維新の舞台裏 白石正一郎考

その2 母は強し

赤間関(下関)にあり、志士の拠り所、いわば「維新の舞台裏」であった小倉屋・白石家。

その「白石家の舞台裏」はどのようであったか。

◇万葉集と国学

教養高き白石家。正一郎の父も母も歌を詠み、家には読み込まれた万葉集、源氏物語、伊勢物語、平家物語があったという。

万葉集や源氏物語、これらは国学での研究対象となった古典であった。江戸中期に起こった国学は仏教や儒教などの外来思想を排する平田篤胤(あつたね)の復古神道につながっていくが、平田篤胤の門下生で当時国学の重鎮とされた鈴木重胤(しげたね)が白石家に逗留したことがある。正一郎が42歳の時であった。十日余りの鈴木重胤の逗留期間中に、正一郎は父母共々鈴木から強い影響を受けて鈴木の門下に入り、白石家の宗旨までも仏教から神道に変えている。

尊王敬神で、外来のものを嫌う古神道は尊王攘夷と相性がよい。平田篤胤の復古神道は幕末の尊王攘夷の思想的な支柱となっており、正一郎の、名だたる尊攘志士たちとの交流も心情を深く理解したうえでのことだったのだろう。

◇賑わった白石家のもてなし

昼となく、夜となく客人を迎え、もてなした正一郎。彼自身酒豪であり、もてなす酒の肴はフグ、スッポン、アワビ、ウナギ、鶴の肉など豪華であったという。

客人をもてなすにあたり、白石家の家人はどうしていたか。

正一郎の妻加寿子や弟廉作の妻延子も客人の相手になっており、一家総出でもてなしたという。延子などは喉が良かったというから客人の前で披露し、喝采を浴びていたのだろう。日記からは、白石家のもてなしはいつも賑わっていた様子が伝わる。

白石邸に滞在した折、三条実美が詠んだ歌が残る。

妻子らも 心ひとつに 国のため つくせる宿ぞ さきくもあらめ

◇取り仕切った母・艶子

いつの時代も、またどの家も、不平を言いがちなのは嫁たちだ。白石の嫁や弟廉作の嫁も、正一郎の母・艶子が取り仕切っていたという。

父親の影は薄いが、なぜか。

父は婿養子だったという。それなら合点がいく。

艶子は国学者・鈴木重胤の話も聞いており、尊攘志士の心をよく理解したうえでの「おもてなし」だったのだろう。

母艶子の歌が残る。

ほのほのと 霞わたれる はま松の 波をはなるる 曙の空

庭のへの おちはを夜たた 吹き上げて 声もはけしき 木枯らしの風

手弱女(たおやめ)ぶりにあらず。万葉風の大らかな歌であり、失礼を承知で申せば、堂々たる「益荒男(ますらお)ぶり」とは言えまいか。

薩長の志士も、脱藩浪士も、都落ちの公家も、表沙汰にはできない訳ありの者も、飲み込んでいた正一郎。

しかしその正一郎を含め、不満が出がちな嫁たちも、小倉屋の使用人も、みんな飲み込んで取り仕切ったのが正一郎の母、艶子であった。

母は逞しく、強かった。

艶子も正一郎に負けないほどの酒豪だったのかもしれない。

しかし正一郎の日記にはその話は出てこない。

(学23kz)

教育熱心だった長州藩①

藩校と私塾

長州藩は教育熱心であった。

もともと平野部が少なく農業だけでは食べていくことは難しかったようだ。藩としても財政基盤強化のためには米だけではなく塩、紙といった、いわゆる「長州三白」のほか、蝋などの特産品を創り出す必要があった。

また幸いにして、本州の西端に位置したため、北前船の西回り航路の通り道となっており、寄港地として下関では交易で稼ぎ、また倉庫業や金融業でも稼ぐことができた。

しかし、関ケ原以降、外様であったことから飢饉や災害などの天変地異が起こると幕府からの支援も薄く、藩としても存亡の危機に見舞われる。こうしたときに危機を乗り切るには人の知恵、人の団結が必要であり、このため意識的に優れた人材を創り出す「教育」を重視したことは自然の成り行きであったのだろう。

