どこへ行くニッポン その2 

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

【10月 トピックス】

◆DX

日本経済のパフォーマンスを左右し、賃金引き上げの決め手になるのが生産性の上昇だ。

パソコンを使ったIT化・デジタル化、これを用いてさらに大掛かりな改革を行うDX(デジタル・トランスフォーメーション)化が始まっている。

スイスのビジネススクールIMDがまとめる「世界デジタル競争力ランキング」2021年版で、日本の総合順位は64各国中28位とさえない順位となっている。

デジタル競争力とは、いまの世界であらゆる業務のインフラとなっており、国の行方を大きく左右する要素だ。

日本は、IT機器や半導体、また、スーパーコンユーターでも世界有数で、ついこの前まで「富岳」の計算速度は2位の米国製コンピュータの約3倍で世界一を維持していた。

また、国際学力調査PISAの数学の得点は毎年屈指の順位と付けていることは知られており、同ランキング結果でも「高等教育の教師と生徒の比率」(1位)「世界へのロボット供給」(2位)、「ワイヤレスブロードバンド利用者数」(2位)、「研究開発への支出」(5位)と高順位を付けている。

他方、驚くべきことに最下位・64位となった項目がある。「企業の機敏さ」と「国際経験」だ。

このほかにも、最下位に近い項目がある。「移民法」などの項目があるが、DXの関連項目でいえば、63位が「ビッグデータ解析の利用」。また、62位が「デジタルスキル」、「機会と脅威への対応」などだ。

宝の持ち腐れ

私自身が肌身で感じ、様々な業界に身を置く友人・知人の話、また各種報道機関によって報じられていることを総合勘案すると、ITの素材(ハード)は良いものが多いが、それを使う側がソフト面を含めて活用しきれていない、すなわち、強みが活かされていないということもできる。具体的なITインフラ、環境はある程度整っているが、組織の各階層・各人が目的意識を持ち、その目的遂行に向かってIT を活用し、IT を使い切ることができていないのではないか。

これまでも「情報化」、「デジタル化」、「ITの推進」が叫ばれてきたが、そのスローガンの下に実際行われてきたことは、IT機器納入業者に一任してパソコンを購入し、ソフトの更新を業者に一任するだけの時代が長かったように思う。

組織のトップから新入社員まで、パソコンを駆使して情報を共有し、調査・解析し、その結果を組織の目的達成のために活用ことができていないのではないか。

 次稿では教育、行政、企業の現場で何が起きているかみることにする。

(学23期kz)

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どこへ行くニッポン

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【10月 トピックス】

日本が長期停滞からなかなか抜け出せない。

社会・経済を中心とする各種国際比較統計では日本のランキングが毎年少しずつ下がり続けている。

日本の変調については1990年代以降いろいろな言い方で日本の弱点が指摘されてきた。

・「直線走では最強だが、コーナーでは方向を見失う」

・問題の放置が続き、反応できなくなった「茹で蛙」

・温暖化の時代に過剰に適応して巨大化し、寒冷期という環境変化に対応できず絶滅した恐竜が引き合いに出される「過剰適応」

◆停滞ではなく没落か

日本が戸惑う間、かつての中進国や途上国の所得水準が伸び、日本は相対的にかつてのような裕福な国ではなくなり、諸外国の日本を見る目も変わってきている。

最近の雑誌には、「停滞する日本」ではなく、また「変調する日本」でもなく、「没落する日本」というタイトルで特集を組む経済誌も出てきた。

天変地異の多い日本。外国人が日本の家屋を形容する「木と紙でできた家」は災害が起きると壊れ、倒れ、流された。災害に弱い。

しかし、弱いからこそ立て直しが利いた。

不平を言わず黙々と建て直す日本人を世界は称賛するが、これはこれまで幾度と繰り返されてきたことであり、日本人として当たり前のことであった。

こうした中、20世紀に入り、日露戦争を勝利で終えた頃から日本は世界で輝き始め、先進国の良いところを取り入れた「アジア初の列強国」と称された。

戦後の高度成長を経て、当時学生だった昭和48年(1973年)に迎えたオイルショックの時も、政・労・使の協調により、オイルショックからどの国よりも早く脱却し、世界の称賛を浴びた。

