大相撲五月場所を終えて


山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年5月 トピックス】


・横綱・大の里、カド番大関・安青錦の休場で始まった五月場所でしたが、横綱・豊昇龍が足の怪我で、2日目から突然の休場。
その後は小結・髙安の休場、平幕・朝紅龍、大関・琴櫻、元大関朝乃山と7力士の休場となりました。
大変な場所となりましたが、大関に復帰した霧島の独走かと思われましたが、小結・若隆景が追走し最後迄頑張りました。
決定戦の末、若隆景の逆転優勝。
こうした中、義ノ富士、琴栄峰、伯乃富士、宇良が大活躍し、次場所以降の更なる活躍が期待されます。
次の名古屋場所は豊昇龍、安青錦は心配していませんが、横綱・大の里は師匠が名古屋場所は地獄と言われているのが心配です。
審判の時の表情も暗い。

・私の応援している力士では、霧島が準優勝に終わりました。
最後まで良く場所を引っ張りました。
(幕下で応援している光星竜の音羽山部屋の部屋頭)
阿炎、5勝10敗。肘、膝等が悪いと思われ、あっけなく崩れる事が多くなった。
まだ32歳、見守る以外に無い。
玉鷲、爪先を浮かし、踏ん張れない。
相撲を取れる状態ではない。
2勝13敗、十両に陥落か。
平戸海、7勝8敗、全力で奮闘している。
若元春、5勝10敗。鋭い踏み込みに欠け勝てなくなった。
十両、東白龍、台湾絡みで応援し始めたが、決まり手に引き技が多いのが上を目指すのには気に掛かる。6勝9敗。
幕下、深井改め朝ノ龍、4勝3敗。
同じく光星竜、4勝3敗。
三段目、木竜皇、7勝全勝。
山口市絡みで応援している三段目。若輝元、怪我で全休。
来場所大きく番付下げそう。
同じく千代大宝、5勝2敗。
三段目、翔傑、2勝5敗。
大当利、3勝4敗。

特記事項)
1)先場所から音羽山部屋の光星竜を応援しています。(25歳、174㎝、125㎏)
今場所は幕下40枚目に昇進し、対戦力士は大きく実力者ばかりの中で4勝3敗の成績でAbemaでリアルタイムで7番視聴しました。
4勝1敗からの2連敗は痛く悔しいです。
立ち合いの突っ掛けが目立ち、まだまだ課題は多そうです。
関取を目指して頑張れ。

2)怪我で十両から序ノ口まで番付けを下げていた木竜皇が先場所に続き、旭富士との優勝決定戦となりました。
万全の体勢となり、後一歩まで追い詰めやったぁと思いましたが、無念。
奇跡は起こりませんでしたが、十両復帰を目指して頑張れ。
3)今場所も熱戦が多く際どい相撲が多かったです。
三日目の霧島ー藤ノ川戦で藤ノ川の足が明らかに出ているのに正面審判長尾上親方は手を挙げず、続行、霧島がその後、上手投げ。
物言いはつかず、場内アナウンスの決まり手は押し出しのみ。
館内の人は意味不明。

12日目の藤青雲ー熱海富士戦。
Abemaでは熱海富士の爪先が出ているように見えたが、微妙。
その後、続け、双方微妙な一番となり、物言いの末に取り直し。
熱海富士が勝った。
熱海富士の足、云々は物言いでは全く触れられず。
正面審判長、浅香山は何を見ていたのだろうか。

・提案
このハイテク時代にビデオ室の機能を小規模でも急遽、土俵上に設けられないものか。
ビデオ室からスマホに送信すれば見れるのではないか。
ビデオ室の判定が実質1人であり、参考にし、最終的には審判団が決めるとはいえ、最悪でも2人体制にしてほしい。(恣意性を避ける為)
(学22期 Y・Y)(会社法、永倉ゼミ)
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三人の財界巨人 その4 藤田伝三郎③