また、藩主毛利家はもともと学者の家系だ。毛利家の祖は大江氏で学問を重んじる伝統を持つ。和泉式部も父は越前の守・大江雅致(まさむね)の娘で、大江の血筋だ。

◆教育制度

享保3年(1718年)に5代藩主毛利吉元が萩に藩校「明倫館」を創設する。全国的には12番目の藩校だが、教育機関としては水戸の弘道館、岡山藩の閑谷黌(しずたにこう)と並び、日本三大学府の一つに数えられている。

長州でも藩校で藩士に子弟の教育を行うが、藩士の子弟が長じて自分の領地で小規模な藩校である「郷校」や私塾で地元の武士の子弟や豪商・豪農の子弟を教え、さらに「郷校」や私塾で学んだ者が

寺子屋で庶民の子弟に生活の知恵や読み書きそろばんを教えることにより、教育のすそ野が広がっていった。

山口県教育委員会の調べによると、幕末維新期に郷校(官学)の数は20校(全国108校)と全国1位、寺子屋は1304校(同15,550校)と全国2位、私塾は106校(同1,140校)と全国4位。

他藩と異なり、寺子屋や私塾の教師は武士が多かったようだ。

(学23期kz)

維新の舞台裏 白石正一郎考

その1 すがすがしい風

◇下関商人

大内氏が栄えた時代、海上交易では大内氏の統治下に入った博多商人が活躍した。では幕末期、北前船で大層潤ったとされる下関はどうか。海上交易の要衝である下関。しかし「下関商人」という呼び方は寡聞にして知らない。

大内氏の 地元下関に豪商はいたのか。

明治維新前夜の歴史本には下関の商人「白石正一郎」の名前が時々現れる。しかし白石が主役となることはなく、主人公はあくまでも歴史に名を残した一級の志士たちだ。彼らが集い、見聞や知見を交わし、やがて夜明けを迎えようとする時にあって、明日の構想を練り、行動を起こす拠点となったのが赤間関(下関)の荷物問屋「小倉屋」であり、そこの8代目の当主が白石正一郎だ。

◇高杉晋作との出会い

白石は日記を残している。白石家で彼が小倉屋で迎えた志士は約400名。場を提供し、私財を投げ打って志士たちを支えてきた。

幕末、馬関戦争の難局打開のために藩主毛利敬親(たかちか)が高杉晋作を下関に送るが、高杉が白石に出会ったのが1863年のこと。高杉は白石に出会う前の年に政府使節団の随行として上海に渡航、そこで欧米人が中国人を使役し、我が物顔で闊歩するアヘン戦争後の清朝の光景を見ている。こうした渡航経験から攘夷の必要性を力説する高杉と白石は意気投合する。そしてその白石家で奇兵隊が結成され、正一郎は弟廉作とともに奇兵隊の士となったのだ

◇西郷隆盛との出会い

他方、白石は高杉と出会う6年前の安政5年(1857年)に西郷隆盛と出会っている。薩摩藩は本州への足場として下関に焦点を合わせており、西郷隆盛もそうした藩命を受けての白石家立ち寄りだ。

そこで西郷は白石の温和で度量の大きい人柄に一目で惚れ込み、即座に気を通じ合う仲になったという。

しかし、何よりも元治元年(1864年)7月の禁門の変以来、敵対関係にあった薩摩と長州はこのころから角が取れていく。文久3年(1863年)の薩英戦争敗北に続き、元治元年(1864年)の馬関戦争での惨敗によって、薩長とも直情的な排外主義たる「小攘夷」が現実離れしていることを悟る。慶応2年1866年に薩長同盟が成るが、坂本竜馬や中岡慎太郎を待つ以前に、小倉屋で西郷と白石の絆が底流となり、薩長の藩士同士の信頼関係が醸成され、発酵が始まったのかもしれないと思う。

◇志士に寄り添うことを選んだ白石

豪商との冠も付けられる白石。しかし、藩を代表する豪商ではなかった。 白石は 長州本藩ではなく長府藩の支藩である清末藩の商人であった。商人の格としては高くはなく、このため北前船の「指定問屋」にはなれず、西郷との縁で芽生えかけた薩摩との藩際取引も、藩の指定業者から外されている。

