親友の自殺(仮面の告白)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部【2023年7月トピックス

高校を卒業して山口での学生生活を送っていて、2年3ヶ月を経過した二十一歳の頃だったと記憶します。
私は後河原の下宿先で夜、地元局KRYのラジオを聴いていた。

すると私の親友の山口大学経済学部のA・Uが徳山市郊外で列車に飛び込んで自殺したと報じられた。
そんな馬鹿な!?、私達が自殺することはあっても、温和な性格で現実的で常識人で一番自殺からは遠いと思える友人の死であった。
きっと何かの間違いであろう。
すぐに他の友人と連絡を取り合って駅通りの彼の下宿に出向いた。

ご高齢の家主さんのところにも警察から連絡が入っていた。
家主さんの了解を得て部屋に入ると、三島由紀夫の「仮面の告白」と共に彼の遺書があった。
三島由紀夫は前年に割腹自殺を遂げていた。

学園生活は入学当時に共に一時期、同じ運動部に所属したり、文化会サークルに入ったりして、毎日、下宿先を行き来し、顔を会わせない日はないくらいであった。
ところが、私は文化会サークルに所属していたものの、サークルから遠ざかり、私は彼がサークルで活躍しているとばかり思っていて、お互いに行き来が途絶えた時期があった。
遺書によると彼は自殺することを決め、自分の死に場所まで下見して、計画通り完璧に遂行してしまった。

葬儀の際、お父さんやお兄さんは毅然とされていたが、お母さんのわが子を失った落胆ぶりは見るに耐えなかった。
そのお母さんから、私が録った彼の肉声が入った録音テープを形見にしたいので、聴かせてほしいとの申し入れがあった。
肉親からの申し出とはいえ、内容面の事情でお断りせざるを得なかった。

子供の頃から成績優秀でエリートだったようである。
音楽が好きで、よく下宿でギターを弾きクラシックの曲を聴いていた。
でも、若くして何かに挫折したのであろう。
今も下松市郊外の山の中の墓に静かに眠っているのであろう。
当時、お兄さんから彼が眠るであろう墓に案内されたが、あれから彼の3倍以上の50年余りも生きているというのに私はただ惰眠を貪り、齢を重ねています。
一度、私が生きているうちに墓参りをしてやりたいと思っていますが、今の私には下松は遠く実現していません。
この種の投稿はトピックスとして相応しくないのではと思いましたが、若くして終わりのない旅に出た彼を思い出してやることで供養になるかと思い投稿しました。
(学22期 Y・Y)

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山口大学鳳陽寮

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年7月トピックス

私は山口市での大学5年間在籍中に6箇所に住み、5回も引っ越しをしました。
入学した頃は平川に下宿し、次は道祖町(その後石観音町に町名変更)、古熊、亀山近くの鳳陽寮、中後河原町を経て、最後は中央五丁目の山口中央高校の近くでした。

鳳陽寮に入居していたのは数ヶ月程度と記憶します。
本来なら相部屋のようですが、空いている部屋もあり、私は一人部屋でした。
私は5つある寮の中の西寮でした。
入っていた期間が短く寮祭とかストームとかは体験していません。
同じ西寮には亀山公園での入学オリエンテーションで知り合い、学部で教養時代に同じK3クラスだったM君がいました。
彼は外出先から帰るとバケツに水を貯めて足を洗っていました。
高校時代は生徒会長をしていたと後に他の人から聞きました。
熊本が本社の九州最大のスーパーに就職したようですが、新入社員研修期間中に置き手紙を残して辞めたという嘘のような本人の弁です。
その後、地元の北九州市で寿司職人になったという異色の人です。
本人に5年位前に上京の際に45年振りに再会しましたが、全く風貌やイメージは一緒で吃驚しました。

風呂場は昼間に暗闇で見た為、汚かった山口大学印象があり、私は近くの銭湯に自転車で利用していました。
部屋で落書きをしていて点検の際だったか、一年後輩の文理学部の寮長に見つかり、頭ごなしに注意された記憶があります。