 山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年5月 トピックス】

◆先祖は小野妹子

先祖を辿っていくと小野妹子に辿り着くという話もある。

小野妹子の出は近江の国(滋賀県)小野村。

推古天皇治世下、聖徳太子がしたためた「日出づる処の天子、書を没する処の天子に致す。恙なきや」との国書を抱いて隋に渡った遣隋使、今でいう外交官だ。

◆父は醸造屋ながら勉強家、それに慈悲深い母

時代が下る。

伝三郎の父・藤田半右衛門は下松で酒や醬油を創る醸造屋を営んでいた。

事業の方は熱心で、意欲的だった。

しかし、下松の老舗で安住することを良しとせず、都・萩城下に出て酒造家に奉公、そこの娘を娶って萩で酒造業を営む。

また父半右衛門は相当な勉強家だったという。

商売の傍ら儒教の経典・四書五経を学び、店の若手を集めて講義をし、自ら講義の中身を実践していたらしい。

熱心な仏教徒でもあったようだ。高野山で三年修行したとされる。

情に篤く、困った者がいれば、施しを為した。

情に篤いのは伝三郎の母も同様だ。

母は父に輪をかけるほど仏教に帰依した慈悲深い御仁で、恵まれない者、貧乏な者、孤独な者に施しを与え、施しを受けた者は母の施しに感涙したという。

◆萩で生まれた伝三郎

伝三郎は天保12年(1841年)萩で生まれた。

同年の生まれには伊藤博文がいる。

前年には渋沢栄一が生まれ、翌年には伊藤忠兵衛が生まれている。

また、長州の系譜でいえば、山県有朋の3歳年下、高杉晋作の2歳年下にあたる。

藤田家の四人兄弟のうちの四男。ただし長男・卯一郎は早逝(早世)している。

◆幼少時の学び

伝三郎は幼少時、城下の塾に入って漢学を修め、地元で名のある師の下で儒教を学んでいる。

伝三郎は勉強熱心な父の下で育ち、幼少時に読んだ本の名前が記録に残っている。

・『日本外史』頼山陽著(源平2氏から徳川氏までの武家盛衰史)

・『日本政記』頼山陽著(江戸後期の歴史書。神武天皇から後陽成天皇までの歴史を漢文の編年体での記述本)

・『靖献遺言(せいけんいげん)』浅見絅斎著(中国の忠臣義士の行状について記した書)

・『荀子』(性悪説。人間の本質は悪であるので、礼の理念を体得した聖人によって国家が統治されることが肝要と説く)

・『孟子』(性善説。あらゆる人に「善の兆し」が先天的に備わっていると説く)

『戦国策』(古代中国・戦国時代の権謀術数の記録を編集した書籍)

◆松下村塾と伝三郎

伝三郎が16歳の時、萩郊外の松本村では松陰の松下村塾が最盛期を迎えていたが、商家の系譜である藤田伝三郎は松陰には学ばなかった。これは松陰には武家社会につながる者が多く、また松陰が「国事犯」とされたからだ。

つづく

(学23期kz)

「花失せては面白からず」城山三郎著 山都山口にあった一期一会

 山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年5月 トピックス】  

  岡山支部 岡山Bさんからの投稿            


◆書籍「花失せては面白からず」は 旧東京商科大学において、山田雄三教授と杉浦栄一(後の城山三郎)との 出会いから四十余年の歳月、二人の間に続いた交流について記したものだ。

後年人間を透徹した眼で捉え、経済小説と言う分野を切り開いた著者。この書籍には、若き日悩み多き学生であった杉浦。彼が敬愛してやまぬ経済学者山田雄三教授と、学生時代、大学講師から作家への転換期、そして本格的に作家として生きると決めてからも続く交流の話だ。

杉浦は元々実家に家業があった関係で商業学校へ、そして愛知県立工業専門学校(現名古屋工大)に進学し、理系学生にあった徴兵免除をされていた。戦況悪化の一途をたどる中、 杉浦は学校を中退し、志願して海軍に入隊する。そこで為されていた数々の理不尽、後に城山は「戦争で国家に裏切られた思いがある」と語っている。

少し前に、その若き日の杉浦青年の苦悩、不安を期した新たな日記が自宅で見つかったと言うニュースがあった。


◆バブル経済が膨らみ始める少し前、山都でも本当に”一期一会”、短い時間ではあるが、就職担当教官と濃厚な時間を過ごしたことがある。時間軸は大きく違っても、鳳陽会の先輩、後輩、その関係性において似たような経験がある。

博多に在勤していたこともあって、九州地区、山口のリクルーターを数年間担当した。

ある年リクルーターで山口に帰ったとき、就職指導教官の担当は経営管理の亀本先生であった。研究室を訪ねると、うず高く積まれた書籍の山々、床まで書籍であふれていた。・・・「汗牛充棟」まさしくそれだ。


