メシヤ 我が想い出 その2 長門館

 昭和46年の入学後、吉田寮にお世話になった。しかし、寮食を利用したのは右も左も分からない入学直後だけで、メシ時はもっぱら大学正門前の「長門館」へ通った。 当時は“ちょうもんかん”と呼んでいたが、今では“ながとかん”と呼ばれているとは知らなかった。
 ◇長門館の娘さん

 当時、注文したメシを運んでくれる、感じの良い姉妹がいた。“二人は双子”というのが学生仲間の定説になっていたが、定かではない。二人とも都会風の品の良い顔立ちだった。一人は小柄で顔がシャープに引き締まっており、いかにも姉タイプ。もう一人は多少ふっくら型。顔にあどけなさが残っており、いかにも妹タイプ。二人とも感じの良い娘さんだが、双子にしてはあまり似ていない。“似らん性双生児”か。

 ふっくら嬢の鼻にはホクロがあった。こう表現すれば品よく聞こえるが、漆黒のイボで、大ぶりだ。付いている箇所が鼻のてっぺん近くのため、結構目立つ。しかし、このイボすらもアクセントの一つに変えるほど、あどけなくも品のある顔立ちだった。残念ながら、このお嬢さん方お二人とは、卒業まで話一つすることもなかった。

 ◇サイモン&ガーファンクル(S&G)

長門館にはレコードプレーヤーが置いてあった。針を落として聴くヤツだ。ステレオタイプのヘッドフォーンで音楽を聴いたことのない貧乏学生の私にとって長門館での音楽鑑賞を楽しみにしていた。立ったままで、目を閉じ、気が付けば二時間近く経っていたという時もあった。ステレオの横に置いてあったのはドーナツ版。枚数もごく少なかったが、よく聴いたのがS&Gの「コンドルは飛んで行く」や「サウンド・オブ・サイレンス」。ラジオや街角で聞いた時は、何ということはない軽めの米ポップスと思っていたが、ヘッドフォーンを通して聴くと、これまで体感したことのない上等な音質、克明に分かる楽器の音色、重厚な音響、そして歌う二人の息遣い、生き生きと共鳴し合うハーモニー。全く別の世界に引きずり込まれ、時を忘れた。

◇大阪の友人、定食料金の安さに驚く

もっぱら学生向け食堂の長門館。社会人の姿はついぞ見たことがなかった。“味よし、値段よし”の長門館。当時、定食の単価は300円台後半だったろうか。大阪から来た友人を連れて行ったが、値段表を見るなり「安い!」を連発。私の方は彼が驚く姿にこそ驚いた。山口の物価はそれほど安いのか。

◇長門館 再訪

 数年前に訪れた山口。「万両」(「メシヤ 我が想い出 その1 参照)と同様、この「長門館」にも足を伸ばした。

あれれ、店の広さが当時の半分に!

夕食時前だったためか中は薄暗く、店の人の姿も見えない。間もなく奥に動きがあり、こちらに向かってくる気配。私は思わず外に飛び出した。万両での出来事(記述・その1)もあったためか、店の人と向かい合う勇気がなかった。 

◇現在の長門館

 今では“ながとかん”と呼ばれる長門館。ヤマグチの街中でやっていた中華料理が店を閉じる際、そこの職人さんが独立して店を始めたという。買い取ったのだろうか。いや、あるいはこの職人さん、ひょっとして双子の君のどちらかと良縁ができたのかもしれない。

 ◇学生に優しかったヤマグチ

 後になって聞いた話だが、当時、双子嬢の父で長門館のオヤジさんは平川地区の下宿代の相場を決める大立者だったそうだ。当時はオイルショック直前。家賃は1畳1000円、四畳半で4500円と分かりやすい家賃だった。では東京の家賃はどうだったか。当時、東京の大学に通っていた友人の話では、池袋近くの下宿長屋の家賃が、3畳で7千円と言っていた。

やはりヤマグチは学生に優しかった。

(学23期kz)