学生運動をしていてよくアジテーションされていた学部でも知名度の高い先輩が寮におられましたが、私は一般学生で話したこともありませんでしたが、卒業後の広島の同窓会で、40歳の頃に知り合い、お付き合いが始まりました。
奥様も学部の先輩で、美人で目立っていました。

学生時代は面識もなく、話したことはなくても、広島勤務時代に学生時代からお付き合いがあった学22期 Y・Yさんから紹介された学22期 Y・Nさんには特に公私にわたり、46年の長い間大変お世話になっています。
鳳陽寮は吉田地区への統合移転伴い、卒業暫くして廃寮となったと聞きました。

写真は30年位前の広島寮歌祭の一シーンです。
(学22期 Y・Y)


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山口の思い出(喫茶店他編)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年7月トピックス】

昨年11月12日に食事編は投稿しましたが、今回は喫茶店他編です。
道場門前にあった「谷間の灯」に何度か行った記憶がありますが、デートだったか否かは思い出せません。
同じサークルの仲間で評判が良かったので、下見を兼ねて最初は階段を降りてひとりで行ったのだと思います。

あとは糸米町にあった「グリーンパーク」を何度か利用しました。
これはセンタービルのダンスパーティーで知り合った某芸術短大の女性と後日、山口市民会館での発表会後に行ったのを覚えています。
広いスペースで爽やかなイメージで利用し易かった印象があります。
美味しいケーキを食べた記憶があります。
Facebookで友達になっている山口市在住の方から、今はもう失くなっていると以前お聞きしました。💧
(調べると2010年1月に自己破産を申請)

あとは道場門前のパチンコ店百万弗の2階にあった「白鳥」を利用しましたが、これも数回程度でした。

頻繁に利用したのは山口信用金庫本店近くにあった「リバーサイド」です。
京都時代にバイト先で馬券を八坂神社の場外馬券売場にパシりで行かされて競馬に興味を覚え、復学後に週末はリバーサイドでテレビ西日本の競馬中継を視聴していました。
ハイセイコーが登場する前後を含めての時期でした。
女性とあまり縁がありませんでしたので、行った喫茶店も数える程です。

先の長門峡の女性が、縁があったと聞いた朝倉近辺のおシャレな店名の喫茶店に一度ひとりで行った記憶はありますが、店名は思い出せません。

学生時代の友人は後河原のドリップで出す純喫茶や若いご夫婦がされていた深夜喫茶の「ムスタング」が忘れられないとか。
店内にムスタングの店の由来と思われる野生馬の写真があったとか。

私は中市のスマートボールの店やパチンコ百万弗や山口ホール、大市会館、マツヲには頻繁に出入りしていました。
(山口市ファンクラブメンバーの情報では百万弗は今は無く、跡地はマンションとなっているとか。)

卒業後、歳月を経て東京でのOB会に出席しても、入学同期に学内では見たことはない、本当にいた?とよく言われます。💦

GAROの「学生街の喫茶店」(1972年)が流れていたあの日に帰りたいです。

山口市の喫茶店の写真がないので六本木の「かき氷yelo(イエロ)」の写真を載せます。
夏の炎天下に若者ばかりで1時30分待ちでした。💦
(学22期 Y・Y)

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横浜市北部における廃仏毀釈のエピソード(その2)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年7月トピックス】

以前、当欄において横浜市都筑区における廃仏毀釈のエピソードをご紹介しましたが、同青葉区にも興味深い話が残っていますのでご紹介します。本件からは明治初期における廃仏毀釈がどのような性質を持っていたのかその一端に触れることができるような気がします。

江戸時代中期から庶民の間に大山詣でが盛んになりましたが、東急田園都市線藤が丘駅に程近い柿木台(旧上谷本村)の旧大山街道沿いに医薬神社と言う小さな神社があります。明治の前まではそこに東光寺(関東の高野山と呼ばれた川崎王禅寺の末寺)が広い寺域を持って所在していました。

