ゴルフ 何でそうなるの! ⑧朝イチのショット

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年11月 トピックス】

◆朝イチのドライバー
まず当たらない。
身体が温まっておらず、筋肉が硬い。
パートナーや後続のパーティーにいい格好もしたくなるので気負いもある。
身体の緊張をもたらすもう一つの要因がある。

◆入念な練習が裏目に

事前の入念な練習が裏目に出る。
私の場合、これで身体が硬くなる。
何十年とゴルフをやっていると、さすがにドライバーでチョロはやらなくなったが朝イチでスライスやフックが出てしまう。
OB、池ポチャ、ボーダー杭越えのワンペナ・・・
出だしからこれだと先が思いやられる。
こうならないように、入念な準備をするが、度を過ぎると却って不安が先に立つ。
打ち損じることを恐れる。
打ち損じでもしたら・・・

何のための事前打ち込みだったのか!と。

◆マリガン

スタートホールでは、できればボギーくらいで済ませたい。
「マリガン」というローカルルールがある。
朝の第1打は打ち直しオッケー!というルールだ。
打ち直したい気持ちは良く分かる。
しかし、スコアを作るためだけの打ち直しだ。
どうも女々しくて、後味もわるい。
たかが遊びだ。

天の采配を受け入れようじゃないか。
こういう時に限って、あがってみれば結果的にスコアはまとまることが多いのも、

よくあること。

(学23期kz)

そうだったのか、上野戦争 ②彰義隊

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年11月 トピックス】

◆彰義隊

2月12日、慶喜公が寛永寺に移り謹慎。

その前後に、ある廻状が一橋家の家臣の間で回る。

そこには12日に雑司が谷茗荷屋に集合が伝えられる。

「君恥ずかしかるれば、臣死するとき。・・・然れば多年の鴻恩に報いるはこの時也」として集まり、「何としても上様の名誉を回復したい」という思いで、一橋家の家臣を中心としたエリート勇士で結成されたのが彰義隊の始まりだ。

第1回会合は慶喜公が東叡山寛永寺に退去した直後に会合を開いた。

場所は雑司が谷、鬼子母神堂門前の料亭「茗荷屋幸吉」。

出席者は一橋家陸軍将校17名とある。

この時には主君慶喜公の延命と名誉を挽回し、昔日にお権威を取り戻すとともに、江戸の市中の安寧のために市中を見回りであり、朝廷方とことを構えよういう意図はなかったようだ。

2回目の会合が2月17日、四谷鮫ヶ橋入横丁の円応寺で行われ30名が集まる。

彰義隊はもてたという。

水色麻の打裂(ぶっさき)羽織と白っぽい逆パンタロン風の袴、これが江戸庶民に人気だったらしい。

◆渋沢成一郎

この会合の2日後、渋沢成一郎がグループのリーダーである頭取に推挙される。

一橋家家臣・渋沢成一郎(旧名および明治以降は「喜作」)。

大河ドラマでは「喜作」という名で他から高良健吾が演じている。

渋沢成一郎はかつて攘夷の志士であったが、一橋家家臣で慶喜公の側近・平岡円四郎(大河ドラマでは堤真一)の斡旋で、従弟の渋沢栄一と共に一橋家に仕えた。

すなわち渋沢成一郎は栄一の父(小林薫)の兄貴の息子、すなわち従兄で栄一より2歳年上にあたる。

成一郎は慶喜公の引き立てによって、老中の公設秘書にあたる「奥祐筆」から、奥祐筆御政事内務掛(内閣総理大臣秘書官)に抜擢されるほどの人物だった。

彰義隊の当初の目的はあくまでも慶喜公の警護、江戸の市中安寧見回りを主な目的としていた。

慶応4年(1868)、高輪の薩摩藩邸で徳川慶喜の身との安全と引き換えに、江戸城の無血開城を決めた大総督府参謀の西郷隆盛と旧幕臣の勝海舟。

二人の信頼関係により、西郷は江戸の治安維持を地元の勝海舟に任せることにした。こうしたなかで勝は治安維持の役を一橋の旧幕臣集団・彰義隊に任せた。

彰義隊は当初、江戸に流れてくる新政府軍の乱暴者らから江戸の治安安寧を守る活動をしながら一橋家の再興を夢みていたが、次第に新政府軍に対抗する旧幕臣の集団に性格を変えていった。

