3高商同窓会有志でラグビーW杯観戦

(2023年10月9日 事務局記)

東京支部では瓊林会(長崎大・経)、小樽商大と交流を重ねているが、昨夕は瓊林会の呼びかけで、各校東京支部の有志が集いラグビーW杯・アルゼンチン戦を観戦した。

惜敗したが、日本も3本のトライを決めた。トライを決めるたびに会場がひとつになり、拍手と歓声が湧きあがった。

会場は四谷駅から徒歩3分の県が借り上げている施設。長崎県東京産業支援センターが入っているほか、会議室、商談ルームもある小ぶりな多目的ビルで、瓊林会東京支部の事務所もここに入っている。

1階の長崎料理店には大型テレビがあり、料理屋を貸し切っての応援となった。

教養課程の授業 その2・英語

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 10月トピックス】

昭和46年当時、教養課程で英語の授業を受け持つ先生は複数人いた。

◆ダベンポート先生

典型的な欧米系のガイジンという印象。外国人特有の下あごを利かせた低い音調の発音で、口はやや締まりに欠ける。

日本人には聞き取れない本物のガイジンの英語であった。

文字になっていれば何ということのない単語や言い回しでも、何と言っているのか理解できなかった。

いや、簡単な英語、習いたての中学の初めに習うhave, keep, it, of・・・

またこうした単語が連なった場合はとにかく聞き取りにくい。また生来左耳が難聴気味の私には聞き分けが特に厳しかった。

このダベンポート先生、同期のS君の話ではケンブリッジ大学を卒業し、山大に着任。奥さんが日本人だという。ESS(英会話クラブ)の顧問をされ、中国地区の英語の弁論大会で1年生のS君を3年、4年生を押さえて、3位入賞に導いた優秀な先生でもあったようだ。このS君、英語の達人で大手商社マンとなり、欧州でまた、アメリカ大陸で活躍したことは言うまでもない。

◆伊豆先生(外書読解) 

英文学専攻のシャープな風貌の若手の先生だ。文学部の英文学科に在籍されていたような記憶がある。

授業で用いたものは英国の作家が書いた作品だったと記憶している。 

外国語で文学作品を味わうことは至難の業だ。英語の流行歌の歌詞を理解するのも難しい。論理的に書いてないからだ。受験勉強の時の英語読解は論理的な展開になっており、慣れ親しんでいるが、文学は難しい。

そもそも、日本の詩も難解なものが多い。作者個人の情緒が盛り込まれており、解説なしでは理解困難なものが多い。

この時の外国文学の読解はジグソーパズルのような謎解きのようであり、それはそれでミステリーのようであった。

◆英会話の先生(中年の日本人、氏名不詳)

頭髪は薄く、波打った中年の先生であった。

「英語」ではなく「米語」であった。発音する際に過度に口を尖らせたり、横に広げたりと英語らしい発音を心掛けようとされる。英語を発音する際の欧米人の口の形を真似ようとすると、ああした教え方になるのだろうか。

先生は熱心で、熱のこもった授業をされるのだが、口角に白くなった唾が溜まり、それが気になって、先生の話はほとんど頭に入らなかった。

私も中学の頃、米軍のベースキャンプに出掛け、若い兵士が喋る「米語」を聞き、トム・ジョーンズ、プレスリー、ビートルズが使っている「英語」に慣れた耳には、かえって不自然に聞こえた。

二十歳を越えてから米国に滞在しておられたのだろう。幼少の頃に覚えた英語であれば、ネイティブ特有のうまさ、滑らかさ、日本人の耳への判りにくさがあるが、それを全く感じさせない。

成績優秀で大学の教養課程の英会話の先生に抜擢されたのだろうが、この先生の授業を長期にわたり受講しても、英会話は上達しないなと確信した。それにしてもどういう経歴をお持ちの先生であったのだろう。

(学23期kz)

