長州藩の転機

幕末や明治維新では長州藩の偉人が活躍し、その足跡が山口に残っていたが、学生当時ほとんど興味を持つことがなかった。もったいないことをした。

 ◇関ケ原負け組の毛利・長州藩

関ケ原の戦いで西軍の総大将に担がれた毛利輝元。家康の世が始まると、以前の山陽道・山陰道八国112万石から周防・長門二国約30万石へと大幅な減封となって長州藩が始まる。藩庁も山陽道ではなく、長門の北部で山陰の海沿い、萩に押し込められた。

◇朝敵

負け組の汚名を討幕によって晴らそうとする長州。正月には、報復に打って出る機会を藩主に伺う「殿、まだでござるか」と問うことが習わしになっていたという。関ケ原から250年を超える執念だ。

黒船到来以降、攘夷派の孝明天皇を担ぎ出して討幕に焦点を合わせる急進的攘夷派の長州。しかし孝明天皇は妹和宮を14代将軍・家茂(いえもち)に降嫁させた如く、攘夷派ではあっても反幕に非ず、むしろ親幕であったのだ。天皇の意向を見誤った長州は「8月18日の政変」、「禁門の変」を経て「朝敵」となる。天皇は長州を許さず、これを受け将軍家茂も長州征伐に乗り出す。

こうした局面から長州はいかにして復権し、初代内閣総理大臣を長州藩士から出すまでに至るのか。

なんと反長州の大権威が次々と倒れたのだ。

◇まずは家茂の早世

第二次長州征伐のさなか、家茂が死去する。死因は「江戸患い」といわれた脚気らしい。ビタミン1不足による病であるが、ほとんどの歯が虫歯になるほど甘いもの好きの家茂。甘いものはビタミン1の消費を早める作用があり、これが死期を早めたようだ。

◇孝明天皇も崩御

その半年後、長州を嫌い、長州討つべしとした孝明天皇も崩御する。原因は流行り病の天然痘という。当時既に予防策として種痘が知られており、天皇に近い関係者は種痘を打っていたようだが、孝明天皇は鎖国派で異国嫌い。種痘を「外国の文化」だとして種痘を打たなかったことが命取りになったようだ。

 ◇二人の死因の虚実

孝明天皇は病死というのが定説とされるが、周囲の者が関わったとする暗殺説が根強く残っている。

また、脚気が原因で第二次長州征伐のさなか、大阪で死去したとされる家茂も然り。江戸に運ばれてきた死体は黒ずんでおり、それを見た天璋院は毒殺との見方を曲げなかったという。

ただ、真相は闇だ。

明治天皇は親・長州

孝明天皇に代わり即位した明治天皇。明治天皇が親・長州であったことも長州復権に大きな役割を果たしたように思う。

明治天皇の母は中山慶子(よしこ)。慶子の父中山忠能(ただやす)は攘夷派の公家で孝明天皇から妹和宮と家茂の縁組御用掛を任ぜられるも、禁門の変では長州の動きを支持、孝明天皇から処分を受けた人物だ。

また慶子の弟忠光も久坂玄瑞ら長州の尊攘過激派とのつながりが深い。この忠光は明治天皇より7つ年上で、忠光が幼少の頃、明治天皇が5歳になるまで実家の中山家で共に過ごしている。また宮中に移ってからも近臣として、明治天皇がお好きなチャンバラ遊びや学問の相手をしたという。親・長州でないはずはない。 

(学23期kz)