鈴木侍従長と青年将校・安藤輝三

8月15日は終戦の日。困難な戦争終結という大仕事を成し遂げたのが鈴木貫太郎首相である。彼は2.26事件で襲撃されている。

6月に行われた長州歴史ウォーク(鳳陽会東京支部主催)の集合場所は東京ミッドタウン裏の檜町公園。その昔、江戸の長州藩下屋敷があったところで、戦前は陸軍第一師団第一歩兵連隊、戦後は進駐軍の接収を経て防衛省の前身となる防衛庁が置かれたところだ。2.26事件で第一歩兵連隊の蹶起部隊はここから首相官邸に向かう。

◇気になる青年将校

2・26事件に出てくる青年将校の中に気になる人物がいる。安藤輝三大尉だ。英語教員であった父の三男として岐阜に生まれた安藤。早くから革新的青年将校の指導的存在であったという。日蓮宗を信仰しており、彼の容貌は軍人らしくなく柔和。軍服姿の写真が残るが、軍服姿はあまり似合っていない。

部下を愛する気持ちが人一倍強く、給料のほとんどを部下に割き、地方の窮状を話す農村出身の部下には、自分の給料から部下の家族に送金したという。情に厚く、部下の寄せる信頼は大きかった。安藤は他の青年将校と異なり、蹶起に慎重で、決行直前まで悩み抜くが、結局同僚・部下の志を受け止める形で蹶起を決意する。

◇侍従長襲撃

第三歩兵連隊に属した安藤が500名の大部隊を連れて向かうは、海軍大将上がりの鈴木貫太郎侍従長宅。

下士官が侍従長宅を捜索すると、激しい叱責の声が飛ぶ。「あなたは何です。土足のまま無断で入るなど、それでも帝国軍人ですか!」。

声の主は鈴木の妻、たか。度肝を抜かれた軍曹は怯み、敬礼し、部屋を去ったという。たか夫人の胆力たるや、ただ者ではない。

鈴木自身は自宅内に身を隠していたが再考し、身を隠すことを良しとせず、襲撃者たちの前に自ら姿をさらす。それを下士官が見つけ、発砲。倒れる鈴木。駆け付ける安藤。安藤が夫人に襲撃目的を告げると、たか夫人は虫の息となった夫の脇で正座し、微動だにせず聞いたという。

◇とどめは刺さず

鈴木の回顧録では、下士官が銃口を喉に当て、とどめを刺すか安藤に判断を仰いだところ、「とどめは止めておけ」と言ったという。

他方、下士官の証言録では、鈴木に命脈があったため、安藤が「とどめを・・・」と軍刀を抜いたところ、夫人が「それだけは私に任せて欲しい」と訴え、安藤は夫人に任せたとされる。

いずれにせよ、安藤はとどめを刺すことを止めた。

安藤はここまでに至ったことを夫人に詫び、鈴木に対し挙手の礼をし、また下士官に捧げ銃を命じ、素早く立ち去る。たか夫人は鈴木を抱き起し、手際よい措置で鈴木の一命を取り留めた。

とどめを刺すことを止めた安藤。情が動いたのかもしれない。実は蹶起2年前、安藤は侍従長宅を訪ねている。予想と違い“西郷隆盛にも似た懐の深い大人物”の鈴木に惚れ、座右の銘を書いてもらっていたという。また、鈴木も後日談で、この時の安藤を「思想的には実に純真な、(死なせるには)惜しい若者」と評している。

また安藤は、たか夫人について、その存在を当時、軍の上司であった秩父宮から聞いていた。たか夫人はかつて昭和天皇、秩父宮ら皇子たちの養育係を務めていたのだ。

◇終戦の大仕事

こうして一命をとりとめた鈴木侍従長は、昭和天皇から厚い信頼を得ていたため、天皇直々に請われる形で1945年4月に首相となり、陸軍の反対を押さえて、ポツダム宣言受諾をはじめ、終戦の段取りを仕切るという大仕事をなした。