ソリの合わない二人の英傑 伊藤博文と井上馨

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年10月トピックス】

仲が良い兄弟でも、相続の問題が起きると、兄弟関係にひびが入る。

これはカネの配分の問題だが、個人の名誉を巡っても仲の良い二人にヒビが入る。

長州藩の上級藩士で明倫館に学んだ変わり者の井上馨。

喜怒哀楽がはっきりしており、怒れば雷。気むずかしくて変わり者。

片や農民出身、庶民的で威張らず、朗らかで大らかな伊藤博文。しっかり者で松下村塾に学んだ。

身分も性格も正反対。

この二人は攘夷運動に身を投じ、英公館焼き払いに加わりそこで知り合った。また、文久3年(1863年)には長州ファイブとして渡英した仲だ。

英国滞在中に現地紙で馬関戦争を知り、戦争を回避させるべく急遽帰国したのも伊藤と井上の二人だった。

◆ヒビ

歴史の編纂では伊藤の名も出るし、井上の名も出る

しかし、客観的に書かれた長州藩―毛利家の歴史書の未定稿の記述で伊藤博文の活躍の方が高く評価さていることに対して、いたく名誉を傷付けられた。喜怒哀楽の激しい井上はこれに我慢が出来なかったようで、伊藤博文の名を「聞くもけがらわしい」(元毛利家記録課長三坂圭治氏談)というまでになったという。

28歳の時に俗論派から襲撃を受け50鉢を縫う大けがを受けたが、「母の力」もあり奇跡的に一命を取り留め、明治の元老として活躍した。

(学23期kz)

井上馨遭難の地碑(山口市中園町)

山大・花の経済学部 その1

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 10月トピックス】

山口大で「花の経済学部」と言われるには、まず、東京(一橋)、神戸に次いで、全国で3番目に設立された経済学部の前身・官立高等商業専門学校という誇らしい生い立ちが要る。

しかしそれだけでは十分ではない。

傑出した人物を数多く輩出したという実績が積み上がっていないと「花の経済学部」という評判は立たないし、続かない。

逸材、ここにあり。

◆図抜けた経済学者・柴田敬先生

山口高商卒から京大に進学し、京大教授として世界的に活躍した経済学者がいる。

柴田敬先生。

上久保敏著「日本の経済学を築いた50人」2003年11月(日本評論社)の中に取り上げられており、マルクス経済学と一般均衡論の融合を図った経済学者として取り上げられている。

オスカー・ランゲが使い始めた「近代経済学」というフレーズは柴田先生の著作「マルクスの資本主義分析とローザンヌ学派の一般均衡論」からヒントを得たという。これからすると、柴田先生は日本、いや、世界における「近代経済学」の草分け的な存在といえる。

茶目っ気のある著名な経済学者だった都留重人氏は「『経済学学者』は多いが経済学者は少ない」とし、その数少ない経済学者の一人に柴田敬先生を挙げている。

柴田先生はマルクスの「利潤率の傾向的低下の法則」に対して異を唱えたとされる。

社会科学の一分野である経済学は、自然科学とは異なり、悲しいかな、時間(時代性)と空間(地域性)の制限を受けざるを得ない。

マルクスの生きた時代、住んだ社会、住んだ地域、そうした前提ではある命題が妥当しても、時代が変わり、地域が変わり、社会が変わればその命題が妥当するとは限らない。

マルクスはそれも承知の上で、結局は大きな法則の中に飲み込まれてしまい、(資本主義に内在する力で)利潤率の傾向的低下といった命題も妥当すると説いたのだろう。しかし、やはり無理があったという感が否めない。

生産様式、資本家=経営者の経営手法などについて、一定という厳しい前提を置けばそうなるかもしれないが、その前提が崩れ、例えば技術革新によって、かなり安く生産できる方法が一般化した場合、あるいは高付加価値に伴いかなり高い価格でも、買い手がペイすると考え高い価格で購入することが一般化すれば、企業は高い利潤率が確保でき、利潤率の傾向的低下を回避できる。