◆天野八郎

彰義隊が会合を重ねるたび、に集う勇士が増えてくる。

2月23日、浅草本願寺での第4回会合で集団の中で穏健派の渋沢成一郎に代わり、強硬派で副頭取の天野八郎がリーダーとして台頭する。

天野は強引な勧誘策でも彰義隊員を募った。

こうした勧誘策もあり、3月には隊員は200名を越え、ピーク時には2千~3千人が集まったとされる。

また天野は、武断派で好戦的であったことから、新政府軍との対決色が強まっていく。

天野八郎は剣の腕が立ったという。

背は低く、でっぷりと太っていたが非常に敏捷で、2間(畳のタテ2枚分)はわけもなく飛んだという。眼光鋭く威圧的で、閑があればよく「切返し」の練習をしており、目にも止まらぬ速さだったという。

江戸の無血開城後、彰義隊の頭取で穏健派の渋沢成一郎と強硬派で副頭取・天野八郎の間で路線対立が起こり、天野八郎が徹底抗戦を主張し、血気盛んな若い幹部を始め、天野を支持する者が大勢だったため、頭取・成一郎が彰義隊を脱退せざるを得なくなる。

脱退した渋沢成一郎とその一派は「振武軍」なる部隊を新たに結成して江戸を去ることになる。

渋沢が去った彰義隊は天野八郎が実質的な大将となって上野戦争を戦うことになった。

つづく

(学23期kz)

天野八郎

「日本人論」の欠片 その10

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 11月トピックス】  

◆トップの決断

事業が良好な時の攻めの決断には部下がやれる決断もある。

しかし、事業を止める決断、事業から撤退する決断はトップでないとできない。

◆撤退に独特の情を持ち込む日本

日本は攻め一本で、撤退が下手という見方がある。

こうしたことは二次大戦の時に見られたとされる。

撤退することを過度に恐れる。

一歩たりとも撤退は許されない、撤退は士気を削ぐとの見方がされる。

確かにそういう面もある。

報道機関も、攻めの報道については、実に派手な文言を用い、歯の浮くような賛美の一辺倒だ。

一方、撤退について、米国はどうか。

一時的な撤退は戦略を再構成するために必要、あるいは次につながる価値につながる撤退を容認し、撤退のハードルは日本よりも低いようだ。

◆企業の撤退

日本の場合、戦争のみならず、企業でもそうだ。

撤退は許されない。

それを政府も助ける。

生き延びられないような競争力の低い企業のみならず、死にかけたいわゆる「ゾンビ企業」も助ける。

外形的には「恵まれないものを救う正義」ともなるため、政治がこれを票にしているようだ。

これが日本の生産性が上がらない要因かもしれない。

つづく

(学23期kz)

簡憲幸老師の中野で「台湾を学ぶ」講座 第2弾

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年11月 トピックス】

◆11月2日(土)の東京は生憎、終日、雨模様でした。 
こうし中、りんかい線、中央線を乗り継いで、中野区新庁舎で開催の掲記講座に行って来ました。
冒頭、講師も吃驚の酒井中野区長のご挨拶のサプライズがあり、途中休憩はありましたが、13時から3時間半学びました。
参加者は20名超で、皆様、台湾との縁が深く、造詣が深い方が多く、35年前に台北に観光で1度だけ行っただけの私には国策映画「南進台湾」の視聴と解説を通じ、「新高山(ニイタカヤマ)」や「高砂族」も出て来て、今回台湾の全体を知ることとなり刺激を受けました。
日本の台湾統治時代が50年の永きに亘りあったとは今更乍ら驚きです。