終戦間際のエピソードをひとつ。

鈴木が首相になって1週間も経たないうちに米ルーズベルト大統領が病没した。

ドイツでは万歳を叫び、ヒットラーはルーズベルトを「戦争を拡大した扇動者として歴史に名を刻む者」と評した。

他方、鈴木はどうしたか。米国民に対し哀悼の意を表明したのだ。大戦真っただ中での敵国指導者逝去への弔意表明。米国では驚きをもって受け止められ、新聞には鈴木の談話全文が掲載、欧州紙からも称賛された。

 ドイツ人作家で当時米国亡命中だったトーマス・マンは日独指導者の対応について、「人間の品性に対する感性、死に対する畏敬の念、偉大なものに対する畏敬の念。これが日独の違い」とし、生き続ける日本の武士道精神を讃えた。 「武士道」を著したのは新渡戸稲造。たか夫人の父はこの新渡戸稲造と、札幌農学校の同期生であったという。

なお、鈴木のルーズベルトへの弔意表明に対して、不満を持った青年将校もいた。彼らは首相官邸に詰めかけ、2.26事件を思わせる出来事になりかける。しかし鈴木は正面玄関前で、いきり立つ青年将校を前に「日本古来の精神の一つに敵を愛するというのがある」と、穏やかに諭したという。

その時、青年将校・安藤輝三の姿が鈴木の脳裏をかすめたかもしれない。

(学23期kz)

怖い話

時節柄、納涼の話を。

学生時代の山口は街路灯が乏しく、中心部から少し外れると暗かった。暗闇には魔物が棲むという。当時体験した怖いできごとは、やはり暗闇で起きたものが多い。今思えば笑い話になるが、当時は怖かった。その時の話を“盛らずに”語ってみる。

◇墓場のわき

平川から山口の下宿へ戻る時、椹野川沿いにある墓地の脇を通る。川沿いの細い土手の道に街路灯などはなく、何事も起きないように念じながら急いで自転車を漕ぐよう心掛けていた。ある日、墓場に差し掛かった時のこと、視界の端に何やら白いものが・・・

ん・・! 大車輪でペダルを漕ぎにかかる。しかし、漕げども自転車が進む感触がない。これは夢か?

いや、夢ではなかった。チエーンが外れたのだ。

◇真夜中の老婆

吉田キャンパスの裏手に、婆様が独り深夜までやっている駄菓子屋“ばあさん家(ち)”があった。夜中に腹に入れるものがなくなった時、まれに行くことがあった。真夜中に行った時のこと。勘定したく奥にいる筈の婆様に声を掛けようとしたところ、婆様が現れなさった。白髪混じりの乱れた髪、手にはハサミ。口元には不可解な片頬笑い。私の身体は冷水を浴びたように硬直した。

友人の話では、その婆様、たまに寝ぼけて、そろばんと間違えてハサミを持ってくることがあったという。

◇図書館の帰り道

山口市内の図書館。閉館間際の夜8時前。高校生男子5~6人が私語を飛ばし、ふざけ合っている。図書館員を呼ぼうにも姿が見えない。結構な間、ふざけ合いが続く。とうとう私の堪忍袋の緒が切れて、高校生を叱ってやった。叱ったは良いが、直後に不安が鎌首をもたげる。この時期、若者による集団暴行事件が流行っていた。相手は若くて力の余った高校生だ。閉館後、図書館を後にしたが、下宿までは自転車だ。

鷹揚に構えたふりをして自転車で家路を辿ったが、下半身は慌ただしくペダルを踏んだ。後をつけられないように、遠回りして。

◇うなされる夢の正体

学園祭で演奏活動もどきをやったときのこと。マズイことに停電になった。照明は切れて辺り一面真っ暗闇。楽器もマイクも情けないほど無力化し、ただの金属の塊に。そんなことは上記の怖いものランキングには入らないと思っていた。

しかし、卒業して半世紀経つが、これまで何度か夜中に夢でうなされ、目を覚ましたことがある。悪夢の中身はなんと演奏活動をしている私そのものだ。

(よう、やるで!)

