安芸毛利家のルーツ・厚木  

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

【10月トピックス】

厚木で安芸毛利家のルーツを学ぶセミナーが開かれた。
厚木といえば連合国軍司令官マッカーサーが降り立ったところとして有名である。
しかし厚木が安芸毛利家のルーツであることを知る市民は一割程度しかいないそうだ。

セミナーの狙いとしては、安芸毛利家の祖となった鎌倉殿の側近・大江広元に注目することで、厚木の町おこしを考えたようだ。
大江広元は、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の中で現在活躍中で、セミナーを開催する良いタイミングと考えたのだろう。

毛利元就の三本の矢の話は15世紀の話だが、セミナーでの話は元就から200年以上前に遡り、12~13世紀頃の話だ。

説明者の学芸員の方は平治物語、吾妻鏡などの史料を根拠に毛利のルーツに迫っていく。

大江広元は京下りの官人であり、鎌倉の御家人である。鎌倉殿にもっぱら文官として仕えることで、見返りの御恩として8か所の地頭を務めるに至り、その一つとして相模国のほぼ中央にあたる「毛利の庄」を拝領した。

大江広元は77歳で病で没するが、その際、毛利の庄は広元の四男・季光(すえみつ)が受け継ぐ。

さらにその後は季光の四男・経光(つねみつ)の一族が受けつぎ、安芸毛利家と越後毛利家になり、時が下る。

◆山口とのつながり

司会を務めた藤井氏は厚木在住で山口出身。山口七夕会のメンバーであり、山口ファンクラブのメンバーでもある。また会場にはセミナーの支援者として、厚木市山口県人会会長もお見えになっていたほか、このセミナーを紹介して頂いた鳳陽会東京支部のY・Y先輩も同席された。

セミナー主催者側では、この先、防府の毛利博物館所蔵の歴史的文化財や史料を借り受け、厚木の地で毛利コレクションを展示したいとのことであった。

会は盛況で、当初30名の予定が50名に定員を増やしたが、席はすべて埋まったようだ。

こうしたルーツを辿る催しが地域と地域の市民をつなぎ、両者の交流を深める良い契機となればおもしろい。

 (学23期kz)

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使徒サビエル②

Francisco de Xavier

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【10月 トピックス】

◆山口での布教

サビエルは日本に滞在したのは2年半。その間3たび山口に入っている。

山口を拠点に隆盛を誇っていた大名で、文化に理解のある大内義隆公に謁見するもすぐには許しが出なかったからだ。

義隆からの布教の許可が出たのは1551年(天文20年)4月。三度目の山口訪問の際であった。

義隆公に望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差しなど献上品を持参して謁見、またこの時「眼鏡」も献上しており、これが日本に初めてもたらされた眼鏡とされる。

山口はサビエルに「日本におけるカトリック教の拠点となるにふさわしい町」と映ったようで、山口をとても気に入ったようだ。

実際山口での布教活動は順調に行ったようで、記録には半年間で500人以上の信者を得たとされる。

◆豊後(大分)へ渡る

サビエルはパトロンのポルトガル国王から東洋との貿易促進の命をも受けていた。

大内義隆公のポルトガル貿易への関心について、サビエルは「大内文化は爛熟し繁栄したが進取の気が漲ってはいなかった」としている。

大内氏は対明貿易における独占的な地位をようやく手に入れた直後であり、鉄砲という武器を含むポルトガルとのいわゆる「新規」貿易には興味を示さず、サビエルには大内氏が保守的と映ったようだ。

その点豊後(大分)の大友宗麟公は違っていた。

 

◆サビエル、大友氏のもとへ

宗麟公はそのとき、肥後や筑後を平定し、本州への進出の野望を持っていた。それには鉄砲が要る。またそのためにはポルトガルとの交易を、さらにそのためには宣教師との交流を、とサビエルに近づく。

サビエルは1551年8月に大友宗麟公から招聘を受け、山口での布教をトーレス神父、フェルナンデス修道士に任せ、豊後に渡る。この時は陶晴賢(すえはるかた)が大内義隆を討つ1週間前に当たり、サビエルは山口で起きた家臣の謀反を知ることがなかった。

