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年4月 トピックス】

◆寡黙の人

東郷平八郎は「寡黙の提督」と呼ばれる。

東郷の生まれは薩摩。

薩摩では「寡黙」が貴ばれる。

青年時代に大久保利通のところに行き「鉄道を勉強したいから外遊させてくれ」と頼んだ。

いつもの大久保の癖で、その時も大久保は即答しなかった。

後日、東郷のもとに自分の噂話が入ってきた。

大久保が東郷を指して「あれは少し喋り過ぎる」と。

寡黙な東郷だったが、これでますます東郷の寡黙に拍車がかかった。

こうしたことでは外遊を果たせないと察した東郷は西郷のもとに行き、外遊させてくれと頼みこんだ。

これが奏功、望み通り外遊を果たす。

ただし、その時、西郷から「鉄道ではなく、海軍を勉強しろ」という注文が付いた。

外遊に望みを叶えてくれた西郷からの注文だ。

東郷は海軍について勉強し、ひたすら海軍の道を歩むことになる。

◆海軍の留学生

明治4年、海軍兵学寮生徒11名、見習士官の東郷ら5名に英米留学の命が下る。

渡航先は英国が12名、米国4名。

東郷は2年の準備期間を経て、明治6年に英国の商船士官の養成学校であるウースター商船学校に入り、運用航海術を学んでいる。

ウースター(Worcester)ソース発祥の地でもある。

英国西部ウースターの主婦が調味料とともに食料を保存したところ、ソースができていたのが始まりだという。

明治時代に海軍大将になった14名のうち、後続の有栖川宮威仁親王を除く13名が薩摩出身だった。

「陸軍は長州、海軍は薩摩」というはずだ。

東郷も薩摩藩の軍艦「春日」では三等砲術士官であり、明治に入った海軍では見習士官の経験があった。

ウースター商船学校の入学試験での東郷の評価はいかに・・・

「Very good for a foreigner」(外国人としては非常に優秀)と。

また、当時の校長は後年、新聞社の取材に「東郷は優秀な人物であった。俊敏ではなかったが、きわめて勤勉であった。学び取ることは遅かったが、一度学び取れば確実であった。」としている。

◆留学先で

留学先では比較的饒舌だったようだが、名前がTOGOだ。

このためクラスメイトからは”TO GO CHINA ”といじられる。

日本が世界にデビューする以前、日本をアジア人は「CHINA」と呼ばれており、日本国の官費留学生たる自負を持っていた東郷に「母国に帰れ!」と。

冗談半分だろうが・・・

しかし、東郷はこれに敏感に反応し、再び寡黙の東郷になったという。

◆外洋航行

明治8年2月には世界一周の航海に出る。英国学校の航海訓練だ。

英国から帆船「ハンプシャー号」に乗ってメルボルンへ。そこで2か月滞在の後、南太平等を横断し、南米チリの南端ホーン岬を回って北上し、テムズ河口に無事帰着している。

こうした世界周航のあと帰国準備をしていると、さらに2年間の英国滞在の辞令が下りた。

今回は明治海軍初の外国発注艦3隻の造船監督官の役割だ。

その任務を終え、明治11年3月に英国を出て、2か月後、横浜に帰ってきた。

こうした外洋での航行訓練も東郷の海軍生活での血肉となった。

◆学んだ国際法

また、留学中に国際法を学んだ。これも、海軍軍人幹部として生きていくうえで、血となり、肉となった。

後の日清戦争時、東郷が護衛巡洋艦「浪速」の艦長当時、英国の商船で清国が借り受け、武器と清国兵を輸送していた「高陞号(こうしょうごう)」に停船命令を出したにも関わらず、これを無視したため同号を撃沈した(高陞号撃沈事件)ことがあった。

船の撃沈も国際法上は問題なしとの知識、胆力があっての勇断だった。

このように、外地・英国で国際法を学び、国際法に習熟していたことも東郷が連合艦隊司令長官に抜擢される要因になったのではないか。

やはり、世界随一に先進国で、七つの海を支配した英国での留学経験がものをいうことになった。

単に「運がいい東郷」ではなかった。

(学23期kz)

若き日の東郷平八郎