町おこし

山口の「町おこし」に携わった鳳陽会同窓生がいる。昨年11月に竪小路界隈で開催された「まちなみアート」。この企画・運営に関わったのが東京在住のイベント企画のプロ・澁谷龍氏。またこの企画で音楽の分野で活躍したのが山口在住のコンサート・イベント企画のプロ・香原詩彦氏である。

この二人は学生時代に竪小路に住み、音楽活動を続けた仲間であり、竪小路は思い出の地。お世話になった町に恩返しがしたかったという。

 ◇よそ者の目

二人とも、もともと地元出身者ではない。

町には様々な有形無形の資産が在るが、その価値に気付かなければ無きに等しい。

地元の皆さんが生まれた時から慣れ親しんだ、何でもないような風景そのものが、「よそ者」によってその価値に気付かされ、それを機に町を活性化させたところもある。

私が勤務した四国では、海と夕日で町おこしをしたところがあった。そこには海から「日本一近い」無人駅があり、駅のホームから水平線に沈む特大の「だるま夕日」があった。

東京から仕事で四国を訪ねたサラリーマンが乗り過ごし、戻りの電車を待つ間に見た風景。水平線のだるま夕日が、当たり一面を朱色に染め上げる。東京では拝めない、ありえない景色。

その感動を町の職員に伝えたところ、その職員がそれを受けて「夕日」で町おこしをする。この職員、なかなかの優れ者で、その町を映画の舞台として取り立ててもらうことに成功し、さらには「だるま夕日」が地球の反対側では朝日になるはずだと考え、ブラジルのとある都市と姉妹都市を結ぶまでに至る。

 ◇茶々を控える

町の価値に気付き町おこしをしようすると、茶々が入るという話を聞く。

これまで多くの町おこしに携わったカリスマ達は、町おこしのアイデアを披露した途端、土地の者の一部から「うまくいく筈がない」との反応がすぐに返ってくるとの経験談を披露してくれる。

 ◇潮の変わり目

臨界点という言葉がある。一定の値を超えると質的な変化が生じる境目だ。町おこしも同様、活動が軌道に乗ってくれば潮目が変わり、活動に反対していた勢力も無口になり、「隠れ応援団」に変わる。そうなれば町が元気を取り戻し始め、町おこしの活動もさらに勢い付くという好循環が生まれる。

町おこしの活動、いや、そこにも達しない、小さな動きが出てきた時には、応援はしこそすれ、水を差さすのを控え、しばらくは静観するのが良いようだ。町に住む世代の構成員も若返り、変化しているのだから。

◇リモートワークを味方に

かつて「2007年問題」というのがあった。2007年とは団塊世代が60歳で退職し始める年にあたり、社会経済の動きに変化が見込まれると年とされた。その年を境に見込まれる団塊世代の「U・J・Iターン」は地方の活性化にプラスになるとの期待があった。しかし退職年齢の延長に伴い、今度は65歳で引退し始める2012年にも同様の期待があったが、やはり大きな動きにはならなかった。

しかし最近では、新型コロナによって広がったリモートワークなどの働き方改革が、ある程度「U・J・Iターン」につながっているとの報道もある。

東京で活躍した現役引退者たちは各方面の高い技術やノウハウを持ち、世界ともつながっていた「優れ者」も多い。

こうした「優れ者」の皆さんが冒頭述べたような町おこしイベントを契機に、それぞれの町の個性を磨き上げる活動に共鳴し、参加すれば、地域おこしの頼もしい「神輿の担ぎ手」となることが期待できる。

その意味で、町の有形無形の資産を掘り起こす各種活動は地方の個性を磨き、地域を活性化させる意義あることではないか。

また地域の活性化に欠かせないのが「若者」と言われる。

現役の学生諸君にも是非地域活性化の主役の一翼を担ってほしいと思う。

(学23期kz)

令和4年春鳳陽ゴルフ大会中止のご案内

  

令和4年春 鳳陽ゴルフ大会 中止のご連絡

令和4年1月14日  幹事  伊藤博司(学22期)