その後、サビエルは日本全土での布教のためには日本が手本としている中国での宣教が必要であるとし、豊後を出てアジアの拠点であるインドのゴア経由で中国に渡る。しかし1年後の1552年12月3日に広東州沖合の上川島(じょうせんとう)で病没した。46歳であった。

その年の暮れに、山口では日本初のクリスマスが行われたが、これはサビエルが去った後の残されたトーレス神父とフェルナンデスによってとり行われたもので、明かりの飾りつけや菓子の振る舞いなどはなく、神「デウス」を賛美し、夜を徹して語り明かす質素なミサであったとされる。

 ◆銘菓サビエル

現在では「ザビエル」の呼び方が一般的となっているが、スペイン語の表記はXavierで、当時スペインの地元の発音は「シャビエル」に近いとされ、山口では「サビエル記念聖堂」と呼ばれており、濁音にはなっていない。小野田にあるミッション系の私立高校の名称も「サビエル高校」となっている。もちろん、山口土産の菓子も「サビエル塔」と濁らない。

一方、大友宗麟がいた大分にもサビエルの名を冠した土産がある。洋菓子の名は「ざびえる」。製造元は「ざびえる本舗」となっている。

私事になるが、地元・熊本でも老舗の和菓子専門店が「ザビエルの誉」という洋菓子を古くから販売している。バターの風味が香る上品な味で値段も他の土産菓子よりワンランク高く、高級菓子として地元でも有名だ。帰省した折には土産として「ザビエルの誉」を奮発し、旅行バックに詰めて帰京したことが何度かあった。

(学23期kz)

 サビエル塔(山口)

  ザビエルの誉(熊本)

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アネクドート

アネクドート、それはロシア語で政治的小話という意味で、長い寒い冬にはロシア人が暖炉を囲み、好むようだ。

ゴルバチョフ氏が先日他界した。ペレストロイカを旗揚げした頃、私はモスクワに頻繁に通わねばならなかった。その頃、現地で聞いたアネクドート:

米国のレーガン大統領の側近には100人のSPがいるが、その内のひとりは、KGBからの回し者と言われている。しかしそれが誰なのか、レーガンは知らない。

フランスのミッテラン大統領は愛人が100人いると言われている。その内のひとりはエイズに感染しているが、ミッテランはそれが誰だか知らない。

ゴルバチョフは100人の経済学者を持っていると言われている。その内のひとりだけがペレストライカを実際に進めることができると言われているが、ゴルバチョフはそれが誰だか知らない。

読売新聞によると、このアネクドートはゴルバチョフ氏本人が言ったものと記載していたが、それが事実だと面白いが、正誤は不明。

学23期  倉田一平(ペンネーム)

映画「夜明けまでバス停で」

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【10月 トピックス】

事件の涙 渋谷バス停女性ホームレスの死▽自らを重ねた女性たち
(NHK2001年5月1日夜10時40分~11時10分放送)

普段は大相撲中継以外は殆どテレビを観ないのですが、知り合いから亡くなられた大林三佐子さんという女性が広島出身と聞いて視聴しました。 

64歳の一昨年11月に亡くなられましたが、私より5歳年下で、上京される前の20代は故郷の広島で劇団員で結婚式の司会等の仕事もされていたとか。
私も社会人となり、広島勤務となった20代~30代始めは演劇鑑賞のサークルに入り、広島市公会堂で文学座、民藝、俳優座等の新劇を100公演以上観劇しましたので、恐らく同じ空間にいたのだろうと思います。

自らを重ねた女性たちとありますが、男性の私も同じです。
彼女を偲び追悼のデモに参加することも大切かもしれませんが、ただそれだけでは先に進まないと思いました。
自分のこれからにどう生かしていくかです。
自らの生を守る為にどうやって具体的に食いつないで行くかです。
彼女は大都会で、生活保護も受けず、亡くなった時は8円の所持金だったとか。
ボランティアで見守りをし、迷惑と感じた近くの家業を継いだ40代の酒屋の男に排除され、抹殺されてしまった。
コロナで試食販売員としての仕事も失いました。
過去のプライドもあり、他人に頼ることもなく自らの力で立ち直りたかったのだろうと思います。

広島勤務時代の友人にホームレスの広島太郎さんがいますが、何年か前に彼は広島市だったか、用意された宿泊施設に入るように薦められても拒否したそうです。
彼の場合は特殊な例かと思いますが、路上生活をしていても何とか生活していける術?を持っているので、管理されることを潔しとしないのだと思います。

