山大・花の経済学部 その6 金子先輩、浦上先輩

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 10月トピックス】

鳳陽会の先輩は産業界、官界、教育界で活躍された先輩は多いが音楽関係で大成された方は少ない。

今回は音楽音楽産業の分野で活躍された先輩二人を紹介する。この分野で活躍された先輩を紹介する。

◆金子秀先輩、浦上敏朗先輩

この二人は高商40期、安部一成教授、また「山都逍遙歌」を作詞作曲した橋川敏男氏と同期生である。

金子氏は東京出身(都立八中)だが、三井物産から東芝の副社長となった父・堅次郎氏(高商2期、明治42年卒)の薦めで山口高商を受験する。

東京、神戸に次いで創立された山口高商ではあったが、山口は陸の孤島で文化も乏しい地方都市。父は山口高商で学んだことを誇りとしていたという。

時は戦時中。金子氏の実家・東京に召集令状が届いたが、本土防衛というということで日本国内にとどまっているうちに終戦を迎えたという。

大学に戻った金子氏は同期の浦上敏朗氏(後述)と共に「わかば会」という映画観賞の部活を作り、大学の講堂で洋ものの映画鑑賞会を行なった。当時、山口高商の講堂は映画館にも劣らない映像装置があり映写技師も庶務課に在籍していたという。この映写会は市民にも公開されたので、文化の乏しい山口で大変な好評を博したという。

映画の機材やフィルムは大商社に在籍された金子氏の父君にお願いして調達し、大阪の東宝映画から小郡に汽車便で届いたという。当時アメリカ映画は貸出禁止で、もっぱらフランスものが上映されたとのことだ。

講堂は音響設備も立派でクラシック音楽会も行われた。この時のことを山口の文化大革命と呼ぶ人もいたという。

この時のこともあり、金子氏は日本コロンビアに入社する。その後東芝レコード、ビクター音楽産業で実力者となった。

平川の経済学部横には金子氏からの贈り物が残っている。金子氏は個人として、平成14年に土井晩翠作詞・山田耕筰作曲の「山口高等商業学校校歌」の歌碑を吉田キャンパス経済学部横に寄贈した。

また金子氏の同期で「わかば会」の盟友・浦上敏朗氏(S48年、ジャパンアートコンサルタント社長、日本浮世絵商協同組合理事長)は浮世絵、中国・朝鮮古陶磁を中心としたコレクションを蒐集していたが、平成5(1993)年山口県に寄贈した。山口県立萩美術館・浦上記念館は彼の蒐集品の寄贈に依って開設されている。

(学23期kz)

山口高等商業学校校歌 歌碑 (金子秀氏寄贈)

山口県立萩美術館・浦上記念館

山大・花の経済学部 その5 都築忠七

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 10月トピックス】

◆都築忠七(1926年~2020年)

マルクス主義が流行った時期、この時には時代背景として、世界的に「階級」の発生、労働者の窮乏、貧困、失業、1917年のロシア革命、また日本では1918年~1922年の米騒動、1923年の大震災、1931年の満州事変が起き、マルクス主義に風が吹いていた時代でもあった。

この頃、アカデミズムの左翼が検挙された。河上肇もその一人だ。河上と同時に検挙されたのが後に一橋大名誉教授となった大塚金之助だ。

大塚も河上同様、若くしてコロンビア大統計的経済理論を学んだいわゆる非マル経学者だが、英国、ドイツ留学中にマルクス主義に傾倒していった。

ロンドン時代に大塚は、シドニー・ウェッブから社会思想史を学び、感化されたようだ。

大塚が一橋大の教授在任中の教え子の一人に社会思想史研究者の都築忠七・一橋大名誉教授がいる。

実は都築忠七は1947年の山口経済専門学校卒だ。

山大経済の学部長を務めた有名教授・安部一成先生と同期にあたる。

都築は山口経専を卒業後旧東京商大(一橋大)に進み、大塚ゼミに入る。

学生時代はプリンストン大に留学、教職についてからはオックスフォード大とケンブリッジ大で博士課程を修了し、一橋大で教授を務めた。

1992年に日本学士院賞、恩賜賞1992年を受賞している。

都築は前稿で紹介した玉野井・東大名誉教授の山口での8年後輩にあたる。

社会主義思想史が専門で、特に英国の社会主義思想、社会主義活動の研究が専門だ。

◆エリノア・マルクス

都築にはカール・マルクスの末娘エリノアを描いた著作「エリノア・マルクス」がある。エリノアは16歳でマルクスの秘書となり、マルクスの出席する会議や集会に随行しており、1884年にマルクスが逝去すると、男女平等実現、労働者の地位向上に向けて、社会運動家として活動し、リーダーシップを発揮する。

