育て、目利き人①

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

【2023年1月トピックス】

目利きが重要であることはいうまでもない。

その道のプロであっても申し分なく目を利かせることは難しい。官民を問わず、計画の策定、プロジェクトの企画遂行はもちろんのこと、人材の採用と選抜にも目利きが命となる。

その眼力によってプロジェクトの成否が左右され、このためプロジェクトに従事する人の人生にも大きな影響を及ぼす。

目利きができる人材の発見と活用、さらには目利きができる人材の育成、これ無くしては日本経済の再生は危ぶまれる。

◆目利人の育成

ではどのようにして目が利く人材を育成していくのか。

これは官民を問わずどこの業界にも共通する難問で、これができれば話は簡単だ。

この目利きは、特にリーダーの資質として致命的に重要だ。

人はそれぞれ独自の直観力や天賦の資質、独特の個性を持っている。

その発見と活用も重要なことだが、それだけでは足りない。

経験の積み重ねが要る。その経験についても、特定の分野だけで経験を積めば怖いものなしかと言えばそうではない。

周辺分野や全く異なる業界、違う世界を知らなければ、自分たちが置かれた座標軸を客観視できず、適正な判断が下せない場合が多い。ましてや最近は我々を取り巻く環境の変化は加速化・複雑化しており、これまでのビジネス慣行は瞬く間に古くなり、場合によっては間違いとなってしまう恐ろしい時代になった。

こうした中で、今後の展開を予想し、同時代人の発送より常に一歩先を見据えた判断力を養うには何が必要か。

◆フィンランドの事例

以前経済危機に陥った際、官民を含む人材交流の活発化によって目利き人材を育てることにより経済再生を果たしたモデル国があった。森林面積が67%の日本。その日本を超える73%森林に囲まれながら、ノキアを生んだフィンランドだ。

例えば金融機関に籍を置く人物が、特定の期間、大学で研究し、その後、行政の世界でも一定の経験を積み、金融機関に戻るというような事例だ。

誰もかれもこうした経験を積むことは難しいだろうが、中核を担えそうな若者群を選抜し、異質な経験を積ませ、これが各種プロジェクトの成功率を高めたとされた。

お互い別々の業種やサークルに属したままでは、他のサークルのことがよく分からない。こうした状況ではプロジェクトの成功確率が低くなる。逆に、異なる職や近隣の業界の職を体験すれば、土地勘が働き、成功確率が高まることも考えられる。

こうした官民を含めた人材交流は若者や中堅だけではなく、よりシニアな層、考えようによってはトップに近い層の交流も面白いかもしれない。

実際、ヘッドハントなどを通じて、こうしたことは一部実現されているとみることもできる。(つづく)

(学23期kz)

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第10代横綱・雲龍久吉の末裔

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【2023年1月トピックス】

先の第3回長州歴史ウォークの際に塩塚支部長より、両国の回向院の力塚で説明がありましたが、14年前にmixiに投稿したのをすっかり忘れていました。
追手風部屋の黒海の話をお聞きしたのは記憶にありましたが、人間、否私の記憶は当てにならないものと痛感しています。

2008-5-13mixi投稿分より引用

昨日、6月開催の同窓会の会場打ち合わせの為、市ヶ谷の私学会館(アルカディア)に出向いた。
待ち合わせ時間に遅れる人が出て、一年後輩で、今回、司会進行の塩塚さんという人と談笑した。
現在はマスコミ界の某新聞社に勤務している。
私の相撲好きを知っていて、最近、追手風部屋の後援会に入ったという。特別会員ではなく番付を送ってくる程度の会員で安価だという。
因みに特別会員は、年5万円とのこと。
以前は、相撲巧者の追風海がいたが、最近は黒海が所属する部屋として有名である。
なぜ、追手風部屋なのかというと、先祖が雲龍型で有名だった第10代横綱の雲龍久吉だというのである。
塩塚という名前も、福岡県の柳川市にしかない苗字とのことであった。
しばし、本人も13日目に国技館に観戦に行ったとかで、相撲談議に花を咲かせた。