明日から大都会で自分は具体的に何をするかが問われた番組でした。

今回、高橋伴明監督、板谷由夏主演で「夜明けまでバス停で」と題して映画化され、10月8日~順次全国で公開されることになりました。
私も時間を見つけて足を運びたい。

(学22期 Y・Y)

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常盤会セミナーに参加して

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【10月トピックス】

山口大学工学部卒業生・学生を対象に、港区の会議用ホールで開催された常盤会セミナー(2022/10/8)に参加した。

タイトル:「持続可能な社会を目指した脱炭素エネルギーへの展開」

講師:松永烈(いさお)氏(山大工学部・院・資源・昭和51年修了)

   産業技術総合研究所 地質資源環境 名誉リサーチャー

◆プレゼンテーション

地球温暖化を回避するため二酸化炭素の排出をゼロ/マイナスにする取り組みが急速に進んでいる。

地球温暖化は1970年代に深刻な問題として科学者の間でも注目され始め、1980年代に世界会議が開催され国際的な取り組みが始まる。

1992年には気候変動枠組み条約が結ばれ、リオの地球サミットで署名が開始された。

また1997年には先進6か国のみで、温室効果ガスの削減目標と目標達成期間に関する条約が締結されたが、これが発効するまでには紆余曲折があり、発効したのは8年後の2005年であった。

2015年には途上国も含めたパリ協定が採択され、翌2016年に発効している。

これまでも、人間が出した二酸化炭素が温暖化の原因になったか否かについて、学者間、また利害関係者間で、また学者間で、議論になってきた。

当初は二酸化炭素が温暖化の原因である可能性が「高い」から、「非常に高い」となり、さらに「極めて高い」と認識され、2021年に出されたIPPC(国連・気候変動に関する政府間パネル)第6次報告では、「疑う余地がない」とされた。

温暖化に伴い、異常気象が発生する確率が高まっており、温暖化回避への取り組みが急務となっている。対策としては太陽光、風力、バイオ燃料などへの転換、循環型経済への置き換えなど本腰を入れたグリーン成長戦略が策定されている。

これまで各種の取り決めが着実に実施されたとは言い難い。このままではダメだという意識は醸成されているが、効果的な取り組みがなされているとは言えないようだ。

◆質疑

質問と講師の見解は以下のとおり。

※原発の活用:原発の利用については安全管理が難しい。安易な稼働については疑問があるが、太陽光や風力発電などの再生エネルギーは信頼度が低く、ベースのエネルギー源にはなっておらず、原発の稼働は仕方のない選択かもしれない。

※CCS(二酸化炭素の地中封じこめ);どこに封じ込めるか。国外に封じ込める場合、どこかの国がスペースを提供してくれば良いのだが、期待できない。

米国ではシェールガス採掘跡のスペースを活用する案も出ているようだ

日本国内では、埋め込む地域の環境アセスメントをなかなかクリアーできず、実施は難しいのではないか。

最後に会場の参加者から、

・政府の取り組みとして、資源エネルギー「庁」を資源エネルギー「省」に格上げし、強力な取り組みを目指すべし。

・企業の経営者も中途半端な対応ではなく、危機意識を高め、断固たる決意で地球温暖化に対処すべき

との意見が出され、会場から拍手が起きた。

◆名刺交換

セミナーの司会役は常磐会の幹事をされているK氏であり、私もK氏の案内でこのセミナーに参加を申し込んだ。

K氏は昭和50年山大・工卒とのことで、私と卒業年次は同じで同期なる。メールでのやりとりをしていたものの、この日が初対面であった。

K氏の名刺を拝見したところ、数年前ノーベル賞受賞者を出した理工系の著名な大学であるT大・名誉教授 理学博士とあった。

卒業後、専門の分野で相当なご活躍をされたのだろう。

(学23期kz)

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35年ぶりのトップガン

前作から35年、トムクルーズ扮するマーベリックが帰ってきた。前作の封切りは、1987年私は20歳大学3年生、世の中は、バブルが始まる頃。
多くの学生がそうだった様に、当時付き合っていた彼女と鑑賞。その頃の山口の映画館はスカラ座と金龍館?(先日どなたかが山口の映画館の話をポストされていましたね)しかなく、そのどちらもドルビー音響対応ではなかったので、徳山までドライブして観に行ったと記憶しています。(その徳山も今はシャッター街)