これが結構、心の重荷になっていたのか、5年前に心筋梗塞を発症し、救急車で運ばれた。

助かったのは、発症したのが幸い昼間だったからかもしれない。夜だったら持っていかれたかもしれない、魔物に。

(学23期kz)

長州歴史ウォーク余話(勝海舟と山岡鉄舟)

―横浜市北部ボランティアガイドの視点―

6月の長州歴史ウォーク(鳳陽会東京支部主催)では勝海舟の旧居を訪ね歩いて維新前後の歴史に思いを馳せた。勝の最大の功績は「江戸城無血開城」の立役者であることに異論は無かろう。

一方、徳川慶喜の直接の命により山岡鉄舟が官軍参謀の西郷隆盛の元(当時駿府に駐留)に単身乗り込み、慶喜恭順の意向を伝えて無血開城のお膳立てを整えている。鉄舟が江戸を発つ前日に赤坂の勝海舟宅を訪れて西郷への書状を預かった事で、勝海舟が鉄舟を西郷の元に派遣したと世間で思われていることが多いようである。しかし、その日が二人の初対面である事が海舟日記に記されており、そうでないことが分かる。

             ◇門人仲間    

ところで、鉄舟が神田の千葉周作道場に通っていた時に門人仲間である日本橋山本海苔店の2代目の山本徳治郎と親しくなった。店の初代夫婦が現在の横浜市港北区の吉田村と南綱島村の出身であったことから徳治郎も吉田村から養子に入り、山本海苔店の身代を大きくすることに貢献した。その関係で、鉄舟は維新前から吉田村に何度か逗留して近隣の村人と親しんだ。現在も吉田町の若雷神社には鉄舟の揮毫が残っている。

因みに明治になって、西郷隆盛の推挙により鉄舟が明治天皇の侍従を務めていた時に天皇の京都行幸に際して江戸土産を鉄舟から相談されて徳治郎が考案した味海苔が味付け海苔の元祖と言われている。(山本海苔店ホームページより)

               ◇名主

言わば、駿府に向かって多摩川を渡った神奈川の地は鉄舟にとって馴染みの地であり名主や村役人にも顔見知りが多かったが、その事が後に思わぬ効果を発揮する。

と言うのは鉄舟と西郷の会談が終わった後、官軍が駿府から江戸に向けて陣を進める中で北綱島の名主で鶴見川下流48ケ村の代表名主を務める飯田助大夫(現在も同家の長屋門が残る)が農兵を組織して果敢に官軍を迎え撃った。捕まって多摩川の河原であわや処刑される寸前に鉄舟の口利きで一命をとりとめたと伝わっている。(この話は約50年前に土地の古老が先祖から聞いた話をまとめた郷土誌「港北百話」に記されており、事実の確証こそないものの鉄舟が村人からいかに崇敬されていたかよく分かる)

             ◇一枚上

ここで最初に戻る。世間では江戸城無血開城は勝海舟一人の功績のように思われているが、この理由は明治14年に政府が維新の功績調査をした際、勲功禄を提出した勝に対して鉄舟は沈黙を守って勝に栄誉を譲ったことによる。

勝海舟が稀代の人物であったことは歴史が証明しているが、こと男(武士らしさ)という点では山岡鉄舟が一枚上であると考える所以である。

(山口大学経済学部22期生 Y)