◆ミス・マルクス

エリノア・マルクスを描いた映画(2020年)がある。「ミス・マルクス」だ。

この映画の中に面白いくだりが出てくる。

エリノアが父・Kマルクスに問う。

「お父さんにとって幸せとは?」

「闘うこと!」

(学23期kz)

都築忠七

長州歴史ウォーク ペリー来航、その時長州藩は その1

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

2023年10月 トピックス

鳳陽会東京支部は令和3年6月、コロナ禍福で屋内での集会や行事が控えられる中、都内で長州にゆかりのあるスポットを巡る第1回長州歴史ウォークを開催した。

本年11月25日(土)には第4回長州歴史ウォークを開催し、品川方面を散策する。

◆ペリー来航

嘉永6年(1853年)6月3日にペリーが浦賀沖に来航した。続いて翌嘉永7年にはペリーが再来し日米和親条約が締結されることになる。

寛永14~15(1637~38)年の島原・天草の乱を経て、寛永16年(1639年)ポルトガルの入港を禁止した「第5次鎖国令」をもって「鎖国」とするならば、それ以来「鎖国」を続けていた日本が約200年ぶりに鎖国を解いた。

1840年にはアヘン戦争が起き、その顛末も知る幕府も鎖国を続ければ国が持たないという時代認識もあったのだろう。

幕府としては和親条約を結ぶ一方、諸外国の出方を警戒するという両構えの状態に入る中、江戸湾沿岸の防備を各藩に命じた。

◆品川・大森の大筒調練場

最初のペリー来航時、民衆はてんやわんやの騒ぎとなった。幕府も慌てた。

幕藩体制の下では、一大事が起こると幕府のみでは対処できず、各藩に支援を仰ぐことになる。

ペリーが最初に来航した時、長州藩も福井藩、熊本藩、姫路藩などと共に幕府から江戸湾警備が命じられ、品川近くに藩邸を抱える土佐藩などにも警備の要請が出された。

中でも長州藩に割り当てられたのは大森町打場(ちょううちば)の警備だった。町打場とは大砲や小銃の射撃調練場で、江戸湾が外国船の来航で物騒になってきたため、ペリー来航の3年前の嘉永3年に設置が決まり、来航の1年前に完工している。

調練場とはいうものの、いざという場合は実戦で攻撃の拠点にもなり、大筒が5門据えてあった。

幕府から警備の命が降りたのを受けて、長州藩では嘉永6年、ペリー来航から5日目にあたる6月8日に大森町打場に向かう。

この時には江戸に遊学し、剣の鍛錬に練兵館に通っていた桂小五郎(木戸孝允)も駆り出され、大森町打場に向かったようだ。

現在では小豆島から砂を持ってきた太田区立大森ふるさと浜辺(はまべ)公園近く、東京ガスのグラウンドになっているところだ。

◆長州藩士の滞陣

長州藩では大森の三原通りに付近に陣を構える。三原通りは品川宿と川崎宿の中間に位置する、いわゆる「間(あい)の宿(しゅく)」。このため東海道を通る旅人へ食あたり・暑気あたりに効く道中常備薬の和中散の店や日笠などの旅の常備品のほか、麦わら細工などの各種土産物屋のほか、大森付近は浅瀬で、江戸時代から海苔の養殖が行われ、将軍家にも納められた「御膳海苔」もあるなど海苔の産地として海苔問屋が集まっていたようだ。

そこへ500名ほどの長州藩士が警備のために滞陣することになった。このため町が賑やかになり、これがこの通りの繁栄のきっかけを作ったとされる。

昔は北原、中原、南原を総称して三原と呼ばれたが、明治になって美原通りと表記を変えている。昭和2年に旧東海道の道路を拡張して第一京浜が作られたが、当時繁栄していた美原通りを避けて工事が行われたため、旧東海道の幅員がほぼそのまま残っている。また通りも最近では通りには街灯、提灯が飾り付けられ、シャッターには広重風の浮世絵が描かれるなど、当時の東海道をうかがわせる工夫もなされている。