こうした発想は柴田先生が、一般均衡論に立脚しながらも「技術革新」という動態的な力学の作用を論拠に、利潤率の傾向的低下に異議を唱えたシュンぺータ(墺)のゼミ生(ハーバード大・留学時の一時期)として学んだからだろう。

柴田先生は広く欧米の一流経済学者とも交流しており、ケインズから受けた評価も高かったようだ。これは柴田先生が数式をもって論理展開することができたことにもよるのではないか。

数式を用いれば外国語に翻訳することなく、また論理展開に言葉を多用することはない。数式による論理展開は万国の共通言語だからだ。

◆利潤率傾向的低下に関する実証分析

マルクスにとって、資本主義の「利潤率の傾向的低下」は、資本主義の崩壊と社会主義・共産主義の必然的な到来を示唆する「肝」の部分であり、譲れないところだろう。

実証的にはどうか。

米国経済学者の有名どころのⅯ.フェルドシュタイン(全米経済研究所名誉教授)や若くしてはハーバード大の学長を務めたⅬ.サマーズなどが利潤率の傾向的低下について米国を例に検証したが、傾向的低下は認められなかったとしている。

また、マルクス経済学者の中にも、傾向的低下が認められないとする論文が出されているようだ。

◆柴田ゼミ

柴田先生は昭和21年(1946年)に京大教授を辞任後、昭和27年(1952年)に山大教授に就任されている。

柴田先生は、山大学内で根拠薄弱な思想的な風評が立ったこともあり、8年後に山大を辞職され他学へ移られた。この時、柴田ゼミは安部一成先生に引き継がれたようだ。

柴田先生は経済的に困窮した生徒を支援しておられたようで、山本英太郎先生もお世話になったらしい。

山本英太郎先生は早くにお亡くなりになったが、今ではあの、ふくよかな恵比須顔が懐かしく思い出される。山本先生も若い時は苦労されていたようで、奨学金を返し終えたのが齢43の時だと常々仰っていたが、そういえば親が決して裕福とはいえなかった私が奨学金を返し終えたのも43の時だった。

(学23期kz)

参考 大学27期 阿部 廉氏 「母校は西日本最古の大学である」―学都開闢200周年に向けて―

柴田敬先生

趣味は将棋(へぼですが・・・)青春編③

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 10月トピックス】

◇名作「将棋の子」

 大崎善生の作品「将棋の子」。名作です。

今回、このトピックスを書くにあたり、読み返しました。

物語の軸となる登場人物は、札幌の天才少年。

プロ棋士を目指し、上京。養成機関の奨励会に入会します。

彼には独特の将棋観があります。定跡をあえて勉強しない。

序盤、中盤は圧倒的に不利ですが、驚異的な終盤力で逆転勝ちするというものです。だが、現代将棋は持って生まれた才能だけで勝てるほど甘くはないのです。

 彼は奨励会入会当初、勝ち星をあげ、順調に昇級・昇段していきます。だが、二段で壁にぶち当たります。勝ち越せない。それ以上、昇段できないのです。

 奨励会員は最後の関門、三段リーグ戦を勝ち上がって四段に昇段して晴れてプロ棋士となるのです。

 彼は身を焦がすほど、焦ります。ちょうど、その時期、ともに上京して生活を支えていた父親と母親が病気で亡くなったのです。奨励会では勝てない。東京で生活もできない。失意の元天才少年(そうです。もはや天才とは呼ばれなくなっていた)は奨励会を退会。北海道にひとり帰っていくのです。その後の彼の人生は「将棋の子」を読んでください。

◇奨励会退会後の人生

プロ棋士になれず、将棋界を去っていく元神童、元天才少年たち。彼らはなんの資格も持っていません。奨励会員の多くは大学に進学していません。青春のすべての時間を将棋に打ち込み、結果を出せず、挫折していくのです。彼らはどんな人生を歩んでいくのでしょうか。

