メシア、我が想い出 その3 春来軒

◇山口のソウルフード

春来軒は平川から「ヤマグチ」に用事がある時、よく通った“ヤキソバ屋”で、半世紀経った今も生き残っている数少ない店だ。ウェブ検索をかけてみると「バリそばの総本山」、「元祖バリそば本舗」と出ている。「バリそばは山口のソウルフード」というのもあった。口コミ欄でも「ブチうまい」との書き込みもある。

 長崎のソウルフードである皿うどんやちゃんぽんと具材の顔ぶれはほとんど同じだ。

初めて親元を離れ山口で生活するにあたり、馴染みのある食べ物を見つけると心が和む。心の拠り所だ。平川から一番の繁華街だった道場門前に向かう手前に、その店はあった。物事がうまくいかず、クサることがあった時は、「心の平和」を求めて春来軒に足が向いた。事がうまく運んだときには餃子を付けて注文した。

 ◇食欲をそそる彩り

具材は野菜と控えめな肉・魚介類だ。店先に出ていたサンプルがいかにも旨そうに作ってあり、鮮やかな彩りが食欲をそそった。ザク切りキャベツの黄緑、玉子の黄色、イカの白、さつま揚げの狐色、ナルトの桜色、きくらげの黒。スープは薄いカラメル色で粘度の低いあんかけ。

食べる前に、先ずは白コショー。これが旨さを引き立てる。

いよいよ箸の第一着。ここで注意が必要だ。大皿の鉢からおつゆがこぼれないように食べないと厄介なことになる。とにかくおつゆが多い「ツユだく」だった。

最近インターネットで見付けた春来軒の「バリそば」を見ると、小ネギが乗っているが、当時はなかった。昔から小ネギが大の好物だったので断言できる。また「バリそば」という表現も気にかかる。「バリ」と言うからには硬い麺を意味するのだろうが、当時は決して堅い麺ではなかった。50年かけて独特の進化を遂げたのかもしれない。進化したからこそ、生き残ったのかも。ダーウィンだ。

◇女将さんの勘違い

店に通っていた当時、ある時を境に女将さんの機嫌が大層良くなり、一度は注文をタダにしてくれたことがある。娘さんが高校に無事合格したという。どうやら私を娘さんの家庭教師をした学生と思っているらしい。心当たりは・・・記憶のか細い糸を真剣に手繰ってみるが、どう甘く解釈しても確信が持てず気持ちが悪い。正直なところを女将さんに伝えようかとも思ったが、話の成り行きでは、ややこしいことになりそうなので、自然と足が遠のいてしまった。

50年が経った今、暖簾をくぐってみるか。今なら女将さんに会うこともなかろう。仮に目と目が合ったとしても、さすがに大昔の家庭教師の顔は忘れただろう。

しかし、待てよ、それもまた寂しい話だ。

女将さんが出てきたら、遠巻きに娘さんのことに話を向けてみる・・・というのも面白いかもしれない (否、喝!)
 (学23期kz)

関門海峡ものがたり

―海上交易と富―

社会・経済を支える物流。船は少ない人員で大量の物品を運ぶことができる。このため太古の昔から海路の要衝地には荷が集まり、それを扱う商人が住みつき、富が生まれる。幸運なことに山口には下関があった。

 ◇莫大な富をもたらした外国貿易

交易相手が外国の場合には、大きな利益が生まれた。相手国が欲する産品を持ち込み、帰りは希少な産品を日本に運び、捌いた。また、中世においては海賊行為を行う倭寇や密貿易者を押さえるため通信符(日朝貿易)や勘合符(日明貿易)など割符を用いた貿易が行われたが、そうした貿易制限下では莫大な利益を産んだ。

 ◇日朝貿易と大内氏

主だった各国大名は源・平や藤原氏を出自とするが、大内氏は百済の第三王子・琳聖太子(りんしょうたいし)の末裔であると伝えられている。大内氏はそのように自称し、朝鮮との交易を有利に進めたほか、倭寇取り締まりでも功績を挙げたことで、当時日朝貿易の仲介役を果たしていた対馬の宗氏とは別ルートでの朝鮮との直接取引で富を蓄えた。

