三人の財界巨人 その5 藤田伝三郎④

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年5月 トピックス】

◆振り出しは家業の醸造業

商家の4男に生まれた伝三郎。

16歳で家業の醸造業(酒・味噌)に従事するも、18歳の時に父が死去。

この時、伝三郎は家業を兄の鹿太郎に任せ、後継ぎがいなくなった分家の事業(やはり醸造業)の再興を願う母の望みに沿う形で分家の事業再興に取り掛かる。

醸造方法の研究をし、各種の改良を加えることにより、3年後の文久3(1863)年、伝三郎が23歳の時に事業は黒字化し、分家の事業再興を果たしている。

◆長州の内憂外患

伝三郎が分家再興を果たした時とは文久3(1863)年。

この年を含めた一両年は長州藩の運命の岐路となった大変な事件が立て続けに起きた時期にあたる。

長州藩内では幕府に対する姿勢で、これまで革新派(正義派)と保守派(恭順派または「俗論派」)が主導権争いをしてきた。

この年には保守派が藩内を掌握していたが、そうした中、攘夷決行の勅令に基づき、長州藩が外国船籍を攻撃し、下関戦争が始まる。

しかし宮廷内では急進派長州藩に手を焼く会津・薩摩の両藩が京から長州藩の締め出しにかかる。

長州はこれに対し反発し、京での復権を狙う。

翌年には新選組による長州藩士の討伐事件が起こり、これを契機に長州藩兵が京に上り、禁門の変が起きる。

これで長州藩は朝廷に弓を引いた形になった。

◆禁門の変の直後、攻撃を受けた四国連合艦隊が長州を攻撃し、長州は内憂外患の状態に陥る。

こうした中、幕府は長州征伐に乗り出し、長州藩内では高杉晋作などの急進派が追われることになる。

高杉は場合によっては追われる危ない身でありながらでも、連合艦隊との講和交渉役に抜擢される。

何とか交渉を乗り切りながら、藩での革新派の失地回復を図り、ゆくゆくは倒幕へ向けて、功山寺で挙兵した。

◆伝三郎と奇兵隊

藤田伝三郎は商人ながら、攘夷思想を有し、こうした革新派(「正義派」)に賛意を示し、京にも上り参戦している(藤田翁言行録―注)

伝三郎は「奇兵隊では良く働いた」と語っているが、どうやらその功績が認められなかったようだ。

これに不満を持ったたことも、伝三郎が大阪へ向かった要因のようだ。

伝三郎は醸造業だけではなく、掛屋(金貸し)も営み、資金的には潤っていたようで、奇兵隊への貢献としては、資金の寄付もしていたようだ。

しかし、伝三郎の奇兵隊への寄与にし方は下関の豪商・白石正一郎とは異なる。

伝三郎の奇兵隊への寄与は大きくはなく、奇兵隊の名簿にも藤田伝三郎の名は載っていないという。

しかし、藤田伝三郎の奇兵隊を契機とする軍閥との縁や官界長州閥とのつながりは、伝三郎の大阪での事業の成功に後々、大きな影響を及ぼすことになる。

注)藤田翁言行録とは-三井銀行大阪支店長当時、藤田伝三郎に呼ばれ北浜銀行頭取になった岩下清周がまとめた藤田伝三郎伝

(学23期kz)