 大学を卒業して一流企業に就職。安定した高収入を得て、世界を舞台に活躍する。そんな人生とは無縁です。

 「将棋の子」には奨励会退会後の元会員たちの人生、苦闘が記されています。

司法書士。俳優の付き人。将棋ライター。世界放浪・・・。

 さて、福岡県立八幡中央高校の同窓生、N君のことです。

 彼は独学で将棋を学び、全国大会で優勝。高校生名人になりました。

 N君はプロ棋士を目指し、単身、上京。奨励会に入会したのです。N君はその後、どうなったのでしょうか。

◇数十年ぶりの再会

 高校を卒業して数十年後、首都圏に就職した同期生の同窓会が新宿のクラブで開催されました。

 同窓会でぜひ、会いたい男がいます。N君です。果たして彼は姿をみせるでしょうか。

 夕刻。同窓生が続々と集まってきます。

 来ました。N君です。私は彼の隣に座りました。

N君はご機嫌でした。にこにこしています。ふちなし眼鏡。少し唇をとがらせて、
早口でしゃべる姿は高校時代、そのままです。

 数十年ぶりの再会。酒を飲みながら、半生を聞きました。

高校生名人の金看板を背負って、さっそうと奨励会に入会しました。師匠(プロ棋士)につき、当初は順調に昇級・昇段していったそうです。そしてついに三段に昇段。プロ棋士まであと一段の地点までたどりついたのです。

しかし、三段リーグ戦の壁は厚く、高かった。どうしても勝ち進むことができない。年齢制限(26歳)が迫ってきます。

 彼は決断します。奨励会退会・・・。プロ棋士になる夢を断念したのです。彼はこう語りました。

 「自分は奨励会に入るのが遅かった。高校を卒業して入会してもだめだ。プロ棋士になる少年は小学生、中学生で奨励会に入会している」

 奨励会退会後、彼は北九州に帰郷しませんでした。将棋界とは無縁の人生を歩み、首都圏で医薬品関連の仕事をしているとのことです。

 私は質問しました。

―将棋、今でも、指してるの。

 彼は答えました。

 「いや。まったく、指していない」

 私はぶしつけな質問をしたことを恥じ、沈黙しました。

(鳳陽会東京支部 S)

台湾基礎講座 第1回「中華民国とは?」に参加

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 10月トピックス】

9月17日(日)、14時~16時の予定で開催された掲記イベントに新宿区百人町(JR大久保駅徒歩3分)の竹林館茶房まで行って来ました。

最近、台湾有事や統一か独立か、総統選挙の行方、日本の防衛費予算等、報道で台湾について耳にすることが多くなりました。 
7年前からFacebookで友達になって頂いている台湾系華僑2世で新規事業開発コンサルタントで文筆家、講演家の簡憲幸さんが講師ということで楽しみに参加しました。
早めに到着し、一番乗りだったので、初対面の簡さんと暫く談笑しました。
参加者は定員10名でしたが、14名の参加者で冒頭30分参加者の自己紹介の時間がありました。

台湾にはサラリーマン時代の34年位前に広島勤務時代に親交のあった先輩が台湾に赴任されていて一度だけ訪ねたことがあります。
台湾料理を堪能し、故宮博物院や忠烈祠を見学した記憶があります。
参加者は台湾について縁があり、造詣が深い方が多く、私も少し整理し、時間を掛けて台湾について勉強したいと思います。

簡先生は【歌舞伎町ツアー】と題して華僑が案内する「新宿歌舞伎町・裏文化講座」も定期的に開催されていて、時間が合えば参加したいと思っています。
(学22期 Y・Y)