大内氏が潤っていた時のこぼれ話が太平記に残る。14世紀半ば、第24代大内弘世が2代将軍足利義詮に謁見するため上洛した折、数万貫の銭貨や唐もの(舶来品)を幕府要人・文化人のほか、貧しき京の民にも分け与え、好評を博したと記されている。この時は弘世が銀鉱を抱える石見の守護となる以前のことであり、富の出どころは銀の採掘ではなく、まさしく貿易であった。

しかし、これで終わりではない。日朝貿易が正式に始まるのが、次の25代義弘の時からというから驚く。14世紀末の話だ。

 ◇日明貿易–博多商人の取込みと貿易独占

15世紀に入ると日明貿易が盛んになる。明の始祖・洪武帝も海禁(官船以外の交易禁止)による割符を用いた朝貢貿易を行う。これは日朝貿易同様、倭寇や密貿易に悩まされていたからだ。我が国の相方は3代将軍足利義満。はじめは幕府直営船が使われたが、次第に大寺院(天龍寺船)や大名に勘合府が割り当てられた。この朝貢貿易、朝貢品に対しては対価以上の代価が支払われた上に、その物資を売り捌くことも認められたため、一度の渡航で元手の5~6倍の利益が出たとされる。中でも中国で得た絹では20倍の利益が出たようだ。

この日明貿易は幕府の弱体化に伴い、私的貿易が中心になっていく。

こうした中、大内家28代教弘(のりひろ)が筑前国の守護に就き博多を擁することになったため、勘合貿易の担い手は大内氏=博多商人と細川氏=堺商人との双寡状態になるが、結局両者の覇権争い(寧波の乱1532年)を大内氏が制したことで、勘合貿易は大内氏の独占状態となった。ここから大内氏に莫大な富が生じたことは言うまでもない。

 ◇「鎖国時代」に空前の繁栄を誇った西回り国内航路 

続く15世紀後半から17世紀初め、即ち戦国から江戸時代にかけての貿易はどうか。信長(南蛮貿易)、秀吉(朱印船貿易)も経済的・軍事的な面から貿易に積極的だった。また、ヤン・ヨーステン(蘭)やウィリアム・アダムズ(英)を貿易顧問に迎えた家康も貿易に熱心だった。しかし2代将軍・秀忠を経て、3代・家光の時になると鎖国体制が固まり、貿易は「出島」に限られたが、この間日本海を縫って通る国内航路の西回り廻船が未曾有の繁栄を見せたという。

特筆されるのが北前船だ。北海道の松前から日本海の各港に寄港しながら下関を経由して大阪・堺に産品を届け、また逆の航路を辿る。東回りは波が高く、危険な航路とされ、西回りが多用されたようだ。

西回りの船は必ず下関を通る。そこで長州藩が設けたのが「越荷方(こしにかた)」という藩営企業体だ。そこでは「越荷」と呼ばれる北前船の荷物に関する①担保金融(資金貸付)、②買取り販売、③一時保管などで利を得た。

この「越荷方」は当たり、莫大な利益を上げたという。ここで得た富で長州藩は軍艦を手に入れ、洋式兵器を揃えることで幕末での存在感を高めていった。

 ◇和製「スエズ運河」の関門海峡

関門海峡は放っておけば砂が溜まり陸続きになるという。このため古くから絶えず浚渫(しゅんせつ)作業が行われてきた。その意味で関門海峡は半ば「運河」と言える。下関出身の直木賞作家・古川薫氏は関門海峡を日本の「スエズ運河」と呼んだ。

この古川氏、1925年生まれで、2018年に92歳で没するが、出身校をみると山口大学卒とある。残念ながら経済学部(当時は「経専」)卒ではなかった。また文理学部・文学科卒でもないところが面白い。

(学23期kz)