世界の称賛はまだ続いた。バブル崩壊前の1980年代後半には円も強くなり、1989年には世界の時価総額ランキング10大企業のうち日本からはインフラ系公企業2社(通信、電力)、銀行が5行、景社がランクインしたときもあった。

その後バブルが崩壊し、30年デフレに突入する。

◆経済の好況・不況と制度構築

日本の経済が好調な時は新卒一括採用、終身雇用、年功序列、OJTがもてはやされ、その方向に諸制度が固められていく。

経済が一転し、バブル崩壊・デフレの時代を迎えると、「経済的弱者」である競争力を失った中小企業を守り、また不況産業の雇用を守るような政策が打たれる。

日本の家のように脆弱な建物ではなく、嵐が来ても大丈夫な堅固な石の建物が建てられた。

こうした建物が立つと嵐には強いが、世の中の変化や変化から取り残される。

◆ガラパゴス

タコつぼで居心地の良い日本。

タコつぼの中では環境の変化に敏感に対応する必要がない。

こうする間にITに弱いままの日本、女性が活躍できないままの日本、英語ができないままの日本、大学のランキングでも低位のままの日本になった。

IMD(国際経営研究所)が発表する世界の競争力ランキング。経済状況、政府の効率性、ビジネスの効率性、各種インフラ等300以上の指標を用いて評価する。

発表開始の1989年から92年まで1位であった。その後徐々に順位を落とし、2021年のランキングでは2021年版では調査対象64か国中、31位となっている。

日本については

・「ビジネスの効率性」や「研究開発力」の急低下が日本の弱点

・強みとされてきた研究開発力は経営層が急低下。潤沢な知識資本

 も活用力に課題とされている。

◆新たな風はどこから

韓国のプロゴルフ界はスポンサーが少なく、ゴルフ場も、プレーヤーも少ないいわゆる「マーケットが小さい国」だ。

このため、プロは最初から世界を目指し、韓国の女子プロは、世界で活躍している。

韓国の芸能界でもそうだ。BTSや女性のユニットも世界で活躍し、日本は水をあけられている感がある。

ちょっと待て。

日本の若者が頑張っている。

松山がマスターズに勝ち、ハワイアンオープンも制した。渋野日向子も全英で勝ち、今年も残念ながらプレーオフに辿り着けなかったが、いい戦いをした。フィギュアスケートの羽生弓弦、スピードスケートの高木美帆、スキー・ジャンプの小林陵侑と高梨沙羅。スケートボードの堀米雄斗。最近では全米女子アマで馬場咲希が全米女子アマを制した。

将棋では藤井聡太がいる。

日本の若者の中で生じている地殻変動が、教育の在り方をはじめ、各界の旧い制度や慣行を変えていくことにつながっていくことを期待したい。

(学23期kz)

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大隈重信公に思う

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【10月 トピックス】

薩長が重要ポストを占めた明治新政府。新政府の中では中枢にはいたがものの主流になれなかった肥前の大隈重信。

そうした立場で市民一人一人の私見、すなわち「輿論」に立脚した立憲政治を目指し、政府内の要職に就きながらも政府に対する批判精神を忘れなかったからこそ国民からの人気は高かったという。

大隈の功績は新橋-横浜間の鉄道敷設、新通貨「円」の導入と十進法の通貨単位制度、太陽暦の導入などだ。

昨年の大河ドラマ「青天を衝け」では大隈重信役を大倉孝二氏が好演していた。東京出身だが九州・佐賀弁も板についたもので、気分高揚したときに言葉に出る「・・・であ~る」もなかなかのもの。主役の渋沢栄一よりも大倉氏演じる大隈公を楽しみに観ていた。

◆国民葬

100年前に民衆政治家・大隈重信の国民葬がおこなわれている。国は主催せず葬儀の費用は国民が負担し、国は一部を負担する。明治の元勲として国葬ではなかった珍しい例だ。