山口大学硬式庭球部

 1970年代、私は佐賀県の高校を卒業し、山口大学経済学部に入学した。

体育会系のサークル(部活)に入部して高校時代になまった体を鍛え直そうと、考えた。入学してすぐ、先輩に聞いた。

 「山大で一番、練習の厳しいサークルはどこですか」

先輩は答えた。

 「空手部と硬式庭球部だろう」

       ◇球拾いの日々

私は硬式庭球部に入部した。入部早々、上級生はこう告げた。

「新入部員は1年間、球拾いだ」

 コートで練習できるのは上級生だけという。

私たちは球拾いの日々。そしてランニングと素振り・・・。

新入部員は50人ほどいたが、嫌気がさして次々に退部していった。

夏休みが終わったとき、残ったのは10数人だった。

 練習は厳しかった。だが、上級生のパワハラは一切なかった。

  私は夜中も、体育館でひとり、自主練習をした。

徹夜で壁打ちを繰り返した。白々と夜が明けることもあった。

       ◇歓喜の優勝

3年になって正選手となった。中国選手権大会にダブルスで出場した。

ペアを組んだのは経済学部の同級生。彼は強く、優秀な選手だった。

私たちは勝ち進んだ。ついに決勝戦に勝ち上がった。

決勝戦の相手は岡山大学の選手。決勝戦の会場も岡山大学だった。

 観客全員が岡山大学の選手を応援する。相手が決めると、大声援と

拍手。だが、私たちがポイントをあげると、冷たい沈黙・・・。

苦しい試合だった。だが、我々が勝利。優勝を果たした。

 やった。勝ったぞ。厳しい練習が報われた。

        ◇現役選手

大学を卒業して銀行員になった。日本各地で勤務した。

テニスをやってよかったと思うのは、どこに行っても

ラケット1本ですぐに仲良くなれることだ。

 私は60代だが、地元・横浜市のクラブで練習を続けている。

現役選手として大会にも出場している。

 大学時代は、練習が厳しく、テニスが楽しいと思ったことはなかった。

だが、今は、テニスの楽しさを体感している。テニスを続けてよかった。

       (元山口大学硬式庭球部員 N)

乃木大将 その3

 長州歴史ウオーク(鳳陽会東京支部主催)が6月5日、開催された。

山口大学経済学部の同窓生たちは日露戦争で後世に名を残した

乃木希典(まれすけ)大将の旧宅を訪れた。

乃木大将が心から愛したもの。一つは野良仕事であり、もう一つが文学だ。

            ◇百姓姿      

「軍神」となった乃木大将。実は生涯で4度軍籍を離れている。その度に向かった先が畑だ。最初は長州で、あとの三度は栃木の那須野で百姓をしている。那須野の畑は妻の親戚筋から手に入れたもので、軍神らしくなく、心の傷を癒しながら土と緑に囲まれ畑を耕す日々を心から愛したようだ。

             ◇乃木少年

若き乃木少年が学者を夢みて父に無断で兵学者である玉木文之進のもとを訪ねた時、玉木は武士の子に生まれた者が武芸を好まぬなら百姓をやれ、と一喝した話は知られている。なぜ百姓か。実は乃木の父、稀次(まれつぐ)は、江戸詰めの長府藩下級武士で生活は苦しく、実は半農半武。このため希典も幼き時から野良仕事を手伝っており、玉木はこのことを知っていたのだ。というのも玉木と乃木の父、希次は親戚筋にあたり、両者は気が合う仲だったという。また、玉木自身も晴耕雨読、半農半学の生活をしており、玉木家に棲みついた乃木にとって農事は身近なものであった。このように乃木は幼少の時から野良仕事に馴染んでおり、野良仕事は乃木にとって若き頃に戻ること、乃木の本性に近いところに還ることを意味していたのではないか。

              ◇囲炉裏(いろり)
こうした経験から、乃木は近隣の農民よりも農業の知識があり、那須野の乃木家の囲炉裏には百姓方が集まり、乃木の話を熱心に聞いたという。乃木は晩年、学習院院長を務めるが、もともと学者を夢みていた乃木。人に知識を教え、指導することが好きであったようで、こうした日々をとても楽しんでいたという。また、那須野のエピソードとして、お気に入りの湧水の話がある。水はこんこんと湧いているが、もったいないとしてコップ一杯しか使わず、顔を洗う乃木。これを皆が可笑しがったという。