会報「東京鳳陽」発行

           会報「東京鳳陽」発行

山口大学経済学部同窓会、鳳陽会東京支部は会報「東京鳳陽」(第105号)を発行します。 編集作業は順調に進んでいます。10月末、発行予定です。会員の皆様に発送します。

 今回の主要な記事を事前に紹介します。

  • 第2回長州歴史ウオーク(令和3年12月4日開催)の案内
  • 吉田寮の青春
  • 鈴木重靖教授の想い出
  • 第1回長州歴史ウオーク(6月5日開催)報告

読み応えのある会報を目指しました。ご一読していただくと、幸いです。

【トピックス募集】

鳳陽会東京支部のホームページを会員交流の場として活用しています。

トピックスを募集しています。学生時代の思い出、サークル活動、ゼミ、

近況報告などをメール、手紙でお寄せ下さい。お待ちしています。

 アーカイブ(ホームページの最下段)で検索すれば、過去のトピックスを読むことができます。

長州藩の転機

幕末や明治維新では長州藩の偉人が活躍し、その足跡が山口に残っていたが、学生当時ほとんど興味を持つことがなかった。もったいないことをした。

 ◇関ケ原負け組の毛利・長州藩

関ケ原の戦いで西軍の総大将に担がれた毛利輝元。家康の世が始まると、以前の山陽道・山陰道八国112万石から周防・長門二国約30万石へと大幅な減封となって長州藩が始まる。藩庁も山陽道ではなく、長門の北部で山陰の海沿い、萩に押し込められた。

◇朝敵

負け組の汚名を討幕によって晴らそうとする長州。正月には、報復に打って出る機会を藩主に伺う「殿、まだでござるか」と問うことが習わしになっていたという。関ケ原から250年を超える執念だ。

黒船到来以降、攘夷派の孝明天皇を担ぎ出して討幕に焦点を合わせる急進的攘夷派の長州。しかし孝明天皇は妹和宮を14代将軍・家茂(いえもち)に降嫁させた如く、攘夷派ではあっても反幕に非ず、むしろ親幕であったのだ。天皇の意向を見誤った長州は「8月18日の政変」、「禁門の変」を経て「朝敵」となる。天皇は長州を許さず、これを受け将軍家茂も長州征伐に乗り出す。

こうした局面から長州はいかにして復権し、初代内閣総理大臣を長州藩士から出すまでに至るのか。

なんと反長州の大権威が次々と倒れたのだ。

◇まずは家茂の早世

第二次長州征伐のさなか、家茂が死去する。死因は「江戸患い」といわれた脚気らしい。ビタミン1不足による病であるが、ほとんどの歯が虫歯になるほど甘いもの好きの家茂。甘いものはビタミン1の消費を早める作用があり、これが死期を早めたようだ。

◇孝明天皇も崩御

その半年後、長州を嫌い、長州討つべしとした孝明天皇も崩御する。原因は流行り病の天然痘という。当時既に予防策として種痘が知られており、天皇に近い関係者は種痘を打っていたようだが、孝明天皇は鎖国派で異国嫌い。種痘を「外国の文化」だとして種痘を打たなかったことが命取りになったようだ。

 ◇二人の死因の虚実

孝明天皇は病死というのが定説とされるが、周囲の者が関わったとする暗殺説が根強く残っている。

また、脚気が原因で第二次長州征伐のさなか、大阪で死去したとされる家茂も然り。江戸に運ばれてきた死体は黒ずんでおり、それを見た天璋院は毒殺との見方を曲げなかったという。

ただ、真相は闇だ。

明治天皇は親・長州

孝明天皇に代わり即位した明治天皇。明治天皇が親・長州であったことも長州復権に大きな役割を果たしたように思う。

明治天皇の母は中山慶子(よしこ)。慶子の父中山忠能(ただやす)は攘夷派の公家で孝明天皇から妹和宮と家茂の縁組御用掛を任ぜられるも、禁門の変では長州の動きを支持、孝明天皇から処分を受けた人物だ。