亀本先生は学務室前の応接室に行って待つよう言われて、そこで始まった約3時間。

勿論、会社から派遣されているので、嘴の青い若造が会社案内と欲しい人材のタイプについて 一応の切り出したであろう、そして、就職して数年たつ若造の言の葉の端からひょっとするとなんらか悩やめる欠片を察せられたかもしれない。


就職担当教官とリクルーター、それはそれとして、山口大学経済学部が持つ魅力についてお話を始められた。その中にはご自身の亀山の学生時代の思い出から、健康状態が優れず、苦学して大学院に進学されたこと、そして、溢れるばかりの”母校愛”を熱く語られた。


自分はただ単なる各企業さんから派遣される若きリクルーター、その一人でしかなかった。


しかし、扱いは大手の一流会社の人事部長と同等、いやそれ以上の鄭重な扱い、そして貴重なお時間を独り占めで頂戴したのだ。(因みに出身ゼミは別のゼミ、亀本先生の授業を受け、強く興味をそそられていたという関係性があるのみ)


こんな研究に、教育に、そして就職について、母校愛に溢れた教師が数多くいた。誇るべき母校だ。


◆その後の話であるが、数年間は6月末ぐらいになるとリクルーターという役割を果たすようになっていた。

勤務していた会社では、当時は先ずは若手リクルーターの面接、推薦、そしてその後の選考である筆記試験、面接試験で選別した後、本社に送り込み、役員面接で最終選考をしていた。

ある年、優秀な学生に出逢った。是非一緒に働きたいと思わせる学生であった。当然強く推薦をした。しかし、悲しいかな筆記試験の”網”に引っかかってしまった。

自分が所属していた業務部の総務課長は”難しいなぁ。。。でも、どうしてもと君が思うなら、直接本社の人事に電話を入れてみてもいいよ”(説得して糸口を手繰り寄せろ)とアドバイスをくれた。

のちに会社人生の経験を積むと分かることになるが、それはかなり難行であること、しかし、自分に与えてくれた仕事、機会だったのだ。残念ながら結果は伴うものではなかった。


本社の人事のある権限を持った人が来福した。そして、その夜、石狩鍋を囲んだ。リクルーターとしての慰労の意もあったのだろうか、別の意もあったかも知れない。所謂、通常の矩(のり)をこえて、人事まで直接電話をしてくる若造?

亀本先生の母校愛の1/100でも届けたいと思った碧き血潮がなしたものではなかったろうかと今では懐かしく回想できる。



◆蛇足

80年代当時の経済学部ではケインズ経済学を中心とした、”近経(近代経済学)”
【原論Ⅰ、原論ⅡA】があった。(別途マル経の原論ⅡBもある)
当時は”ケインズ 一般理論コメンタール”という宮崎儀一と伊東光晴が書いたケインズ入門書としては必須だったのかもしれません。
また、伊東光晴著作の岩波新書の「ケインズ」は今もって名著中の名著とも言われている。
その伊東光晴教授が、安部ゼミ主催の講演で山口に来山し、講演の中であることを”ぶった”のです。

講義室の演台をのしのし左右に動きまわり、少し甲高い声で、メリハリのついたあの光晴節だ。

演台の題目、内容は遥か遠い記憶ですで定かではないが、覚えていることが一つある。
かの伊東光晴にこう言わせたのです。(安部先生も伊東光晴教授も1927年生)

「僕は安部先生にかなわないことがあります。それは安部ゼミが持つ就職力、教育力です。この田舎において、これだけ、大手の超一流の企業に多数の卒業生が就職できていることにはまったく驚きです」と。

安部先生が後輩に想う熱い思い、教育への情熱、熱意、そして厳しい指導、このすべてであると思う。

昨日、安部ゼミ発行の「追昔の影 長くして・・・」を読み直してみました。

6/20 大阪全国総会のお知らせ

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年5月 トピックス】

関西支部から大阪全国総会の周知依頼がありましたのでご連絡します。

(事務局)

◆通常総会(全国総会)へのご参加のお願い

鳳陽会 関西支部 支部長 羽根 彰

拝啓 薫風の候、ますますご健勝のこととお慶び申し上げます。日頃は同窓会活動にご協力をいただき、誠にありがとうございます。

さて、会報『鳳陽』でお示ししましたように、来る6月20日(土)、大阪市において一般社団法人鳳陽会通常総会(全国総会)が下記の要領で開催されます。大阪での開催は9年ぶりとなりますので、「オール関西」で全国の同窓生をお迎えする準備を進めております。