◆中野での台湾講座受講の後は、同じ中野のJR中野駅南口から徒歩3分の整体、リラクゼーションのごっつハンドに移動し、元小結の三杉里関と久しぶりに再会しました。
三杉里公似さんには中野ゆるカフェ会のイベントやちゃんこ会等を通じ随分とお世話になりました。
新宿・歌舞伎町シネシティ広場でのちゃんこ協会主催イベント以来ですから約6年ぶりの再会となりました。
整体の施術を受けながら、共通の友人の動静や相撲談義で、しばし話が弾みました。
腰痛持ちの私は我が人生2回目の整体でしたが、腰の辺りが随分と軽くなって帰途に就きました。
(学22期 Y・Y)

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幕末から明治、外国人に映った日本の日常 ⑤ヒュースケン

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 11月トピックス】  

ヒュースケンの日記

14歳で父を亡くし、21歳の時に母国オランダに母を残し立身出世を夢みて渡米したヘンリー・ヒュースケ君。ニューヨークの教会に通っている時、オランダ語のできる若者を通訳として探している者がいるという牧師の紹介を受け、合格。ハリスの通訳として採用された。安政3(1856)年、下田に着任したのは23歳の時だ。当時の日本では外国人との交渉の使用言語はオランダ語。ハリスが日本に渡るに当たってオランダ語と英語の両方ができる若い通訳は有難かったのだろう。

◆台風

ヒュースケンが着任して間もなく、下田を台風が襲った時のこと

・・・湾内の船はほとんど全部岸に打ち上げられ、街三分の一は破壊された。それなのに日本人は全く悲しまないのだ。泣き声、絶望、そんな姿はどこにもない。彼らは平気な様子で受けた被害を修復するために黙々と働いている。その落ち着いた姿は全く驚くばかり・・・

◆奉行の接待

翌年2月に御法度のはずの奉行私宅に招かれた時のこと。

・・・僕らはノリモン(駕籠)に乗せられて奉行の家に行ったが、ひどく窮屈な代物だった・・・用意されていた食事はスープ、鳥、生魚、煮魚、牡蠣などで、熱いサケ(酒)が出た。米から抽出した飲み物でとても変な味。でも僕が愉快そうな顔をしていたので、奉行や副奉行と乾杯を繰り返すことになってしまい、口中に嫌な感じが広がった。屋敷には女性は一人もおらず。政府の高官は人質として江戸の妻や娘を残してきているようだ。可哀そうな女性たち。せっかく招いてもらっても宴席に慈愛の天使たる女性がいないのはとっても空虚で寂しい・・・

◆謁見、そして憂慮

そのヒュースケンがハリスの通訳で慶喜に謁見したとき

・・・(外国とは異なり)日本の宮廷には人目を引くような豪華さはない。しかし宮廷の簡素さ、気品と威厳を備えた臣下たちの態度、宮廷に栄光を添える洗練された作法などはどれもダイヤモンドより輝いて見えた。あらゆる世界の大国をはねつけてきたこの帝国がようやく世界に仲間入りをしようとしており、僕の心は感動に震えた・・でも西洋の文明は日本のためになるのだろうか。僕はこの国の純朴さ、飾り気のなさを愛す。この豊かな国土のいたるところに満ちている笑い声。どこにも悲惨さを見いだせない。おお、西洋人よ。汝らは自らの悪徳をこの幸福な国に持ち込もうとしているのではないか?・・・

◆攘夷の刃に倒れたヒュースケン

また、ヒュースケンは、独語、仏語もできた。このため各国在日公館からの通訳要請が多く舞い込み、ちょっとした有名人だったようだ。

このヒュースケン君は1861年1月15日(西暦)、鳳陽会東京支部がある三田・赤羽橋に近い「中の橋」あたりで、攘夷を唱えるサムライの刃にかかった。

「夷(えびす)を攘(はら)う」ことが信条の攘夷浪士。

ヒュースケン君は開国に向かう日本の行く末を垣間見ることもなく、翌16日未明、29歳の誕生日を目前にした1月の中旬に絶命。江戸における外国人殺害の最初の犠牲者になった。