参考

【出来事メモ】

◆【文久3(1863)年】

・3月

孝明天皇と徳川家茂が会見、幕府は攘夷を確約

・5月10日

攘夷実行期限にあたり孝明天皇から書簡(宸翰・しんかん)が発せられる。

・同日

長州藩では勅命どおり直ちに攘夷を決行。関門海峡を通りかかった米国船(商船)を砲撃

【翌日5月11日には長州ファイブが英国へ出発(密航にあたる)】

・6月3日

高杉が下関の豪商・白石正一郎邸で奇兵隊を結成。

・8月18日の政変

会津・薩摩の両藩による攘夷急進派の排除工作が奏功し、孝明天皇が宮廷から反幕急進派の公家や長州藩を宮廷から退去を命ず。

・8月19日

三条実美ら七卿が都落ち。

・10月には奇兵隊を除く遊撃隊が結成。京での巻き返しを狙う。

・秋口から翌年にかけて

攘夷派の動きが活発化。これに対し幕府は攘夷派排除・鎮圧へ。

◆【翌元治元(1864)年】

・3月27日

水戸藩で攘夷派の天狗党の乱が勃発。

・6月5日

池田屋事件。新選組が池田屋で会合中の長州藩士や攘夷派の志士を襲撃。

・池田屋事件を機に長州藩兵が京都へ。

・7月19日

禁門の変。 2時間で長州藩側が敗北。

・7月23日

 第1次長州征伐。

・8月5日

四国連合艦隊からの報復攻撃あり。

・8月8日

高杉晋作が連合艦隊と和平交渉。

・11月11日

長州藩の三家老・四参謀の斬首、山口城の破却で幕府に恭順。

高杉も追われ九州へ逃走、また井上馨も恭順派に襲われ瀕死の重傷。

・12月15日

高杉晋作の功山寺挙兵

藩内の恭順派制圧と倒幕を睨む。

・翌年3月

高杉の反幕急進派、長州藩の主導権掌握

奇兵隊

随筆 横目で眺めた経済学 26・経済対策の効果 ①

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年5月 トピックス】

◆景気対策

世論調査の中で、最も関心が高いのが経済問題だ。

その中でも景気対策を求める声が多い。

一般的にマクロの景気対策では財政政策や金融政策が用いられる。

財政政策か、金融政策か。

あるいは両方か。

◆教科書的に言えば・・・

景気過熱を抑えるには財政政策を用いるより、金利の引き上げが有効だとされる。

利上げだ。

しかし、状況による。

景気が過熱しても、カネ余りで企業がキャッシュリッチな状態にある時には、利上げをしても効果は薄いことになる。

逆に、景気が悪い時には財政で景気浮揚を図るのが効果的だとされる。

かつては「カンフル剤」として実施された財政出動、いわゆるケインズ政策だ。

しかし、開放経済の下では財政政策はあまりよく効かないとされる。

マンデル・フレミング効果が出るからだ。

すなわち財政出動すれば、クラウディングアウト効果もあり金利が上がり、投資にネガティブな影響を与えるが、こうした要因を除いても、利上げに伴い自国の通貨価値が上がるため輸出にブレーキが掛かり、GDPを押し下げるというのが教科書的な説明だ。

◆政策の効果

しかし、昨今はどうか。

様々な要因から長期金利が上がっているが、為替レートはどうか。

円高どころか、円安が是正されていない。

この為替レートも、金利、世界との金利格差、遠い戦争と近い戦争など各種要因によって左右され、複雑に絡まり合い、このうちどの要因がどの程度為替レートの上下に効くのか確定的なことは言えない。

◆積極財政派は、大盤振る舞いの財政出動をしても財政は悪化せず、むしろ名目成長率が上昇し、その結果税収が伸びるため、積極的に財政出動すべしとする。

しかし、税収は名目成長率によって左右される。

そこで日本の潜在成長率をみると、どうか。

1%を切りって久しい。今では0.5程度だろうか。

人口減少化が続いており、0.5すら怪しくなっており、ゼロ近傍と計測する有識者もいる。

また、昨今の「年収の壁」のインフレ分を超えた大胆な引き上げは減税を意味し、租税弾性値を引き下げかねない。

財政政策の在り方も難しい局面にある。

◆財政目標の緩和策が試みられているが、「金利のある世界」が戻ってきている。

G7の中でも突出して政府長期債務残高・GDP比が高い我が国で、長期金利の上昇に伴う利払い費の増加が続けば、「予算が組めない事態」がすぐ近くまで来ていることを意味している。

政府が言う「潜在成長率を引き上げることを目的とする財政政策」は果たして効果が有るのか。

これまでも労働生産性は米国の6割程度、TFP(全要素生産性)は8割程度とする調査も発表された。

特にサービス業や中小企業の労働生産性が低いのは「日本病」とは言えないか。

また、労働生産性の高い自動車や電機も海外に出て行って久しき、生産性にはマイナスに寄与している。

かといってAIに活用も諸外国と比べてフル活用とはなっていない感がある。

こうした中で、働き方改革で総労働時間もへり、若者の減少で生産年齢人口も減っている。

潜在成長率を高めることは難しくなっている。

こうした中、「財政赤字を拡大させてまでも潜在成長率を高めること」は可能なのか。

◆目白押しの歳出増要因

経済成長の恩恵で税収が増えることはある。

しかし、こうした恩恵は景気次第だ。

毎年毎年、こうしたギフトが届くわけではなく、来難はどうなるかわからない。

逆に歳出増加の要因はほぼ恒久的なものが多い。

防衛、教育、福祉、所得格差是正、国土強靭化・・・

最近では「イチゴから艦艇」までの重点投資17分野や中東情勢を映じた物価対策。

こうした施策を講じなければ政権が持たないのかもしれない。

◆歳出の入れ替えを置き去りにしたまま、こうした歳出増に応じ続けることは可能なのか。

これまで既得権化した歳出をゼロから見直すサンセット方式なども魅力的な案だ。

しかし、歳出を切り込みたいところには、社会、企業、政治など各方面からの強い圧力がかかる。

「経済学的に、合理的に」・・・とはいかないのが現実だ。

これまではそうだった。

しかし、昨今の日本の財政の現状はここで留まって大丈夫か、歳出構造の転換を計らないと日本は持つのか、

という状況に立ち至っていないことを祈る。

(学23期kz)