              ◇文学

以前の号でも取り上げた米国人従軍記者のウォッシュバーグ。乃木から特ダネをとろうと近づくが口が堅い。乃木に取り入ることができるような糸口を探していた折、探し当てたのが文学論議。詩歌の話になると子供のように目を輝かせ、身を乗り出してきたという。これが、ウォッシュバーグのいう「乃木のアキレス腱」だ。これを足掛かりに、ロシア軍のステッセル将軍の話を聞こうとすると、乃木は再び口をつぐんだという。

 美文を愛した乃木。ひとつ乃木の言葉を紹介したい。ウォッシュバーンをはじめ外国人記者と別れを告げる会でのスピーチだ。

「願わくば 互いの友情を永遠に黎明の空に消える星の如くあらしめたい。暁の星は次第に目には見えなくなる。しかし、消えてなくなることはない」と結んだ。

             (元山口大学経済学部生K)

参考: 三島通陽 「回想の乃木希典」 雪華社 昭和41年  

出典: 皆川三郎 「外国武官の見た乃木希典」 菅原嶽・菅原一彪編

『乃木希典の世界』 新人物往来社 1992年 

 山口大学サッカー部の猛練習

           山口大学サッカー部

小生は6月5日に開催された長州歴史ウオーク(鳳陽会東京支部主催)に

参加しました。同窓生とともに歴史の現場を巡りました。一度は見てみたい

名所であり、小生にとり、とても有意義な企画でした。

 また、同窓生と語り合うなかで、山口の青春の記憶がよみがえりました。

           ◇サッカー部入部

小生は1960年代、山口大学経済学部に入学した。

亀山校舎に近い鳳陽寮・南寮に入寮し、学生生活を始めた。

中学生のころから「いつか、サッカーをしたい」と思っていた。

サッカーは世界のスポーツだ。

私はサッカー部に入部した。

        ◇炎天下の猛練習

 新入部員は20~30人いた。ところが、練習が厳しい。

夏の炎天下。走る。走る。しかも、当時のサッカー部の方針で

練習中、水を飲むことができない。これはつらかった。新入部員は

どんどん、やめていった。だが、私は音(ね)を上げなかった。

やめようと思ったこともない。サッカーを続けた。

 新入生のとき、私はとても痩せていた。骨が目立つので「ボーン(骨)」

と呼ばれていた。だが、サッカー部の猛練習で足腰が鍛えられた。

心肺能力も高まった。

           ◇雨の決勝戦

 チームの戦力は強化された。確か、私が3年のときだ。山大サッカー部は

国立大学対抗戦に出場した。中国・四国・九州の国立大学のサッカー部が

結集し、試合に臨んだ。山大は強かった。勝ち進んだ。

雨の決勝戦で広島大学と対戦した。

チームは敗北したが、2位となった。

 小生は大学を卒業し、商社マンとなった。

社会人になってからもサッカーを続けた。

新婚時代、妻をサッカーの試合によく連れていったものだ。

 大学卒業後もサッカー部員たちは、学年を超えて山口の湯田温泉に

集まるなどして、交流を続けている。

 (山口大学経済学部16期、元サッカー部 T)

勝海舟が恐れたもう一人の大物

勝海舟が恐れた、もう一人の大物

・・・偉人をナナメから学ぶ・・・

九州・熊本の私の実家のすぐ近くに、幕末の偉人の記念館が建っている。「教育勅語」の元田永孚(ながざね)、「五か条のご誓文」の由利公正から尊敬され、吉田松陰、高杉晋作から招聘のラブコールを受け、坂本龍馬が再三立ち寄り、水戸学の藤田東湖と交わり、松平春嶽のブレーンにして、岩倉具視が頼りにした男。一橋慶喜も意見を求め、感服した人物。60歳余にして暗殺されるが、若き明治天皇に御進講したこともあり、逝去を惜しまれ、多額の葬儀費が下賜されたほどの大物。

横井小楠(しょうなん)・・・。

今回、長州歴史ウォーク(鳳陽会東京支部主催、6月5日)で赤坂の勝海舟住居跡を回ったが、その勝が天下で恐れた人物として二人挙げている。一人が西郷隆盛。その西郷よりも、先に名前を挙げているのが横井小楠だ。