追手風部屋の師匠は学生相撲出身の元大翔山である。
昔、広島の安芸乃島の地元の安芸津巡業があり、北の湖親方に会いにいったことがあるが、宿泊先のグリンピアは関係者以外立ち入り不可であったが、タクシーで乗り付けた私を見て、守衛さんが、行司さんですねとフリーパスで笑ってしまった。
そしてなぜか、当時の大翔山関が、タクシーの後ろの荷物入れに大きな身体を忍ばせていて出て来た思い出があります。(定員オーバーだったのかな)

ご参考)
雲龍久吉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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雲龍久吉雲龍 久吉(うんりゅう きゅうきち、ひさきちとも、1822年(文政5年) – 1890年(明治23年)6月15日)は、財団法人日本相撲協会が認定している第10代横綱である。本名は塩塚久吉→佐藤喜太郎。筑後国山門郡大和村(現福岡県柳川市)の生まれ。身長179cm、体重135kgと伝わる。

大坂相撲の陣幕部屋にいたが、1846年(弘化3年)江戸に出て追手風の弟子となり翌年幕下付出で江戸相撲の初土俵を踏んだ。柳川藩のお抱え力士。大関昇進は1858年(安政5年)正月、1861年(文久元年)9月横綱免許。入幕から何と4場所連続優勝相当成績。しかし、その後は体力の衰えがあり通算成績は普通となっている。幕内通算成績は26場所127勝32敗15分5預55休、勝率.799。優勝相当成績7回。現役引退後は年寄追手風を襲名、会所の筆頭(ふでがしら=現在の理事長に相当する)まで勤め、明治維新後の大相撲復興に努力した。

2つの横綱土俵入りのうち、不知火型の考案者といわれている。これは、雲龍型と不知火型の名が途中で入れ替わったとする通説による。 しかし、雲龍と第11代横綱の不知火光右衛門の土俵入りが立派であったため後世に名のみが残され、正式に型の名をつける際によく調べなかったため入れ替わったとの見方もある。実際にこの二人の土俵入りがどのような型だったかは、錦絵や写真から判断されている。(両手を広げた不知火型で土俵入りする雲龍の錦絵が残されていたり、不知火が雲龍型のポーズをとっている写真もある。

また、実在性に乏しい横綱の初代「明石志賀之助」から3代目「丸山権太左衛門」を公式の横綱に認定したのは彼であるとされる。

彼の記した手記によれば、第17代横綱「小錦八十吉」までの横綱について記されている。

(学22期 Y・Y)

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第94回鳳陽ゴルフ大会のご案内

第94回鳳陽ゴルフ大会のご案内
令和5年1月吉日
題記の件、第94回鳳陽ゴルフ会を、下記にて開催予定です。
尚、表彰式は、前回同様、簡素化して行ないます。
但し、新型コロナの感染状況次第で、開催を断念せざるを得ない場合も
考えられますので、お含みおき頂きたく、宜しくお願い致します。
出欠のご連絡は、2月24日(金)迄にお願い致します。
又、上限6組の予約の為、誠に申し訳ございませんが、先着24名様
とさせて頂きます。
                    記
 
○日 時  令和5年3月15日(水) 9:31 アウトスタート
○場 所  筑波カントリークラブ
          〒300-2301 茨城県つくばみらい市高岡830-2
                 電 話  0297-58-1515
○集 合  9:00現地
○交 通  電車 : つくばエクスプレス
        秋葉原7:16→みらい平7:59 クラブバス8:04
        秋葉原7:43→みらい平8:28 クラブバス8:33
                         コースまで約8分
               車 : 常磐自動車道谷田部I.Cより伊奈方面へ直進4Km 
○プレー費  約17,000円(含、食事代・キャディ)
           利用税、65歳以上軽減あり。
○参加費  3,000円(予定)
○連絡先 伊藤博司(学22期)
           自宅電話 047-332-7597
           携帯電話 090-3682-1034
           E-mail :  tlrp1859@yahoo.co.jp
           田中敬一郎(学22期)
                 E-mail :  9186iqzx@jcom.zaq.ne.jp
               長谷川誠也(学22期)
                 E-mail  : chika3good@yahoo.co.jp