つきましては、ご多忙とは存じますが、支部の皆様へご参加のお声掛けをお願いいたします。コロナ禍以降、会員の高齢化とも相まって、総会参加者は近年減少傾向にあります。全国から日帰りも可能な大阪において、久しぶりに同窓の皆様にお集まりいただき、同窓会活動活性化の起爆剤といたしたく存じます。何卒ご協力のほど、重ねてお願い申し上げます。

ご参加いただける方は、下記の関西支部事務局までメールにてご連絡いただければ幸甚に存じます。

 【開催概要】(詳細は本部会報『鳳陽』をご覧ください)

  ・日時 令和8(2026)年6月20日(土)  

総会 11:00~12:00  懇親会 12:15~14:30

・会場 シティプラザ大阪  

大阪市中央区本町橋2-31  TEL:06-6947-7702/06-6947-7888

最寄り駅:大阪メトロ堺筋線・中央線「堺筋本町」徒歩6分

  ・会費 1万円(40歳未満は5千円)

・出席連絡  事務局長 徳山 博詞  wwhill7.lj@gmail.com

   補佐   横出 俊一  tgfdx621@yahoo.co.jp

         上記いずれかへお願いいたします。

皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。

何卒よろしくお願い申し上げます。 

 敬 具

三人の財界巨人 その3 藤田伝三郎②

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年5月 トピックス】

◆「藤田」の名が残るのは・・・

いま、藤田の名を留めるのは藤田美術館(伝三郎の本宅あとで、紫式部日記絵詞、玄奘三蔵絵第一巻、曜変天目茶碗など国宝9点、重要文化財45点を含む5千点の収集物を収納)。

ワシントンホテルの経営母体の藤田観光(大阪の太閤園・・・伝三郎の長男平太郎の邸宅で結婚式場だったが2021年に閉館。藤田別邸で山県有朋の私邸だった文京区の椿山荘、箱根別邸だった箱根小涌園、京都のホテル藤田京都)、それに伝三郎が手掛けた児島湾干拓地岡山市の藤田村、藤田神社というところか。

◆私財を投げ打った難事業、児島湾干拓

明治22年に政府の許可を得て始めた干拓事業。

八郎潟干拓、有明海干拓と並び、日本の3大干拓事業の一つとされる。

伝三郎はここに多額の私財を投げ打っている。

藤田地区がある岡山平野南部一帯は「吉備の穴海」として浅い海が広がっており、岡山県の3大河川(吉井川、旭川、高梁川)が流れ込むため、広大な干潟があり、早くは8~9世紀に干拓事業が始まっており、干拓の歴史は長い。

明治に入ると、廃藩置県により家禄を奉還した旧士族たちの援産事業としての干拓による農地造成が契機となり、岡山県による公共事業が進められた。

干拓事業は大規模なものになるが、県の懐事情は厳しいため岡山県単独では遂行不可能として国に支援を仰ぐが、国も必要となる資金が余りにも多額として難色を示していた。

大規模な事業である。

岩盤が深く、難工事となるのは必至で、採算がとれる当てもないため誰も事業に乗り出そうとしない。

それでも岡山県は業界各界のトップに、また金融界の大物に話を持ち掛けるが誰も名乗りを上げなかった。

相談を受けた藤田も財界の仲間と共同で事業実施の話を向けるが、ことごとく失敗する。

そこで藤田は腹を決めた。

藤田は己が引き受けることに決めた。

しかも単独で。

伝三郎は日本の農業の将来を考えて、採算度外視で、大規模機械化農業の夢を拓かせんがために事業を引き受けた。

とんでもないことを決断したものだ。

さぞや鬼の形相で決めたのか。

そうではないだろう。

淡々として、能面にも似た普段の顔つきで難題に取りくむ決断をしたのだろう。

その辺の苦渋を顔に出す男ではない。

そうした大胆な腹積もりを他人に自慢したりもしない。

そういう男だ、伝三郎は。

◆難工事

地盤が悪く「底なし沼」状態だった干潟の干拓事業だ。

100メートルでも杭が底に届かなかったとされた。

始まったのが明治32(1899)年、全工程が完了したのが昭和38(1963)年。

これは伝三郎が没した明治45年(1912年)の遥か後にあたり、長男の藤田平太郎が藤田家二代目当主となった時で、結果的に完工まで60年を超える事業となった。

しかし、甚だ勿体なきことかな・・・戦後始まった農地改革(昭和21年(1946)~25(1950)年)で藤田組は干拓農地の所有権をすべて失うことになる。

◆金本位制への賛意・・・

己の身が逆境に置かれるも、私心を捨て国家の大計に資する意思を表明したこともあった。

明治22(1889)年当時、貨幣制度を金本位制か、それとも銀本位制かにするかで政府が揺れている時、銀しか採掘できない小坂鉱山を抱えていた伝三郎は銀の価値が下がることを承知で金本位制の採択を主張し、金本位制が決まる。