白石は尊攘志士たちを熱心に支えるあまり、商売が成り立たず、結局小倉屋は潰れる。商人として生きることより、奇兵隊士の一人として尊攘の志士を支え、倒幕に与することを選んだ。

◇すがすがしい風

私財を投げ打って維新を拓くことに与した白石。だが、白石は新政府ができた後、新政府の要職に就いた多くの「同士」たちに対して、恩を売るようなことは決してしなかった。ここに悲しくも、すがすがしい風が吹く。

白石は赤間神宮の宮司となる道を選び、勇敢に戦った高杉、西郷、そして自分同様志士であり、自分の身代わりとして死んでいった弟廉作を弔い、68歳で静かに世を去った。

白石の映った写真が1枚残る。白髭をたっぷり蓄えたその風貌たるや仙人然としている。

(学23期kz)

仕事納め

           仕事納め

2021年が暮れようとしています。

今年はコロナ禍でしたが、鳳陽会東京支部は第1回、第2回長州歴史ウオークを開催しました。幅広い世代の会員が集い、歴史の現場を歩きました。楽しく、愉快な1日でした。

また、会報を発行し、ホームページを充実しました。アクセスは好調です。1日平均50~60件。「長州学舎」をトピックスにアップしたさいは、320件を超えました。アーカイブ(ホームページの下段)で検索すれば、過去のおもしろいトピックスを読むことができます。

 ホームページは交流の広場です。会員の皆様からの投稿をお待ちしています。学生時代のサークル活動、近況報告、旅の想い出などをメールか、手紙でお気軽にお寄せください。

 来年は東京支部総会を開催したいと願っています。皆様と笑顔で再会したいと思います。

 よい年をお迎えください。

 鳳陽会東京支部事務局長 塩塚 保

第2回長州歴史ウォーク余話

去る12月4日に靖国神社の入り口に鎮座する大村益次郎像の前に集合し、千鳥ヶ淵に沿って北桔橋門から江戸城内に入って桜田門に向けて横断し、長州藩邸があった日比谷公園をゴールとする第2回長州歴史ウォークが抜けるような青空の下で開催された。

私は塩塚事務局長から促されてガイドを務めたが、参加者お歴々は歴史ウォークに参加されるだけあって皆さん詳しく、にわか勉強で当日に臨んだ私はタジタジであった。

中でもゴール手前の桜田門は幕末史有数の大事件である桜田門外の変が実行された場所だけに、大雪の降る中での切り合いの跡に襲われた側の彦根藩士の指が相当数落ちていたという先輩のお話が、現場に立つ我々の臨場感を大いに盛り上げてくれた。

私はその場において「桜田門外ノ変」を著述した吉村昭氏が取材を進める中で、現場から逃げた彦根藩士が刀を捨て雪の降る多摩川を越えて寺の前で倒れてその寺の住職に助けられ、後半生を寺男として送ったというエピソード(史実を歩く、文春新書より)を紹介したが、小田急線向ヶ丘駅近くにある広福寺というその寺は私の住む横浜北部からはさほど遠くない場所であることに気づき先日訪ねてみた。

鎌倉時代に稲毛重成という源頼朝の重臣(妻は北条政子の妹)が居城を構えた枡形山のふもとに立つ同寺は重成の館跡でもあり、そのたたずまいは枯れた味に満ちており逃亡藩士が世間の目を避けてひっそりと余生を送った場にぴったりの雰囲気であった。

さらに嬉しいことに、本堂近くに藩士の辞世を刻んだ石碑が立っており、辞世は崩し字で判読できないが裏面には「彦城隠士、畑権助、法名秀元」とあり「文久三年、75歳で建立」とあるではないか。

以下にその石碑と本堂の写真を添付するが、これを記録に残してくれた吉村昭氏に感謝すると共に、鳳陽会員の皆様にはぜひ現地を訪問されて「桜田門外ノ変」余話を味わって頂きたい。 (22期 Y生)

