通常総会(宇部)に参加して

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年6月トピックス】

6月17日(土)に宇部で全国総会が開催された。

松野元理事長を始めとする逝去された諸先輩方への黙祷で始まり、松永理事長からは各支部で続々と総会が開催されているとの報告があった。

各支部とも4年ぶりにようやく通常の形で総会が開催され、賑やかな懇親の場が戻ってきており、特に最北の北海道支部でも総会が再開されたことが紹介された。北海道支部は会員が13人。会員の柱は旧北海道拓殖銀行とのことだ。最北の北海道の地でも総会が開かれたことは喜ばしい。支部長は木村氏。私と同期だ。

また、総会では有村経済学部長から最近の経済学部の子学生たちの様子が紹介された。

  • ラサール出身の山根教授のご活躍もあり、山大全学の中で経済学部の英語のコミュニケーション能力が他学部よりも上がっていること、
  • 経営学科の職業会計人コースも好調で毎年現役の公認会計士の合格者を出しており、今般海外の留学生の中から現役合格者が出たこと、
  • 歴史のある経済系の学生を対象とした学術大会である全国ゼミナール大会で山口大学のゼミ生が最優秀賞をとったこと。すなわち2022年度の証券ゼミナール大会では兵藤ゼミ(金融経済)の学生が最優秀賞を取り、経済ゼミナール大会では、川村ゼミ(労働経済)の2チームが同時優勝を果たしたようだ(山大経済学部ホームページ参照)。実に誇らしい。

総会の後は懇親会。参加者は総勢130名ほど。

会場に入る際に華やかなバイオリン演奏で迎えられた。バイオリン奏者は宇部を中心に活躍されているプロのバイオリン奏者で、常盤会(工学部同窓会)のメンバーの奥様との自己紹介があった。

来賓は谷澤学長始め理学部、医学部、工学部、農学部の同窓会代表のほか、白石元山口市長(山大院卒)もお見えになっていた。

来賓を代表した谷澤学長の挨拶で、全学同窓会での中枢組織である鳳陽会へ、従前同様、大学への支援・協力要請があった後、乾杯へ。

各テーブルのメンバー同士、テーブルを越えた懐かしの同僚、先輩との名刺交換が行われ、酒を注ぎ交わして賑やかな時間を迎える。

会の途中では留学生を含む学生諸君約20名が壇上に上がり、ひとりずつ自己紹介とショートスピーチをして頂いた。カタコトの日本語あり、英語あり、ほほえましいひとときであった。

最後に次回総会会場となる広島の山下支部長から次回広島総会へ向けたご挨拶があった。

会の終わりに山大学生歌、山都逍遙歌を合唱。

学生時代はあまり学校にあまり顔を出さなかったが、歌を歌い始めると結構歌える。ということは、学生時代、結構な回数みんなと歌を合唱していたのかもしれない。

乾杯には地元小野田・永山酒造の山猿だったが、もちろん「長州学舎」も用意されていた。

(学23期kz)

松永理事長と総会の模様
華やかなバイオリン演奏
床本宇部・山陽小野田支部長
谷澤学長・来賓挨拶
留学生を含めた学生諸君
山下広島支部長

校歌、逍遥歌の合唱

偶然の一致(2)長門峡の人

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年6月トピックス】

今から54年前に遡りますが、広島の高校を卒業して進学の為、隣の山口県で学生生活を送ることになりました。入学してからというもの講義にも出て、当初は規則正しい比較的まじめな学生生活を送っていました。

9ヶ月経った頃、亀山にあった山口県立山口図書館に通い、安部公房とか、大江健三郎とか、高橋和巳の本を読んだりすることもありました。
私は当時19歳でしたが、同じ図書館に通う健康的で溌剌としたちょっとした美人がいて、目に留まったのであった。

私は目と目が合ったその日に、思い切って彼女が図書館を出て家路につくところを追いかけて声を掛けることにした。
彼女は山間部に長門峡という山口県の峡谷のある有名な景勝地がありますが、そこから通う山口市内の女子高の生徒であった。
微笑が素敵な女性であった。
その後、山口市内を男性教師のような方と歩いているのを見掛けたことはありますが、私は彼女の実家宛に手紙を書いた記憶があります。
姓は聞いていましたが、名前や実家の住所も知らないのにどうして手紙が出せたのか遠い昔のことで思い出せません。