この結果、銀の価格は急落。

経営していた小坂鉱山は案の定、経営危機に陥る。

困った!

このため井上馨侯の口利きで、毛利家から20万円(当時)を借り受けることになった。

しかもこの時、政府から国防の寄付の依頼を受けた時があった。

何と、伝三郎は願い出られた寄付に応じたのだ。

資金繰りが厳しい時だというのに。

資金の貸し手の毛利家、またその仲介人ともいえる井上馨侯の忠告も腹に収つつ、己の哲学に忠実に、私心なく物事を運ぶ。

なかなかできることではない。

無茶なのか。

いや、やむにやまれぬ思いで寄付に応じた伝三郎。

この豪胆さには脱帽する。

しかも涼しい顔で。

では、藤田伝三郎はどのような幼少期を歩み、事業を展開しながらも、いかに独自の公共心を育み、大阪の商工会議所会頭を務めるまでになったのだろうか。

・・・つづく

(学23期kz)

椿山荘(藤田観光)

大相撲五月場所を迎えて


山口大学経済学部同窓会

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【2026年5月 トピックス】


・大相撲五月場所が10日(日)から両国国技館で始まりました。
今場所は横綱大の里が先場所の4日目からの途中休場に続き、左肩鍵盤損傷という診断で初日から全休です。
稽古も全く出来ない状態ではやむを得ません。

又、先場所連続優勝すれば横綱昇進を期待された安青錦はまさかの負け越しで今場所カド番となりましたが、場所前の稽古で左足首を痛め休場となり、痛みが引けば途中出場もあるようですが、治療に専念し、来場所10勝以上を挙げて、大関復帰に賭けてほしいです。
無理して途中出場し、土俵生命に影響するような怪我はしてほしくありません。
ということで、以前から日本人横綱大の里の一強時代到来を予想し、大の里ファンには良いが、年6場所の内、5場所を優勝すれば白鵬の45回の優勝を破るペースとなり、大相撲人気は落ちると危惧しましたが、他の力士の台頭ではなく大の里がこういう形での失速は残念でなりません。



・今場所は豊昇龍の横綱になって初めての優勝なるかと期待しましたが、初日に敗れたばかりか、右足を痛め2日目からの出場が心配です。
大関再復帰した霧島の連続優勝なるか、大関琴櫻の久々の復活なるかと思いましたが、初日早々、琴櫻は小兵の藤の川に完敗でした。
関脇に昇進し、安定した力を発揮し始めた熱海富士は曲者一山本に躱され、やられました。
ダークホースと思われた関脇昇進の琴勝峰も黒星スタート。
優勝争いは、まだ始まったばかりですが、稽古十分の霧島中心に展開か。



・応援している力士では先場所から応援し始めた霧島白星スタート。(一推しの幕下40枚目に昇進した光星竜(174㎝、124.9kg)の音羽山部屋の部屋頭)
阿炎は良い相撲で動き回り白星発進。
勿論、阿炎-霧島対戦の時は阿炎を応援。
平戸海、王鵬、若元春、玉鷲黒星スタート。
今場所から台湾絡みで応援し始めた十両東白龍は白星スタート。
幕下、深井改め朝ノ龍白も星スタート。
三段目、山口市絡みで応援している若輝元、先場所7番相撲で怪我し全休。
大ショック。
序二段、大当利黒星スタート。
初日は光星竜、木竜皇、千代大宝、翔傑の取組みはなし。

追記)写真はベースボール・マガジン社「相撲」より借用
(学22期 Y・Y)(会社法、永倉ゼミ)
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三人の財界巨人 その2 藤田伝三郎①