1987年といえば、まだ冷戦最中、翌年に行われるソウルオリンピックを前にテロが横行していました。前作では、旧ソ連のミグ戦闘機と当時のアメリカの最新鋭戦闘機F14との交戦を想定し、その操縦技術に優れた精鋭が集められ、トップガンの名誉を争う物語。シナリオ的にはその数年前にヒットした愛と青春の旅立ち(オリジナルタイトルOfficer and Gentlemen)とほぼ一緒でした。

さて今回の最新作、仮想敵国の核保有施設を攻撃するのがミッション
(ネタバレするとまずいのでこれ以上はストーリーには触れず)。
IMAX シアターでみる最新作は映像、音響も35年前とは比べものにならないくらいの迫力。
還暦間近とは思えないトムクルーズがあまりにも、カッコよすぎました。満員の客席の大半は私と同世代(バブル世代)。当時と変わらぬトムクルーズに涙していました。

この35年の間、東西冷戦は終わり、誰もがもう大きな戦争は起きないと安堵したはずでしたが、未だロシアのウクラナ侵攻に代表される戦争の悲劇は耐える事がなく、悲しみの連鎖は止まりません。
映画はハリウッド映画お決まりのハッピーエンドで終わりますが、35年前の爽快感を感じなかったのは、理不尽と権威主義が闊歩する世の中のせいか? 20歳当時の純粋な心でストーリーを観れなくなったためか?
それとも隣にドキドキする💕当時のガールフレンドがいなかったからか?は定かではありません笑
(大学37期 上野啓)

流離の岸

(1956年日活映画)

愛情に裏切られつつも、宿命に生き抜く女の姿を描いた広島出身の太田洋子の原作。

脚色、監督は新藤兼人。

千穂役の若い北原三枝の熱演に圧倒される。

千穂の級友の聖子から兄の竜吉(三國連太郎)を紹介され、彼の愛情を受け入れ、新居を構えるが、竜吉に妻子がいることを知る…。

子役の三木てるみが、可愛い。

私が小学校1年の時の映画です。

学生時代を過ごした山口市がロケ地となっており、山口県庁やザビエル聖堂をバックにした山口大学教育学部の体育館や螢で有名な後河原地区、一の坂川が出て来て懐かしい。

昭和の古い映画を好んで観ますが、山口市がロケ地の映画は殆んどありません。

萩や岩国、下関がロケ地の映画はありますが…。

キャスト

北原三枝

乙羽信子

三國連太郎

金子信雄

殿山泰司

二木てるみ

写真3枚目は現在のザビエル記念聖堂

(宇野 輝彦氏提供)

(学22期 Y・Y)

使徒サビエル ①

Francisco de Xavier

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

【10月 トピックス】

学生当時、我々は「ザビエル」と呼んでいたが、山口では「サビエル」と濁らない。記念聖堂の公式ホームページも「サビエル記念聖堂」となっている。

 (呼び慣れていないため、いまひとつしっくりこないが、本稿では「サビエル」と表記する)

◆サビエルの塔

亀山にはサビエルの塔があった。サビエルの山口での活動400年を記念して昭和27年(1952年)に建てられるが、平成3年(1991年)に失火により焼失、今ではモダンな建物に変わっている。

大学に入りたての頃、亀山の丘を見上げれば、欧州の古城を思わせるロマネスク風の本堂から伸びた2本の塔が青い空によく映えていた光景を思い出す。当時の印象があまりに強く、再建されたサビエルの塔には残念ながらなかなか馴染めない。

◆日本での布教

日本に初めてキリスト教を伝えたサビエル。

サビエルはスペイン生まれのバスク人だ。19歳でフランスに留学し、自由学芸、哲学を修める。この時、年長者イグナチウス・ロヨナの影響もあり聖職者を目指すことを決める。