ヒュースケンの死に際し、ハリスほか各国在外公館の要請もあり、幕府はアムステレダムに居るヒュースケンの母に1万ドルの弔慰金を払っている。

ヒュースケンの墓は南麻布仏大使館に近い光林寺にある。訪れる者が多いのだろう。入り口には墓までの案内図が表示されており、墓には供物が捧げられていた。

墓石の文字は日本の石工が彫ったものなのだろうか。なかなか巧みに横文字が彫れている(写真参照)。

(学23期kz)

鳳陽会東京支部の最寄り駅・赤羽橋駅に近くの「中之橋」
光林寺(南麻布)
光林寺山門
ヒュースケンの墓

SACRED

To the Memorial of

HENRY C.J. HEUSKEN

Interpreter to the

AMERICAN LEGATION

in Japan

BORN AT AMSTERDAM

January 20. 1832

DIED AT JEDO

January 16. 1861

「日本人論」の欠片 その9 二足のわらじ

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 11月トピックス】

◆評価される専門性

日本では「この道●●十年」の匠が評価される。

それぞれの専門分野に造詣が深い人に敬意を表する。

この点、モノづくりの伝統を持ち、高い専門性を有する人材を評価するドイツのマイスター制度とも相通ずる評価をしてきた。

確かにこれまではそうであったが、最近では違う風が吹いている。

◆副業、あるいは複業

政府では多様なキャリア形成の一つとして副業・兼業を推進している。

本年3月末に人材系民間大手企業が発表したところによると、所属企業で副業が認められているところは26.4%(副業を経験した者は17.9%)、認めていない(副業禁止)企業は41.7%となっている。

◆企業の都合

職業から離れると専門性が薄れるという懸念があるが、逆に、現在従事している職業から離れた方が、見方が広がり、奥行きのある仕事ができるようになり、企業として次の段階の発展にも資するという場合もある。

最近では出世レースの本流に乗るには自分の会社以外の場所で経験を積んだ人材を抜擢する傾向が増えている。

仕事先も学者・公務員・民間企業と勤務先を変えることのできる人材登用の仕方が、各方面で目利きができる人材を作ることができるとの調査結果がある。

◆個人の都合

個人の面からすると、終身雇用制度が崩れてきており、この先、国にしても企業にしても国民や社員の面倒を見ることが難しくなっている。

場合によっては所属する企業そのものが消滅することもありうる。

こうしたことから、これまでは常識であった「この会社に骨を埋め」、「一生安泰」なサラリーマン生活を全うすることは過去の世界になりつつある。

また、最近では、職種によっては、AI導入による解雇の不安も生じるところも出てくるだろう。

これからは「これまで辿ってきた、この途一筋」ではなく、別の道を開拓する意味でも早くから副業をして勘所を養っておくことも必要になっているのではないか。

つづく

(学23期kz)

幕末、外国人に映った日本の日常 ④L.オリファント

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年10月 トピックス】  

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

2024年10月 トピックス】    

ペリー来航に伴う日米和親条約、ハリスの日米修好通商条約締結後、通商条約締結のため、蘭・クルチウス、次いで露・プチャーチンの次に英国がやってきた。

国を代表した条約締結当事者もさることながら、その当事者に秘書官兼書記官と仕える者には、冒険好きで、観察眼が鋭く、筆に自信がある物書きが多い。

◆ベストセラー作家・オリファント秘書官

英国から派遣されたエルギン卿に随行して清国に駐在後1858年8月に来日したローレンス・オリファント秘書官もその一人で、海外に赴任していた父の関係で世界各地を回っており、ネパールでは「カトマンズへの旅」を書きベストセラーに、ロシアに行った際に書いた「黒海のロシア沿岸」もベストセラーになった。