◆三浦半島の警備へと任地替え

11月には幕府による警備体制の見直しが行われ、大森一帯は彦根藩が担当することとなり、長州藩は三浦半島西岸一帯の警備を任されることとなった。桂小五郎もこの時、大森を離れている

三浦半島での警備の本陣は上宮田。

この上宮田で長州にいた伊藤利助(博文)は運命を大きく拓く契機となった重要人物と出会う。

つづく

(学23期kz)

NHK「プロフェッショナル」仕事の流儀 山田洋次監督

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 10月トピックス】

先月、9月27日でしたが、NHKで放映されていた「プロフェッショナル仕事の流儀」という番組で、山田洋次監督と吉永小百合さん主演の「こんにちは、母さん」という新作映画に取り組む山田洋次監督(92歳)の意気込みを制作現場に密着取材していました。

母校の広島基町高校時代に2年生の途中から演劇部員が足りないと同級生の部長から頼まれ、入部しました。
人前に出るのが大の苦手で、照明係等の裏方なら手助け出来るかも知れないと入部しましたが、発声練習の稽古や舞台化粧のやり方等は習ったものの幽霊部員に近い存在でした。
卒業し後年わかったことですが、顧問は山田洋次監督の弟さんの地学を習った山田正巳先生で、卒業時のアルバムにはしっかりと演劇部員として一緒に写っています。
11月11日(土)に母校の東京支部総会&同窓会がコロナで4年ぶり開催予定で、山田正巳先生はご健在なのかと調べてみましたら健在でした。
ご高齢なので、7月の広島での母校の本部総会&同窓会にも出席されていないようですが。

山田洋次監督は以前、横綱審議委員会の審議委員を5期10年されていたことがあり、国技館でご挨拶したい衝動に駆られたこともありましたが、流石に恐れ多くて踏みとどまりました。💦

山田洋次監督は1947年大連から引き揚げ、宇部市の伯母の実家で過ごされ、旧制宇部中学校(県立宇部高校)3年に編入し、1948年四修の飛び級で旧制山口高等学校(現山口大学)に入学されていますが、学制改革に伴い1年で卒業されています。

1枚目の写真中央が山田正巳先生(当時は30代半ば?)
お兄さんに全く似ていないと思っていましたが、2枚目の写真はキネマ旬報1962年4月上旬春の特別号の山田洋次監督、兄弟でそっくりです。
尚、同映画は9月1日から全国公開されています。
(学22期 Y・Y)

※コメントを宜しくお願いします。
①トピックス末尾の「コメントを残す」欄から。
あるいは
②私のメールアドレスへ
0rb6672r388367t@ezweb.ne.jp

幹事会開催

昨日幹事会を開催した(令和5年10月18日)。

学4期から58期まで10名ほどの同窓が集い、アイデアを披露し合い意見を交換した。

主な議題は

  • 長州歴史ウォーク、日本寮歌祭などのイベント周知と参加呼びかけ
  • 来年の東京支部総会や再来年に東京で開催される全国総会へ向けた意見交換
  • 東京支部の財政問題と三田にある東京支部事務所の新たな活用方法の模索
  • 在京新入社員の同窓会への取込み  

意見交換のあとは、日本橋ある山口のアンテナショップ「おいでませ山口館」で仕入れた山口の酒、それに蒲鉾とちくわで、ささやかに乾杯し、懇談した。

窓には秋の東京タワーが。

令和5年10月19日 鳳陽会東京支部事務局記

山大・花の経済学部 その4 玉野井芳郎

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 10月トピックス】

◆玉野井芳郎(1918~1985)

経済学者の大御所である。

多くの著作があり、私も学生の頃から著作物は目にしていたが、山口高商卒の先輩であるとは知らなかった。

玉野井のいろいろな著書の経歴欄に「山口高商」がひとつも出てこないのが残念ではあるが。

経済原論(理論経済学)、経済学史が専門で、頭がよく整理されており、バランスの取れた経済学者といえる。

平易でわかりやすい文章を心掛けておられるようで、このため経済学の入門書、教科書、解説書を作るに当たって、各方面から声が掛かったのだろう。

1918年の生まれで柳井市出身。山口高商から東北大学に進学。東北大助教授になるも1951年に東大助教授の職を得、そのまま東京大学で教鞭を取り、東大の名誉教授になっている。