赤穂事件 その2

本年、緑潤う6月初旬に開催された「第1回長州歴史ウォーク」では長州藩下屋敷があった東京ミッドタウン東の檜町公園に集合、最初に訪れた先が氷川神社であった。

この境内には浅野内匠頭の切腹後、正室・瑤泉院が移り住むこととなった実家三次藩下屋敷があり、また芝居「忠臣蔵」で有名な「雪の別れ」の舞台、南部坂にも足を伸ばした。

赤穂浪士の話は、いつになっても人気が衰えない。この事件については日記や言い伝えも多く残っており、事件そのものが起きたのは事実とされる。しかし、赤穂浪士の話を楽しむには、理詰めで深く考えない方が良いかもしれない。この事件には不可解なことが多いからだ。

もう一度振り返ってみよう。

◇時代背景

事件が起きたのは元禄14年(1701年)春。時の5代将軍で「犬公方」綱吉の時代。貞享元年(1864年)の服忌令(ぶっきりょう)や翌年の生類憐みの令を発し、殺生や無頼行為を禁じる「文治の世」に変えようとした時代に当たる。

赤穂事件が起きたのはこうした令が発出されて15年以上経ったころ。この間人命に関するものだけでなく、身近な動物の保護に関する法令も多く、20年間で350本の令が発出されたと言われている。

嘘かまことか、蚊を叩いて流罪になった者も出たという。こうした中で殿中、しかも将軍、御三家、勅使など地位のある者のみが通ることを許される格式高い「松の廊下」で刃傷事件が起きたのだ。

◇大事な日

この日は、京の朝廷からの使節を迎える当日であった。この勅使使節は綱吉にとって極めて大事な願いの答えを授かる相手であった。綱吉の願いとは何か。儒学を信奉する綱吉が儒学の基本的な徳目である「孝」を尽くしたい母君・桂昌院に「従一位」の位階を授かることであった。

「従一位」の格付けとは。

時の将軍でも存命中は正二位止まりとされ、北条政子でさえ格付けは従二位であった。それに比して位は二つも高い位である。

このため、相場をはるかに上回る位階を得て母君への「考」を尽くしたい綱吉は、このもてなしを何としても成功させたかったはずだ。

また、こうしたもてなしの意味を、主たる饗応役の頭たる高家・吉良公も、また補佐役の浅野公も重々承知していたはず。しかし、あろうことか饗応役の要である二人が、「松の廊下」を血で汚す事件を起こしたのだから何とも不可解だ。

 ◇湧き上がる疑問

また殺生を忌み嫌う公家の前で、事件を起こしたにも拘わらず、何事もなかったかのように、その翌年に桂昌院には従一位が授けられているから、ますま解からない。

事件は吉良公が立ち話をしていたところ、浅野公が背後から斬りかかったという。武士の習いとして儒教が浸透していたこの時代、年長者で直属の上役を「背後から」斬りつけたのだ。

武士として、ましてや藩の主君として、あってはならない卑怯な行為であるはずだ。

また、浅野公が手にしていた脇差は刃渡り25センチほどのものだったという。脇差の「小さ刀(ちいさかたな)は急所を突いて用いるもの」との常識からも外れており、「討ち損じ」が生じることとなった。

さらに、この時吉良公は刀を抜いておらず、喧嘩両成敗の「喧嘩」にもなっていない。

また、浅野公は吉良公から「いじめ」を受けたともされるが、浅野公は行為に及んだ理由(わけ)を自ら話すことなく、事件から数時間後に切腹と相成ったために、詳細は分からずじまいとなった。

浅野公の使節饗応役は経験を買われての二度目の役回りで、饗応要領も頭に入っているはず。吉良公の「いじめ」に振り回されたとも考えにくい。

こうしたことから、浅野公の「乱心」説が根強く残る。

 ◇「仇討ち」か

またそもそも論から言えば、四十七士の行動は「仇討ち」とは言わないはずだ。仮に吉良公が浅野公を斬りつけたのであれば、浅野公の家臣・大石内蔵助の吉良邸討ち入りも主君の「仇討ち」なろうが、立場が逆だ。これでは「仇討ち」とは言わず、「追い討ち」ではないか。

