久しぶりの銀座

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年10月 トピックス】

◆10月27日(火)の東京、朝方は小雨でしたが、その後は薄曇りの比較的穏やかな天気でした。
こうした中、朝から東京品川病院で内分泌糖尿病内科の経過観察の日でしたが、午後から松屋銀座地下一階銀座スイートに行って来ました。

◆昨年5月に広尾での野村慶太郎さんホスト役の「思いつき昼飲み会」(既報)で知り合った岡田依里さん経営の小豆島の「島の四季梱包」さんが、10月21日(水)から27日(火)まで期間限定でポップアップされているとのことで、最終日の午後に銀座散策を兼ねて覗いてみました。
今回は写真の瀬戸内ポルボロンを購入させて頂きました。
若い頃に壺井栄原作の「二十四の瞳」を読んだ微かな記憶はありますが、小豆島には一度も行ったことがありません。

◆岡田 依里さんは元騎手の方で、学生時代に北海道新冠の牧場で住み込みのバイトをされ、馬術で広島国体準優勝等をされ、ダービー馬のメリーナイスやオグリキャップと写真を撮られたこともあるとか。
学生時代から競馬好きだった私には堪りません。
そういえば、永倉ゼミのコンパで競馬実況中継の余興をし、先生から、「Y君は競馬の馬券が買えるとはお金持ちなんですね。」と言われたのを思い出しました。(汗)
お客様対応で忙しい中、しばし、諸々近況報告と情報交換をし、帰途に就きました。
(学22期Y・Y)(会社法、永倉ゼミ)
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第9回 カフェ・ド・ちゃぁみぃ 吉安健太郎 絵画展

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年10月 トピックス】


◆10月23日(金)、大井町から、りんかい線で新宿迄行き、西武新宿線に乗り換えて、狭山市駅に着き、中央4丁目迄バスで辿り着きました。
昨年の10月19(日)以来、4回目の参加となりました。
片道2時間半、往復5時間の旅でした。
私は狭山の街は好きですが、新宿の雑踏は田舎者ゆえ、好きにはなれません。
ここ1年3ヶ月は体調を崩し、全く働いていません。
メンタルも何とかしなければと思い、発奮し、遠出となりました。

◆吉安健太郎さんは元力士(力士歴3年半)の画家の方で、私が大ファンだった北の湖さんと同じ昭和28年生まれです。
日本相撲協会退職後は警視庁に42年間勤務されました。

◆残り2日の土日は来場者で混むと思い、平日の訪問としました。
絵画は事前にFacebookで紹介されたものを観ていますので、簡単な説明をして頂き、先ずは、秋場所の総括をしました。
私からは死に体とか、かばい手が審判団の親方によって見解が異なるのではないか。
審判部は研修会とかやっているのだろうか。
又、物言いの付いた一番はハイテク時代、ビデオ室の一人の親方の見解を参考にするとはいえ、恣意性があるので、難解で長引く物言いには急遽、土俵上に機器を持ち込んで5人の審判で決められないか。

次にお互いの近況報告でした。
特にこの1年の私の近況報告に多くの時間を割いて聞いて頂きました。
2時間滞在し、16時に帰途に就きました。
絵画の入った2027年の卓上カレンダーが便利で楽しみです。
何とか年を越したいです。

◆帰りも西武新宿線で、新宿経由で帰りましたが、新宿の街は若者の凄い人出で、私のような老人は皆無でした。

追記)
吉安さんはバイク搭乗が趣味のようですが、私はオートレース観戦が趣味です。
(川口オートの観戦歴は100回以上、山陽オート7回、船橋オート6回、伊勢崎オート1回)
今回も話題にするのをすっかり忘れていました。

これ迄に訪れた美術館)
ひろしま美術館
広島現代美術館
大原美術館
足立美術館(島根県)
MOA美術館(熱海)
横浜美術館
東京国立博物館
東京都美術館
西洋美術館
上野の森美術館
アートセンターBUG
(リクルート)
(学22期 Y・Y)(会社法、永倉ゼミ)
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三人の財界巨人 その25 久原房之介⑫