そうだったのか、橋本左内

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【2023年1月トピックス】

◆小塚原回向院

荒川区の南千住の回向院のあたりには、江戸時代に小塚原といわれ処刑場があった。

ここでは杉田玄白や前野良沢が刑死者の腑分けに立ち会い、それをきっかけに解体新書を翻訳したといわれているところだ。

寛文年(1667年)その地に、第3回長州歴史ウォークでも訪ねた本所の回向院が刑死者を供養するため、開設したのが小塚原(南千住)回向院で、その一番奥に安政の大獄で処刑された吉田松陰の墓、右手に橋本左内の墓がある。

◆越前福井の天才

幕末の志士の中では、佐久間象山、村田蔵六(大村益次郎)と並らぶ、学問好きのマルチ系逸材である。

橋本左内は天保5年(1834年)に福井藩士の奥医師の子として生まれる。

14歳で江戸に出て医学を学んだ後、大坂の適塾で西洋医学を修める。蔵六が適塾の塾頭を務めていたが、蔵六が郷里へ帰った後も適塾に長くとどまった。塾の空き時間を利用して自己流で物理や化学の原書を読み、実験も試むなど知的好奇心が旺盛だった。

またこのとき、優れた国家的指導者がリーダーシップをとり、それを雄藩が支えるとする幕政改革を伴う国家の在り方に関する考えを深めつつ、幅広い学問を身に付けていった。

昼間は師の緒方洪庵の代わりに代診として往診もしていたが、夜もこっそりと塾を向け出して貧しい者の病気を診てやり、薬を渡すなど、貧民への情も厚かったという。

また、安政元年(1854年)、二十歳の時に大阪から江戸に出て、杉田玄白の下で、蘭学と医学を学び、この江戸で水戸の藤田東湖や西郷隆盛と出会っている。

何と20代そこそこで福井藩主松平慶永井(春嶽)に認められ、横井小楠、由利公正らと共に開明的学者として側近に取りたてられており、藩医と共に、御書院番、藩校明道館学監(学頭補佐)、藩主・春嶽の相談役も務めた。早熟ぶりが伺い知れ、福井の天才と言われるゆえんだ。

◆将軍後継問題

左内は将軍後継問題で、藩主・春嶽に与する形で一橋慶喜擁立に尽力した。

このため、井伊直弼に目を付けられることとなり、安政の大獄で吉田松陰らとともに散ることになる。

当時、松陰は29歳、左内は25歳。

◆西郷隆盛からの敬意

西郷は世に尊敬すべき人物として一に藤田東湖、二に橋本左内を挙げている。

藤田東湖は徳川斉昭の腹心で水戸学の大家。西郷よりも22歳も年上だ、片や橋本左内は西郷よりも6歳も年下だ。

西郷も6歳下の他藩士・橋本の力量を素直に認め、左内の見解に服するとしたのは大変立派であるが、そうした西郷を感服させるものを有する樫本左内も褒められるべきだろう。

一橋慶喜擁立では、左内と同様、西郷隆盛と慶喜擁立で立場を同じくした。

先が見えすぎる頭脳、頭脳の回転の良さ、英国のアジアや日本への接近への対抗策としてロシアとの関係を考慮すべきとするなど、外国との在り方を考察した逸材だ。

ホッとする話をひとつ。

左内は猫の物まねがうまかったという。

同時に人の物まねをよくしたという。得意だったのは「西郷どん」だったらしい。

(学23期kz)

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春高バレー2023

誠英(旧三田尻女子)が準優勝の快挙

春高バレーが1月4日から8日まで東京体育館で行われました。
山口県代表は男子が防府市の高川学園、女子も防府市の誠英でした。

高川学園は初戦敗退、誠英(33年連続43回目)は5年ぶりに4強進出で準決勝は大阪の強豪、金蘭会と対戦、1セット目は差をつけられ、2セット目も相手にセットポイントを許したもののそこから3連続得点で逆転した。
第3セットも取ってリードすると最終セットは主将の北窓絢音選手のスパイクから中盤に5連続得点で試合を決めた。
チームスローガンは「泥んこバレー」
(LIVE視聴)