 その寺の住持諦恵は11歳で仏門に入り成田山新勝寺(真言宗)で修行した後、東光寺に住持として赴任していましたが明治初年大政の維新に会い、何とその年に自ら率先して東光寺を廃して、寺内の境内宮に過ぎなかった医薬神社の神職に転身して檀家もみな神葬に変えてしまいました。

 明治政府の廃仏毀釈政策は寺院や有力檀家の抵抗が大きく、寺領を大幅に返上するなどの妥協により生き残った寺院も多い中で同寺を明治初年にたちまちに廃した理由は諦恵の出自によります。

 諦恵は徳川慶喜の父である水戸の烈公徳川斉昭の実子でした。母が婢として水戸藩に出ている時斉昭に見初められお手がつきましたが身分が低い出のため子として認知されないままに宿下がりとなり、下総の実家(宮本氏)で諦恵をひっそりと出産しました。その後諦恵は水戸藩の家臣の差配により新勝寺に入り、おそらくは真言宗の横のつながりによって東光寺に赴任したものと推測されます。

 その諦恵が明治初年に突然仏門を捨てて神職に転身したことは、推測の域を出ませんが水戸神道の影響が強くあったのではないでしょうか。徳川斉昭の庶子である諦恵は村名を姓とし、境内に湧出する清水に因んで名を谷本泉に改めました。時は明治政府が天皇を神格化して太平洋戦争の終結まで国家神道を推し進めていく中で谷本氏は時流に見事に乗っかったと言えるかも知れません。

 藤が丘駅近くのもえぎ野公園内に国威発揚目的で昭和15年(紀元2600年)に催した紀元節祝典の石碑が現在も残っていますが、地元の中里郷土史紙上には公園内に現存する池の元となった農業用水池を築造する村人達を指導する谷本泉の3代目か4代目の子孫の雄姿が写っています。

なお、郷土誌である「中里郷土史」発行の昭和44年においても、谷本泉の実父は明らかにされておらず、徳川慶喜の異母弟という出自が戦後20年を経た時点でも何らかのタブーに触れる可能性があったことが推察され、昭和史を考えていく上でも大変興味深いと思います。 (22期 YY)

通常総会(宇部)に参加して

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年6月トピックス】

6月17日(土)に宇部で全国総会が開催された。

松野元理事長を始めとする逝去された諸先輩方への黙祷で始まり、松永理事長からは各支部で続々と総会が開催されているとの報告があった。

各支部とも4年ぶりにようやく通常の形で総会が開催され、賑やかな懇親の場が戻ってきており、特に最北の北海道支部でも総会が再開されたことが紹介された。北海道支部は会員が13人。会員の柱は旧北海道拓殖銀行とのことだ。最北の北海道の地でも総会が開かれたことは喜ばしい。支部長は木村氏。私と同期だ。

また、総会では有村経済学部長から最近の経済学部の子学生たちの様子が紹介された。

  • ラサール出身の山根教授のご活躍もあり、山大全学の中で経済学部の英語のコミュニケーション能力が他学部よりも上がっていること、
  • 経営学科の職業会計人コースも好調で毎年現役の公認会計士の合格者を出しており、今般海外の留学生の中から現役合格者が出たこと、
  • 歴史のある経済系の学生を対象とした学術大会である全国ゼミナール大会で山口大学のゼミ生が最優秀賞をとったこと。すなわち2022年度の証券ゼミナール大会では兵藤ゼミ(金融経済)の学生が最優秀賞を取り、経済ゼミナール大会では、川村ゼミ(労働経済)の2チームが同時優勝を果たしたようだ(山大経済学部ホームページ参照)。実に誇らしい。

総会の後は懇親会。参加者は総勢130名ほど。

会場に入る際に華やかなバイオリン演奏で迎えられた。バイオリン奏者は宇部を中心に活躍されているプロのバイオリン奏者で、常盤会(工学部同窓会)のメンバーの奥様との自己紹介があった。