葬儀は日比谷公園で行われたが数万の民衆が駆け付け、式が始まる10分前には警戒線を越えて雪崩れ込み、式が終わっても弔問者は途切れなかったという。

これに比べ直後に亡くなった山縣有朋は国葬であったが、参列者が少なかったという。

◆3つのクセ

  • 絶対に字を書かなかった

骨董屋が策を講じて孫に紙と鉛筆を持たせ字を書かせようとしたが、大隈は炉の灰に字を書きすぐに灰を掛けたという。

  • 外国に一度も行かなかった

その代わり外国の賓客を頻繁に自宅に招いたという。

  • 髭を生やさなかった

髭は人を威圧するという。そういえば西郷隆盛髭を生やしていなかった数少ない偉人だ。

大隈はお国料理の「がめ煮(筑前煮)」が好物だったという。

新橋の佐賀出身の女将さんがやっている「伊万里ちゃんぽん」があり、そこでは「がめ煮」が食べられる。

虎ノ門から新橋に向かう外堀通りの裏手にあるこじんまりした店だ。そこには大隈重信の大きな写真が飾ってあり、佐賀県人が良く集っており、いつも繁盛している。

私は筑前煮が好物。その店に何度か足を運んだことはあるが、「がめ煮」にありついたことはない。

最近は「がめ煮」の作り置きをしておらず、事前予約が必要だという。

これもコロナのせいかもしれない。

(学23期kz)

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伊藤博文公に思う

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【10月 トピックス】

伊藤は明治の三傑に入っていないが、初代内閣総理大臣を務めた。

何が評価されて、初代総理になれたのか。

◆語学力

英語だ。語学力だ。

22歳の時に長州ファイブの一人として渡英。ロンドン大学に留学するも、四国連合艦隊の長州攻撃計画を知り急遽帰国したため、滞在期間はわずか半年となった。

それでも英国滞在中、伊藤は評判を高める。社交的な性格の伊藤は他の日本人と異なり堂々と英語を話すため、外国人の間で評判になったからだ。

また、伊藤は新政府に招集されなかったが、「神戸事件」備中藩兵が外国人水兵を負傷させた新政府初の外交事件を双方に働きかけて決着させたことが評価され、それを契機に出世の道が開けた。

伊藤は英語もさることながら、吉田松陰から、「周旋屋」としての才能を評価されており、交渉能力に長けていた。

初代内閣総理大臣を選ぶ際、同郷の井上馨は「英語ができる者」が良いとし、しかも憲法策定や内閣制度創設に当たっては交渉が重要になるため交渉能力に秀でた者を登用すべきとしており、その意見を踏まえて伊藤が総理に抜擢されたという経緯がある。

昨今では、閣僚や重要な政府関係機関のトップを選ぶ際も、これまでの保守的な人事の慣例、前例踏襲から外れていても、「英語ができる者」、国際的な舞台で渡り合うことの重要度が高まっており、語学力を重視した抜擢人事がみられるようになった。

伊藤公 こぼれ話

伊藤公が「唯一の趣味」と公言した、扱いにくい趣味は横に置くとして、公は多忙であったが、乗馬が好きだったようだ。当時は登庁するときに用いるのが馬。

1866年(慶応2年)には外国人用の根岸競馬場ができていたが、1880年から日本人も洋式競馬に参加、伊藤公も競走馬を有していたという。

また、公は酒を大いに好んだらしい。しかし酒に飲まれることは一度もなかったという。

もう一つの趣味が刀剣である。

この趣味は、晩年にあたる明治40年以降に高じたという。

梅子夫人が刀を嫌うため、夜更けに煌々たる電燈の下に大太刀を払い、静かに焼き、その匂いを点検して、太刀造りの巧拙、切れ味をみて、太刀が作られた当時の存亡興廃の様子をふり返っていたという。