宮城県代表の古川学園との決勝戦はフジテレビで放映され、1セット目19-25と先取されたものの2、3セットを連取し、大手をかけましたが、第4セットを取られ、第5セットで力尽きた。
ノーシードからの準優勝は天晴れでした。
ゲスト解説は誠英OBで04年アテネ、08年北京五輪代表の栗原 恵さんでした。

春高バレーは幼稚園、小学生(単一クラス)、中学生時代のクラスメイトO君が崇徳高校バレー部に進学し、在学中に高校総体、国体で全国制覇を成し遂げています。
その後、コーチを経て監督に就任し、春高バレーで上京した際は小学校時代のクラスメイトが集まり、新橋の居酒屋で激励会を開催し、代々木迄応援に駆けつけたものです。
そのO君も2011年に肺がんの病に倒れ、61歳で亡くなりました。
6人のお子さんに恵まれ、バレーボールチームが出来たのに…。
その崇徳高校も毎年のように春高バレーに出場していますが(9年連続49回目)、全国のレベルが高く、今回の春高も1、2戦は突破したものの、昔のようには勝ち進めません。

写真はスポーツニッポン掲載分より
(学22期 Y・Y)


教育熱心だった長州藩 ④

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【2023年1月トピックス】

◆時習館(僧月性)

月性(げっしょう)は現在の柳井市遠崎(とおざき)の妙円寺で生まれている。

幼少の頃から学問を好み、漢学、仏学、詩学の師を求めて旅に出ている。

15歳の時、豊前の恒遠氏の私塾で詩学を学んでいるさなか、訪れた長崎で欧米列強に接して脅威を感じ、海防の必要性を意識し、強く主張するようになる。「海防僧」という俗称もここから出ている。

23歳で帰郷するが、27歳にして京阪に学問の修行に出る。

この時作った詩を妙円寺の壁に書き残して柳井を去るが、この時の詩が有名だ。

「・・・学もし成るなくんば、還らず・・・人間(じんかん)至る処青山(せいざん)あり」

32歳で京阪から帰り、妙円寺の境内に私塾・清狂草堂(時習館)を開く。当時は「西の松下村塾、東の清狂草堂」と並び称せられた。

月性は破天荒な性格で、詩作の際には昼夜を忘れて没頭し、腹が減れば大食いし、酔えば大声で詩吟を唸り、剣をとって乱舞した。

身なりには拘らず、頭は剃らず生やし放題、僧衣も破れ放題だったらしい。

こうした豪放磊落なそうであったことから交友関係も広かった。

世代としては、吉田松陰よりも少し世代が上で、吉田松陰の兄・杉梅太郎、久坂玄瑞の兄・久坂玄機とは同世代であり、三人はよく飲み、議論を戦わせたようだ。

久坂家にはよく泊りに行ったようだが、玄機が病死し、母が死に、その翌年父も死に、久坂家は玄瑞が一人残される。

月性は玄瑞に学問や社会情勢を説くようになり、ゆくゆくは吉田松陰に学ぶことを進める。

月性と吉田松陰とは面識はなかったが、梅太郎との縁もあり。名前も聞こえていた知識人。

月性に兄を見ていた玄瑞は、素直に吉田松陰の門を叩いた。

(学23期kz)