来賓は谷澤学長始め理学部、医学部、工学部、農学部の同窓会代表のほか、白石元山口市長(山大院卒)もお見えになっていた。

来賓を代表した谷澤学長の挨拶で、全学同窓会での中枢組織である鳳陽会へ、従前同様、大学への支援・協力要請があった後、乾杯へ。

各テーブルのメンバー同士、テーブルを越えた懐かしの同僚、先輩との名刺交換が行われ、酒を注ぎ交わして賑やかな時間を迎える。

会の途中では留学生を含む学生諸君約20名が壇上に上がり、ひとりずつ自己紹介とショートスピーチをして頂いた。カタコトの日本語あり、英語あり、ほほえましいひとときであった。

最後に次回総会会場となる広島の山下支部長から次回広島総会へ向けたご挨拶があった。

会の終わりに山大学生歌、山都逍遙歌を合唱。

学生時代はあまり学校にあまり顔を出さなかったが、歌を歌い始めると結構歌える。ということは、学生時代、結構な回数みんなと歌を合唱していたのかもしれない。

乾杯には地元小野田・永山酒造の山猿だったが、もちろん「長州学舎」も用意されていた。

(学23期kz)

松永理事長と総会の模様
華やかなバイオリン演奏
床本宇部・山陽小野田支部長
谷澤学長・来賓挨拶
留学生を含めた学生諸君
山下広島支部長

校歌、逍遥歌の合唱

偶然の一致(2)長門峡の人

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年6月トピックス】

今から54年前に遡りますが、広島の高校を卒業して進学の為、隣の山口県で学生生活を送ることになりました。入学してからというもの講義にも出て、当初は規則正しい比較的まじめな学生生活を送っていました。

9ヶ月経った頃、亀山にあった山口県立山口図書館に通い、安部公房とか、大江健三郎とか、高橋和巳の本を読んだりすることもありました。
私は当時19歳でしたが、同じ図書館に通う健康的で溌剌としたちょっとした美人がいて、目に留まったのであった。

私は目と目が合ったその日に、思い切って彼女が図書館を出て家路につくところを追いかけて声を掛けることにした。
彼女は山間部に長門峡という山口県の峡谷のある有名な景勝地がありますが、そこから通う山口市内の女子高の生徒であった。
微笑が素敵な女性であった。
その後、山口市内を男性教師のような方と歩いているのを見掛けたことはありますが、私は彼女の実家宛に手紙を書いた記憶があります。
姓は聞いていましたが、名前や実家の住所も知らないのにどうして手紙が出せたのか遠い昔のことで思い出せません。

友達として付き合ってくださいという趣旨の手紙であったと記憶するが、暫くして彼女から返事が来た。
高校を卒業したので、大阪の看護学校に入り戴帽式の日を夢見てナースになるので、友達は近くにいる人を希望しますとの内容であった。
確か大阪府豊中市の看護寮からの手紙でした。
これ以上は青春の淡い思い出とせざるを得なかった。💧

それから、23年余りが経ち、私は就職して地元の広島で2度目の勤務をしていましたが、42歳の時に鍋物料理の店で偶々隣の席ということで知り合ったスナックのママが市内の流川という歓楽街で店をやっているというので、ある日、その店に一人で飲みに行くことになった。

初めて入ったスナックの座ったカウンター席の隣に、その店の常連らしき男性が一人で座っていて偶然話すことになった。
何でも山口県の長門峡出身というので、23年前に図書館で知り合った昔の女性の名前を言ったら、「その人は私の小、中学校の同級生で、クラスメイトだった人でよく知っていますよ。」とのことで、私は「ええっ!!」と絶句した。
偶然とはいえ、隣の県なのに、初めて入った店で彼女のクラスメイトの男性に会おうとは本当に驚いた。
偶然の一致とはいえ本当に恐い。