護身用として旅行にも2~3振を携えていたという話が残っている。

伊藤公はハルピンで安重根の凶弾に倒れることになるが、太刀は飛び道具の前に、その持てる力を発揮することもなく、明治42年(1909年)に国葬となった。

伊藤公の命日10月26日には、西大井(品川区)の墓所に公の出身地の神社から宮司を招き、防長倶楽部主催で墓前祭が行われている。今年は水曜日にあたる。

西大井は伊藤公が「故郷の束荷(つかり)に似ている」として、晩年に別邸を建てたところである。

束荷とは熊毛郡束荷村のことで、現在の光市にあたる。

(学23期kz)

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旧高商 3校顔合わせ会

明治期に官立のビジネスエリート養成機関として、東京、神戸に次いで設立された設立された山口高商、長崎高商、小樽高商。

10月中旬にこの3校が揃って顔を合わせ、意見交換を行った。

集ったのは鳳陽会、瓊林会(長崎大・経)、緑丘会(小樽商大)の同窓会幹事メンバー。

各組織の間で法人格の違いはあるものの、抱える問題意識や悩みは共通しており、同窓会運営の在り方、会の活性化、若手の取り込み、東京と地元との役割分担の在り方など、お互いの事例を紹介しながら意見を交わし、話は途切れることがなかった。

会場は池袋・サンシャイン6057階にある緑丘会の活動拠点となっている緑丘会館。

https://ryokkyu.or.jp/hall/

富士山も望める開放的なスペースで、同大ではOBの交流はもとより、新入社員歓迎会、社会人・学生とOBとの交流、若い社会人の研修にも使っているという。

これまではお互いの存在を意識しながらも交流はほとんどなく、遠い存在であった3校だが、お互い東京に拠点があったからこそ都心の一角で容易に集うことができた。これぞ東京集積のメリットだ。

今回の会合を契機に、今後とも交流を保ちながら意見を交わし、徐々に他校とも交流の輪を広げていこうということになった。

(鳳陽会東京支部事務局)

山口県内の蔵元の日本酒を応援したい

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

【10月トピックス】

10月1日は全国的に「日本酒の日」で、山口県萩市の八千代酒造の五代目杜氏の蒲 久美子さんが上京され、新宿地域を盛り上げたいと大江戸線牛込神楽坂駅近くの「Heads up tokyo!」でコラボ企画をされているということで、急遽、駆けつけました。

日頃は大の甘党で日本酒は年末年始以外あまり口にしませんが、料理に舌鼓を打ち、日本酒が進み、ほろ酔い加減で帰途に就きました。
(滞在時間1時間20分)

私の父は広島・西条の賀茂鶴や亀齢を愛飲していましたが、山口県内が蔵元の日本酒をこれからも応援したいです。
これまで、獺祭、若い時は岩国出身の友人がいて五橋を好んで飲みました。
プーチン大統領が絶賛し、有名になった萩の澄川酒造場の東洋美人も数年前に一度飲みました。💦
会員の皆様はどんな銘柄を好まれていますか?

写真4枚目は以前撮った獺祭の旭酒造の櫻井博志会長とのツーショットです。

(学22期 Y・Y)

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「準硬」式野球部の思い出

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【10月 トピックス】

(昭和50年代半ば頃のおはなし) 

中学では下校部、高校ではボート部と全く野球部の経験はなかったが、早弁後の昼休みにはいつも硬式テニスボールでクラスの野郎たちと草野球を楽しんでいた。

S53年に入学。大学では正式に部活動としてやってみたいと思ったが、硬式は敷居が高いと思い、比較的ラクそうな練習風景を見て、自ら申し出て準硬式野球部、いわゆる「準硬」に入部した。 

ところで、「準硬」とは? 

ボールに特徴があり、硬球の芯(糸巻コルク)を軟球のゴムで覆ったものを使用(いわゆるトップボール)。それ以外のバット、野球用具、ルール、グラウンドはすべて硬式と同じため「準」硬式野球というのである。 

ボールの重さは硬球と同じで顔面に当たれば陥没骨折をする(実際に1つ上の先輩が被災)。バットは金属バットを使用。きちんと当たれば“カキーン”という心地よい音が響き、変に当たれば“ボコッ”といい、ねずみ花火のように不規則な動きをし、野手泣かせの打球となるのである。