◇忘れられた偉人 

横井小楠は思想家として当時の名だたる知識人に大きな影響を与えたが、あまり知られていない。龍馬が司馬遼太郎の小説で知名度が格段に上ったのとまるで反対だ。

では地元の熊本ではどうか。私が高校までの間、加藤清正とは異なり、親や学校の先生、あるいは各種媒体でも、ついぞ横井小楠の話を聞いたことはない。

なぜか。以下は私の仮説、というか呟きである。

◇その1  繰り返す酒失は禁物

小楠は酒癖がよろしくなかったという。頭地明晰なれど、酒を飲んでの暴力事件をよく起こした。藩が手を焼き、江戸に出されるが、そこでも酒失事件を起こし帰藩・謹慎処分に。酒に絡んだ暴力。これはいけない。時代を問わず、洋の東西を問わず。

◇その2  強すぎる口論も禁物

舌鋒鋭く相手を遣り込め過ぎるのも問題だ。論を戦わすと負け知らずで、極めて強かったという。桂小五郎からは「舌剣」と冠を付けられた。特に酒を飲んだ小楠は頭の回転のギアが一段と上がったという。

口論は勝ちすぎてはいけない。特に人前で負けを食わされた相手は心に深い傷を負い、恨みを抱く。この恨みは執拗で、消せない。口論で勝ちを意識したら、「傍目」から「引き分け」とみられるような形づくりを心がけよう。また、相手に悟られないように、逃げ道を作ってあげることも肝要だ。

◇その3 庶民を不安に陥れる、偉大過ぎる着想も禁物

あまりに大きく時代を超えた進歩的な思想は、春嶽や海舟など知的で開明的な大物しか受け止められない。守旧派からは警戒され、また生活の激変が予想される庶民を不安に落し入れる。小楠が暗殺の憂き目にあったことは先述のとおり。

◇おすすめの格言

ひとつ、私が好む横井小楠の言葉がある。当時、攘夷から開国へ意見が変節したことを誹謗されたが、小楠曰く、「昨日の非を改めるのが学問。取り巻く環境に応じて日々考えを変えていかずば進歩なし」と。大御所になればなるほど主張を変えず、また変えるのに勇気が要るもの。

論語にもこうある。「過ちは改めるに憚ること勿れ」。また、こういうのもあった。「過ちを改めざる。これすなわち過ちという」。

(学23期kz)

山口大学準硬式野球部の思い出

      山口大学準硬式野球部の思い出

山口での学生生活の始まりは山口大学経済学部の受験からです。

湯田温泉の旅館に泊まり、平川キャンパスまで歩いて行きました。

      ◇田園の中のキャンパス

平川キャンパスは田園の中にあり、スポーツをするには

いい環境でした。私はゴールデンウイークの前、準硬式野球部に

入部しました。初心者に近い私が4年間続けられたのは同期部員、

先輩のおかげです。特に大津高校軟式野球部出身のM君には

精神面、技術面で教えてもらいました。

 当時、準硬式野球部には監督がいません。マネージャーは女性でした。

練習は自分たちで計画し、硬式野球部と交替で、山大野球場で練習をしました。

中国大学リーグ(2部)に所属し、海保大、島大、広医、川崎医大などと

試合をしていました。

          ◇1部リーグ昇格

私が3年になったとき、高校の硬式野球部経験者が入部。戦力が強化されました。チームは快進撃を続け、1部リーグに昇格したのです。

 そして4年のとき、春のリーグ戦で優勝。念願の全日本準硬式野球大会に

出場することができました。技術的、経験的に劣る我々が目標に到達できたのも

チーム一丸となって努力を重ねたことによると思います。

       ◇長門市の丘に眠る親友

準硬式野球部の思い出は練習と試合だけではありません。

新入部員歓迎、壮行などのコンパ。

“主戦場”は惣野(そうの)旅館でした。

2次会で深夜、道場門前の寿司屋に繰り出したこともあります。

“山女”との合コンも。“ダンパ” も計画し、実行しました。

 残念なのは準硬式野球部の同期、M君が17年前、

病気で亡くなったことです。某銀行を休職中の時でした。

 M君は山口県長門市三隅町の丘に眠っています。

 (山口大学経済学部29期 K・Y)