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【2026年5月 トピックス】

◆五指に入る大富豪

世に出回っている、いわゆる”豪商物語”の中には高田屋嘉兵衛、岩崎弥太郎、五代友厚、渋沢栄一、伊藤忠兵衛らと並んで、藤田伝三郎の名が出てくる。

明治45(1912)年、72歳で他界した時には「日本で五指に入る大富豪」ともされた。

藤田伝三郎を指す形容として「明治実業界の傑物」、「明治財界の風雲児」とされるものもあるが、「大阪実業界の重鎮」、「関西実業回界の大立者」など、西日本の財界を代表する形容が多く、「住友と並ぶ西の二大富豪」とするものもある。

初代の五代友厚(薩摩)に次いで、二代目の大阪商工会議所の会頭を務めたためだろか。

また、その土地(地域)に対する一大勢力を張った重鎮としての影響力という観点では、「実業界の巨人と称すべきは、東の渋沢栄一、西の藤田伝三郎」(吉本義秋「大阪人物小観」(明治38年))とするものもあり、調停ではあたかも「親分」のように、もめごとを収めたという話が残っている。

◆秀吉格の伝三郎

藤田伝三郎を評する者は、その手掛けた事業内容が似ており、美術収集にも精を出した大倉喜八郎(越後)と対をなすとして、「東の大倉、西の藤田」と評した者もいた。

また、日本で最初のデパート・三越の基礎を作った実業家・高橋義雄は、明治の実業家と戦国時代の英雄を対比させ、藤田を豊臣秀吉になぞらえた。

というのも五尺の小身、天下を圧する豪胆、網島に大伽藍を建て、比肩なきほど書画骨董を収集して明治に引き継いだのがその理由というのだ。

「西の藤田伝三郎、東の渋沢栄一」と藤田を豊臣秀吉と見做すならば、渋沢栄一は誰に相当するか。

先の高橋は渋沢栄一を上杉謙信と見做した。

(なお、上記・高橋氏は藤田のライバル大倉喜八郎を武田信玄、岩崎弥太郎を織田信長と見做している)

ただ、藤田観光、藤田美術館・・・という形で藤田の名前は残っているが、藤田伝三郎自身を知る者は意外と少ないのではないか。

大変もったいない話だが、これは理由なしとしない。

つづく

(学23期kz)

藤田美術館
藤田美術館

蝦蛄(しゃこ)入れ失敗 (マンション管理人はつらいよ)

山口大学経済学部同窓会

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【2026年5月 トピックス】



・長州歴史ウォークに参加して、以前ですが、マンション管理人をされている方お二人にお会いする機会がありました。
又、私の学生時代からの友人が、私が長年マンション管理人をやっていることを知り、(私は3社の管理会社で5年半)自分で見つけてもう14年目のマンション管理人をやっています。

2012-4-8mixi投稿分より引用
・寿司ダネの蝦蛄ではありません。(笑)
しゃこと言っても車庫入れのしゃこのことです。
先週、往診の医師が居住者を訪ねてきて、立体駐車場を使われました。
最近になって外部の人が居住者を訪ねてきても、居住者が料金を支払い居住者の責任において一時的な利用が可能となりました。
これまでは親族や友人に限られていました。
近くに有料駐車場がないので便利になりました。

・ところが、その医師は70歳位のご婦人を訪ねて週2回往診にやってきます。
それも私の昼食時間に掛る時も多々あります。
そのご婦人もその医師を迎えられます。
ところが、先日は立体駐車場の利用が多い日で空いているところが限られていましたので、車庫入れが難しいところになったのです。
そして無理な角度で車庫入れをすることになり、新車の後部を立体駐車場の設備の柱にぶっつけてしまいました。
医師「そこに突っ立っていてどうして車庫入れの誘導をしないんだ!!」
私「操作盤の操作はしますが、誘導はこれまでもしていませんよ。」
医師「何おぅ、車の傍にいたではないか。」
住民のご婦人「そうだ、そうだ、車のところにいたではないか。」
医師「距離感がわからないので、困るではないか!!」
その後も応酬はしましたが、その医師は切れてしまい大声を張り上げて暴言は続きました。
「どうしてこんな車庫入れが難しいところに案内したのだ。平置きの空いている場所があるではないか。30分やそこいらの時間だよ。」
(単にあなたの運転が下手なだけです。)
「平置きは居住者が年間契約で借りておられて、たまたま外出等で不在なだけで置くことは出来ません。いつ帰って来られないとも限らずトラブルとなるので管理組合からもきつく言われています。」
居住者「お宅は融通が効かない。以前の管理人はいろいろと融通を効かせてくれた。管理組合に言わないと」
(この婆さん、昔のことを言って10年前で時間が止まっているのではないか。)
居住者のお客様(婆さん)がおられたので、なだめることも考えてこちらは言いたいことも限られます。
会社や管理組合に迷惑がかかると困ります。
その医師もそんなに取り乱したのでは血圧も上がり往診どころではありません。
「立っているだけでどうして誘導しないんだ。それが管理人の仕事ではないか」
(事故が起こった時に誘導が悪かったと言われ責任が掛ってきます。)