財務省 正面
日本銀行 上空から

洗濯日和…

山口大学経済学部同窓会

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【2026年5月 トピックス】

◆4年前に脳梗塞で倒れ、残念ながら身体障害者、要介護5となった妻は、平均年齢が20歳以上も人生の先輩方々の中に混じり、介護付き老人ホームにひとりで居住する。

以来、炊事、洗濯等の家事は私ひとりで行うのが日課となった。慣れてきたとは言え、毎日のメニューを考えることが如何に大変かと思うようになった。以前よく妻に今夕は何が食べたいと訊かれ、私の「なんでもいい」という返事は随分妻に嫌がられたものだった。妻の苦労、そして世の奥方のご苦労が理解できるようになった。妻に感謝、そして洗濯物をことごとく乾かしてくれるお日様に感謝する毎日である。

◆そんなルーティーンの毎日、ふと昔の思い出が蘇ることがある。

洗濯物を干しながら、ザルツブルグ(オーストリア)の丘から一望できる市内の景色を思い浮かべていた。

1990年、当時赴任地であったベルギーから休暇で家族と共に車でオーストリアを旅行したことがある。

ザルツブルグでは、モーツァルトの生家やザルツブルグ祝祭大劇場(Große Festspielhaus)を訪問。 

ザルツブルグ祝祭大劇場は、映画「サウンドオブミュージック」の舞台にもなった劇場である。

劇場正面玄関には、正に今から劇場に入場しようとするタキシードやロングドレスで美しく豪華に着飾った観客が多数いた。その景色が珍しく、それを一目見ようと道路を挟んだ反対側に、黒山のような人だかりが何かしら可笑しかった。ヨーロッパ社会のminorityの文化の一面を見た気分で、こんな世界の存在に嫉妬心さえ感じながら、自分達もその黒山の一部であった。

◆そのまさか翌年1991年8月5日に妻と一緒に同じ場所に行くとは想像だにしなかった。

当時、オーストリア大手企業のO社グループと本社(当時勤務先)経営陣との間で、取引関係を新規に構築しようとの動きがあり、幸いなことに私の取り組み案件が新規取引第一号となった。そのO社グループからご褒美として私に夫婦でザルツブルグにて開催されるモーツァルトの生誕200周年記念のオペラ鑑賞への招待状を頂いた。

早速本社に報告すると同時に、私個人として初めてのオペラ鑑賞となるため、先輩社員に相談したところ、オペラ鑑賞はタキシードがMUST、オペラは必ず眠くなるから、事前にオペラの題目を訊いて内容を勉強してから本番に臨んだ方がよいとのアドバイスがあった。

題目は、「クレタの王イドメネオ」(モーツアルトが1781年に作曲したイタリア語のオペラ・セリア)、関連オペラ資料写しを入手し、第3幕までの内容を予習。

一方、私自身タキシードは持ってなかったので、O社担当役員G氏に相談するとタキシードまでは不要でダークスーツでOKとのことなので、ダークスーツを新着した。当日G氏はしっかりとタキシードを着ていたので、やはりタキシードであったかと反省することしきり…。

◆ザルツブルグに妻と到着すると、G氏が出迎えに来られ、彼の車で宿泊するホテルへと向かった。宿泊したホテルは、ザルツブルグの丘よりさらに標高の高い所にある意外にこじんまりとしたホテルで、宿泊部屋はさほどなくせいぜい20部屋程度か…。

ロビー内に入ると、過去にこのホテルに宿泊したらしいサッチャー首相と、ニクソン大統領の大きな写真が掲げられていた。日本の政治家や有名人の写真がなかったのが残念だった。

その後、G氏と仕事の打ち合わせを(妻はG氏の妻とダウンタウンで買い物に)、テラスで行った。

ザルツブルグの街並みが眼下に小さく見え、遠くにはアルプスの山々が一望でき、思わず声を上げたくなるような絶景。 素晴らしい景色に圧倒され仕事への緊張感が薄れ、集中力が失われそうな時、突然我々の後ろの席から日本語が聞こえてきた。振り返ると小澤征爾さんと奥様(入江美樹さん)であった。どうしてはるばるこんな場所まで小澤征爾さんが…と思ったが、このホテルは知る人ぞ知る有名な場所なのだろうと納得した。

◆夕刻になり、G氏夫妻と共に、ザルツブルグ祝祭大劇場へと向かった。1年前には黒山の観光客集団の一部であった我々は、今度は反対側の劇場正面の入り口に、観客の一部として立っている…

居心地は悪くなかった。

この日のために新調したダークスーツであったが、やはりタキシードを新調すべきであった。

O社が準備してくださった観客席の正面中段の特等席で、O社役員夫妻と共に観劇開始。

舞台下にスポットライトが当たり、突然、指揮者の小澤征爾がライトに照らされて出現し、小澤征爾さんがつい先ほどホテル内で隣にいた背景に納得。

オペラは1度の休憩を挟み、約3時間近くに亘った。

休憩時間には観客が一斉にロビーへと繰り出し、まるでカンヌ映画祭授賞式のように着飾った観客が、シャンパンを片手に集った。

オペラは途中で眠くなるものと聞いていて、集中力が途切れないようにしっかりと予習をしていたが、

流石に最終第3幕になると睡魔との闘いであった。かろうじて耐えたのは空腹のせいだったような…。

◆オペラが終わり、G氏の車で宿泊ホテルのレストランへ行くという。

レストランに到着し、食事を開始したのが夜の10時過ぎであった。其の間にも次々とお客が到着し、

時折、拍手や歓声が沸くので何か訊くと、つい先ほどまでオペラ舞台で歌っていた主人公、役者達とのことであった。

何もかもが夢のようなザルツブルグでの思い出である。

(学23期 倉田一平)