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年10月 トピックス】

◆寄付

事業で成功した久原房之介は、進んで寄付をしている。

寄付先は出身地の須佐や萩を中心とした学校関係が多かったが、これは母に促されてのもののようだ。

また、政治家からも寄付の要請を受け、これに応じている。

久原は同郷の寺内正毅(18代総理、大正5年)、田中義一(26代総理、昭和2年)のほか、日本に亡命していた孫文に対しても資金支援をしている。

孫文が唱えていた大アジア主義、すなわちアジアはひとつになって欧米列強に伍して行くべしとする主張に共鳴し、支援をしたのだ。

政治家への寄付が重なっていけば、おのずと自らも政治の世界との繋がりが深まっていく。

また、誰彼ということなく金を配るということで、右翼や左翼、また情報屋と称される輩も久原邸に出入りしていた。

しかし、政治の世界の近くに身を寄せるようになった房之介自身も、政治に纏わる情報を自ら求め、欲しがるようになっていく。

こうした成り行きで、亀川哲也なる右翼の浪人を匿うことになった。房之介が亀川に資金を与え、それが二二六事件の資金源になったのではないかとの嫌疑が掛けられ、起訴されたこともあった(東京地裁で無罪にはなったが・・・)。

◆政界へ

大正5年、母・文子が逝去する。

母の死去は房之介にとって、事業意欲にかかわるほど大きなものだったという。

さらにその翌年、49歳の時には本人が腸チフスにかかり、20日ほどの隔離生活をしたが、これも事業経営から身を遠ざける一つの転機となったようで、昭和の初めから政治の世界に入っていった。

政治の世界でも、事業の世界と同様、長州閥が助けとなった。

同郷の田中義一と親しかったことから田中内閣で逓信大臣になったのが昭和3(1928)年だ。

田中義一は軍の長州藩の親玉・山縣有朋の腹心であり、明治40(1907)年には、山縣が音頭を取って日ロ戦争後の国防の在り方を決めた「帝国国防方針」で、田中は何と「中佐時代」に陸軍のパーツの執筆を任されるほど、山縣は田中を買っていた。

また、房之介は田中義一の大口寄付者でもあり、こうした長州のつながり・長州人脈から、政治の世界に身を染めていった。

これまでの事業の方はどうしたのか。

事業は妻の兄、すなわち11歳も年下ながら義兄にあたる鮎川義介に委ねることにした。

◆久原がスターリンに語った非武装地帯構想

久原房之介が田中義一内閣で逓信大臣を任されたのが昭和3(1928)年。

その前年の昭和2年、房之介は田中義一総理の依頼を受け、経済使節団団長としてソ連とドイツを訪問している。

そこで、久原はスターリンに会うという離れ業をやった。

スターリンは時すでに大物であった。政界での経歴が浅い房之介がとても会える相手ではない。

しかし、房之介は何としてもスターリンと会い、己が描く地域平和構想をスターリンに説きたかった。

そこでどうしたのか。

スターリンと同郷でスターリンを補佐する立場であったミコヤンを口説き落とし、スターリンとの面会に漕ぎつけることができ、久原はスターリンを前に、持論の「緩衝地帯構想」を説いて見せた。

緩衝地帯構想とは火薬庫のような北東アジアに和平をもたらすことを意図した構想だ。

具体的には朝鮮、満州、シベリア東部を「ひとかたまり」として新たな国(地域)を作り日・中・露の緩衝帯とし、緊張を緩和しようという構想だ。

もちろんこれには日・中・ソ連の間の理解と協力が要る。

房之介は「スターリンもすこぶる興味を持ち、質問してきた」と後日談を述べている。

この件、鮎川義介も日経の「私の履歴書(第24集、1965年)」で、「田中義一が総理のころ、久原はスターリン、張作霖と手を握り合って、スターリンはシベリアを、張は満州を、日本は朝鮮を出し合い、そこに無軍備、無関税の一緩衝国を作りあげ東洋の恒久平和を図るという久原らしい構想を持って帰ってきた」と記している。