ちなみに、この準硬式野球部というのは基本的に大学野球にしかないのである。

 練習は「硬式」野球部と交互で吉田キャンパスの野球場を使用するので週2日はラグビー場の端っこで、バント練習、スライディング、ゴロのキャッチング等の基礎固めの練習を行う。野球場ではキャッチボール、トスバッティング練習、守備練習、たまに紅白戦と、日々、野球は楽しいなあと感じることができるような準硬生活を送った。 

公式試合は、春と秋の中国地区リーグ戦(岡山県真庭郡久世町の野球場)、夏の中国五大学等があるが、メインのリーグ戦は2部生活が長く、入部した年はなかなか勝利を手にすることができないようなレベルであった。

しかし、我々を含め1年先輩、1年後輩が多く入部し、和気あいあいの中、基本的な練習を積み重ねていく中で目に見えて強くなっていった。

2年時の秋に1部に昇格し、3年時の春の1部リーグ戦で優勝することができ、念願の第32回全日本大学準硬式野球大会に出場の切符を掴んだのであった。 (昭和55年8月5日~9日 香川県高松市にて開催)

あれから40年以上経過したが、当時のメンバーとは定期的に会って酒を酌み交わしている。上下の関係も和やかで、野球が楽しいと思える環境の中で全国大会の切符を掴めた「準硬」に入部して本当に良かったと思っている。

(学30期 yW)

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安芸毛利家のルーツ・厚木  

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【10月トピックス】

厚木で安芸毛利家のルーツを学ぶセミナーが開かれた。
厚木といえば連合国軍司令官マッカーサーが降り立ったところとして有名である。
しかし厚木が安芸毛利家のルーツであることを知る市民は一割程度しかいないそうだ。

セミナーの狙いとしては、安芸毛利家の祖となった鎌倉殿の側近・大江広元に注目することで、厚木の町おこしを考えたようだ。
大江広元は、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の中で現在活躍中で、セミナーを開催する良いタイミングと考えたのだろう。

毛利元就の三本の矢の話は15世紀の話だが、セミナーでの話は元就から200年以上前に遡り、12~13世紀頃の話だ。

説明者の学芸員の方は平治物語、吾妻鏡などの史料を根拠に毛利のルーツに迫っていく。

大江広元は京下りの官人であり、鎌倉の御家人である。鎌倉殿にもっぱら文官として仕えることで、見返りの御恩として8か所の地頭を務めるに至り、その一つとして相模国のほぼ中央にあたる「毛利の庄」を拝領した。

大江広元は77歳で病で没するが、その際、毛利の庄は広元の四男・季光(すえみつ)が受け継ぐ。

さらにその後は季光の四男・経光(つねみつ)の一族が受けつぎ、安芸毛利家と越後毛利家になり、時が下る。

◆山口とのつながり

司会を務めた藤井氏は厚木在住で山口出身。山口七夕会のメンバーであり、山口ファンクラブのメンバーでもある。また会場にはセミナーの支援者として、厚木市山口県人会会長もお見えになっていたほか、このセミナーを紹介して頂いた鳳陽会東京支部のY・Y先輩も同席された。

セミナー主催者側では、この先、防府の毛利博物館所蔵の歴史的文化財や史料を借り受け、厚木の地で毛利コレクションを展示したいとのことであった。

会は盛況で、当初30名の予定が50名に定員を増やしたが、席はすべて埋まったようだ。

こうしたルーツを辿る催しが地域と地域の市民をつなぎ、両者の交流を深める良い契機となればおもしろい。

 (学23期kz)

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使徒サビエル②

Francisco de Xavier

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【10月 トピックス】

◆山口での布教

サビエルは日本に滞在したのは2年半。その間3たび山口に入っている。

山口を拠点に隆盛を誇っていた大名で、文化に理解のある大内義隆公に謁見するもすぐには許しが出なかったからだ。

義隆からの布教の許可が出たのは1551年(天文20年)4月。三度目の山口訪問の際であった。

義隆公に望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差しなど献上品を持参して謁見、またこの時「眼鏡」も献上しており、これが日本に初めてもたらされた眼鏡とされる。