彼が書き留めた日本の情景は「エルギン卿 遣日使節録」(オリファント著)として残っている。

当時の日本が英国人の彼らにどう映ったか、本音の心情も記されており、飽きさせない面白さがある。

◆日本の印象

オリファントはエルギン卿に伴って清国から日本の長崎に入るが、そこで見た長崎は

・深い入り江、突き出した絶壁、それを覆う緑の丘。また造園の腕は世界のどの国よりも優れていた、としている。

・江戸に入ると群衆はものめずらしさに(英国人一行を)一目見ようと老若男女が集まり、入浴中の男女も素っ裸のままで戸口に集まっていた

・見物人は下層階級のようで、男たちは見苦しくない衣服を着ていたが、女たちは最高に醜かった。真っ白に塗った顔、毒々しい紅い口紅、剃り落とした眉、そして黒く染めた歯。でも化粧していない若い娘たちは清の女性たちをはるかに超える美しさがあった。

・役人の姿・・・袴、足袋、二本刺しの刀、髪型に驚く。

また、充てがわれた宿舎では、畳に上がるたびに草履を脱がなければならず、これが実に不便で、面倒。草履のまま畳に上がった。

・江戸の町について

驚くほどの秩序で保たれており、人々の相互監視で成り立っている。このため役人も決して買収されない。

個人が共同体のために犠牲になる日本では、人々はみな幸福で満足しているように見える。アメリカは正反対。

こうした日本は、清国はもちろん、欧州の国々も見習うべき。

◆条約締結作業をした日本の役人

江戸に入る前に下田に寄り、ハリスと通訳のヒュースケンに会うがそこで彼らから日本人の温厚な性格や魅力的な天性についての話を聞く機会を得たとしている。

実際、条約締結の当事者となった5人の日本側役人についてのエピソードがある。

その5人とは・・・

永井玄蕃頭(尚志)

岩瀬肥後守(忠震)

井上信濃守(清直)・・・川路聖謨の実弟

水野筑後守(忠徳)

堀織部正

彼らを聡明で、教養があるとしている。

彼らはジョークを理解する力がある。彼らは多くの困難をジョークで解決しさえする。中でも岩瀬はジョークの天才だった。しかし仕事の時には彼の指摘はいつも鋭く、的を得ていたという。

また、日本人の気質について、日本人は新しい知識を取り込むことにとても積極的で、誰かが得た新しい知識をすぐに他の者が学ぼうとする。この気質は清国人と大いに違う。

また、今後の公式の場での使用言語について討議したことがあるが、その時、日本側から「あなた方は英語を公用語とした方が良い。日本語を習得するのに時間がかかるから。我々なら5年で英語を読み書きする力をみにつけることができるから」と言われたという。

彼らはハムとシャンパンが好物で、昼食時は「ハムに向かって驚くべき攻撃をしかけた」としている。

条約締結はハリスの通訳のヒュースケンが加わったこともあり、順調に行ったようだ。

◆日本との別れ

日本を離れる間際に彼は言う。

「僕は1年間清国で過ごしたがすべて日本の方が勝っていた。日本人に国際上の教訓を教えるには清国に対してのように武力を使う必要はない。日本人は慧眼で聡明なので道義的に感化する方がずっと効果的で幸福な結果をもたらすに違いない。

素晴らしき国、日本よ!

僕は必ず君のところに戻って来よう!」

◆日本へ再任

彼は日本がとても気に入ったようで、31歳の時に英国公使館一等書記官として、晴れて日本再訪を果たす。

しかしその折、残念なことに英国公使館員を襲った東禅寺事件が起きる。

攘夷に燃える水戸藩士が公使館員に刀を振るったのだ。

運悪く、オリファントはその攘夷の刀で負傷した当事者となってしまった。

その傷は後遺症が残るほど深いもので、このためオリファントは本国への帰国を余儀なくされる。

しかし、こうした事件があってもオリファント君は、本国に帰国後、日本嫌いにはならなかったようだ。

一命をとりとめたほどの殺傷事件に巻き込まれた彼だが、帰国後に日本の使節団と会って彼らのために尽力している。その彼がよほど日本が気に入ったのだろう。

若き日のオリファント君、誠に申し訳ないことをした。

こうした事件にあいながらも日英の交流に尽力してくれたオリファント君、ありがとう。

(学23期kz)