追記)
長門峡には大学生になって入って暫く在籍した文化会サークルで某女子短との新入生歓迎合ハイで一度行ったことがありますが、素晴らしい自然に甚だしく感動しました。
長門峡にもう一度行ってみたいです。
(学22期 Y・Y)

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寮の友、下宿の仲間② 吉田寮

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

【トピックス】

◆寮の友人

入学当初、朝から晩まで、「女人禁制」の時間を共に過ごした。

最低限の学業をこなしながら酒に、麻雀に、ギターに熱中した。

消灯時間もなく、門限もない。

深夜まで、時によっては卓を囲んで早朝まで仲間と過ごす。

吉田寮は二人部屋だ。

よくしたもので、部屋の住人の組み合わせは原則、文系と理系の組み合わせになっていた。

ここで他学部の同級生や先輩たちとの出会いがあった。この時の出会いで生涯の付き合いとなった者もいる。

寮生活は入学当初、知り合いを増やす絶好の機会をもたらしてくれるありがたい場であった。

ただ二人相部屋の寮では生活には独りになれないという欠点があったが、私は先輩や仲間を早く知り合いたいという気持ちが先に立ち、寮生活を続けた。

A君との出会い

私に割り当てられた寮の部屋のはす向かいに、理学部化学科、福岡出身のA君がいた。

酒に、麻雀に、ギター。話も上手いし、各種の口上もプロ級だった。本棚にはA・ビアスの「悪魔の辞典」があったが、ありきたりの退廃的な逆説ではなく、意気を高揚させるポジティブな逆説をこよなく愛し、またスパイスの効いた冗談も冴えていた。そのA君とはアルバイトも一緒のことが多かったし、一緒にバンドを組んで、ロックミュージシャン気取りを楽しんだ。

A君は見るからに頑健で、高校時代はラグビーをやっていたという。

彼は心身ともに逞しい。当時、A君のことを「原爆が落ちても生き残る」と確信していたほどだ。

身体もさることながら指も大ぶりの芋虫のように野太いが、その指でクラシックギターを弾き、センチメンタルな旋律を弦で奏でる繊細さも持ち合わせている。

彼は吉田寮を1年で退寮し、下宿暮らしに変るが、健康食材にこだわりがあった。飯を炊くにも、米ではなく、圧力釜で玄米を焚くことを厭わなかった。

学年が上がると学業が忙しくなる。白衣姿で実験漬けの毎日で、学生に極めて厳しかった化学のN教授の下でかなり苦労したようだが、無事卒業を果たした。

器用なもので、学業の合間に山大七夕祭を立ち上げ、初代実行委員長になっている。

◆ベストセラーを出したA君

彼は卒業後、総合商社勤務を振り出しに、食品を中心として色々な業界に身を置いたようで、行く先々で活躍した。テレビにも何度か登場したが、その際には事前に連絡をよこしてくれた。

次の職が決まる間の浪人時代には特許をとることに没頭し、5つほど特許を持っている。文系にはいないタイプだ。

しかし、色々な職の遍歴を持つ彼は、健康と食品が交差するジャンルに落ち着き、そこで頭角を現わす。添加物食品のジャンルだ。

そのジャンルに切り込み、彼の天職となった。

築紫哲也と出会い、彼から可愛がられる一方、東洋経済から添加物に警告を発する本を出し、初版で65万部を売った。この本は当たり、3作目、4作目とシリーズものを出している。今では食品関係の協会を立ち上げ、代表理事をしている。

マンガ・美味しんぼにも彼の顔と名前が何度か登場しており、5年ほど前には山手線の2両が彼の本の広告で埋まったことがあった。

また去年の秋、山大ホームカミングデーに登壇している。

今年刊行した和食復活の食育本でA君の名を冠した「●●ごはん」なる著書を刊行したが、学生の食生活を案じるO学長の推薦で山大の指定図書に採用され、山大売店でも販売されているという。

彼は今でも講演活動で全国を飛び回っており、今でも月に2~3は上京する。その折には、楽器を弾ける新橋のライブハウスに行き、昔のレパートリーだった洋もの楽曲をハモり、シャウトして遊んでいる。