東大助教授時代にはハーバード大、教授時代にはドイツのボーフム大、ケルン大に留学している。

環境問題、地域経済のほかジェンダー問題などの著作や翻訳があり、学問的な関心の幅が広い。

私が昭和46年(1951年)に入学した山大経済には、マル経・近経を色分けすればマル経の先生方が多かったという印象を持っている。

日本にはいつ、どのようにマルクス主義が入ってきたのか。

「東大名誉教授」の玉野井に「日本の経済学」(中公新書 1971年)という著作がある。

ここで玉野井は、戦前の日本において、「近代経済学はその萌芽を宿したに過ぎないが、マルクス主義思想は確かに定着していった」とし、その背景に明治期に平等主義を謳う自由民権思想とキリスト教という源泉があったとしている。

1900年当初、大学内の状況はどうだったのか。

学生時代の大内兵衛を登場してもらうと、大内曰く、「大学生のうちでは、当時マルクスを本当にやろうと考えたり、社会主義が日本で政治運動の理想となると考えている人はいなかった。要するに社会主義は外国の学問、外国の思想であって、運動ではなかった」としている。

しかしこの頃から世間では社会主義運動がにわかに活発化していく。

1901年に足尾銅山事件が社会問題化したことも大きな契機のひとつにもなった。

その翌年の1902年にはマルクスを紹介した社会主義運動家・西川光二郎の「カール・マルクス」が刊行されている。

また、その翌年には階級の発生、労働者の窮乏、貧困、失業などの問題を扱った片山潜や幸徳秋水の著作が刊行された。

河上肇も1905年に読売新聞に「社会主義評論」を連載し始めている。

欧州に遅れての機械文明の進展、工場問題の発生、目に見える形での階級の発生、労働者の貧困、失業問題。

こうした中でのロシア革命(1917年)といった社会主義の優位性を示すかのような事件が生じた。

こうした中で、多くの経済学者がマルクス主義に傾倒していったのだろう。

学生時代の私自身も、マルクス主義に触れた時、単なる経済学を超えたものに見えた。

短期的、微視的で精緻な分析とは逆に哲学的、歴史的、巨視的、総合・学際的で、しかも貧しい者に優しい哲学体系にみえたのだ。

(学23期kz)

玉野井芳郎

常盤会(工学部)セミナー/合同同窓会・懇親会に参加して

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 10月トピックス】

◆「合同」同窓会

昨日、約100名が集った工学部・常盤会の合同同窓会・懇親会に参加した。

なぜ「合同」同窓会なのか。

ご存知の通り工学部の同窓会は機械系、化学系、資源機材系、土木建設系、電気電子情報系に分かれており、これらの同窓会の関東在住メンバーが一堂に集まっての会合ゆえ、合同同窓会と銘打っている。

冒頭、山大の山田陽一工学部長から工学部の現状とともに、常盤会による寄付の9割が学生支援に、また残り1割が長州ファイブも学んだ縁でUCL(ロンドン大学=ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン)への学生留学に使われており、同窓会の寄付に対して感謝の言葉が述べられた。

◆セミナー

山大では「明日の山口大学ビジョン2030」を策定しており、パンフレットも出来ている。

このビジョンに関し、上西(かみにし)研・学術研究担当理事・副学長(工学部出身)からビジョン実現に向けた研究戦略について話があった。

最近山大では医学部免疫学講座の玉田耕治教授らの研究グループは癌一般に高い効果を発揮するPRIME CAR-—-T細胞を開発し、これはノーベル賞級の功績と言われていること、人間と動物の共生に向けた医学と獣医学の共同研究が盛んになっており世界から若い研究者が集まってきていること、「時間研究所」(広中平祐元学長の構想)や「細胞デザイン医科学研究所」など他大学にはない山大付属研究機関があり、世界レベルの活動をしていることが紹介された。

また、セミナーの後半では「丘の上 幸西(こうにし)ワイナリー代表」幸西義春氏(1981年工学部・電気系卒、ワンゲル部所属)が退職後、長野の塩尻で専門分野と畑が違うワイン作りを始めた話が面白く紹介された。