現在のG氏

                             

大相撲五月場所を終えて


山口大学経済学部同窓会

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【2026年5月 トピックス】


・横綱・大の里、カド番大関・安青錦の休場で始まった五月場所でしたが、横綱・豊昇龍が足の怪我で、2日目から突然の休場。
その後は小結・髙安の休場、平幕・朝紅龍、大関・琴櫻、元大関朝乃山と7力士の休場となりました。
大変な場所となりましたが、大関に復帰した霧島の独走かと思われましたが、小結・若隆景が追走し最後迄頑張りました。
決定戦の末、若隆景の逆転優勝。
こうした中、義ノ富士、琴栄峰、伯乃富士、宇良が大活躍し、次場所以降の更なる活躍が期待されます。
次の名古屋場所は豊昇龍、安青錦は心配していませんが、横綱・大の里は師匠が名古屋場所は地獄と言われているのが心配です。
審判の時の表情も暗い。

・私の応援している力士では、霧島が準優勝に終わりました。
最後まで良く場所を引っ張りました。
(幕下で応援している光星竜の音羽山部屋の部屋頭)
阿炎、5勝10敗。肘、膝等が悪いと思われ、あっけなく崩れる事が多くなった。
まだ32歳、見守る以外に無い。
玉鷲、爪先を浮かし、踏ん張れない。
相撲を取れる状態ではない。
2勝13敗、十両に陥落か。
平戸海、7勝8敗、全力で奮闘している。
若元春、5勝10敗。鋭い踏み込みに欠け勝てなくなった。
十両、東白龍、台湾絡みで応援し始めたが、決まり手に引き技が多いのが上を目指すのには気に掛かる。6勝9敗。
幕下、深井改め朝ノ龍、4勝3敗。
同じく光星竜、4勝3敗。
三段目、木竜皇、7勝全勝。
山口市絡みで応援している三段目。若輝元、怪我で全休。
来場所大きく番付下げそう。
同じく千代大宝、5勝2敗。
三段目、翔傑、2勝5敗。
大当利、3勝4敗。

特記事項)
1)先場所から音羽山部屋の光星竜を応援しています。(25歳、174㎝、125㎏)
今場所は幕下40枚目に昇進し、対戦力士は大きく実力者ばかりの中で4勝3敗の成績でAbemaでリアルタイムで7番視聴しました。
4勝1敗からの2連敗は痛く悔しいです。
立ち合いの突っ掛けが目立ち、まだまだ課題は多そうです。
関取を目指して頑張れ。

2)怪我で十両から序ノ口まで番付けを下げていた木竜皇が先場所に続き、旭富士との優勝決定戦となりました。
万全の体勢となり、後一歩まで追い詰めやったぁと思いましたが、無念。
奇跡は起こりませんでしたが、十両復帰を目指して頑張れ。
3)今場所も熱戦が多く際どい相撲が多かったです。
三日目の霧島ー藤ノ川戦で藤ノ川の足が明らかに出ているのに正面審判長尾上親方は手を挙げず、続行、霧島がその後、上手投げ。
物言いはつかず、場内アナウンスの決まり手は押し出しのみ。
館内の人は意味不明。

12日目の藤青雲ー熱海富士戦。
Abemaでは熱海富士の爪先が出ているように見えたが、微妙。
その後、続け、双方微妙な一番となり、物言いの末に取り直し。
熱海富士が勝った。
熱海富士の足、云々は物言いでは全く触れられず。
正面審判長、浅香山は何を見ていたのだろうか。

・提案
このハイテク時代にビデオ室の機能を小規模でも急遽、土俵上に設けられないものか。
ビデオ室からスマホに送信すれば見れるのではないか。
ビデオ室の判定が実質1人であり、参考にし、最終的には審判団が決めるとはいえ、最悪でも2人体制にしてほしい。(恣意性を避ける為)
(学22期 Y・Y)(会社法、永倉ゼミ)
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三人の財界巨人 その4 藤田伝三郎③