友達として付き合ってくださいという趣旨の手紙であったと記憶するが、暫くして彼女から返事が来た。
高校を卒業したので、大阪の看護学校に入り戴帽式の日を夢見てナースになるので、友達は近くにいる人を希望しますとの内容であった。
確か大阪府豊中市の看護寮からの手紙でした。
これ以上は青春の淡い思い出とせざるを得なかった。💧

それから、23年余りが経ち、私は就職して地元の広島で2度目の勤務をしていましたが、42歳の時に鍋物料理の店で偶々隣の席ということで知り合ったスナックのママが市内の流川という歓楽街で店をやっているというので、ある日、その店に一人で飲みに行くことになった。

初めて入ったスナックの座ったカウンター席の隣に、その店の常連らしき男性が一人で座っていて偶然話すことになった。
何でも山口県の長門峡出身というので、23年前に図書館で知り合った昔の女性の名前を言ったら、「その人は私の小、中学校の同級生で、クラスメイトだった人でよく知っていますよ。」とのことで、私は「ええっ!!」と絶句した。
偶然とはいえ、隣の県なのに、初めて入った店で彼女のクラスメイトの男性に会おうとは本当に驚いた。
偶然の一致とはいえ本当に恐い。

追記)
長門峡には大学生になって入って暫く在籍した文化会サークルで某女子短との新入生歓迎合ハイで一度行ったことがありますが、素晴らしい自然に甚だしく感動しました。
長門峡にもう一度行ってみたいです。
(学22期 Y・Y)

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寮の友、下宿の仲間② 吉田寮

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

【トピックス】

◆寮の友人

入学当初、朝から晩まで、「女人禁制」の時間を共に過ごした。

最低限の学業をこなしながら酒に、麻雀に、ギターに熱中した。

消灯時間もなく、門限もない。

深夜まで、時によっては卓を囲んで早朝まで仲間と過ごす。

吉田寮は二人部屋だ。

よくしたもので、部屋の住人の組み合わせは原則、文系と理系の組み合わせになっていた。

ここで他学部の同級生や先輩たちとの出会いがあった。この時の出会いで生涯の付き合いとなった者もいる。

寮生活は入学当初、知り合いを増やす絶好の機会をもたらしてくれるありがたい場であった。

ただ二人相部屋の寮では生活には独りになれないという欠点があったが、私は先輩や仲間を早く知り合いたいという気持ちが先に立ち、寮生活を続けた。

A君との出会い

私に割り当てられた寮の部屋のはす向かいに、理学部化学科、福岡出身のA君がいた。

酒に、麻雀に、ギター。話も上手いし、各種の口上もプロ級だった。本棚にはA・ビアスの「悪魔の辞典」があったが、ありきたりの退廃的な逆説ではなく、意気を高揚させるポジティブな逆説をこよなく愛し、またスパイスの効いた冗談も冴えていた。そのA君とはアルバイトも一緒のことが多かったし、一緒にバンドを組んで、ロックミュージシャン気取りを楽しんだ。

A君は見るからに頑健で、高校時代はラグビーをやっていたという。

彼は心身ともに逞しい。当時、A君のことを「原爆が落ちても生き残る」と確信していたほどだ。

身体もさることながら指も大ぶりの芋虫のように野太いが、その指でクラシックギターを弾き、センチメンタルな旋律を弦で奏でる繊細さも持ち合わせている。

彼は吉田寮を1年で退寮し、下宿暮らしに変るが、健康食材にこだわりがあった。飯を炊くにも、米ではなく、圧力釜で玄米を焚くことを厭わなかった。

学年が上がると学業が忙しくなる。白衣姿で実験漬けの毎日で、学生に極めて厳しかった化学のN教授の下でかなり苦労したようだが、無事卒業を果たした。

器用なもので、学業の合間に山大七夕祭を立ち上げ、初代実行委員長になっている。

◆ベストセラーを出したA君

彼は卒業後、総合商社勤務を振り出しに、食品を中心として色々な業界に身を置いたようで、行く先々で活躍した。テレビにも何度か登場したが、その際には事前に連絡をよこしてくれた。