◆懇親会

懇親会では山口から見えた山大関係者や、常盤会以外では、鳳陽会のほかに霜仁会(医学部)の代表も参加された。

名刺を交換すると立派な肩書をお持ちの方もおられる。

名刺の肩書に「工学博士」が付いた方も少なくない。

会の司会をされたK氏の名刺には「東京工業大学名誉教授」とあり、中にはスタンフォード大学教授という方もおられた。

会の途中で工学部がある「宇部市」の話に話題が移った。

2020年には住みたい町の日本一に輝いたそうだ。

なぜか

空港が近いこと、大学病院があること。

このほかにも都市機能と田舎の風情を併せ持っている点が評価されたとのこと。

また移住サポート支援も充実しており、移住者が多くなっているようだ。

会の終わり間際に、私と年が近い山〇氏と面識ができ、お互いの卒業年次を伝えると、山〇氏からA君の名前が出た。課外の部活で一緒だったという。

A君といえば私と同期で、同じゼミ、H銀行に就職したA君だ。

東京・大阪、中四国・九州の仲間が集まる同期ゼミ会では酌み交わした仲だ。

帰宅後早速A君に連絡をとったところ、A君も懐かしがって山〇氏に連絡してみるとの返事が返ってきた。

学部を超えたつながり。

ここには学生寮や下宿、部活を通じた学部を超えたつながりも残っている。

(学23期kz)

山大・花の経済学部 その3 河上肇

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年10月 トピックス】

文中敬称略

マルクス経済学と一般均衡論の融合を図った経済学者として柴田敬を紹介したが、柴田に影響を与えた山口高商の先輩の一人として、経済学者・河上肇(岩国生まれ。1879年・明治12年~1946年・昭和21年)がいる。

むしろ社会一般的には柴田と比べ、「貧乏物語」の著者である河上肇の方が、名が通っている。

河上は旧山口高校文科を卒業し東京帝大政治学科に進むが、東京に出てきて目の当たりにしたのが貧富の格差だ。山口とはあまりに違う光景に相当大きな衝撃を受けたようだ。

東大卒業後、京大に講師として入り経済学の研究を始めるが、貧困問題が河上の頭から離れなかったようだ。

・いかに多くの者が貧困の中にあるか。

・それはなぜなのか。

・いかにすれば貧困を根治できるか。

貧困の背景と問題点にスポットを当てた河上の記事が新聞に連載され、これが社会的に大きな反響を呼んだ。この連載ものを纏め、1917年に刊行した「貧乏物語」はベストセラーとなった。

◆マルクスに傾く

河上はA・スミス、リカード、J.S.ミルなどの古典から入っていく。

しかし、京都帝大在任中、マルクス主義への理解に難点があること、金持ちが奢侈を止めれば貧困問題は解決するとする河上の貧困問題への解決策について学界から批判が起こった。生涯のライバルとなる博学の福田徳三(一橋大教授)や、いわば身内ともいえる教え子の櫛田民蔵(後に同志社大教授)らだ。

河上は彼らからの学問的な批判を自分の中で真摯に受け止め、マルクスを正確に理解することに取り組むうちに、マルクス主義へ傾倒していった。

河上自身は「最初はブルジョワ経済学(非マルクス経済学)から出発して・・・一歩一歩マルクスに近づき、ついに最後に至って最初の出発点とは正反対なものに転化し終えた」(経済学大綱、1928年)と記している。

「出発」から「転化」まで約20年ほど。

この時期河上だけではなく、多くの経済学者がマルクスへ傾いていった時代でもあった。

マルクス主義研究の大家というイメージのある河上肇。

経済学の大家で経済学史にも造詣が深い東大名誉教授の故・玉野井芳郎は河上を「マルクス主義を学問的に開拓した有力な代表者」と位置付けている。

この玉野井・東大名誉教授も山口高商出身。同窓だ。

つづく

(学23期kz)

河上肇

俳句集自費出版

2011年11月27日mixi日記投稿分より引用

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 10月トピックス】

昨日のことです。
勤務している派遣先のマンション管理室に居住者のYさんが来られ、午前中も午後もコピーに来たが管理人のあなたはいなかったではないかと仰る。
私、「午後は理事長と警察に相談に行っていました。」
Yさん「警察に来て貰えばいいではないか。」
私、「午前中は以前に庭園灯の修理をしてもらったので家電の店に支払いに行っていました。
決してさぼっていたわけではありません。」