 山口大学経済学部同窓会

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【2026年5月 トピックス】

◆先祖は小野妹子

先祖を辿っていくと小野妹子に辿り着くという話もある。

小野妹子の出は近江の国(滋賀県)小野村。

推古天皇治世下、聖徳太子がしたためた「日出づる処の天子、書を没する処の天子に致す。恙なきや」との国書を抱いて隋に渡った遣隋使、今でいう外交官だ。

◆父は醸造屋ながら勉強家、それに慈悲深い母

時代が下る。

伝三郎の父・藤田半右衛門は下松で酒や醬油を創る醸造屋を営んでいた。

事業の方は熱心で、意欲的だった。

しかし、下松の老舗で安住することを良しとせず、都・萩城下に出て酒造家に奉公、そこの娘を娶って萩で酒造業を営む。

また父半右衛門は相当な勉強家だったという。

商売の傍ら儒教の経典・四書五経を学び、店の若手を集めて講義をし、自ら講義の中身を実践していたらしい。

熱心な仏教徒でもあったようだ。高野山で三年修行したとされる。

情に篤く、困った者がいれば、施しを為した。

情に篤いのは伝三郎の母も同様だ。

母は父に輪をかけるほど仏教に帰依した慈悲深い御仁で、恵まれない者、貧乏な者、孤独な者に施しを与え、施しを受けた者は母の施しに感涙したという。

◆萩で生まれた伝三郎

伝三郎は天保12年(1841年)萩で生まれた。

同年の生まれには伊藤博文がいる。

前年には渋沢栄一が生まれ、翌年には伊藤忠兵衛が生まれている。

また、長州の系譜でいえば、山県有朋の3歳年下、高杉晋作の2歳年下にあたる。

藤田家の四人兄弟のうちの四男。ただし長男・卯一郎は早逝(早世)している。

◆幼少時の学び

伝三郎は幼少時、城下の塾に入って漢学を修め、地元で名のある師の下で儒教を学んでいる。

伝三郎は勉強熱心な父の下で育ち、幼少時に読んだ本の名前が記録に残っている。

・『日本外史』頼山陽著(源平2氏から徳川氏までの武家盛衰史)

・『日本政記』頼山陽著(江戸後期の歴史書。神武天皇から後陽成天皇までの歴史を漢文の編年体での記述本)

・『靖献遺言(せいけんいげん)』浅見絅斎著(中国の忠臣義士の行状について記した書)

・『荀子』(性悪説。人間の本質は悪であるので、礼の理念を体得した聖人によって国家が統治されることが肝要と説く)

・『孟子』(性善説。あらゆる人に「善の兆し」が先天的に備わっていると説く)

『戦国策』(古代中国・戦国時代の権謀術数の記録を編集した書籍)

◆松下村塾と伝三郎

伝三郎が16歳の時、萩郊外の松本村では松陰の松下村塾が最盛期を迎えていたが、商家の系譜である藤田伝三郎は松陰には学ばなかった。これは松陰には武家社会につながる者が多く、また松陰が「国事犯」とされたからだ。

つづく

(学23期kz)

「花失せては面白からず」城山三郎著 山都山口にあった一期一会

 山口大学経済学部同窓会

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【2026年5月 トピックス】  

  岡山支部 岡山Bさんからの投稿            


◆書籍「花失せては面白からず」は 旧東京商科大学において、山田雄三教授と杉浦栄一(後の城山三郎)との 出会いから四十余年の歳月、二人の間に続いた交流について記したものだ。

後年人間を透徹した眼で捉え、経済小説と言う分野を切り開いた著者。この書籍には、若き日悩み多き学生であった杉浦。彼が敬愛してやまぬ経済学者山田雄三教授と、学生時代、大学講師から作家への転換期、そして本格的に作家として生きると決めてからも続く交流の話だ。

杉浦は元々実家に家業があった関係で商業学校へ、そして愛知県立工業専門学校(現名古屋工大)に進学し、理系学生にあった徴兵免除をされていた。戦況悪化の一途をたどる中、 杉浦は学校を中退し、志願して海軍に入隊する。そこで為されていた数々の理不尽、後に城山は「戦争で国家に裏切られた思いがある」と語っている。

少し前に、その若き日の杉浦青年の苦悩、不安を期した新たな日記が自宅で見つかったと言うニュースがあった。


◆バブル経済が膨らみ始める少し前、山都でも本当に”一期一会”、短い時間ではあるが、就職担当教官と濃厚な時間を過ごしたことがある。時間軸は大きく違っても、鳳陽会の先輩、後輩、その関係性において似たような経験がある。

博多に在勤していたこともあって、九州地区、山口のリクルーターを数年間担当した。

ある年リクルーターで山口に帰ったとき、就職指導教官の担当は経営管理の亀本先生であった。研究室を訪ねると、うず高く積まれた書籍の山々、床まで書籍であふれていた。・・・「汗牛充棟」まさしくそれだ。


亀本先生は学務室前の応接室に行って待つよう言われて、そこで始まった約3時間。

勿論、会社から派遣されているので、嘴の青い若造が会社案内と欲しい人材のタイプについて 一応の切り出したであろう、そして、就職して数年たつ若造の言の葉の端からひょっとするとなんらか悩やめる欠片を察せられたかもしれない。