次の職が決まる間の浪人時代には特許をとることに没頭し、5つほど特許を持っている。文系にはいないタイプだ。

しかし、色々な職の遍歴を持つ彼は、健康と食品が交差するジャンルに落ち着き、そこで頭角を現わす。添加物食品のジャンルだ。

そのジャンルに切り込み、彼の天職となった。

築紫哲也と出会い、彼から可愛がられる一方、東洋経済から添加物に警告を発する本を出し、初版で65万部を売った。この本は当たり、3作目、4作目とシリーズものを出している。今では食品関係の協会を立ち上げ、代表理事をしている。

マンガ・美味しんぼにも彼の顔と名前が何度か登場しており、5年ほど前には山手線の2両が彼の本の広告で埋まったことがあった。

また去年の秋、山大ホームカミングデーに登壇している。

今年刊行した和食復活の食育本でA君の名を冠した「●●ごはん」なる著書を刊行したが、学生の食生活を案じるO学長の推薦で山大の指定図書に採用され、山大売店でも販売されているという。

彼は今でも講演活動で全国を飛び回っており、今でも月に2~3は上京する。その折には、楽器を弾ける新橋のライブハウスに行き、昔のレパートリーだった洋もの楽曲をハモり、シャウトして遊んでいる。

そこではA君の僕(しもべ)であるはずの芋虫君は、いつものように別の生き物のように、しなやかに、そしてリズミカルに弦を這い、時には妖しくうねって旋律を奏でる。

その様は半世紀を経た今でも健在だ。

(学23期kz)

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「生きる」

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年6月トピックス】

昭和の角聖・大横綱双葉山のお孫さんで女優の穐吉次代さんにご案内いただき、劇団ZANGE墨田公演の「生きる」の鑑賞に墨田区曳舟文化センターまで夕方から行ってきました。(2017年4月5日)

原案:ブッチー武者
脚本・演出:山口弘和
書:浜田光夫

実際にあった京都伏見介護殺人事件を題材にしたもので、亡き母の介護を、会社を早期退職して6年間面倒を見た者として身に詰まされる舞台でした。
私の母は、最後は要介護4で認知症は進み、息子である私のことをお兄さんと呼んだり、自分の干支すら言えない状態で、mixiに当時、介護雑感と題して綴ったものです。


舞台は「母の命を奪ったが もう一度 母の子に生まれたい…」という言葉が胸を撃ちました。
往年の大スター浜田光夫さんが特別出演されていて、最後の場面で裁判長役で登場されていて舞台が締まりました。(映画は「青い山脈」、「潮騒」を観ました。)
終演後、穐吉次代さんと主役のブッチー武者さんにご挨拶。
北の湖部屋後援会の千秋楽打ち上げでよくお見かけした浜田光夫さんにご挨拶出来なかったのは残念でしたが、なかなか見応えのある2時間10分でした。
穐吉次代さん、大変お世話になりありがとうございました。

「生きる」の舞台公演は直近では上尾市市制65周年記念公演が上尾市文化センターで2023年9月3日(日)に決まっています。
(添付写真をご参照下さい)
(学22期 Y・Y)

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明治初めの廃仏毀釈に関するエピソード

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年6月トピックス】

こんにちは、22期の「じゃない方のY.Y」です。鳳陽会のホームページの廃仏毀釈に関する投稿を興味深く拝見しましたが、私の住む横浜市都筑区にも廃仏毀釈に関する興味深いエピソードがありますのでご紹介します。

都筑区の北東の東山田町の中原街道沿いに鎌田堂と呼ばれる小さな祠がありますが、そこの裏山は源義朝の側近であった鎌田正清(政家とも)の館跡との伝承があります。義朝と正清は平治の乱で敗れて落ち延びる途中で立ち寄った知多半島の正清の舅の家で裏切りに合い惨殺されています。

そんな正清の伝承が何故ここにあるかと言えば、昭和51年(1976)に鎌田堂から1キロの川崎市久末にある妙法寺というお寺の古井戸の工事中に底に捨てられていた大きな板碑が発見されたからです。

江戸時代後期の地誌「新編武蔵風土記稿」の山田村の項に、鎌田堂に程近い三宝寺の寺伝として建長7年(1255)に家臣によって正清の百回忌法要が行われて石碑が造立されたと記されており、長い間行方不明になっていたその板碑だったからです。

