維新の舞台裏 白石正一郎考

その1 すがすがしい風

◇下関商人

大内氏が栄えた時代、海上交易では大内氏の統治下に入った博多商人が活躍した。では幕末期、北前船で大層潤ったとされる下関はどうか。海上交易の要衝である下関。しかし「下関商人」という呼び方は寡聞にして知らない。

大内氏の 地元下関に豪商はいたのか。

明治維新前夜の歴史本には下関の商人「白石正一郎」の名前が時々現れる。しかし白石が主役となることはなく、主人公はあくまでも歴史に名を残した一級の志士たちだ。彼らが集い、見聞や知見を交わし、やがて夜明けを迎えようとする時にあって、明日の構想を練り、行動を起こす拠点となったのが赤間関(下関)の荷物問屋「小倉屋」であり、そこの8代目の当主が白石正一郎だ。

◇高杉晋作との出会い

白石は日記を残している。白石家で彼が小倉屋で迎えた志士は約400名。場を提供し、私財を投げ打って志士たちを支えてきた。

幕末、馬関戦争の難局打開のために藩主毛利敬親(たかちか)が高杉晋作を下関に送るが、高杉が白石に出会ったのが1863年のこと。高杉は白石に出会う前の年に政府使節団の随行として上海に渡航、そこで欧米人が中国人を使役し、我が物顔で闊歩するアヘン戦争後の清朝の光景を見ている。こうした渡航経験から攘夷の必要性を力説する高杉と白石は意気投合する。そしてその白石家で奇兵隊が結成され、正一郎は弟廉作とともに奇兵隊の士となったのだ

◇西郷隆盛との出会い

他方、白石は高杉と出会う6年前の安政5年(1857年)に西郷隆盛と出会っている。薩摩藩は本州への足場として下関に焦点を合わせており、西郷隆盛もそうした藩命を受けての白石家立ち寄りだ。

そこで西郷は白石の温和で度量の大きい人柄に一目で惚れ込み、即座に気を通じ合う仲になったという。

しかし、何よりも元治元年(1864年)7月の禁門の変以来、敵対関係にあった薩摩と長州はこのころから角が取れていく。文久3年(1863年)の薩英戦争敗北に続き、元治元年(1864年)の馬関戦争での惨敗によって、薩長とも直情的な排外主義たる「小攘夷」が現実離れしていることを悟る。慶応2年1866年に薩長同盟が成るが、坂本竜馬や中岡慎太郎を待つ以前に、小倉屋で西郷と白石の絆が底流となり、薩長の藩士同士の信頼関係が醸成され、発酵が始まったのかもしれないと思う。

◇志士に寄り添うことを選んだ白石

豪商との冠も付けられる白石。しかし、藩を代表する豪商ではなかった。 白石は 長州本藩ではなく長府藩の支藩である清末藩の商人であった。商人の格としては高くはなく、このため北前船の「指定問屋」にはなれず、西郷との縁で芽生えかけた薩摩との藩際取引も、藩の指定業者から外されている。

白石は尊攘志士たちを熱心に支えるあまり、商売が成り立たず、結局小倉屋は潰れる。商人として生きることより、奇兵隊士の一人として尊攘の志士を支え、倒幕に与することを選んだ。

◇すがすがしい風

私財を投げ打って維新を拓くことに与した白石。だが、白石は新政府ができた後、新政府の要職に就いた多くの「同士」たちに対して、恩を売るようなことは決してしなかった。ここに悲しくも、すがすがしい風が吹く。

白石は赤間神宮の宮司となる道を選び、勇敢に戦った高杉、西郷、そして自分同様志士であり、自分の身代わりとして死んでいった弟廉作を弔い、68歳で静かに世を去った。

白石の映った写真が1枚残る。白髭をたっぷり蓄えたその風貌たるや仙人然としている。

(学23期kz)