就職担当教官とリクルーター、それはそれとして、山口大学経済学部が持つ魅力についてお話を始められた。その中にはご自身の亀山の学生時代の思い出から、健康状態が優れず、苦学して大学院に進学されたこと、そして、溢れるばかりの”母校愛”を熱く語られた。


自分はただ単なる各企業さんから派遣される若きリクルーター、その一人でしかなかった。


しかし、扱いは大手の一流会社の人事部長と同等、いやそれ以上の鄭重な扱い、そして貴重なお時間を独り占めで頂戴したのだ。(因みに出身ゼミは別のゼミ、亀本先生の授業を受け、強く興味をそそられていたという関係性があるのみ)


こんな研究に、教育に、そして就職について、母校愛に溢れた教師が数多くいた。誇るべき母校だ。


◆その後の話であるが、数年間は6月末ぐらいになるとリクルーターという役割を果たすようになっていた。

勤務していた会社では、当時は先ずは若手リクルーターの面接、推薦、そしてその後の選考である筆記試験、面接試験で選別した後、本社に送り込み、役員面接で最終選考をしていた。

ある年、優秀な学生に出逢った。是非一緒に働きたいと思わせる学生であった。当然強く推薦をした。しかし、悲しいかな筆記試験の”網”に引っかかってしまった。

自分が所属していた業務部の総務課長は”難しいなぁ。。。でも、どうしてもと君が思うなら、直接本社の人事に電話を入れてみてもいいよ”(説得して糸口を手繰り寄せろ)とアドバイスをくれた。

のちに会社人生の経験を積むと分かることになるが、それはかなり難行であること、しかし、自分に与えてくれた仕事、機会だったのだ。残念ながら結果は伴うものではなかった。


本社の人事のある権限を持った人が来福した。そして、その夜、石狩鍋を囲んだ。リクルーターとしての慰労の意もあったのだろうか、別の意もあったかも知れない。所謂、通常の矩(のり)をこえて、人事まで直接電話をしてくる若造?

亀本先生の母校愛の1/100でも届けたいと思った碧き血潮がなしたものではなかったろうかと今では懐かしく回想できる。



◆蛇足

80年代当時の経済学部ではケインズ経済学を中心とした、”近経(近代経済学)”
【原論Ⅰ、原論ⅡA】があった。(別途マル経の原論ⅡBもある)
当時は”ケインズ 一般理論コメンタール”という宮崎儀一と伊東光晴が書いたケインズ入門書としては必須だったのかもしれません。
また、伊東光晴著作の岩波新書の「ケインズ」は今もって名著中の名著とも言われている。
その伊東光晴教授が、安部ゼミ主催の講演で山口に来山し、講演の中であることを”ぶった”のです。

講義室の演台をのしのし左右に動きまわり、少し甲高い声で、メリハリのついたあの光晴節だ。

演台の題目、内容は遥か遠い記憶ですで定かではないが、覚えていることが一つある。
かの伊東光晴にこう言わせたのです。(安部先生も伊東光晴教授も1927年生)

「僕は安部先生にかなわないことがあります。それは安部ゼミが持つ就職力、教育力です。この田舎において、これだけ、大手の超一流の企業に多数の卒業生が就職できていることにはまったく驚きです」と。

安部先生が後輩に想う熱い思い、教育への情熱、熱意、そして厳しい指導、このすべてであると思う。

昨日、安部ゼミ発行の「追昔の影 長くして・・・」を読み直してみました。

6/20 大阪全国総会のお知らせ

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年5月 トピックス】

関西支部から大阪全国総会の周知依頼がありましたのでご連絡します。

(事務局)

◆通常総会(全国総会)へのご参加のお願い

鳳陽会 関西支部 支部長 羽根 彰

拝啓 薫風の候、ますますご健勝のこととお慶び申し上げます。日頃は同窓会活動にご協力をいただき、誠にありがとうございます。

さて、会報『鳳陽』でお示ししましたように、来る6月20日(土)、大阪市において一般社団法人鳳陽会通常総会(全国総会)が下記の要領で開催されます。大阪での開催は9年ぶりとなりますので、「オール関西」で全国の同窓生をお迎えする準備を進めております。

つきましては、ご多忙とは存じますが、支部の皆様へご参加のお声掛けをお願いいたします。コロナ禍以降、会員の高齢化とも相まって、総会参加者は近年減少傾向にあります。全国から日帰りも可能な大阪において、久しぶりに同窓の皆様にお集まりいただき、同窓会活動活性化の起爆剤といたしたく存じます。何卒ご協力のほど、重ねてお願い申し上げます。

ご参加いただける方は、下記の関西支部事務局までメールにてご連絡いただければ幸甚に存じます。

 【開催概要】(詳細は本部会報『鳳陽』をご覧ください)

  ・日時 令和8(2026)年6月20日(土)  

総会 11:00~12:00  懇親会 12:15~14:30

・会場 シティプラザ大阪  

大阪市中央区本町橋2-31  TEL:06-6947-7702/06-6947-7888

最寄り駅:大阪メトロ堺筋線・中央線「堺筋本町」徒歩6分

  ・会費 1万円(40歳未満は5千円)