題記の件、本年3月16日(水)に「鳳陽ゴルフ大会」の開催を予定していましたが、以下の様な

状況を踏まえ、中止することと致しました。

 ●新型コロナウイルスの感染が、10歳未満の子ども達も含め全国的に急拡大し、社会活動の

   停止も危惧されかねない“第6波”に突入していること

 ●その主因である「オミクロン株」は「デルタ株」を上回る強い感染力が有り、コロナワクチン2回

   接種済でも、感染のリスクは決して低くないこと

 ●社会活動の維持、感染拡大の回避に向けて、ワクチン3回目接種の前倒し、5~12歳への

   接種、治療薬の承認加速等の方策が政府より発信されているものの、具体的詳細は不鮮明

   であること

ウイルスの拡散・感染は、一人一人の行動、人流に大きく左右されることは、今までの経験で

明らかであり、今般の変異株の猛威に対しても一層留意すべきことと思われます。

状況ご賢察の上、何卒ご了承頂きたく、お願い申し上げます。

今後につきましては、感染状況の推移を冷静に確認して参りますが、今秋(9月)の当ゴルフ会の

開催をご案内できる状態に一日も早くなることを願っています。

以上

維新の舞台裏 白石正一郎考

その2 母は強し

赤間関(下関)にあり、志士の拠り所、いわば「維新の舞台裏」であった小倉屋・白石家。

その「白石家の舞台裏」はどのようであったか。

◇万葉集と国学

教養高き白石家。正一郎の父も母も歌を詠み、家には読み込まれた万葉集、源氏物語、伊勢物語、平家物語があったという。

万葉集や源氏物語、これらは国学での研究対象となった古典であった。江戸中期に起こった国学は仏教や儒教などの外来思想を排する平田篤胤(あつたね)の復古神道につながっていくが、平田篤胤の門下生で当時国学の重鎮とされた鈴木重胤(しげたね)が白石家に逗留したことがある。正一郎が42歳の時であった。十日余りの鈴木重胤の逗留期間中に、正一郎は父母共々鈴木から強い影響を受けて鈴木の門下に入り、白石家の宗旨までも仏教から神道に変えている。

尊王敬神で、外来のものを嫌う古神道は尊王攘夷と相性がよい。平田篤胤の復古神道は幕末の尊王攘夷の思想的な支柱となっており、正一郎の、名だたる尊攘志士たちとの交流も心情を深く理解したうえでのことだったのだろう。

◇賑わった白石家のもてなし

昼となく、夜となく客人を迎え、もてなした正一郎。彼自身酒豪であり、もてなす酒の肴はフグ、スッポン、アワビ、ウナギ、鶴の肉など豪華であったという。

客人をもてなすにあたり、白石家の家人はどうしていたか。

正一郎の妻加寿子や弟廉作の妻延子も客人の相手になっており、一家総出でもてなしたという。延子などは喉が良かったというから客人の前で披露し、喝采を浴びていたのだろう。日記からは、白石家のもてなしはいつも賑わっていた様子が伝わる。

白石邸に滞在した折、三条実美が詠んだ歌が残る。

妻子らも 心ひとつに 国のため つくせる宿ぞ さきくもあらめ

◇取り仕切った母・艶子

いつの時代も、またどの家も、不平を言いがちなのは嫁たちだ。白石の嫁や弟廉作の嫁も、正一郎の母・艶子が取り仕切っていたという。

父親の影は薄いが、なぜか。

父は婿養子だったという。それなら合点がいく。

艶子は国学者・鈴木重胤の話も聞いており、尊攘志士の心をよく理解したうえでの「おもてなし」だったのだろう。

母艶子の歌が残る。

ほのほのと 霞わたれる はま松の 波をはなるる 曙の空

庭のへの おちはを夜たた 吹き上げて 声もはけしき 木枯らしの風

手弱女(たおやめ)ぶりにあらず。万葉風の大らかな歌であり、失礼を承知で申せば、堂々たる「益荒男(ますらお)ぶり」とは言えまいか。

薩長の志士も、脱藩浪士も、都落ちの公家も、表沙汰にはできない訳ありの者も、飲み込んでいた正一郎。

しかしその正一郎を含め、不満が出がちな嫁たちも、小倉屋の使用人も、みんな飲み込んで取り仕切ったのが正一郎の母、艶子であった。

母は逞しく、強かった。

艶子も正一郎に負けないほどの酒豪だったのかもしれない。

しかし正一郎の日記にはその話は出てこない。

(学23kz)

教育熱心だった長州藩①

藩校と私塾

長州藩は教育熱心であった。

もともと平野部が少なく農業だけでは食べていくことは難しかったようだ。藩としても財政基盤強化のためには米だけではなく塩、紙といった、いわゆる「長州三白」のほか、蝋などの特産品を創り出す必要があった。

また幸いにして、本州の西端に位置したため、北前船の西回り航路の通り道となっており、寄港地として下関では交易で稼ぎ、また倉庫業や金融業でも稼ぐことができた。

しかし、関ケ原以降、外様であったことから飢饉や災害などの天変地異が起こると幕府からの支援も薄く、藩としても存亡の危機に見舞われる。こうしたときに危機を乗り切るには人の知恵、人の団結が必要であり、このため意識的に優れた人材を創り出す「教育」を重視したことは自然の成り行きであったのだろう。