三宝寺は廃仏毀釈の流れを受けて、明治8年(1876)に廃寺になっており同時に板碑も行方不明になっていましたが、100年後に突如出現したわけです。(板碑のレプリカは川崎市が保有、公開)

廃仏毀釈の嵐はまことにすさまじく、薩長明治の始まりと共に古き良き江戸の文化も暴力的に破壊されてしまいましたが、日本を訪れた外国人がその真価を認めたのは歴史の皮肉と言わざるを得ません。

なお、源頼朝が鎌倉幕府を樹立した後、鎌倉の勝長寿院で父義朝と正清の法要を行いました。その寿院跡(鎌倉市雪ノ下)に義朝と正清の墓がひっそりと佇んでいますので写真を添付します。

現代に生きる我々は、石牟礼道子を長く支えて今年亡くなった渡辺京二氏や民俗学の巨頭宮本常一氏の著書の中でしか、なつかしい日本人に会えなくなってしまいました。 (22期 Y.Y)

介護雑感(歯科の女医編)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年6月トピックス】

母の足腰が弱り、検査入院で病院に入院していた頃のことです。
介護施設に入居する1年と少し前のことであった。
母は病院に入院したものの、以前から入れ歯を失くしていて、担当医の勧めもあり、入れ歯を作製することになった。
病院と提携している歯科医院があって、送迎診療サービスもしてくれるという。
車椅子に乗ったまま、リフトが付いていて車に乗せ移動できるのである。
私は運転出来ないので有難い話である。

M歯科医院は病院から送迎車で25分位のところにあった。
到着すると、近代的設備を誇るモダンな建物で、診察台も10台位あり、歯科医師もその位いる歯科医院で、土曜日だというのに患者も多く大繁盛している。
小型の送迎車も7台位あるようで、スタッフも充実していてそれを売りにしているようであった。
担当の女医も、若くて感じが良くて、入れ歯作製に5回位通ってくださいとのことで、健康保険証がなかったが、月末までに持参してくださいとのことであった。
そのため、預かり金として4万円だったと記憶するが預けた。

次の土曜日、2回目の診察日であった。
予定の時間になっても、送迎車が来ない。
歯科医院に問い合わせると、何か行き違いがあり、予定の時間を40分位遅れて送迎車は来た。
その間、母は寒空のもと待つことに。
到着すると、担当の女医は、行き違いがあったようでと詫びた。
健康保険証がないので、診察券が発行出来なくて、車の送迎に手配漏れがあったらしい。
私は仕方がないとあまり気にかけなかった。
ミスは誰にもあるものである。
ただ、受付には次回からは、きちんと送迎をして下さいと念を押して帰った。

次の土曜日、3回目の診察日。
予定の時間前から送迎車を待ったが、定刻になっても来る気配はない。
少し待って連絡を取るとそれから、50分位遅れて送迎車は来た。
私は運転手の人に2回続けての手配漏れ、一体全体どうなっているのかと問いただした。
どうも、診察券が発行されていないことが原因のようだと運転手はいう。
私の怒りに圧倒されたのか、運転手は到着したら医院長から説明させますという話になった。
到着すると医院長は不在ということで、担当の女医から説明というとになった。
診察台に母を連れていって話を聞いた。
その女医曰く、「診察券がないので、送迎車の手配が出来ませんでした。」私、「それは前回そういう説明を聞き済んでいて、次回から手配漏れがないようにお願いした筈です。事実だけいわれても困る。」と。
担当の女医からはお侘びの一言もない。
「手配漏れを診察券が発行出来ないことを理由にされても困る!!それとこれとは違う!!」
私の激怒した大きな声がフロア中に木霊した。
「コンピュータと連動しているというが、コンピュータというシステムが出来ないことを人間が補うのではないのか!! その為に人間がいるのではないのか!!」
一斉に医師や診察台の患者の視線を感じた。
女医は母を診察しようとしたので、私は遮って母に「帰ろう。」と促した。
女医は、「診察を受けられないのですか?!」
私、「そうです。」
女医、「今後、受診される気があるのなら、連絡を下さい。」と言った。