◇儒学者達の解釈

四十七士の吉良邸討入りが義挙に当たるか否か。

当時の有識者たる儒学者の間でも意見が分かれたようだ。

四十七士の行動を「罪」として捉え、打ち首とし、切腹さえもさせてはならじ、とする厳しい見方もあった。

しかし、こうした厳しい見方をするのはごく一部の儒者に限られ、多くは、切腹は免れないとしても、主君に対する「忠義」を見せたとして同情する見方が多い。忠義は儒学の重要な徳目であるからだ。

そうした裁きを見せないと、忠義をもって治世する側にとっては困ることになるという判断も成り立つ。

この謎多き赤穂事件と忠臣蔵、なぜ人気が衰えないのだろうか。

◇胸のすく勧善懲悪の筋立て

綱吉については、最近でこそ、文治の世に転換させた名君として評価され始めたようだが、これまでは「犬公方」と渾名(あだな)され、評判は芳しくなかった。特に当時の庶民にとって生類憐みの令は「天下の悪法」と映ったようだ。生活が窮屈になるからだ。飼い犬や飼い猫にも人並みに食べさせる必要が生じたのだから、金銭的な負担も大変だったという。

生類憐みの令を批判した水戸光圀公が綱吉に犬の毛皮を送り付けたのも、当てつけだったのだろう。

生類憐みの令といった、これまでにない法令で縛られるようになった窮屈な時代。

こうした時代にあっては、庶民は胸のすくような話を求める。

弱い者いじめをし、利に汚く、金品に執着の強い者を懲らしめる筋書き。こうした勧善懲悪の筋書きには「悪」の主人公が要る。ここに吉良公が嵌った可能性はある。

いじめる者を成敗したいという勧善懲悪は受けが良い。金品に執着し、賄賂をねだり、私腹を肥やす者には、きついお灸を据える。

特に芝居にあっては奇想天外な場所、ありえない当事者、ありえない筋書きであればあるほど胸がすき、庶民の鬱屈を晴らすことができる。

これが全くの作り話ではなく、実際に起こった事件であればあるほど、面白みは格段に増すのだ。

ここに忠臣蔵の人気が衰えないヒミツがあるような気がする。

(学23期kz)

幸せな働き方セミナー

件名:【山口県主催】12/21(火)地方×テレワークセミナー開催のお知らせ

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<山口県主催>

地方×テレワーク最前線!山口県で実現する誰でもできる「幸せな働き方」

日時:12月21日(火)12:00-13:00
参加費:無料

詳細/お申込みはこちら
http://ptix.at/MxCxVJ

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テレワークでどこでも仕事ができるようになったことで、自分の好きな場所や故郷に仕事の拠点をおき、「自分らしい幸せな働き方」を選択されている方が増えています。

こうした動きにあわせ、山口県ではテレワークで快適に働くためのモデルオフィスやワーケーション総合案内施設を設置するなど、山口県で幸せな働き方を実現するための施策に取り組んでいます。

そして今回のイベントでは、山口県へテレワーク移住した方や二拠点居住されている方をゲストにお招きし、テレワークを活用したことによって実現できた幸せな働き方について伺います。

ハイブリッドワークライフの先進事例を知りたい方、山口県の新しい取り組みについて知りたい方など、ランチタイムにお気軽にご参加くださいませ。

■イベントページはこちら

http://ptix.at/MxCxVJ

■イベント概要

実施時期:2021年12月21日12:00-13:00

場所:オンライン(ZOOM)

■プログラム

※内容・スケジュールは告知なく変更する可能性がございます。予めご了承ください。

12:00-12:05 オープニング

12:05-12:10 「山口県が設置した全国初のモデルオフィス等のご紹介」

12:10-12:45

テレワーク移住の実践者によるパネルディスカッション

「実践者に聞く!山口県で実現できた幸せな働き方」

ファシリテーター:パソナJOB HUB 加藤 遼

12:45-12:55 「山口県のワーケーションの魅力等のご紹介」

12:55-13:00 エンディング

■登壇者紹介

・テレワーク移住実践者:長田浩幸氏

有限会社城南管財 専務執行役員

1990年生まれの31歳。2020年7月に故郷宇部市に戻ってくるまで18年を県外で過ごす。

現在は経営コンサルタントとして大阪の会社に籍を置き、福岡の職場にも顔を出しつつ、実家の会社が運営するコワーキングスペース「nido(ウベノス)」の運営責任者として宇部市で過ごす。休日は山口に戻ってから始めた狩猟を行い、休日は山で過ごすが、最近は釣りが出来ていないのが悩み。獲ったジビエもECサイトで販売中!