そこではA君の僕(しもべ)であるはずの芋虫君は、いつものように別の生き物のように、しなやかに、そしてリズミカルに弦を這い、時には妖しくうねって旋律を奏でる。

その様は半世紀を経た今でも健在だ。

(学23期kz)

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

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「生きる」

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年6月トピックス】

昭和の角聖・大横綱双葉山のお孫さんで女優の穐吉次代さんにご案内いただき、劇団ZANGE墨田公演の「生きる」の鑑賞に墨田区曳舟文化センターまで夕方から行ってきました。(2017年4月5日)

原案:ブッチー武者
脚本・演出:山口弘和
書:浜田光夫

実際にあった京都伏見介護殺人事件を題材にしたもので、亡き母の介護を、会社を早期退職して6年間面倒を見た者として身に詰まされる舞台でした。
私の母は、最後は要介護4で認知症は進み、息子である私のことをお兄さんと呼んだり、自分の干支すら言えない状態で、mixiに当時、介護雑感と題して綴ったものです。


舞台は「母の命を奪ったが もう一度 母の子に生まれたい…」という言葉が胸を撃ちました。
往年の大スター浜田光夫さんが特別出演されていて、最後の場面で裁判長役で登場されていて舞台が締まりました。(映画は「青い山脈」、「潮騒」を観ました。)
終演後、穐吉次代さんと主役のブッチー武者さんにご挨拶。
北の湖部屋後援会の千秋楽打ち上げでよくお見かけした浜田光夫さんにご挨拶出来なかったのは残念でしたが、なかなか見応えのある2時間10分でした。
穐吉次代さん、大変お世話になりありがとうございました。

「生きる」の舞台公演は直近では上尾市市制65周年記念公演が上尾市文化センターで2023年9月3日(日)に決まっています。
(添付写真をご参照下さい)
(学22期 Y・Y)

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明治初めの廃仏毀釈に関するエピソード

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年6月トピックス】

こんにちは、22期の「じゃない方のY.Y」です。鳳陽会のホームページの廃仏毀釈に関する投稿を興味深く拝見しましたが、私の住む横浜市都筑区にも廃仏毀釈に関する興味深いエピソードがありますのでご紹介します。

都筑区の北東の東山田町の中原街道沿いに鎌田堂と呼ばれる小さな祠がありますが、そこの裏山は源義朝の側近であった鎌田正清(政家とも)の館跡との伝承があります。義朝と正清は平治の乱で敗れて落ち延びる途中で立ち寄った知多半島の正清の舅の家で裏切りに合い惨殺されています。

そんな正清の伝承が何故ここにあるかと言えば、昭和51年(1976)に鎌田堂から1キロの川崎市久末にある妙法寺というお寺の古井戸の工事中に底に捨てられていた大きな板碑が発見されたからです。

江戸時代後期の地誌「新編武蔵風土記稿」の山田村の項に、鎌田堂に程近い三宝寺の寺伝として建長7年(1255)に家臣によって正清の百回忌法要が行われて石碑が造立されたと記されており、長い間行方不明になっていたその板碑だったからです。

三宝寺は廃仏毀釈の流れを受けて、明治8年(1876)に廃寺になっており同時に板碑も行方不明になっていましたが、100年後に突如出現したわけです。(板碑のレプリカは川崎市が保有、公開)

廃仏毀釈の嵐はまことにすさまじく、薩長明治の始まりと共に古き良き江戸の文化も暴力的に破壊されてしまいましたが、日本を訪れた外国人がその真価を認めたのは歴史の皮肉と言わざるを得ません。

なお、源頼朝が鎌倉幕府を樹立した後、鎌倉の勝長寿院で父義朝と正清の法要を行いました。その寿院跡(鎌倉市雪ノ下)に義朝と正清の墓がひっそりと佇んでいますので写真を添付します。