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教育熱心な長州藩 ③

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【2023年1月トピックス】

私塾

全国的から秀才が集まったのが緒方洪庵の適塾(大阪)、や広瀬淡窓の咸宜園であった。

全国の私塾が1140校あった時、防長2国で全国の1割をはるかに超える160校あったとされる。

科目は和漢書、筆道、算術などであった。

このうち山口で有名なのが松下村塾、越氏塾、時習館(僧月照)などがあった。

長州藩の寺子屋の数は日本一であったという。

また、石田梅岩の心学塾(石門心学)も防長2国で広く浸透し、特に商人の職業倫理が織り込まれていく。

◆松下村塾

もともと叔父の玉木文之進が開いた八畳一間の私塾であったが、明倫館の塾頭吉田松陰が塾を継いだ。

誰でも入れる。また、月謝も取らなかった。

高杉晋作や久坂玄瑞のような士分のほか、山縣有朋や伊藤博文、品川弥次郎のような足軽、中間(武士に仕える身分)、商人や農民、町の不良も居たという。松陰の肖像画を描いたのは塾生で魚屋の子松浦亀太郎だ。

松陰が教えたのはわずか数年であったにもかかわらず、明治期に活躍した逸材を多く輩出したのは奇跡に近い。

松下村塾については別稿で記す。

◆越氏塾

河野養哲(かわのようてつ)が三田尻(防府)に作った私塾だ。

毛利藩校明倫館より30年も前に創設され、防長二州で最初の私塾となった。

養哲は父の同僚の養子になり水軍の船頭となるが、その職が性に合わず学問を志し、子弟の教育者になる道を選び養家から去る。

浪人になった養哲は生計を立てるため医者になるが、この時のエピソードが面白い。

医者時代、貧しい家に往診に行った折は一門の謝礼を取ろうとはせず、また驕り高ぶる富める家には往診を頼まれても行かなかったという。

勉学を積み25歳の時に、舟漕ぎ時代の仲間矢農民の子弟を集め、自宅に儒学の私塾を開いた。

養哲59歳の時、萩の明倫館が設立され、儒者として史観をすすめられたが辞退している。その代わり、若手の塾生を入学させ、その中から後の明倫館学頭が出ている。

8年後の享保12年(1759年)、死ぬ間際、遺言で塾生に対し「我が家をお上(藩)に寄付し、お前たちの学問修学の場とせよ」と言い残し67歳の生涯を閉じる。

妻を娶ることもなく、医者としての稼ぎもすべて、子弟の教育に注ぎ込んだ。

私塾は遺言で藩に献上され、藩校明倫館の付属校となり、後に三田尻講習堂と改称された。

吉田松陰の兄妹で、次女・寿と結婚し、四女・文と再婚した群馬県令の楫取素彦も明倫館の教職時代、時間を取って越氏塾で教鞭をとっている。大河ドラマ「花燃ゆ」では大沢たかおが好演していた。

(学23期kz)

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教育熱心だった長州藩 ②

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【2023年1月トピックス】

◆藩校

封建社会の不条理な世の中であり、士分の資格がないと入れない。貧農出の伊藤博文や品川弥二郎のような足軽の子息には門を堅く閉ざしていた。月謝も高い。

士分の資格があれば14歳で入学できた藩校。それまでは私塾で学力を養っていたという。

明倫館が開校したのが(享保3年)1718年正月12日。

初代学頭は小野尚斎。藩主毛利吉元と共に林家の門人で、藩校では朱子学が講じられた。

小学舎では基礎教育を受け16歳で歩兵塾、文学寮(3年)、兵学寮(2年3か月)と文武を修める。

2代目学頭は山県周南。荻生徂徠の古文辞学派。このため徂徠学、朱子学も取り入れた。

1849年に藩校が移転。手狭になったため、敷地を移転・拡張し教育・鍛錬設備を充実させる狙いがあった。敬親の時である。この時、明倫館に8-14歳の修養課程も創設し、初等教育にも力を入れることになる。松陰は明倫館で兵学を教えたことは知られている。

また、支藩にも藩校ができる。徳山藩(興譲館)、長府藩(敬業館)、清末藩(育英館)、岩国(養老館)など。ここでも徂徠学、朱子学を取り入れた教育がなされた。

このほか家臣団の教育機関13校、藩の有志が自費で設立した学校5校など、郷校といわれる学校が20校あったという。

◆育み(はぐくみ)