私は、1時間半かけて車椅子を押して帰ろうとしたが、途中、道に迷い、雨も降ってきたので、タクシーを拾って帰った。
私は、病院に帰って母に詫びた。
母は理解したのかどうかわからないが、何も言わなかった。
その後、その医院からは何の連絡もなかった。
預けたお金もそのままで、年度末にどういう経理処理をされたのかわからない。
私は寒空に母を待たせたM歯科医院が許せなかったのである。
人には、損得勘定だけではなく、許せないことがある。
今も、近代的設備を誇るM歯科医院は大繁盛しているのであろう。
私の抵抗など何もなかったかのように。
(学22期 Y・Y)

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廃仏毀釈と古美術品 その3

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年6月トピックス】

◆外国人に買われた美術品

お雇い外国人や外国の美術商に買われた美術品はコレクションになって残るものがある。

1876(明治9年)にフランス政府の「極東宗教学術調査使節」として日本、中国、インドを回る旅に出て、日本に2か月滞在したフランス人のエミール・ギメ。

彼の滞日当時はちょうど廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた直後にあたり、また日本では外国との交流が増え外国の技術や文化に注目が集まっていた時代に当たる。

ギメは次のように述べている。

「日本は自国の風俗に対し、あまり自信を持っていない。日本人の力となり幸せの源となった多くの風俗、制度や考え方をあまりにも性急に一掃しようとしている。だが、もしかしたら日本が自分たちを見直す時がいつの日か訪れるのではないだろうか。私は日本のためにそれを願っている」

ギメは、当時のフランス社会の問題はキリスト教では救えないのではないかとの思いから、キリスト教に代わる思想・宗教による救いを模索するため母国フランスを出て日本を訪れたが、彼がもともと美術にも造詣が深かったことが幸いした。

彼は滞日時、多くの著名な僧侶と宗教上の問答をしている。宗教上の疑問を抱いて問答したが、応対してくれた僧侶からは必ずしも納得のいく回答は得られなかったようだが、僧侶に接したことで美術品を手にする機会が多かったのだろう。

彼の目には千年の間、日本人に崇められ、信仰の対象となり、親しまれた仏像や仏具、絵巻などが、日本人自らの手で破壊される姿はどのように映ったか。

彼は直感的に、緊急避難的に日本人の信仰のシンボルとしての古美術品を買い求め、海外に逃がすことによって廃棄、焼却されることを防ぎ、散逸から守ろうとしたのだ。

かつて、これらの古美術品は外国人によって「買いたたかれた」との記述を見かけたこともあったが、そうした表現を使えばバチが当たるかもしれない。また、彼らが母国で日本の古美術コレクションを紹介することで、東洋の一国である日本の精神性、技巧、芸術に触れ、一人でも日本びいきが増えるきっかけになったのであれば、なおのことありがたく感謝すべきことではないか。

(学23期kz)

エミール・ギメ

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

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令和5年度鳳陽会東京支部総会・懇親会 報告

 令和5年6月3日(土)令和5年度鳳陽会東京支部総会・懇親会がアルカディア市ヶ谷にて正午より開催されました。前日まで台風2号と梅雨前線の影響にて各地強い風と大雨という大荒れの状況でしたが、開催当日は雨も収まり改善に向い無事に開催することが出来ました。
 コロナも収まりつつありますが、万全とは言えない中、大学4期から大学71期まで70名と幅広い世代の参加で大変盛り上がりました。
 総会は、本年5月25日になくなられた松野浩二(学1)元鳳陽会理事長を始めここ1年のご逝去者を忍び黙祷から始まりました。
 続いて葛見雅之(学23)事務局長の司会、塩塚保(学22)支部長の議長により、財務諸表・翌年度予算・支部役員案等が審議されいずれも満場一致の拍手にて承認されました。
 今回永年監事を務められた大草豊(学8)氏が退任されることとなりました。長い間ありがとうございました。後任には髙木寛(学19)氏が就任しました。
 いよいよ懇親会の始まりです。松永昭博(学21)理事長の乾杯の音頭によりスタ-ト、皆さん弁当を味わい,ビ-ルを飲み会話が弾んで会員の交流がはじまっていき、暫く会員相互の懇親が続きます。
 続いて大学50期以降の参加者紹介、葛見事務局長の瑞宝小綬章受賞報告と続いていきます。