現代に生きる我々は、石牟礼道子を長く支えて今年亡くなった渡辺京二氏や民俗学の巨頭宮本常一氏の著書の中でしか、なつかしい日本人に会えなくなってしまいました。 (22期 Y.Y)

介護雑感(歯科の女医編)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年6月トピックス】

母の足腰が弱り、検査入院で病院に入院していた頃のことです。
介護施設に入居する1年と少し前のことであった。
母は病院に入院したものの、以前から入れ歯を失くしていて、担当医の勧めもあり、入れ歯を作製することになった。
病院と提携している歯科医院があって、送迎診療サービスもしてくれるという。
車椅子に乗ったまま、リフトが付いていて車に乗せ移動できるのである。
私は運転出来ないので有難い話である。

M歯科医院は病院から送迎車で25分位のところにあった。
到着すると、近代的設備を誇るモダンな建物で、診察台も10台位あり、歯科医師もその位いる歯科医院で、土曜日だというのに患者も多く大繁盛している。
小型の送迎車も7台位あるようで、スタッフも充実していてそれを売りにしているようであった。
担当の女医も、若くて感じが良くて、入れ歯作製に5回位通ってくださいとのことで、健康保険証がなかったが、月末までに持参してくださいとのことであった。
そのため、預かり金として4万円だったと記憶するが預けた。

次の土曜日、2回目の診察日であった。
予定の時間になっても、送迎車が来ない。
歯科医院に問い合わせると、何か行き違いがあり、予定の時間を40分位遅れて送迎車は来た。
その間、母は寒空のもと待つことに。
到着すると、担当の女医は、行き違いがあったようでと詫びた。
健康保険証がないので、診察券が発行出来なくて、車の送迎に手配漏れがあったらしい。
私は仕方がないとあまり気にかけなかった。
ミスは誰にもあるものである。
ただ、受付には次回からは、きちんと送迎をして下さいと念を押して帰った。

次の土曜日、3回目の診察日。
予定の時間前から送迎車を待ったが、定刻になっても来る気配はない。
少し待って連絡を取るとそれから、50分位遅れて送迎車は来た。
私は運転手の人に2回続けての手配漏れ、一体全体どうなっているのかと問いただした。
どうも、診察券が発行されていないことが原因のようだと運転手はいう。
私の怒りに圧倒されたのか、運転手は到着したら医院長から説明させますという話になった。
到着すると医院長は不在ということで、担当の女医から説明というとになった。
診察台に母を連れていって話を聞いた。
その女医曰く、「診察券がないので、送迎車の手配が出来ませんでした。」私、「それは前回そういう説明を聞き済んでいて、次回から手配漏れがないようにお願いした筈です。事実だけいわれても困る。」と。
担当の女医からはお侘びの一言もない。
「手配漏れを診察券が発行出来ないことを理由にされても困る!!それとこれとは違う!!」
私の激怒した大きな声がフロア中に木霊した。
「コンピュータと連動しているというが、コンピュータというシステムが出来ないことを人間が補うのではないのか!! その為に人間がいるのではないのか!!」
一斉に医師や診察台の患者の視線を感じた。
女医は母を診察しようとしたので、私は遮って母に「帰ろう。」と促した。
女医は、「診察を受けられないのですか?!」
私、「そうです。」
女医、「今後、受診される気があるのなら、連絡を下さい。」と言った。

私は、1時間半かけて車椅子を押して帰ろうとしたが、途中、道に迷い、雨も降ってきたので、タクシーを拾って帰った。
私は、病院に帰って母に詫びた。
母は理解したのかどうかわからないが、何も言わなかった。
その後、その医院からは何の連絡もなかった。
預けたお金もそのままで、年度末にどういう経理処理をされたのかわからない。
私は寒空に母を待たせたM歯科医院が許せなかったのである。
人には、損得勘定だけではなく、許せないことがある。
今も、近代的設備を誇るM歯科医院は大繁盛しているのであろう。
私の抵抗など何もなかったかのように。
(学22期 Y・Y)

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