山口はサビエルに「日本におけるカトリック教の拠点となるにふさわしい町」と映ったようで、山口をとても気に入ったようだ。

実際山口での布教活動は順調に行ったようで、記録には半年間で500人以上の信者を得たとされる。

◆豊後(大分)へ渡る

サビエルはパトロンのポルトガル国王から東洋との貿易促進の命をも受けていた。

大内義隆公のポルトガル貿易への関心について、サビエルは「大内文化は爛熟し繁栄したが進取の気が漲ってはいなかった」としている。

大内氏は対明貿易における独占的な地位をようやく手に入れた直後であり、鉄砲という武器を含むポルトガルとのいわゆる「新規」貿易には興味を示さず、サビエルには大内氏が保守的と映ったようだ。

その点豊後(大分)の大友宗麟公は違っていた。

 

◆サビエル、大友氏のもとへ

宗麟公はそのとき、肥後や筑後を平定し、本州への進出の野望を持っていた。それには鉄砲が要る。またそのためにはポルトガルとの交易を、さらにそのためには宣教師との交流を、とサビエルに近づく。

サビエルは1551年8月に大友宗麟公から招聘を受け、山口での布教をトーレス神父、フェルナンデス修道士に任せ、豊後に渡る。この時は陶晴賢(すえはるかた)が大内義隆を討つ1週間前に当たり、サビエルは山口で起きた家臣の謀反を知ることがなかった。

その後、サビエルは日本全土での布教のためには日本が手本としている中国での宣教が必要であるとし、豊後を出てアジアの拠点であるインドのゴア経由で中国に渡る。しかし1年後の1552年12月3日に広東州沖合の上川島(じょうせんとう)で病没した。46歳であった。

その年の暮れに、山口では日本初のクリスマスが行われたが、これはサビエルが去った後の残されたトーレス神父とフェルナンデスによってとり行われたもので、明かりの飾りつけや菓子の振る舞いなどはなく、神「デウス」を賛美し、夜を徹して語り明かす質素なミサであったとされる。

 ◆銘菓サビエル

現在では「ザビエル」の呼び方が一般的となっているが、スペイン語の表記はXavierで、当時スペインの地元の発音は「シャビエル」に近いとされ、山口では「サビエル記念聖堂」と呼ばれており、濁音にはなっていない。小野田にあるミッション系の私立高校の名称も「サビエル高校」となっている。もちろん、山口土産の菓子も「サビエル塔」と濁らない。

一方、大友宗麟がいた大分にもサビエルの名を冠した土産がある。洋菓子の名は「ざびえる」。製造元は「ざびえる本舗」となっている。

私事になるが、地元・熊本でも老舗の和菓子専門店が「ザビエルの誉」という洋菓子を古くから販売している。バターの風味が香る上品な味で値段も他の土産菓子よりワンランク高く、高級菓子として地元でも有名だ。帰省した折には土産として「ザビエルの誉」を奮発し、旅行バックに詰めて帰京したことが何度かあった。

(学23期kz)

 サビエル塔(山口)

  ザビエルの誉(熊本)

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アネクドート

アネクドート、それはロシア語で政治的小話という意味で、長い寒い冬にはロシア人が暖炉を囲み、好むようだ。

ゴルバチョフ氏が先日他界した。ペレストロイカを旗揚げした頃、私はモスクワに頻繁に通わねばならなかった。その頃、現地で聞いたアネクドート:

米国のレーガン大統領の側近には100人のSPがいるが、その内のひとりは、KGBからの回し者と言われている。しかしそれが誰なのか、レーガンは知らない。

フランスのミッテラン大統領は愛人が100人いると言われている。その内のひとりはエイズに感染しているが、ミッテランはそれが誰だか知らない。

ゴルバチョフは100人の経済学者を持っていると言われている。その内のひとりだけがペレストライカを実際に進めることができると言われているが、ゴルバチョフはそれが誰だか知らない。

読売新聞によると、このアネクドートはゴルバチョフ氏本人が言ったものと記載していたが、それが事実だと面白いが、正誤は不明。

学23期  倉田一平(ペンネーム)