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ソリの合わない二人の英傑 木戸孝允と大久保利通

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年10月トピックス】

幕末の三傑とされる西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允。

松平春嶽公は三傑を次のように描写している。

「御一新の功労に智仁勇があった。智勇は大久保、智仁は木戸、勇は西郷である」と。

大久保と木戸。二人ともあの頭脳明晰で開明的で、時代の最先端を行った春嶽公は両者の人物評に「智」を付している。両者とも相当な知恵者だったのだろう。

◆正反対の木戸と大久保

明治政府の歴史は攻めの木戸と守りの大久保の綱の引き合いで織りなされた感もある。

大隈重信は両者について正反対の性格を有するとして次のように評している。

「木戸は創業の人なり。大久保は守成の人なり。木戸は自動的の人なり。大久保は他動的の人なり。木戸は慧敏闊達の人なり。大久保は沈黙重厚の人なり。もし主義をもって判別せば、木戸は進歩主義を執る者にして、大久保は保守主義を奉ずる者なり。是を以て当時木戸は旧物を破壊して百事を改革せんとする王政維新の論を取り、大久保は之に反して漸時大賽令の往時に復せんとする王政復古の説に傾けり。即ち当時の進歩的改革論者は、木戸に依りてその志を成さんとし、保守的復古論者は、共に大久保を擁してその業を遂げんとし、両々相下らざりし。

木戸と大久保とは、その性行、主義の相違なること此の如きに拘わらず、相依り、相持ち、以て互いにその及ばざる所を補い、独力の能く為すなき所を成し、却て中正を得たりし者亦少なしとせず、然れども諸般の事物に対しては、その意見議論、まったく衝突し、その衝突はおのずから二人の代表せる薩長の軋轢となり、その軋轢は延いて、進歩主義と保守主義との一消一長を為し・・・」としている。

木戸孝允は明治の三傑の中では個性に欠けるような感がある。しかし、これは名家の生まれ故のもので、美男の風貌、温和な性格、文化・学問の素養、カネに不自由しなかったからだとみていた。

若手を集め飲食の面倒も見ており、長州ファイブがロンドンに渡航する際もカネの工面など、若手の面倒を見ることに汗をかいている。

このように、木戸孝允はバランスの取れた温和な性格と思いきや、大隈が「慧敏闊達」で「旧物を破壊して百事を改革せんとする・・・進歩的改革論者」であると観ているとは意外であった。

確かに立場上倒幕に向けた長州藩のリーダーだったが、藩内の過激な攘夷論者のなだめ役、藩の兄貴分的な調整役という印象が強い。

しかし、人間は分からない。

おっとり型の木戸公と思いきや、江戸三大道場である斎藤弥九郎の練兵館で、入門わずか一年で間の塾頭となっている。

腕は立ったのだろう

また、旧きを断って、新しきを創るという。

こうした情熱はどこから来たのか。

木戸は藩校明倫館で山鹿流兵法を教える3歳年上の吉田松陰から教えを受けているのだ。

木戸が熱い進歩的改革論者と評されたのは明倫館で松陰のDNAを受け継いでいたからかもしれない。

(学23期kz)

東池袋のレンタルオフィス訪問

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 9月トピックス】

2017年9月14日Facebook投稿分より

先日、小中学校時代の友人O君が新橋で個人の特許事務所をしていて、廃業したらしいとFacebookに書きましたが、実は東池袋に移転しているとわかり、15:30にアポイントを取り訪問しました。

近くのルノアールで1時間30分話しました。
37歳位の時に大手石油化学会社(出光石油化学→後に出光興産に経営統合)を辞めて、当時、40倍の国家試験(弁理士資格)を突破して開業したそうです。(小学校時代は級長に選ばれる一人でクラスで一番の成績)
66歳の今は開店休業状態とか。
特許の仕事は特許申請から10年に及ぶこともあり、60歳を過ぎるとクライアントが発注しないとか。
若い人のところに優先的に発注するそうだ。
その上、現在は特許の国家試験は15倍程度に緩和されていて、若い有資格者で溢れているとか。
私は難しい国家試験に合格し、お客をそれなりに開拓していれば一生安泰かと思っていました。
その後は小中学校時代の同級生の安否の情報交換をしました。(そういえば、幼稚園も一緒でした。)
大都会での竹馬の友は貴重で心強い。