・・・しかし、残念ながら、この構想が陽の目を見ることはなかった。

覇権争い、策略、謀略が渦巻く流動的な北東アジアの国際政治の中で、こうした構想は望ましいユートピアではあっても、とても実現に向けた力学が作用する余地は無かったのだろう。

しかし、房之介はこうしたユートピア的な和平理念を温め続けている。

時が経ち、公職追放を経て、その後追放解除後も、日中・日ソ国交回復などに努め、衆議院議員時代だった昭和30(1955)年には日中・日ソ国交回復国民会議の団長として、北京で毛沢東、周恩来と会っている。

この時、毛沢東にも非武装緩衝地帯設立構想を披露し、自説を熱く語ったのではないか。

◆政界では大政翼賛会総務、立憲政友会総裁となり、権謀術数に長け「政界の黒幕、フィクサー」とも呼ばれたこともあった。

萩に生まれ、萩の教育機関を中心に多額の寄付を行った久原房之介。

昭和36(1961)年、萩市名誉市民第1号となった。

(学23期kz)

毛沢東(中央)と周恩来(左端)に囲まれた久原房之介(左から2人目)

縮む田舎の氏子数、どっこい生き続ける田舎・・・

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年10月 トピックス】

岡山支部 岡山Bさんからの投稿

規模の大小、そして組織体そのものの違いはあっても、その”底流に流れるこころは同じもの、ありにしかや”?と思い、田舎の氏神さまの祭祀について記す。

◆縮む田舎の氏子数、どっこい生き続ける田舎…

自分が住む地元には、住人の信仰を集めている荒神社という神社がある。2000年頃の氏子戸数は50戸余り。ほぼその地域にある全戸が氏子であった。2026年本年は25戸、ほぼ半減した。

これは住民票に登録されている戸数がそのまま減ったと言う意味ではない。神社の氏子としての脱会が発生し、今に至ると言うことだ。

また、近隣には住宅地が開発され、戸数は150戸ほどになる。しかし、新規に住民になった家の神社への氏子加入はほぼない。

(氏子役員の中でも積極的加入の動きが追い付かず、加入申請を待つと言う“待ちの姿勢”だったかもしれない)


◆荒神宮は、部落で祀るものは生活全般を守護する神として山麓に祀られることが多い、その部類だ。毎年のお米の収穫に感謝し、また各戸の弥栄の繁栄と健康などを祈ったものだったのであろう。

地元の荒神社の起こりは1850年代(黒船来航)までさかのぼる。何故そのことが分かるのか?祭事に使われている太鼓、その革が劣化してきたため太鼓の革の張替を数年前に実施 した。
その太鼓の内側にその当時の年号「嘉永」という年号は墨書きされていたからだ。村の言い伝えでは、飢饉のとき、疫病蔓延ととき、その沈静化も願って集まり、そのご利益があった神社だという。

今でも氏子、近隣を散歩される方からは朝夕のお参り、お宮参り、正月の初詣等々、機会あるごとに厚い信仰を集めている。村にとっては将に自分が住んでいる地域、土地、住民を守ってくださる神様となる。


◆仕事の関係で代々の相続関係の事例を担当したことがある。嘗ての 大まかな流れでいうと50代ぐらいで先代の財産を相続する。

人生70年が「古稀」と称されていたことからも分かるよう、75歳を前後にその財産管理においては、“次世代に引き継ぐ”時代であった。悲しいかな、現在の健康寿命の年代と重なり合う。(2022年統計によると72.57歳)