また、藩主毛利家はもともと学者の家系だ。毛利家の祖は大江氏で学問を重んじる伝統を持つ。和泉式部も父は越前の守・大江雅致(まさむね)の娘で、大江の血筋だ。

◆教育制度

享保3年(1718年)に5代藩主毛利吉元が萩に藩校「明倫館」を創設する。全国的には12番目の藩校だが、教育機関としては水戸の弘道館、岡山藩の閑谷黌(しずたにこう)と並び、日本三大学府の一つに数えられている。

長州でも藩校で藩士に子弟の教育を行うが、藩士の子弟が長じて自分の領地で小規模な藩校である「郷校」や私塾で地元の武士の子弟や豪商・豪農の子弟を教え、さらに「郷校」や私塾で学んだ者が

寺子屋で庶民の子弟に生活の知恵や読み書きそろばんを教えることにより、教育のすそ野が広がっていった。

山口県教育委員会の調べによると、幕末維新期に郷校(官学)の数は20校(全国108校)と全国1位、寺子屋は1304校(同15,550校)と全国2位、私塾は106校(同1,140校)と全国4位。

他藩と異なり、寺子屋や私塾の教師は武士が多かったようだ。

(学23期kz)

維新の舞台裏 白石正一郎考

その1 すがすがしい風

◇下関商人

大内氏が栄えた時代、海上交易では大内氏の統治下に入った博多商人が活躍した。では幕末期、北前船で大層潤ったとされる下関はどうか。海上交易の要衝である下関。しかし「下関商人」という呼び方は寡聞にして知らない。

大内氏の 地元下関に豪商はいたのか。

明治維新前夜の歴史本には下関の商人「白石正一郎」の名前が時々現れる。しかし白石が主役となることはなく、主人公はあくまでも歴史に名を残した一級の志士たちだ。彼らが集い、見聞や知見を交わし、やがて夜明けを迎えようとする時にあって、明日の構想を練り、行動を起こす拠点となったのが赤間関(下関)の荷物問屋「小倉屋」であり、そこの8代目の当主が白石正一郎だ。

◇高杉晋作との出会い

白石は日記を残している。白石家で彼が小倉屋で迎えた志士は約400名。場を提供し、私財を投げ打って志士たちを支えてきた。

幕末、馬関戦争の難局打開のために藩主毛利敬親(たかちか)が高杉晋作を下関に送るが、高杉が白石に出会ったのが1863年のこと。高杉は白石に出会う前の年に政府使節団の随行として上海に渡航、そこで欧米人が中国人を使役し、我が物顔で闊歩するアヘン戦争後の清朝の光景を見ている。こうした渡航経験から攘夷の必要性を力説する高杉と白石は意気投合する。そしてその白石家で奇兵隊が結成され、正一郎は弟廉作とともに奇兵隊の士となったのだ

◇西郷隆盛との出会い

他方、白石は高杉と出会う6年前の安政5年(1857年)に西郷隆盛と出会っている。薩摩藩は本州への足場として下関に焦点を合わせており、西郷隆盛もそうした藩命を受けての白石家立ち寄りだ。

そこで西郷は白石の温和で度量の大きい人柄に一目で惚れ込み、即座に気を通じ合う仲になったという。

しかし、何よりも元治元年(1864年)7月の禁門の変以来、敵対関係にあった薩摩と長州はこのころから角が取れていく。文久3年(1863年)の薩英戦争敗北に続き、元治元年(1864年)の馬関戦争での惨敗によって、薩長とも直情的な排外主義たる「小攘夷」が現実離れしていることを悟る。慶応2年1866年に薩長同盟が成るが、坂本竜馬や中岡慎太郎を待つ以前に、小倉屋で西郷と白石の絆が底流となり、薩長の藩士同士の信頼関係が醸成され、発酵が始まったのかもしれないと思う。

◇志士に寄り添うことを選んだ白石

豪商との冠も付けられる白石。しかし、藩を代表する豪商ではなかった。 白石は 長州本藩ではなく長府藩の支藩である清末藩の商人であった。商人の格としては高くはなく、このため北前船の「指定問屋」にはなれず、西郷との縁で芽生えかけた薩摩との藩際取引も、藩の指定業者から外されている。

白石は尊攘志士たちを熱心に支えるあまり、商売が成り立たず、結局小倉屋は潰れる。商人として生きることより、奇兵隊士の一人として尊攘の志士を支え、倒幕に与することを選んだ。

◇すがすがしい風

私財を投げ打って維新を拓くことに与した白石。だが、白石は新政府ができた後、新政府の要職に就いた多くの「同士」たちに対して、恩を売るようなことは決してしなかった。ここに悲しくも、すがすがしい風が吹く。

白石は赤間神宮の宮司となる道を選び、勇敢に戦った高杉、西郷、そして自分同様志士であり、自分の身代わりとして死んでいった弟廉作を弔い、68歳で静かに世を去った。

白石の映った写真が1枚残る。白髭をたっぷり蓄えたその風貌たるや仙人然としている。

(学23期kz)