・出席連絡  事務局長 徳山 博詞  wwhill7.lj@gmail.com

   補佐   横出 俊一  tgfdx621@yahoo.co.jp

         上記いずれかへお願いいたします。

皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。

何卒よろしくお願い申し上げます。 

 敬 具

三人の財界巨人 その3 藤田伝三郎②

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年5月 トピックス】

◆「藤田」の名が残るのは・・・

いま、藤田の名を留めるのは藤田美術館(伝三郎の本宅あとで、紫式部日記絵詞、玄奘三蔵絵第一巻、曜変天目茶碗など国宝9点、重要文化財45点を含む5千点の収集物を収納)。

ワシントンホテルの経営母体の藤田観光(大阪の太閤園・・・伝三郎の長男平太郎の邸宅で結婚式場だったが2021年に閉館。藤田別邸で山県有朋の私邸だった文京区の椿山荘、箱根別邸だった箱根小涌園、京都のホテル藤田京都)、それに伝三郎が手掛けた児島湾干拓地岡山市の藤田村、藤田神社というところか。

◆私財を投げ打った難事業、児島湾干拓

明治22年に政府の許可を得て始めた干拓事業。

八郎潟干拓、有明海干拓と並び、日本の3大干拓事業の一つとされる。

伝三郎はここに多額の私財を投げ打っている。

藤田地区がある岡山平野南部一帯は「吉備の穴海」として浅い海が広がっており、岡山県の3大河川(吉井川、旭川、高梁川)が流れ込むため、広大な干潟があり、早くは8~9世紀に干拓事業が始まっており、干拓の歴史は長い。

明治に入ると、廃藩置県により家禄を奉還した旧士族たちの援産事業としての干拓による農地造成が契機となり、岡山県による公共事業が進められた。

干拓事業は大規模なものになるが、県の懐事情は厳しいため岡山県単独では遂行不可能として国に支援を仰ぐが、国も必要となる資金が余りにも多額として難色を示していた。

大規模な事業である。

岩盤が深く、難工事となるのは必至で、採算がとれる当てもないため誰も事業に乗り出そうとしない。

それでも岡山県は業界各界のトップに、また金融界の大物に話を持ち掛けるが誰も名乗りを上げなかった。

相談を受けた藤田も財界の仲間と共同で事業実施の話を向けるが、ことごとく失敗する。

そこで藤田は腹を決めた。

藤田は己が引き受けることに決めた。

しかも単独で。

伝三郎は日本の農業の将来を考えて、採算度外視で、大規模機械化農業の夢を拓かせんがために事業を引き受けた。

とんでもないことを決断したものだ。

さぞや鬼の形相で決めたのか。

そうではないだろう。

淡々として、能面にも似た普段の顔つきで難題に取りくむ決断をしたのだろう。

その辺の苦渋を顔に出す男ではない。

そうした大胆な腹積もりを他人に自慢したりもしない。

そういう男だ、伝三郎は。

◆難工事

地盤が悪く「底なし沼」状態だった干潟の干拓事業だ。

100メートルでも杭が底に届かなかったとされた。

始まったのが明治32(1899)年、全工程が完了したのが昭和38(1963)年。

これは伝三郎が没した明治45年(1912年)の遥か後にあたり、長男の藤田平太郎が藤田家二代目当主となった時で、結果的に完工まで60年を超える事業となった。

しかし、甚だ勿体なきことかな・・・戦後始まった農地改革(昭和21年(1946)~25(1950)年)で藤田組は干拓農地の所有権をすべて失うことになる。

◆金本位制への賛意・・・

己の身が逆境に置かれるも、私心を捨て国家の大計に資する意思を表明したこともあった。

明治22(1889)年当時、貨幣制度を金本位制か、それとも銀本位制かにするかで政府が揺れている時、銀しか採掘できない小坂鉱山を抱えていた伝三郎は銀の価値が下がることを承知で金本位制の採択を主張し、金本位制が決まる。

この結果、銀の価格は急落。

経営していた小坂鉱山は案の定、経営危機に陥る。

困った!

このため井上馨侯の口利きで、毛利家から20万円(当時)を借り受けることになった。

しかもこの時、政府から国防の寄付の依頼を受けた時があった。

何と、伝三郎は願い出られた寄付に応じたのだ。

資金繰りが厳しい時だというのに。

資金の貸し手の毛利家、またその仲介人ともいえる井上馨侯の忠告も腹に収つつ、己の哲学に忠実に、私心なく物事を運ぶ。

なかなかできることではない。

無茶なのか。

いや、やむにやまれぬ思いで寄付に応じた伝三郎。

この豪胆さには脱帽する。

しかも涼しい顔で。

では、藤田伝三郎はどのような幼少期を歩み、事業を展開しながらも、いかに独自の公共心を育み、大阪の商工会議所会頭を務めるまでになったのだろうか。

・・・つづく

(学23期kz)