以前の氏子数だと50軒、4軒が交代で当屋と言って、その年の祭りの準備をする。

昔風に言えば、戸主となる期間は約25年、各家々を守って、凡そ12年周期の当屋を2回担当すると次の世代に引き継ぐといった流れであった。

今は違う。凡そ6年に一回は回ってくるので、嘗ての25年を世帯主期間としても最低でも4回。 

自分は今回が3回目の当屋となった。  若くして世帯主、そして運よく長命であった場合は8回9回と当屋を担当することとなる。ある意味、後者のケースは当屋の役割を果たせる、担えることが 一つの幸せ指数ともなりうる。


お祭りの前日には早朝6時集合で、神社の掃除をすることになっている。あくまで申し合わせの6時だ。そんな時間にのこのこ出かけるようであれば、掃除は完全に終わっていることが多い。

所謂、日が昇る時には作業が始まり、6時過ぎには挨拶をし、それぞれの家路に向かい、その日の仕事の準備に取り掛かる段取りの時間だ。地元では地域の名前を冠につけ「地元時間」と言われていて、注意が必要だ。

◆これらを税負担の考え方に置き換えて考えてみよう。

税負担の考え方には「応益原則(おうえきげんそく)」と「応能原則(おうえきげんそく)」という2つの代表的な基本理念がある。

・清掃時間は後者の方だ。負担が出来る人は身の丈相応の負担を厭わないということだ。

・氏子の会費は年1500円。ここ何十年も変更がない。
税金の負担を考える際、次の2つの公平性が言われる。

①水平的公平: みんな均等「同じ経済力(所得)の人は、同じだけの税金を負担すべき」

②垂直的公平: 「経済力が違う(高い)人は、それに応じて異なる(高い)税金を負担すべき」の考え方。

会費については①みんな均等なのだ。掃除の地元時間は②に該当しそうだ。

そして、祭りの荒神社へのお供えというものについてはまた②の考えに基づき、それぞれが懐の許す中で、新米をはじめ、農作物、果物、飲料等をお供えする。

ちょっと生意気な言い方をすると「ノブレス・オブリージュ」(フランス語: noblesse oblige):高貴なる者の義務。
最低限の事をすればいいと言うより、自ら進んで出来ることは骨身を惜しまずやってみる。そして、それが務めとなる。(矜持かも)ましてや、フリーライダーと言うような考えは持つ者はいない。

祭司への参加者数は減少しているが、時間の許す限り、地域の事、今年のお米の豊穣等の話で盛り上がる。
嘗ては、白幕を張って、子供の為に映画なども催していた。地域に根付いた、住民挙げての祭りであったことだろう。

◆祭事が終わった後の直会(会食)の経費についても少し緩めに構えてしまうと会費以上、3倍以上の支出をしてしまっている年も帳簿の上にはある。

過去は過去とし、・・・。
今年の当屋担当者の間では、今後の運営に当たって、どこかでほぼ会費の中で廻しうる年を敢えて演出する必要性があろうと言う意見になった。では、どうするか?

座して待っているだけでは、過去の慣例と言う大きな流れに流されてしまう。ならば、「入りを計って、出るを制しよう。」

収入に見合うお供え、接待用の飲み物、おつまみの検討、”予算枠内作戦”で出来るものはないか?

飲み物を冷やすのに、氷の購入はいるか?

お賽銭の預け入れに金融機関への多額の手数料はいるか?

お供えで戴けるものは予め情報収集できるものはしておいて、それをお下がりとして利用し、外部支出を大幅に減らせないか?

物品の購入に当たっては、少し街を歩いて、安いところで必要とする品質のものを確保する足で稼ぐことはできないか?