メシヤ 我が想い出

救世主の話ではない。定食屋の話だ。

昭和46年、山口大学経済学部入学で、学23期。

平川での教養課程を経て、2年時に古めかしい亀山校舎で最後の授業を1年間受けた学年だ。大学での「学び」の方と言えば、今では忘却の彼方に行って久しい。いや、ひとつ残っている。経済原論の有名F教授のオールバックと厳めしい風貌だ。

◇舌のふるさと、我がメシヤ

1 「経食」

亀山校舎の経済食堂のことである。並んでいるおかずは、主菜のほか小鉢に至るまで上品なコクのある味付けで、どれもうまい。厳しい予算制約下にあって、経済学部生らしく、最小の費用で最大の効果を上げるべく、毎回おかずの選択に迷い、熟考した。行く度に飯を大盛に装ってくれるおばちゃんが居たことを50年ぶりに告白しておく。

2 万両

筋骨逞しく、角刈りの跡が青光りしている大柄なお兄さんが運んでくる味噌汁が何ともうまかった。3年時に平川に移った後も不思議と土曜か日曜の朝は通った。いつも油揚げが入道雲のように盛り上がっていたお椀。中身は豆腐とワカメという何という事のない平凡な具材。この「平凡」がいい。ひと啜り、またひとすすり。嗚呼、心と身体が溶けていった・・・

3 ショウハイ

財布の余裕があるとき通ったのが中華定食屋のショウハイ。一番の繁華街たる道場門前の四つ角、山口ホールの隣にあった。確か「小孩」、看板にはこう記されていた記憶がある。調べてみると、「小さい赤ん坊」とある。ラードのうまみのきいた野菜炒めを食べるたびに、深い満足に浸った。気分がいい時には、奮発して白ゴハンではなく、チャーハンに。この比類なき贅沢。

4 鳥惣

年に1、2度の目出たいことがあった折には大市商店街の「鳥惣」に足を運んだ。無口なオヤジが出してくる鳥の揚げもの。表面がパリパリで香ばしく仕上がっており、最初の一口から「参りました」とコウベを垂れたくなる。多少の小骨ならかじって食えるような揚げ方になっており、食べ残した骨が俺は3本、ワシは2本と猛者ぶりを競っていた。

◇メシヤ再訪

5年ほど前に山口を訪問する機会があり、昔の繁華街を回ってみた。懐かしの店がことごとく姿を消していた。湯田にあり、“空気の天ぷら”として親しまれた逸品「しな天」を出す高級店・利平も蒸発していた。

それでも最後の砦「万両」に向かうが所在が分からない。道の付け替えが変わったこともあるのだろう。昔お世話になった下宿にもとうとう行き当らなかった。ようやく「万両」を探し当てたところ、なんと洋風になっている。喫茶店風の構えで看板は「REST 万両」。

カウンターの中で独り新聞を読んでいた初老の爺様。扉を開けたところ、老眼鏡を鼻までズラしてこちらを覗き込む。嗚呼・・・残酷な時の流れ。

いや、しかし待てよ。そういうオノレも他人が見ればまた然りということだ。

◇毎朝還る「ヤマグチ」へ

店は姿を消し、私も年をとった。ただ学生時代に覚えた味覚は私の中で今でも新鮮なまま。最近とみに早起きのクセが付き、起床は夜中の3時前後。朝食が「できる」までとても待てず、家族の分も含め自分で作るようになって久しい。ショーハイの野菜炒め、経食の小鉢、万両の味噌汁は欠かさない。

家で味わえないのが「鳥惣」の唐揚げだ。しかし3年前に、とうとう見つけたぞ。「鳥惣」を思い出させる味を五反田で。

ああ、早く立ち去れコロナ君。(学23期kz)