この人、俳句集を自費出版したので一冊進呈すると仰る。(50冊発行で10万円相当の費用発生)
私は俳句や短歌には全く興味はありません。
仕方なく頂くことにしましたが、俳句集の後ろには水戸○高卒、慶○大学経済学部卒、政府系金融機関勤務を経て退職と書いてある。
輝かしい学歴と職歴である。
年齢は73歳位である。
私、「水戸○高のご出身とは素晴らしいですね。経済学部では何を専攻されましたか。」
Yさん、「経済原論です。卒論は経済成長論にしました。」

この人、マンションの玄関やエントランスで喫煙するマナー違反の常習者です。
玄関で吸っているのを注意すると身体の一部が敷地外に出ているので問題ないと主張され、裁判で闘いますかと屁理屈を云われる。
(プロレスのロープではない。プロレスは足が出るとブレイクです。
因みに品川区は路上喫煙禁止です。)

エントランスで若い娘さんが通る前でズボンを降ろして下着の整理整頓したりと風流とは程遠く、興醒めな人である。

返句を考えてみました。(笑)
「喫煙で迷惑かける駄目ジジイ」(季語なし)

写真と本文とは一切関係はありません。
(学22期 Y・Y)

※コメントを宜しくお願いします。
①トピックス末尾の「コメントを残す」欄から。
あるいは
②私のメールアドレスへ
0rb6672r388367t@ezweb.ne.jp

山大・花の経済学部 その2

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 10月トピックス】

柴田敬先生は戦前マルクス経済学と近代経済が相入れないと見られていた時代に、マルクス経済学の命題を「ワルラスの一般均衡理論の簡略版」(柴田)を用いて検討している。しかも論文は、世界中の経済学者がアクセス・検討できるように英文で発表している。

今から思えば画期的な取り組みと言える。

スイス・ローザンヌ大の経済学初代教授ワルラスは、古典派の客観的価値論から消費者の行動を決めるものは、客観的価値ではなく効用という主観的価値によるとして消費需要の関数を描き始めた。これが近代経済学の端緒ともいえる。

さらに同大学でワルラスの後を継いだパレートも一般均衡理論の普及に努めたことにより、ローザンヌ大が一般均衡理論の一大派閥・ローザンヌ学派を形成することになり、柴田教授も大いに啓発されたのだろう。

スイスの古都で、レマン湖畔のほとりの小さな町、ローザンヌ。世界の経済学者たちに影響を与えたローザンヌ大。

阿部廉氏(学27期)(前稿参照)によると、柴田先生は京都大学から転任し、山大経済学部の学部長就任にあたって、山口大学を日本のローザンヌ大としたい旨の抱負を語っておられたという。柴田先生は8年在籍されたが、学生運動によって同構想は挫折。その後に山大を辞任された。

山口は小さな西の都、古都だ。

地形的にはスイス・ローザンヌよりドイツのハイデルベルクの方が山口に似ている。

ハイデルベルクはドイツ最古の大学。ハイデルベルク大も評判が高い。人文系に有名教授が多かった。ヘーゲル、ウェーバー、ヤスパースなど。

鳳陽会の先輩の中には経済学部が亀山から平川に移転するに際し、「平川が東洋のハイデルベルクとして発展することを期待」するとの願いを述べておられた先輩もおられた(「花なき山の・・・323話」(西岡吉春・元中部アンモニア工業社長))。

山あいにある山口大。サイバー空間が発達した現在では、地理的なハンデはかなりの程度克服できる。山大は総合大学であることを活かして文・理の知が融合した「知の拠点」となってほしいものだ。

経済物理学、経済心理学など経済周りの分野を取り込んだ学際的な研究も大いに結構じゃないか。

山大には「時間学研究所」がある。いうまでもなく経済学の中で「時間」は重要なファクターのひとつ。経済学部が「時間学研究所」と溶け合うのも在り方のひとつ。AIも活用しながら知恵を絞り、経済学の新しいパラダイムの展開を試みて欲しい。

(学23期kz)