(氷は当屋の自宅の冷蔵庫で、そして凍結ペットボトルも利用。お賽銭の小銭は当屋で予め札に交換し、”小銭持ち”になって貰い、50枚以下の小銭の預け入れにして交換手数料を発生させない等。 

こんな積み重ねでも15%位は経費を抑制できる)


何例か上げたが、そのような視点で当屋の役割を見直すとほぼ予算内でやり切れるのではないかと・・・

考える、計画する、行動する(動く)、出来れば見栄えは落とさないようにして、実利はしっかり取りに行く。

手間は惜しまない。全てがやり切れたとまでは言わないが、ほぼ当初の計画通り、皆さんの会費の中で運営することができた。

ひょっとすると、何か、そして、何処かに、大小を問わず組織運営に生かせるちょっとした流儀がありそうだ。

首都東京圏(大江戸)の神社仏閣巡り その4

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年10月 トピックス】

 柴又というと フーテンの寅さんをイメージされる方が多いと思います。
京成線柴又駅を降りると寅さんとサクラの像があります。その先の柴又商店街

を抜けると台経(だいきょう)寺があります、通称 柴又帝釈天(毘沙門天)

です。その帝釈天は七福神の一つです。

 妻と柴又七福神巡りをしたことがあります。

巡った寺院は次の通りです。

1.観蔵寺(寿老人、葛飾区高砂)
2.医王寺(恵比寿、葛飾区柴又)
3.宝生院(大黒天、葛飾区柴又)
4.万福寺(福禄寿、葛飾区柴又)
5.良観寺(布袋尊、葛飾区柴又)
6.真勝院(弁財天、葛飾区柴又)
7.台経寺(毘沙門天、葛飾区柴又)

台経(だいきょう)寺は芝又帝釈天として有名で、数度来たことがありましたが、

昔と余り変わっていないように思いました。

 何でまたと思いながらも、寅さん記念館に立ち寄り歩き続けました。

帰りは江戸川の渡し船 矢切の渡し で松戸市矢切に向かいました。川面は

穏やかで時間が止まったようでした。

以上  学29 YK

色は匂へど散りぬるを・・・

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年10月 トピックス】

岡山支部 岡山Bさんからの投稿

◆色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見し 酔ひもせず

「色」を文字通り、色恋と解釈するのは、曲解していくことになる。

 短慮にかかると いつの間にそれになる。

『いろはにほへと・・・』には仏教の真理を表す高度な内容が読み込まれているという指摘がある。

 出典 平野敏彦HPより 雑学「いろは」

◆その解釈は次のようなものだ。

“いろはにほへとちりぬるを”

万物は常に生成・変化・消滅しており,一時もとどまってはいない

“わかよたれそつねならむ”

生あるものは必ず滅びる

“ういのおくやまけふこえて”

生まれ死ぬという無常の現世を超越して,悟りの境地に至り

“あさきゆめみしえひもせず”

煩悩に満ちた現世を脱し,生死の苦から解き放たれたとき,真の楽しみの境地が開かれる

◆この解釈を伺うと、うやうやしく、うやまっても、うやまっても、うやまい難い「いろは」となる。

そこを敢えて、色を色恋と解釈して、限って曲解を展開してみよう。

少子高齢“化”社会でなく、既に“少子高齢社会”になっている日本。

中南米、北欧、西欧では婚外子のケースも多くある。そもそもフランス、スウェーデン等ではその比率は55%を超える数字になっている。

男女の恋の成就の一つの形が結婚とすると、その結婚までに至る道程も気にかかる。

それこそ、地方の自治体が、はたまた国がその環境整備に躍起になっている時代となった。

つまり、「色恋」は十分に社会課題ともいえる時代なのだ。

一昔前だと恋愛という形は勿論ありながら、見合いという形もあった。

夫々の年代によりその両者の比率は移ろいゆくものかもしれない。

女子会なる席では、よく“恋バナ”(自分の恋に関する話)が咲くそうだ。男子間でも少し話

の前振りを整えれば、“恋バナ”が賑やかに咲く。

職場の30代40代の人の話を総合すると次のような話にもなる。

今だとマッチングアプリ、マッチングサイトとか…会費を払って、その機会を提供し、

男女を結び付けるサイトもあるという。

以前は男女の会費について差があったが、今は男女同額のサイトが多い。

マッチングアプリなどを利用してみると、通称爆弾さん!と言うような取り扱いが難しい相手に出逢うことがあるという。また、自分が展開している商売に繋げようとする色恋営業さんもいる。