・往診を終えて帰る時も「無料ではなくお金を払っているのだから、車庫入れ誘導は当たり前だ」と言い放ち帰って行きました。
医師は特権階級意識が本当に強く困ります。(特注、経済学部を卒業され医師になられたI氏には大変お世話になっていて人格者です。)
人生の最終章だというのに初老の男二人と老婆一人の醜い光景でした。(笑)
(学22期 Y・Y)(会社法、永倉ゼミ)
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三人の財界巨人 その1

山口大学経済学部同窓会

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【2026年5月 トピックス】

◆長州の財閥

明治以降、長州・萩城下から伊藤博文、山県有朋、桂太郎、田中義一が宰相に上り詰め、彼らの側近として多くの旧長州藩士が明治の官界や軍人の世界で活躍した。

しかし、これとは別の世界もあった。

長州出身でありながら、政治でもなく、軍の世界でもなく、商工業の世界において我が国有数の企業体を作りあげた者たちがいる。

有数の企業体というより、むしろ屈指の「財閥」を産み出したといってもよい。

誇らしい話だ。

藤田伝三郎、久原房之介、そして鮎川義介の三人だ。

◆長州の中では・・・

彼らが活躍し始める少し前は攘夷を巡って反幕府の立場をとる急進派(いわゆる正論派)と、幕府に恭順を示す保守穏健派(俗論派)との間で長州藩の藩論が二分された時代があった。

急進派の代表が村田清風・周布正之助・高杉晋作で、農村支配の強化を目指した。

他方、保守穏健派の代表が坪井九右衛門・椋梨藤太で、彼らは重商主義を唱え、商人を味方に寄せた。

この争いで、急進派が勝ち、坪井は投獄抹殺、椋梨も処刑され、商人重視の系譜は薄くなる。

しかし、こうした中から萩を後にし、たくましく成長したのが3人だ。

◆三人の財界巨人

  • 明治時代に活躍し、「西の渋沢栄一」といわれ、藤田グループを作り「西の渋沢栄一」と呼ばれた男爵・藤田伝三郎
  • 藤田伝三郎の甥で、明治の後半から大正時代にかけて実業界で活躍し、昭和には政界に転じた久原財閥の総帥・久原房之介
  • 久原房之介の義理の兄で昭和に入って活躍し、日産コンツェルンの創始者となった鮎川義介。