・二拠点居住実践者:藏田靖氏(陣内靖氏)

株式会社ディー・エヌ・エー社員。1980年長崎県佐世保市生まれ。東京大学工学部中退後、生命保険会社にシステム担当として勤務。2011年よりディー・エヌ・エーに参画し、主にバックエンドエンジニアとしてゲームプラットフォーム開発に従事。2020年より東京と山口市を行き来しつつ、フルリモートで勤務している。趣味はプログラミングと読書。中国古代史が好き。

・二拠点居住実践者:藏田章子氏

1979年山口県山口市生まれ。2018年よりDo a Front ディレクター。

2012年に、生まれ育った町の無名な古い日本家屋や衰 退する文化を継承したいと考え、地域資源の祭りや空き家 を美術領域で再活用するDo a Frontを有志とともに立ち上げる。地域の様々な人たちからサポートを受け、毎年アーティスト・イン・レジデンス事業を行っている。

・ファシリテーター:

株式会社パソナJOB HUB 事業開発部長 兼 ソーシャルイノベーション部長

株式会社VISIT東北 取締役 加藤 遼

パソナ入社後、大手から中小/ベンチャーまで幅広い業界/業種/規模の企業の人財採用/育成/活用支援に携わった後、行政/企業/NPOなどと連携して、若者雇用/東北復興/海外展開/地方創生/観光立国/シェアリングエコノミーなどをテーマにした事業企画/開発/立上に取り組む。直近は、地域複業/ワーケーション/地方創生テレワーク推進を通じた新しい働き方の創造と地域活性化や、プロフェッショナル人財活用による新規事業開発支援やサステナブル経営支援に取り組む。また、地域活性化ベンチャーファンドの事務局として、起業家の発掘/育成/事業開発支援に取り組み、出資先であるVISIT東北の取締役も兼務。その他に、政府・自治体の政策委員や講演活動、NPOのマーケティング支援などにも参加している。内閣官房シェアリングエコノミー伝道師/総務省地域情報化アドバイザー/総務省地域力創造アドバイザー/多摩大学大学院特別招聘フェロー/NPOサポートセンター理事

・司会進行:

株式会社パソナJOB HUB ソーシャルイノベーション部 山口春菜

大手人材サービス会社でHR Tech新規事業の立ち上げ、地方中小企業の採用支援を実施する地方創生事業の責任者に従事。現在は都市部と地域を新しい働き方(ワーケーション・複業等)で繋ぐ「旅するようにはたらく部」のマネージャーを務める。現在まで100回以上のワーケーション・複業フィールドワーク企画・運営実績を持つ。また、2014年度から気仙沼大島観光特使、高校・大学での講演活動、法人立ち上げ、G20サミット等の国際会議の企画・運営など6社で複業を実践中。国際的な社会起業家コミュニティ「Ashoka Youth Venture」2014年選出。観光庁「新たな旅のスタイル」促進事業 アドバイザー

最後までご覧頂きありがとうございました。

何卒よろしくお願い申し上げます。

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■お問い合わせ先

株式会社パソナJOB HUB

ソーシャルイノベーション部

担当:藤本

TEL:03-6832-2901

E-mail:local@pasona-jobhub.co.jp

URL:https://jobhub.co.jp/ ——

赤穂事件 その1  

お預かり

師走半ばといえば赤穂浪士の討ち入り。

この赤穂浪士の事件、元禄の世に大きな波紋を投げかけた。

暴力や殺し合いを禁制にし、文治の方向に舵を切った五代将軍・綱吉が、殿中松野廊下で刃傷沙汰を起こした浅野内匠頭に厳罰を下し、即刻切腹を命じることとなった赤穂事件。

その後吉良邸へ討ち入り、主君の思いを全うした四十七士の行いが義挙なのか、それとも愚挙なのか。

幕府内、当時の知識人に当たる儒学者の間でも見解が分かれたが、庶民の間でも様々な意見があったようだ。

◇四藩に分けてのお預かり

討ち入り直後、四十七士は肥後・細川藩(芝高輪下屋敷・細川綱利公)、岡崎藩(芝三田中屋敷・水野忠之公)、長府藩(麻布・毛利綱元公)、松山藩(三田中屋敷・松平定直公)の四藩大名家で「お預かり」となるが、生類憐みの令を出すほどの将軍綱吉が刃傷沙汰を禁じた中での四十七士の行いに対し、「お預かり」の対応に差異が出た。