そして、「だけどね・・・だけどね・・・」と全否定型の“だけどね”さんに出逢うこともあると言う。

こりゃあ“兎角この世は住みにくい”と口走ってしまいそうだ。

会員さんには登録順に会員ナンバーがついていて、そのナンバーには登録してからの時間の経過も読み取れるものになっている。

12月のクリスマスはまだ先だが、嘗てケーキの価格には、経済学でいう需給の価格決定とは別の”時間軸による価格機能”があった。一昔前のクリスマス前の価格と当日の閉店前の価格、そして翌日、さらにその後には劇的変化がある。

ものには何でも裏技があるようで、一旦退会して、新たに入会する強者もいる。つまりマネーロンダリングならぬナンバーロンダリングすると、ベテランさんも初心者さんになる。

これは男女とも許されるルールだから、ある意味、恋はゲームなのかもしれない。

◆何やら、色恋を曲解していくと途中で迷路に入ってしまった。

人口統計は冷徹なまでにその予想された数字の論理を貫徹する。

そもそも国が介入できるものなのか?

しかし、施策として、逃してはいけない時期に「楔」を入れないと大きな禍根を残す。

経済成長の力となるものには、労働力、資本(設備投資など)、そして技術進歩(イノベーション)の3要素がある。

これらが組み合わせることで、生産能力が増大し、付加価値が生まれ、経済が発展する。

GNPの順位でいくと2025年の日本は世界第4位。2026年は少し前の予想より早く順位を落とす予想となる。インド、イギリスの後塵を拝し、第6位の予想。

嘗て繁栄を極めた大英帝国。その始まりは東インド会社による交易、植民地帝国、産業革命を経て、世界の陸地の1/4を支配するまでに至った。

そのイギリスが“黄昏の国、イギリス”とも呼ばれていた・・・今、その国は金融、ITなどのサー

ビス業に転換、そしていろんな問題を抱えながら移民の受け入れもし、持ち直す。

ビル・エモット(英国:エコノミストの編集者)は嘗て、「日はまた沈む」(1990年発刊)で日本のバ

ブル経済の崩壊を言い当てた。そして、日本の再興を予想し、「日はまた昇る」(2006)では、成

長速度を上げていた中国に打ち勝つと予想した。しかし、日本経済は「失われた20年、30年」の言葉に象徴されるよう、予想は外れた。 黄昏の国、にほん・・・?

色は匂へど散りぬるを・・・の社会考、ここに平野敏彦冒頭の雑学「いろは」」の解釈が生きてくる。

「煩悩に満ちた現世を脱し,生死の苦から解き放たれたとき,真の楽しみの境地が開かれる」

くたばれGNPの立場にはもとより与しないが、経済成長最優先の一義的な価値観から“幸福”と言

う価値観をも視野に入れた転換が必要となるかも知れない社会に・・・ 

女子ラグビー全国優勝 ボウリングに続き活躍する経済学部生

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年10月 トピックス】

(事務局記)

◆春のボウリング大会個人優勝した経済学部の奥田君(後述)に続き、今回、青森・国民スポーツ大会で長門ブルーエンジェルス(注)に所属している経済学部2年の田中亜美さんが、7人制女子ラグビーチームの一員として優勝、山口県の2連覇に貢献した。

10月19日の決勝戦の相手は三重県。

前半は0対17でリードを許したが、後半追い上げ、試合終了後の時間が切れたラストワンプレーで、試合が逆転。

75メートルを独走し、劇的な逆転決勝トライを決めたのが背番号1番・スクラムハーフの田中亜美さん。

試合の模様はこちら。試合は録画開始3時間19分頃から始まり、トライの場面が3:37分。

https://japangamestv.japan-sports.or.jp/kyougi/rugby/11597

◆なお本年3月には-本学経済学部4年奥田悠介君が、3月に愛知県で開催された「第63回全日本ボウリング選手権大会」の2人チーム戦で全国優勝。奥田悠介さんが学長表彰を受けたニュースは、10/17日付の経済学部HPサイトにアップ済み。