 ここで、ジャンケン大会。事務局が準備した,獺祭・東洋美人等の山口の銘酒、山口の銘菓の争奪戦。
 11のテ-ブル毎に勝者を決め、その勝者が塩塚支部長との勝負で順位を決め、各々景品を選んでいきます。これで終わりかと思うと敗者復活戦。松永理事長寄贈の新潟の銘酒鶴齢の争奪戦。同じくジャンケン大会が進んでいき約20名の方が景品にありつきました。
 いよいよオオトリは木村進(学11)氏の出番、木村氏の檄に続き鳳陽寮歌を5年ぶりに皆で熱唱、続いて山都逍遙歌をテ-ブル毎に肩を組み熱唱、その輪は徐々に広がっていきました。
 最後は、鳳陽寮歌・山都逍遙歌がBGMで流れる中散会となりました。外は晴れ間が見える程天候は改善していました。
 我々は2次会へ、皆様は?

 来年も6月第一土曜日東京支部総会・懇親会をアルカディア市ヶ谷にて開催いたします。皆様の参加をお待ちしています。

 令和5年度東京支部総会・懇親会出席者集合写真
総会進行役 葛見雅之(学23)事務局長 (写真左)
支部総会議長を務める塩塚保(学22)支部長
大草豊(学8)監事 最後の監査報告。大草氏は本年度で退任。永い間ありがとうございました。
松永昭博(学21)懇親会スタ-トの挨拶、乾杯の音頭

,懇親会風景
飯泉天志(学50)氏 若手としての挨拶・自己紹介。
黒川詩歩子(学66)氏挨拶。卒業以来、毎年支部総会に参加です。
仁井山竜(学67)氏挨拶。大学ではアメリカンフットボールをやっていたそうです。
井藤陸(学70)氏挨拶・自己紹介。
海本滉一(学71)氏、本年度卒業生。挨拶・自己紹介。本部HPからリンク画面支部HPにたどり着き支部総会、懇親会の開催を知ったそうです。
葛見雅之(学23)氏 叙勲 「瑞宝小綬章」受章挨拶。おめでとうございます。
ジャンケン大会。 テ-ブル毎の一次予選。

ジャンケン大会勝者決定戦。

ジャンケン大会勝者景品受領。 プレゼンタ-は黒川詩歩子(学66)氏。
ジャンケン大会 松永昭博(学21)理事長寄贈 新潟銘酒鶴齢を競う敗者復活戦。

ジャンケン大会 プレゼンタ-・黒川さんへのお礼授与。
特別参加 人文学部(H12卒)坂本良太氏。 葛見事務局長呼びかけによる東京地区、経済学部、医学部、工学部、人文学部、教育学部幹事会開催の賜です。
元東京支部長 上田精一(学19)氏挨拶
最後はこの人。 木村進(学11)氏よる檄!!!
参加者 鳳陽寮歌熱唱風景
塩塚支部長他2次会風景1。
2次会風景2。
2次会風景3
2次会風景4




 



お見合い雑感(5歳以上年下希望の困ったお姉様編)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年6月トピックス】

2012年の確か2月半ばから後半のことでした。
既に体調が悪く、動くのも苦しい状態でした。
後輩のM君から電話があり、会ってほしいという。
最寄り駅近くのバーガーキングで会うと、Facebookで知り合った女性がいて、結婚相手を探しているという。
彼はその女性にも一度しか会ったことがないという。
私は当時mixi派でFacebookなど全く興味もなく関係ない。
どうして会ったこともない私がそんな女性に結婚相手を紹介しないといけないんだ。
そんなことをしていたらきりがありません。

ということでしたが、その後、なぜか渋谷にできた話題のビル、ヒカリエのレストランで三人で会うことに。
その女性は45歳で某中堅製薬会社の社長秘書をやっているという。
その前も旅行会社に勤務したりして様々なキャリアを積んでいるという。
弟さんが病気となり、自分が家を継ぐことになり、後継ぎの子供もほしくなったという。
私が60歳の友人の話や40代後半のバツイチの人の話をしたが、60歳では子供が成人する頃には自分は65歳で男性はお爺ちゃんの80歳ではないかという。
バツイチは気にはしないが、離婚理由がわからないと嫌だという。
離婚理由までは私は聞けない。
確かにおしゃれで自信家ではあったが・・・