椿山荘(藤田観光)

大相撲五月場所を迎えて


山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年5月 トピックス】


・大相撲五月場所が10日(日)から両国国技館で始まりました。
今場所は横綱大の里が先場所の4日目からの途中休場に続き、左肩鍵盤損傷という診断で初日から全休です。
稽古も全く出来ない状態ではやむを得ません。

又、先場所連続優勝すれば横綱昇進を期待された安青錦はまさかの負け越しで今場所カド番となりましたが、場所前の稽古で左足首を痛め休場となり、痛みが引けば途中出場もあるようですが、治療に専念し、来場所10勝以上を挙げて、大関復帰に賭けてほしいです。
無理して途中出場し、土俵生命に影響するような怪我はしてほしくありません。
ということで、以前から日本人横綱大の里の一強時代到来を予想し、大の里ファンには良いが、年6場所の内、5場所を優勝すれば白鵬の45回の優勝を破るペースとなり、大相撲人気は落ちると危惧しましたが、他の力士の台頭ではなく大の里がこういう形での失速は残念でなりません。



・今場所は豊昇龍の横綱になって初めての優勝なるかと期待しましたが、初日に敗れたばかりか、右足を痛め2日目からの出場が心配です。
大関再復帰した霧島の連続優勝なるか、大関琴櫻の久々の復活なるかと思いましたが、初日早々、琴櫻は小兵の藤の川に完敗でした。
関脇に昇進し、安定した力を発揮し始めた熱海富士は曲者一山本に躱され、やられました。
ダークホースと思われた関脇昇進の琴勝峰も黒星スタート。
優勝争いは、まだ始まったばかりですが、稽古十分の霧島中心に展開か。



・応援している力士では先場所から応援し始めた霧島白星スタート。(一推しの幕下40枚目に昇進した光星竜(174㎝、124.9kg)の音羽山部屋の部屋頭)
阿炎は良い相撲で動き回り白星発進。
勿論、阿炎-霧島対戦の時は阿炎を応援。
平戸海、王鵬、若元春、玉鷲黒星スタート。
今場所から台湾絡みで応援し始めた十両東白龍は白星スタート。
幕下、深井改め朝ノ龍白も星スタート。
三段目、山口市絡みで応援している若輝元、先場所7番相撲で怪我し全休。
大ショック。
序二段、大当利黒星スタート。
初日は光星竜、木竜皇、千代大宝、翔傑の取組みはなし。

追記)写真はベースボール・マガジン社「相撲」より借用
(学22期 Y・Y)(会社法、永倉ゼミ)
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三人の財界巨人 その2 藤田伝三郎①

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年5月 トピックス】

◆五指に入る大富豪

世に出回っている、いわゆる”豪商物語”の中には高田屋嘉兵衛、岩崎弥太郎、五代友厚、渋沢栄一、伊藤忠兵衛らと並んで、藤田伝三郎の名が出てくる。

明治45(1912)年、72歳で他界した時には「日本で五指に入る大富豪」ともされた。

藤田伝三郎を指す形容として「明治実業界の傑物」、「明治財界の風雲児」とされるものもあるが、「大阪実業界の重鎮」、「関西実業回界の大立者」など、西日本の財界を代表する形容が多く、「住友と並ぶ西の二大富豪」とするものもある。

初代の五代友厚(薩摩)に次いで、二代目の大阪商工会議所の会頭を務めたためだろか。

また、その土地(地域)に対する一大勢力を張った重鎮としての影響力という観点では、「実業界の巨人と称すべきは、東の渋沢栄一、西の藤田伝三郎」(吉本義秋「大阪人物小観」(明治38年))とするものもあり、調停ではあたかも「親分」のように、もめごとを収めたという話が残っている。

◆秀吉格の伝三郎

藤田伝三郎を評する者は、その手掛けた事業内容が似ており、美術収集にも精を出した大倉喜八郎(越後)と対をなすとして、「東の大倉、西の藤田」と評した者もいた。

また、日本で最初のデパート・三越の基礎を作った実業家・高橋義雄は、明治の実業家と戦国時代の英雄を対比させ、藤田を豊臣秀吉になぞらえた。

というのも五尺の小身、天下を圧する豪胆、網島に大伽藍を建て、比肩なきほど書画骨董を収集して明治に引き継いだのがその理由というのだ。

「西の藤田伝三郎、東の渋沢栄一」と藤田を豊臣秀吉と見做すならば、渋沢栄一は誰に相当するか。

先の高橋は渋沢栄一を上杉謙信と見做した。

(なお、上記・高橋氏は藤田のライバル大倉喜八郎を武田信玄、岩崎弥太郎を織田信長と見做している)

ただ、藤田観光、藤田美術館・・・という形で藤田の名前は残っているが、藤田伝三郎自身を知る者は意外と少ないのではないか。

大変もったいない話だが、これは理由なしとしない。

つづく

(学23期kz)

藤田美術館
藤田美術館