ここで、才ある人材の発掘・育成に寄与した長州独特の戸籍制度にも触れておく必要がある。

「育み」とは、身分が低くても優秀な人材には立身出世の機会を与え、人材を世に出す戸籍制度である。

すなわち育みとは、士分になれない身分の者を藩士の身内として引き受けることで、封建時代にあって固定化した身分制度を和らげ、人材登用の道を拓くことにもなった。禄もないが、「士のいで立ち」でいることができ、他藩の者に対しては長州藩士と名乗ることができたという。

育みとは、生まれではなく、才ある若者を育て、世に出すことに大きな効果をもたらした。

貧農の出で足軽中間の身分だった者でも、この育みですくい取られ、活躍した者は数多くいる。

その中で大輪の花を咲かせた代表が伊藤利助、初代内閣総理大臣の伊藤博文だ。

(学23期kz)

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海外旅行

少々自慢話になるが、私はこれまでに海外70か国ほど出かけたことがある。

自分の旅行話を自慢するのは、世界どこでも一緒のようで、東西冷戦時代の旅行ネタの小話。

A氏:

先日、ローマに行って来てね。その足でバチカン市国、そしてベネチアにも行ったよ。そうそう去年は家族と一緒にマジョルカ島で休日を過ごしたんだ。

ロシア人のB氏:

そうかい?

俺は随分色んな所に行ったね。ハンガリー、キューバにも行った。

チェコにも行ったし、随分行ったよ。そう言えば、若い時にはポーランドにも行ったねぇ。

注) 

1939年 ポーランド侵攻

1956年 ハンガリー動乱

1960年 キューバ危機

1968年 チェコ事件

学23期  倉田一平(ペンネーム)

前途・・「陽々」 その2

解き放たれた女性

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【2023年1月トピックス】

昔に比べ、最近では女性の活躍が目立ってきた。企業でも女性役員が増え、各種メディアでも女性の大学教授が登場する場面がずいぶん多くなってきた。

また、働き盛りの女性だけではなく、脚光を浴びている高齢の女性も多くなった。

◆80過ぎてアプリ開発

最近よくテレビに出ている若宮正子女史。

80歳を過ぎてシニア向けゲームアプリを開発し、国連でデジタルスキルが重要だと講演したという。

若宮女史が言う。

「とにかくバッターボックスに入ってバットを振ってみたんです。そしたら当たっちゃったんですよ。」

「ほんとに人生は分かりませんね。だから自分の未来に蓋をしちゃいけないんです。」

年をとると、失敗が怖い、皆に笑われたくない、ということで消極的になりがちだ。そうした気持ちも分からないではない。

しかし、おばあちゃんには茶目っ気が多い人が多い。こうした茶目っ気のあるおばあちゃんの遊び心を引き出したのが軽量で持ち運びやすく、性能が格段に高まった各種道具だ。パソコン、スマホ、カメラなど。

◆もう一人のおばあちゃん

私と同郷、九州のお婆ちゃんがいる、

アマチュア写真家の西本喜美子女史。自撮り写真が面白い。

1928年生まれの91歳。72歳でカメラを手にしたという。

彼女には若宮さんと相通ずる哲学がある。

おばあちゃん曰く「面白いな。自分も出来たらいいな。難しいと思いながらやっていけたらいいなと始める・・・何でもやってみないと、できるかどうか分からない。」

年齢に関係なく、いつでも挑戦できる。

年をとるもの悪くないと思わせる。

彼女の作品に対して、海外からユーモアのセンスがすごい。彼女のユーモアが大好きと評判だ。

彼女も世界各国の老弱男女から賞賛を受けている。

◆女性ファッション誌

ファッションの世界でもこれまでいろいろな雑誌が出てきた。

最近の特徴はファッション雑誌を読む世代は、モテたい、可愛く見せたい20代や30代の女性の特権ではなくなってきたとのことだ。

育児や子供の教育、夫の世話から解放され50~60代の女性が、自分らしく生きていくためのアイテムとしてファッションを考えており、その層の購読が伸びているという。

誰に遠慮することもなく自分らしく、思うように生きて欲しい。

がんばれ、おばあちゃん。

前途は・・・陽々だ。

(学23期kz)

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