それでは一体全体どんな人がいいのかと聞くと、5歳以上の年下がいいという。
元気な子供を生むためには医学的に男性も若い方がいいという。
子供を諦めた男性なら兎も角、40歳の男性が、年齢的に子供を産むには微妙な40代半ばの女性を好むだろうか。
その上、スポーツマンタイプで性格は快活で家でいろんな人を招いてホームパーティをしたいので、社交的な人がいいという。
そんな男性など砂漠でダイヤモンドを見つけるようなものだと内心呆れた。
こういう人は、一度結婚相談所に登録して、自分の客観的評価を知ればいい。
結婚相談所への登録は何となく惨めで嫌だという。

帰りにM君と渋谷のマックに行き、やけ気味に私はマックシェイクを立て続けに二杯飲んで家路に着いた。
このことも随分とストレスを溜めることになったようである。
お見合い当時、マンション管理人をしていましたが、その後、身体が重く、昼休みは管理人室のカーテンをして、床に寝る状態に。
歩いて20分程度の自宅からマンション迄の距離も歩けなくなり、タクシーを拾って乗るのもやっということに。
還暦過ぎて、人生初の入院が実質9ヶ月に及ぶ入院になろうとは…。
(続く)
(学22期Y・Y)

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廃仏毀釈と古美術品 その2

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年6月トピックス】

◆燃え広がった廃仏毀釈運動

明治新政府によって出された1868年(明治元年)の神仏分離令はあくまでも神仏習合の禁止、神社の仏教色の排除であった。

しかし、これが古美術品の海外に流出につながる寺社の取り壊しや仏像・仏具の廃棄という形で全国に広がっていったのは一体なぜなのか。

この背景には、平田篤胤の復古神道の社会への浸透といった要因が背景としてはあったが、それだけでは「暴力的な廃仏毀釈運動」という熱の謎が解けない。

その熱とは何か。

怒りだ。

先ず神道の神職の怒り。

江戸時代を通じて幕府の厚い庇護があった仏教界に身を預ける僧侶に比べ身分的にも経済的にも格下であった神職。彼らの不満が積み上がっていたことによる

次に民衆の怒りだ。

特権階級として優遇される仏教の僧侶。彼らに油断があり、幕府からの手厚い庇護に安住し、修行を怠り奢侈に走る「堕落僧侶」が増えたとされる。こうしたことに庶民は常々反感を持っており、感情を暴発させる契機を待っていたのだ。

このため廃仏毀釈運動は全国的に燃え広がっていき、寺の数は約半分になったともいわれる。

◆寺が壊滅

廃仏毀釈運動がピークを迎えるのが1870年(明治3年)とされる。

廃仏毀釈運動は全国的な広がりを見せたが、地域によって自ずと違いは出る。新政府の屋台骨となった薩・長の間でもそうであった。

すなわち長州は仏教派であり、山口において寺の取り壊しはさほどでもなかったようだが、神道派の薩摩では徹底的に寺が破壊されている。薩摩藩では1066の寺院が壊滅し何とゼロになったというではないか。もちろんこの中には歴代藩主の菩提寺も含まれているが、そこも含め廃寺になっている。

また土佐でも615あった寺のうち7割に当たる439が廃寺になったようだ。

◆残った興福寺の五重塔

古都奈良の興福寺・五重の塔に逸話が残る。釈迦の舎利を納める墓標である五重塔。当時の仏教寺院おける権威の象徴とされていたが、廃仏毀釈により、競売にかけられ25円で落札されたという。

25円とはいかほどか。この当時(明治8年ごろ)巡査の初任給が4円だったという。現在の巡査の初任給を調べてみると、高卒で22万円、大卒で26万円であるから、現在では130~150万円相当となる。

当時の落札者は五重塔の建物自体に関心はなく、塔に収められた金物・金具が欲しかったようで、このため手っ取り早く五重塔を焼却して金具を取り出そうとしたが、類焼を懼れた近隣住民から反対運動起きたため焼却を断念、このため五重の塔は今でもその姿を留めることになったという。

2001年にタリバンがバーミヤンの遺跡を破壊したことが、大きなニュースになったが、同じことが150年前の日本で行われていたのだ。

・・・つづく

(学23期kz)

2022/11/5  筆者撮影

鳳陽会東京支部

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