◇肥後・細川藩の対応

大石内蔵助を含め十七名の赤穂藩士を受け入れた細川藩の応接がふるっている。

細川家には夜中を過ぎた丑の刻(2時頃)に一行が到着。藩主細川綱利は寝ずに待ちわびており、一行を迎え入れるや「本日の行い、神妙である」と労い、食事をふるまう。

着替えには小袖が二つずつ、食事は二汁五菜。風呂は一人ずつ湯を入れ替えたという。また後日には菓子や夜食、酒まで出された。

この綱利公、水前寺公園として名が知られる熊本の成趣園を造っており、地元の熊本では割と知られる。大石切腹まで49日の間預かり、正月までの半月間に二度の助命嘆願に向かったほか、自らの膳も精進料理で通したという。

この綱利公、なにゆえそれほど手厚く接したのか。

浅野内匠頭が幼少にして藩主となった時、綱利が3年間後見役をしていたという。年のころ40まわりの細川綱利公が元服前後の浅野内匠頭に日常生活の在り方、身の処し方、家臣の処遇等諫言したとの記録が残っている。

岡崎藩・水野忠之公も四十七士に情を持って接したとされるが、幕府を憚ってか、赤穂藩士と顔を合わせたのが討ち入りから1週間後であったという。

他方、長府・毛利藩や松山・松平藩では、前二藩と異なり冷ややかな迎え方だったようだ。

当時の各藩の対応をもじった狂句が残る

細川の水の(水野)流れは清けれど、ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる。

他の二藩がとった対応如何。

思うに責めることのできない迎え方であり、むしろ納得できる穏当な対応と言えるのではないか。というのも、時の将軍が暴力を禁じているからだ。しかも浅野内匠頭の斬り付け、赤穂浪士の吉良の首の打ち取りと、重ねて沙汰を起こしているのだ。

もっとも毛利家(長州藩)や松平家(松山藩)も庶民感情を忖度して細川家にならって、後日義士とみなして待遇を改めたと伝えられている。

いつの時代も治める側にとって世論を無視し一般庶民を敵に回しては安眠できない。

この赤穂事件、調べてみると何とも不思議な事件だ。「事実に基づくフィクション」とされるが、どこまでが事実で、どこからが作り話か迷路に迷い込んでしまう。

しかし、毎年のことながら年末になると不思議と人気が高まる。

何故なのか。私見を別稿で記す。

(学23期kz)

    五橋余話

          「五橋」余話

私は日本酒をこよなく愛する者です。

トピックスに掲載された「長州学舎」を興味深く、読みました。

とても面白い記事でした。

 さて、文中に記された「五橋」(ごきょう・山口県岩国市の銘酒)のくだりを

読み、ふと、ある出来事を思い出したのです。

 数年前(コロナ禍の前)、山口県防府市で義母の7回忌の法事が

営まれました。当日は台風直撃のような嵐でした。

 法事が無事、終わりました。席をかえて食事会です。豪雨の中、送迎マイクロバスに乗り込み、佐波川の川岸に建つ料亭に向かいました。

 女将さんが座敷に現れ、「お酒はなんになさいますか」と聞きます。

私は深い意味もなく「五橋をお願いします」といったのです。

いったん下がった女将さんが再び、座敷にやって来ました。

 「あいにく、五橋は切らしております。今、買いに行きますので

  しばらく、お待ちください」

 「あ、いや、いや。五橋でなくても、いいですよ」

 「もう、買いに出ましたので・・・」

 窓から外を見ると、店の男性が傘を差して出かけていくではありませんか。

 嵐の中を・・・。

 しばらくして五橋が座敷に運ばれてきました。

 我々一同は 心して五橋を飲んだのです。

 とてもおいしい酒でした。

 (元山口大学経済学部生)