学長表彰(ボウリング全国大会優勝)を受賞 – 山口大学経済学部

大学関係者の話によると、田中亜美さんも今後学長表彰を受けることになる模様。

(注)7人制女子ラグビー「ながとブルーエンジェルス」 公式ウェブサイト

選手一覧2025 | ながとブルーエンジェルス

日本橋べったら市

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年10月 トピックス】



◆10月19日(月)の15:45分に自宅を出て、銀座線の日本橋三越前駅に移動し、4年連続で、べったら市に行ってきました。
16:45に到着しましたので、暫く、懐かしい日本橋室町辺りを40分程散策しました。
あちこちで巨大な再開発プロジェクトが進行中で、昨年無かった2棟の巨大ビルに吃驚しました。
例年、曜日に関係なく、決まった10月19、20日に開催されています。
今年は月、火の平日の開催となりました。

◆宝田恵比寿神社周辺の日本橋大伝馬町、本町三丁目周辺です。
吉田松蔭が斬首された伝馬町の獄屋敷はすぐ近くにあったようです。

◆江戸時代中期の中頃を起源とする伝統行事のようです。
本町1丁目で9年余り個人の店をやっていて、一時は職住接近の日本橋本町に住んでいました。
東京新高屋の麹のついたべったら漬の購入を毎回楽しみにしています。
今年は自宅用に1本購入し、後日別途追加注文し、永年、苦楽を共にし、お嫁に行った栃木県塩谷郡在住の女性スタッフだった人に送ります。
現在、私は食事療法に努めていますが、ご飯がススんで困ります。(笑)

◆山口七夕会、山口市ファンクラブメンバーのベアーズコーポレーションの中嶋唯雄社長のふくの鳥 小伝馬町店にも3年連続で参加されていて寄ってみました。
店員の方の応対がいつも皆さん素晴らしく、今回は愛知県出身の方でした。(工藤中日新監督の印象を聞けば良かった。)
焼き鳥3本セット(タレ500円)といつもは獺祭ですが、今回は長門ゆずきちサワー(500円)を注文しました。
我が人生、こんなに美味しい焼き鳥を食べたことはなく、今回も絶品でした。
ゆずきちサワーは飲み易く美味しくてお代わりしました。
18:30に思い出のいっぱい詰まった街を後ろ髪を引かれる思いで、帰途に就きました。
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藤岡亜弥個展「Forget Me Not」

山口大学経済学部同窓会

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【2026年10月 トピックス】

2026年10月14日(水)〜 11月29日(日)
開館時間 11:00~19:00
休館日 火曜(※11/3開館)、11/8(日)臨時休館
会場:#アートセンターBUG #東京駅 八重洲南口直結
入場無料

◆先の追悼広島太郎のファッションショーが縁で、藤岡亜弥さんにはFacebookで友達になって頂き、掲記個展の案内を頂きましたので、早速、唯一、トークショーのある10月17日(土)の15:50にリクルートが運営するアートセンターBUG迄、快晴に恵まれた中、行って来ました。

◆オーストラリア(メルボルン)から藤岡亜弥さんに届いた1通の手紙が縁で、祖母藤岡きみえさんと名前が一字違いの藤岡きみこさんを探していると判り、祖母のきみえさんは移民二世で二十歳の時に宝くじが当たり、ブラジルから帰国し、以来、呉に住み着いておられますが、藤岡さんのオーストラリアとブラジル(サンパウロ)の写真の旅が始まります。
藤岡きみこさんは戦争花嫁?
(私は生まれて初めて戦争花嫁という単語を知りました。)
私は理解力に乏しく、まだ謎は解けませんが、会期中、時間が許せば片道40分程度ですので足を運びたいと思います。