Laurence Oliphant

ジンギスカン慶彦 東京大森店

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年10月 トピックス】

(2022年10月15日Facebook過去投稿より)

元・広島東洋カープの髙橋慶彦さん(現在65歳)プロデュースのジンギスカン慶彦東京 大森店に行って来ました

月1回慶彦さんがお店に出られてコラボ企画をされています。

満を持し、17時開店に合わせて入店しました。

1人の為にカウンター席でした。

慶彦さんが、各テーブルやカウンター席を廻られます。

下記内容についてお話しました。

①最初の広島勤務時代にお付き合いのあった富士見町の広告代理店所長の奥様が美容室をされていて、慶彦さんが頻繁に美容室に顔を出されていると聞いていたこと。

広告代理店は美容室の隣にありました。

慶彦さんの話では奥さん同士が友達で慶彦さんは付き添いだったとか。

②私の実家の近くの団地に横溝 桂さんが引っ越して来られ、中学一年生の時に緊張して訪ねてサインを貰ったこと。

横溝さんは引退後、広島、南海、阪神で打撃コーチ、スカウト、中国放送で解説者を歴任。(現在87歳)

同じ団地には山本一義さんの自宅もあったこと。

打撃コーチ時代の一義さんは怖かったと。

③昨年5月に草加市の広島お好み焼き空島に行ったこと。

元広島カープ、庄原市出身の伊藤投手のお店で、三篠の室内練習場で、一緒によく練習されたこと。

④カープファンから慶彦さんのカープコーチ、監督就任を望む声が多いと伝えると松田オーナーとは過去に喧嘩をしたので、宇宙に行くより難しいと。(笑)

⑤昔、三滝のゴルフ練習場で、赤いポルシェの慶彦さんを見掛けたこと。

日産フェアレディZはマツダの為ダメだったとか。

⑥昨夜、慶彦さんのYouTubeで正田さんとの対談を1.5時間掛けて視たこと。長さに驚いたこと。

⑦若い時は格好良く持てたでしょうと言うと、年取った今でも持てるんですよと。

最後は慶彦さんに言わせると「お年寄り二人で仲良く」ツーショットでした。

(2時間滞在)

帰途に就く頃には予約客の行列で大混雑でした。

次回はカープファンと一緒に行きたい。

(学22期 Y・Y)

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伊藤博文公・墓前祭に参加して

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年10月 トピックス】

◆昨日、西大井の伊藤博文公墓所で行われた墓前祭に参加した。

墓前祭は毎年、伊藤公の命日である10月26日に行われ、今年は土曜日の開催となった。

伊藤公が倒れたのが明治42年(1909)のその日、黒竜江省ハルビン市でのことだ。当時68歳。

◆伊藤公は能吏タイプで根回しがうまかったという。吉田松陰も伊藤を「周旋屋」と呼んでいる。

名の通ったある歴史通によると、「伊藤公は大きなビジョンを持ち、企画し実行するタイプではない。当時の日本の大きなビジョンといえば開国・富国・強兵であり、こうした路線は阿部正弘-大久保利通が描いた路線だ。伊藤公はその路線の上をうまく走った。」と指摘する。