長州学舎

 -山口大学発の銘酒-

◇「長州学舎」

長州藩の藩校ではない。私塾でもない。  

酒である。説明は後に回すが、“山口大学”発の日本酒だ。山大生協等が扱っており、宣伝文句に「さわやかな香りで端麗辛口。すっきりとした味わい」とある。私も山大の先輩・同僚へのお歳暮に使ったことがある。

 ◇学生時代の日本酒

学生時代の私は「五橋」しか知らない。「ストーム」と称して学寮の各部屋を回る勇者が手にしていた一升瓶は二級酒の「五橋」。相当無茶な飲み方をしたせいか、あまり良い想い出はない。しかし、先日目にした山口の旨い酒ランキングを載せた記事では7位に入っている。山口の酒屋に立ち寄った折、「五橋」の評判を聞いてみたが、地元でなかなか人気があるという。あれから50年。質も上がってきたのだろう。

「五橋」もさることながら、ここ十数年来、東京では山口の酒の評判が良い。

 ◇獺祭(だっさい)

美食とワインの国・フランスで業界人をも唸らせ、世界的なブランドになった岩国・旭酒造の「獺祭(だっさい)」。オバマ大統領訪日時、安倍首相が土産として手渡したのは獺祭の「磨き その先へ」だった。

ブームになる直前の十数年前、一緒に飲み屋に入った友人によく問われたものだ。「獺祭?何と読むの」、「どういう意味か?」と。

 ◇東洋美人

再び安倍元首相に登場願う。プーチン大統領来日の折、長門での会食に用い、大統領が絶賛したという萩・澄川酒造の東洋美人「一番纏(まとい)」。飲み屋でも東洋美人は売れっ子だ。店のメニューに出ていても油断は禁物。決まって「今はない」、「売切れ」という返事が返ってくるのが通り相場だ。

 ◇その他、人気の銘酒

日本酒に詳しい同期Ⅿ君から教えてもらった雁木(がんぎ・岩国)や貴(たか・宇部)。ふくよかな香りとまろやかな口当たり。フルーティーで確かに旨い。しかし先述のランキング記事には既述した数々の「有名どころ」を抑えて、「金雀(きんすずめ・岩国)」、「天美(てんび・下関)」がそれぞれ1位、2位に入っている。

これまで聞いたことがない銘柄であり、どうも気にかかる。天美(長州酒造)の裏のラベルには杜氏として藤岡美樹女史の名がある。ますます気にかかる。

◇ランクの番外編

紹介しておきたい酒がある。「夢雀(ゆめすずめ・岩国)」だ。2016年に1本8万8千円で売り出した夢雀。ドバイのブランド系高級ホテルの日本料理屋では1本60万円、香港のマンダリン・オリエンタルでは1本20万円で出しているという。磨きは一割八分という。とうとう、そこまで来たか!
 ◇長州学舎で乾杯

さて、長州学舎に話を戻そう。2004年の国立大学独法化以降、稼ぐ力を求められた大学。山大グッズ創りの一環で2008年に出来上がり、2010年に販売開始と相成った。

【画像提供:山口大学】

県の農業試験場で開発された山田錦の系譜を継ぐ酒米「西都の雫」を山大農学部付属農場で栽培したものを用いており、醸造は萩の岩崎酒造に依頼したという。価格は本年秋時点で大吟醸(750ml)が2500円、純米酒が(同)1350円となっている。

鳳陽会同期の有志が集った忘年会でも、長州学舎で乾杯した時は愉快であった。

ついでに言えば、獺祭と東洋美人の贅沢なダブル飲み放題の忘年会をやったのも鳳陽会の同期会だったことを思い出した。

会場は東京タワーに近い鳳陽会東京支部近くの居酒屋で、宴席は高層階にあった。大きな東京タワーを視界に入れながら会が始まる。

長州学舎で乾杯、といきたいところだが、その店は持込み禁止でえ、残念ながら長州学舎の出番なし。

東京タワーのネオンに照らされた友の顔と顔、そして選りすぐりの山口の銘酒。

笑い声が響く中で、思いを馳せた先は山大の学生だったそれぞれの青春時代。何とも懐かしく、愉快な夕べであった。

(学23期kz)