◆サラリーマン時代に中国、神奈川両支社時代は展示会、地方博担当スタッフや広告部時代は地方博の担当をしましたので、今回の写真や映像の見せ方に興味を覚えました。
7段掛けの作品の奇抜な見せ方はサプライズでした。
焼山から呉市内を見渡す写真は直ぐ判り、嬉しかったです。

◆また、広島勤務時代は呉市役所や呉市交通局に年1回入札参加申請の提出業務で出向きました。
難解な様式ではなく、1日羽を伸ばしました。
1992年に呉市天応に呉市や阪急電鉄等が出資した第三セクター方式の大型テーマパークの呉ポートピアランドが開業し、納入物件もあり、テレビ新広島放送の番組にも協力しましたが、呉ポートピアランドは6年余りで閉園になり残念でした。

◆トークショーは質疑応答を含め19時~1時間半でしたが、参加者50名~60名と満席でした。
私が最高齢で、30代~50代の人が多かったです。
藤岡さんには広島太郎さんの写真集を頂きましたので、スキップして帰途に就きました。
(学22期 Y・Y)(会社法、永倉ゼミ)
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三人の財界巨人 その24 久原房之介⑪

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年10月 トピックス】

◆事業拡大

日立鉱山は機械化により銅の増産に成功する。大正元(1912)年には久原鉱業㈱を設立して事業を拡大、大正4年に日本汽船㈱、大正7年に久原商事㈱を設立した。

同年9月には個人経営の久原工業所を資本金1千万円の久原鉱業株式会社(大阪)と名称を改め、事業目的も鉱業、化学、機械、電気、農林業と多角化し、巨大企業グループへ転換を図った。

特に大正年4年から7年に至る間、久原工業が手掛けた鉱山は内外含め30を超え、石油や石炭などの資源も積極的に開発している。

その後も日本汽船(大正4年)、久原商事(同7年)、共保生命(同8年)、合同肥料(同9年)、また海運、造船、製鉄にまで手を広げ、久原財閥を形成した。

◆一次大戦終結に伴う判断の遅れで経営暗転

順調な事業展開をする中にあっても、リスクという地雷はどこにでも潜んでいるものだ。

第一次大戦の終結(1918年・大正7)の際、新入社員の仕事上のミスから巨体の久原商事に経営難を招く事態が生じた。

戦争終結に向けた手じまいの遅れから久原商事が破綻の危機に直面するが、そのいきさつはお粗末なものだった。

房之介は在外社員に対して、戦争が終結する予兆があれば、決められた暗号(合言葉)で即刻知らせるべく指示を出していた。

暗号は「プラチナ高い」。

同盟国の一角、ブルガリアが間もなく降伏するとの事前情報を得た久原商事のパリ駐在員は久原商事・東京本店に暗号を打電した。

これがブルガリアの正式降伏調印の6日前、ドイツ降伏の約2か月前だ。

この情報を基にものごとが処理されれば問題はなかったのだが・・・

しかし、その情報を受けたのが新入社員だったのだ。彼がチョンボをした。

「プラチナ高い」の電報を受けた新入社員、彼はその電報を机の上に放っておいたという。

こりゃ、ダメだ。

これで戦争終結に伴い、先手を打ってでも行うべき取引の手じまいが遅れてしまった。

房之介を含め、久原商事の社員が戦争終結を知ったのは、何と新聞の号外だったという。

◆この時、久原商事が負った負債は1億円。

戦争終結に伴い銅価も暴落し、久原鉱業は2500万円の不渡りを出す危機に直面する。

また戦争終結に伴い欧州の鉱業生産が回復したため、日本から欧州への輸出は大きな打撃を受けた。

さらには大正12(1923)の年関東大震災も加わり、経営が行き詰まることになった。

つづく

(学23期kz)