憲法を制定し、初代内閣総理大臣になり、立憲政治を定着させ、日本の近代化に貢献した伊藤公。

◆式が無事に執り行われた後に、斎主である伊藤公の生誕地・光市の束荷神社の森重宮司が、ひとこと述べられた。

「大河ドラマに伊藤公が取り上げられないのはなぜか。私なりに考えると伊藤公を取り上げたら1年の大河ドラマでは収まらないのではないか」と。

◆式に参列した女性の脚本家がいた。

その方は現在伊藤博文公の脚本を書いているところという。

山口県人ではない。

秋田の方で、高杉晋作に惚れ込んだのが山口に興味を持ったきっかけで、山口の偉人の脚本を書き、ご自身も舞台に立っているという。

日本酒が好きで、やはり秋田の酒が良いという。

「一推し」が「雪の茅舎」、次が「山本」とのこと。

近くの全国酒造組合の重鎮の「押し」も「雪の茅舎」、次が「山本」と見事に一致した。

なお、今回の墓前祭に際し蔵元から奉納された酒は、原田、貴、東洋美人、獺祭、五橋であった。

(学23期kz)

そうだったのか、上野戦争 ①主戦派

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年10月 トピックス】

◆上野が戦場に

薩長を主体とする新政府軍と旧幕府軍との戦いとなった戊辰戦争は明治元(1868)年の鳥羽・伏見の戦いから始まる。

戦場は江戸、北越・東北と移り、最終的には翌年5月、箱館で決着が着く。

こうした一連の戦いの中で、江戸・上野寛永寺が舞台となった内戦がある。

江戸城は無血で開城となり、新政府に引き渡されたが、旧幕府の中には無血開城を不満とする幕臣や徳川家の存続を願う勢力が燻っていた。

幕府の存続・再興に思いを寄せる彼らは、最終的に上野の寺に立てこもり新政府軍と戦う決断をする。

こうして上野の内戦で血が流れた。

それが上野戦争だ。

◆江戸城の主戦派

鳥羽・伏見の戦いで敗れた幕府軍の大将・徳川慶喜公。

軍を大阪に残したまま、海路江戸に戻る。

殿・慶喜公を迎えた江戸城では、東かは薩長の「賊軍」が上がってくるとして対応策を巡って議論が四分五裂、白熱した議論が続いたようだ。

幕臣の中で恭順派の代表は勝安房(海舟)。

他方主戦論、すなわち薩長軍への徹底抗戦派は小栗上野介順正や榎本武揚。

小栗の論拠はこうだ。

東洋一の無敵艦隊があり、フランス仕込みの陸軍伝習兵があると。

そして小栗は薩長を抑えた後、彼が理想とする「郡県制」の徳川絶対主義国家に建設の夢を見た。

ただ、慶喜公は恭順の姿勢を崩さなかった。

◆小栗の進言

西から攻め挙げてくる薩長を中心とした東征軍を相手に、殿・慶喜公に徹底抗戦を主張した。

小栗は恭順を示す慶喜公に対し再考を促し、慶喜公の袖を引いてまでも東征軍と戦うことを進言した。

血を吐くような声だったという。

しかし、慶喜公は

「・・・もうその辺でよかろう。上野、下がりおろう」と小栗を残して奥に消えた。

この時に小栗の運命が決まった。

その直後にお役御免を通告された。

榎本も頑張った。

榎本も「将軍家には腰が抜けられたか」と激しい口調で殿・慶喜公に再考を促すのに必死になった。

慶喜公はそれでも恭順の姿勢を崩さなかった。

結局榎本は江戸を離れて箱館で独立政府を構え、薩長の新政府軍と戦うことになる。

◆慶喜公、江戸城から上野寛永寺、そして水戸へ

実は慶喜公が江戸に戻った直後、1月7日には京から慶喜追討令が出されている。

慶喜公は朝敵となっていたのだ。

慶喜公は、あくまでも徳川家存続のため朝廷への恭順を示すために、慶応4年(1869)2月12日、江戸城を出て上野寛永寺で謹慎した。

4月11日に江戸城が開城した折に、慶喜公は江戸を出て父・斉昭が藩主となっていた水戸に向かう。

慶喜公が旅立って空いた寛永寺が反・薩長軍である彰義隊の本拠地となり、ここで内戦が繰り広げられた。

(学23期kz)