この三者は親戚関係にあった。

◆藤田伝三郎

主に明治の時代に活躍した藤田伝三郎は橋梁、鉄道、繊維、土木、金融、新聞など多くの事業に手を広げ、果ては商工会議所の会頭へと上り詰め、八面六臂の活躍をする。

裸一貫から一代で藤田財閥をつくりあげた。西の渋沢栄一といわれるゆえんだ。

また、著名な経営者を育てるとともに、美術品の収集を図り、慈善事業にも力を注いだ。

藤田組(現・DOWAホールディングス)の創始者で、民間人初の爵位(男爵)を受ける。

しかし、主たる事業となった鉱山事業が経営不振になった際、事業を甥の久原房之介へ譲る。

◆久原房之介

藤田伝三郎から譲り受けた鉱山業が経営不振になった折、久原は事業を奇跡的に立ち直らせる。

鉱山業にとどまらず、幅広い事業に活躍し、その中には小平浪平率いる日立製作所も誕生させた。

久原は鉱山事業に見切りをつけて事業を義理の兄の鮎川義介に譲り、本人は政界に進出する。

政界では立憲政友会総裁となり、日中、日ソの関係復興に尽力し、一時は吉田茂と総理の座を争ったこともあった。

◆鮎川義介

久原からバトンを受け継いだのは鮎川義介。

鮎川にとって久原は11歳年上であるが、鮎川の妹・清子が久原房之介の嫁になっており、久原は鮎川の義理の弟にあたる。

鮎川も事業を受け継ぎながら政界にも身を置き、日産自動車、日立製作所を花開かせる。

◆井上馨侯爵

これまで挙げた三人が節目、節目で世話になり、経営が斜めになり資金に窮した時に頼みに行った先が明治の元勲・井上馨侯爵だ。

井上馨侯も三人と親戚関係にある。

すなわち、井上侯にとって鮎川義介は大甥だ。

久原房之介は鮎川の義理の弟で、久原の叔父が藤田伝三郎だ。

井上馨侯と藤田伝三郎はほぼ同年代で、井上侯が伝三郎より4歳年上にあたる。

藤田伝三郎、久原房之介、そして鮎川義介。

長州出身のこの3人が、明治、大正、昭和にかけ、実業界で大活躍する。

我々山口高商以降の先輩方も、彼らが創った企業に就職し、彼らのリーダーの下で働いた先輩方が多くおられる。

つづく

(学23期kz)

藤田伝三郎
久原房之介
鮎川義介

東郷平八郎 ⑥緻密な計算と鍛錬

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年5月 トピックス】

◆東郷は「運が良い男」、「強運の持ち主」ということになっている。

しかし、東郷は戦うに当たり、緻密な計算をしている。

運に頼って戦いをする男ではない。

◆東郷の確実な勝算の根拠

勝敗の決め手は、ずばり「兵力差」だ。

艦砲の命中率と砲弾の威力で測定される兵力。

敵方との差をどこまで広げることができるのか。

圧倒的な兵力差があれば、負けるはずがない。

両艦隊の大型大砲(大口径砲)と射程距離の短い中型大砲(中口径砲)を比べると、大型はロシア勢が有利だが、中型を含めて考えれば日本側が優勢だ。

この優位さを活かすには、中型大砲の射程距離が有効な5000メートル以内まで接近した戦法をとる必要がある。

東郷は実際の兵力差を次のように計算した。

艦砲は発射速度によって命中率が異なり、発射速度が早ければ命中率が高まる。明治37年の日露黄海海戦で大打撃を受けたロシア軍艦の艦砲の発射速度は日本の約3分の1であったと計測されている。

日本の艦砲358門、ロシアの艦砲245門。

このため日本の実質的な艦砲は358門の3倍、すなわち1074門と勘定できる。

これに対しロシアの艦砲は245門。

このためロシアの砲力は245/1074=23%、すなわち日本の約4分の1弱と計算される。

次に火薬。

日本の砲弾の火薬は「下瀬火薬」だ。

帝国海軍の技師・下瀬正充が開発した「黄色火薬」はロシアを含め他国海軍が使用していた炸薬の「黒色火薬」よりも2倍の爆発力・発火力があった。

下瀬火薬・・・大げさなようだが「まるで鉄板も燃焼させるほどの火力を有していた」ともされる。

下瀬火薬の威力が敵の2倍とすると、ロシア艦隊の砲力は半減し、日本の12%にまで落ちる。

それでも東郷はこうした数字の上での優位に満足せず、明治38(1905)年2月から5月にかけて猛訓練をし、艦砲の命中率を3倍に高めている。

これによって、ロシアの艦砲の兵力は日本のわずか4%という計算が成り立つ。

さらに東郷は駆逐艦、水雷艇隊の猛烈な夜襲電撃訓練で魚雷の命中率を数倍高める技術を磨いていったという。

◆こうした鍛錬の下、作戦計画は愛媛・松山出身の秋山参謀が立案したという陣形で戦う。

バルチック艦隊を迎え撃つ陣形が「七段の構え」で、その決め手が敵の前路を抑えて逃がさない「丁字戦法」だ。

しかし、こうした作戦を練り上げて、実戦に用いるためには、勘と度胸と鍛錬が必要だ。

チーム東郷はこれによって「確実な勝算」を得、それを「確実に実行」してバルチック艦隊をほぼ全滅させ、日本を勝利に導いた。

・・・「運の強い男」、東郷・・・

逆説的に言えば、「運の強い男」になるには、泥臭く、自分の納得がいくまでトコトン鍛錬に鍛錬を重ねる努力が必要なのではないか。

血と汗を流して、微かな運を手繰り寄せていく鍛錬の連続。

こうした鍛錬こそが、東郷平八郎を強運を浴びた「海の守り神」に変えた。

つづく

(学23期kz)