しかし、ルターの宗教改革でカソリック派に対して抗議運動が起きたため仲間と共にイエズス会を立ちあげ、世界宣教に乗り出す。

サビエルは貿易交流促進を図りたいパトロンのポルトガル国王から東洋に派遣される。

サビエルがトーレス神父、フェルナンデス修道士と共に日本に入るのが1549年のこと。マレーシアで出会った薩摩の罪人アンジロウがサビエルに罪を告白し、あまりに熱な信者となったことで日本に興味を持ち、薩摩から入り、その後平戸で、山口、堺、そして布教と天皇への謁見のため京都へと北上する。

しかしサビエルが入った京都は応仁の乱の後、戦乱で荒れ果てて

おり、不況の拠点を変更し、西の京として栄えていた山口に焦点を定める。時の戦国大名は大内義隆公であったが、なかなか布教の許しは出なかった。

しかし、サビエルは日本人と接し、日本人に対して理解を深めていく。

サビエルは日本人を「親しみがあり、善意で悪意がない。名誉心が強く、とても賢く好奇心が強い。どうすれば魂が救われるかその方法を知りたがる。日本は世界で最もキリスト教徒として適応できそな民族である」(サビエル書簡)と見定めたのだ。

 ◆ロイス・フロイスのサビエル評

パウロより多くの人々をキリスト教信仰に導いたとされるサビエル。サビエルの活動は緻密で、日本をよく研究し、仏教徒とも幾度となく宗教問答をし、イエズス会本部や友人あてに日本に関することを書き記している。

室町時代に来日し、信長の庇護を受けた「日本史」の著者ロイス・フロイスはサビエルとは16歳年下。

サビエルから強い影響を受けており、サビエルを「完璧な男」と評している。

(学23期kz)

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毛利氏発祥の地、厚木市

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【10月 トピックス】

4月30日の東京は前日とは打って変わって晴れ間が広がりました。
こうした中、以前、「山口市ファンクラブ」のメンバーのTakahiro Fujii様が、毛利季光が毛利氏の初代であると紹介されていましたので、品川区の自宅を朝7時に出発し、片道1時間50分の厚木市まで行って来ました。

先ずは相鉄線経由で小田急本厚木駅からバスで35分のあつぎ郷土博物館に。
1時間余り鎌倉時代を中心に厚木市の歴史を見学しました。

その後、バスで神奈川工科大学前迄引き返したものの、その後2時間近く道に迷い歩いたものの、タクシーも走っておらず、目的地の下古沢の毛利氏発祥の地は不明でギブアップ状態。
コンビニで途方に暮れていると、タクシーが駐車場に入って来て救われました。
漸く三島神社にたどり着いたものの毛利季光屋敷跡の石碑を探すのに一苦労し、神社で作業をされていた方に聞く始末でした。
苦労の末の三島神社と石碑だけに忘れられない思い出となりそうです。

厚木市は30代半ばのサラリーマン時代に本厚木に拠点を設け、立ち上げる為に、半年横浜から毎日通いましたので、矢張り縁のあるところのようです。

(学22期Y・Y)

毛利氏発祥の地石碑(1枚目)

三島神社(2枚目)

あつぎ郷土博物館(3枚目)

本厚木駅前(4枚目)

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知り合いがサンデンバスの運転手さん

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【10月 トピックス】

二十歳の頃に山陽町(現在の山陽小野田市)の山陽オートで筆下ろしをし、爆音に魅了され、友人と何度か通いました。

高校生の頃にクラスメイトにパチンコ屋に出入りする大人顔の同級生がいて、童顔の私は羨ましく思っていましたが、山口市での学生生活が始まると道場門前の百万弗に駆け込みました。

その内に山陽オートの存在を知り、山陽本線の埴生駅で下車しました。
帰りはサンデンバスが近くを走っていて、ゆったりと山口迄利用していました。
ある時にサンデンバスに前乗りしたら、山口市石観音町や古熊に下宿していた頃に地域で顔見知りの年配のおじさんのAさんが運転手でした。
職業迄は知りませんでしたが、学生の身でギャンブル場に出入りしてと叱られそうで、咄嗟に知らぬ振りをしました。
Aさんご夫妻は飾らぬ人で卒業して、その後、息子さんのおられる兵庫県に引っ越されても年賀状の交換だけは長い間続けました。

高校生迄はバスに弱く、バスでの修学旅行に行けない程でしたが、バイトで山口県内を防長バス等で移動することが多く、克服しました。

(学22期 Y・Y)

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