また慶子の弟忠光も久坂玄瑞ら長州の尊攘過激派とのつながりが深い。この忠光は明治天皇より7つ年上で、忠光が幼少の頃、明治天皇が5歳になるまで実家の中山家で共に過ごしている。また宮中に移ってからも近臣として、明治天皇がお好きなチャンバラ遊びや学問の相手をしたという。親・長州でないはずはない。 

(学23期kz)

青春のアルバイト ①

1970年春、私は山口大学経済学部に入学した。

山口市の亀山の近くに建つ鳳陽寮・北寮に入寮した。

 教養部の講義は平川キャンパスで行われる。鳳陽寮から

自転車で平川に通った。

 大学の講義に興味があったので、4月は真面目に出席した。

ところが、講義はつまらない。知的好奇心を刺激しないものだった。

 5月の連休明け。天気のいい日だった。自転車に乗って平川に向かったが、

講義に出る気がしない。Uターンして山口の旧市街や寺、神社を巡った。

ーそうか。講義に出なくても、いいんだ。

 こうして、講義には出席しなくなり、その代わりにバイト生活が始まった。

      ◇昼食は社長家族とともに

 大学の掲示板にバイトの求人案内がたくさん、貼られていた。

中には「経済学部の学生に限る」という求人案内があった。

 山口市の大手文房具店もそのひとつだった。主な仕事は官庁や会社などへ

の文房具の配達だ。朝から、取引先を回る。新規の注文もとる。

 昼食時は店にもどる。一般従業員は弁当を食べるか、食堂に出かけた。

ところが、経済学部の学生である私はリビングで社長の家族とともに

昼食をとる。特別扱いだった。社長には妙齢のお嬢さんがいた。彼女も同席して食事をする。昼食が楽しみだった。

      ◇車体から白い煙

 私は車の免許をとった。バイトの幅が広がる。

バイト先は石材会社だった。重いブロックなどをトラックに積み、現場に運ぶ。

石材の揚げ降ろしも仕事の一部だ。重労働だった。

 ある日、私はひとりで運転席に乗り込み、トラックを発進させた。アクセルを踏むが、なかなかスピードが出ない。荷台に石材を積み過ぎたか。アクセルを強く踏んでしばらく走った。すると、車体から白い煙が立ち上るではないか。どうしたのだろう。停車して点検した。なんとタイヤが過熱して燃えていた。

 原因は私のミス。サイドブレーキを引いたまま、トラックを走らせていたのだ。

社長にお詫びした。社長は「辞めろ」とはいわなかった。だが、わたしは責任をとって自主的に辞めた。

次は、山口市内の外郎の老舗で働き始めた。車で山口県全域のドライブインを巡る。土産物コーナーで外郎の売れ行きをチェック。売れて品薄になったところには納品する。ときどき、老舗の社長が同乗した。社長は釣り好きだった。釣りの自慢話をよく聞かされたものだ。

居心地がよく、1年ほどバイトを続けた。

        ◇危険の報酬

 私のバイト生活の中で、最も効率が良かったのは山陽新幹線の工事だ。

山口に特殊な接着材の会社があった。この会社がトンネル工事の一部を請け負っていた。

 午前9時、会社に集合する。その日の工事の打合せを1時間ほどやる

午前10時過ぎ、会社を車で出発する。徳山郊外の工事現場に向かう。

徳山に着いたら、もう、昼前だ。ドライブインで食事をする。社長は太っ腹だった。

「なんでも、好きなものを注文していいよ」

しめしめ。ありがたい。ゆっくり昼食を楽しむ。

 午後1時から、トンネル工事現場で作業が始まる。上部から岩石や建材の一部がときどき、落下してくる。ヘルメットをかぶって作業するが、かなり危険だ。午後4時、作業終了。後片づけをして夕方、山口に戻る。実質労働時間は3時間である。“危険の報酬”が1日いくらだったか、記憶にない。一般のバイトより割高だったと思う。

現金を手にした私は、勇んで道場門前の酒場「大万」に向かうのである。

 (元山口大学経済学部生 S)