追記)
以前お世話になった同世代の弁護士さんが、その後、事務所を新宿から四ッ谷に移転し、若い世代の方との連名の弁護士事務所となっていたのは、裁判で長期に亘ることもあるので同様のケースか。

写真2枚目は小学校4年の時に地元中国新聞社を見学した時の写真(下段左の学生帽がO君、そのすぐ上が私)
(学22 Y・Y)

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大相撲九月場所を振り返って(含千秋楽観戦記)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 9月トピックス】

九月場所は序盤から大関を始めとする上位陣がバタバタと敗れ、長年の大相撲ファンの私は呆れ、正直、辟易としました。
物言いが付いて、取り直しが多く、相撲内容も叩きが多く良くなかった大関貴景勝が11勝4敗で幕内最高優勝なんて…。
(相撲に真剣に向き合う姿勢は素晴らしいと評価していますが)
千秋楽は熱海富士の12勝3敗での優勝に一縷の望みを託し、国技館で応援しましたが、私の予想が悉く当たり、4敗で優勝の可能性のある人は貴景勝以外は全て敗れました。
結びの一番は番付通り貴景勝には霧島でしょう。
大栄翔は貴景勝には分が悪く殆ど勝てていない。
熱海富士に元大関朝乃山はきつい。
幕内下位の熱海富士は今場所の救世主、出来れば12勝3敗、悪くとも11勝4敗でも優勝させたかった。
新大関豊昇龍、前半で崩れたものの3勝6敗からの勝ち越しはハングリー精神の賜物で立派。
14日目の貴景勝戦は真骨頂。
途中まではカド番ではあるが、霧島が安定していて優勝するのではないかと思ったが崩れ意外であった。
ファンではないが場所前に優勝を予想した琴ノ若は雑な相撲や立ち合いの失敗もあり裏切った。
近い将来の横綱と見る。
大栄翔や若元春はまずまずの成績で、大関を目指して力をつけてほしい。
元大関の朝乃山、9勝6敗と意外に脆く負けた。
怪我で調子が悪かったか。
北青鵬、相撲の型になっていないが、時間はかかるが大化け期待。
豪ノ山は負けん気も強く、正攻法で強くなりそう。

応援している力士では阿炎に期待したが、9勝を挙げたものの安定感はなく相撲内容は相変わらず。
壁にぶち当たっていて、色々と立ち合いからの引き技を含めて打開の為に試して見るのもよいが、今の相撲では大関は程遠い。
肘とか悪いのか、表情も虚ろで、勝負師の顔ではない。
熱海富士との相撲で、立ち合いからの変化で今後はないと理事長から苦言を呈された。
玉鷲、とみに衰えた。
学部の入学同期(&卒業同期)の友人が平戸市の副市長を最近迄していたこともあり応援している平戸海、体力負けしているが、勉強の時期。
ご両親繋がりで応援している栃神山、3連勝スタートでひょっとするとと夢を膨らませたが、4勝3敗に終わった。臥薪嘗胆。
深井は4勝3敗。
山口市繋がりで応援している将軍は3勝4敗、千代大宝は2勝5敗。
式秀部屋の最上桜は3勝4敗。
大当利5勝2敗の好成績。

千秋楽は市川市在住のリアル&Facebook友人の方からお声掛け頂き、序ノ口の一番から2階の招待席で食事、お土産付きで神送りの儀式まで生観戦で堪能しました。
久しぶりの再会となりました。
大感謝。
途中、栃神山のお父様が席までご挨拶にお見えになり、結構な時間、相撲談義に花を咲かせました。
嬉しかった。

国技館を後にして、手荷物の忘れ物に秋葉で気付き、慌てて引き返したら椅子の下にありました。ほっ。
熱海富士が大勢のファンに囲まれて引き揚げる時で、貴重な写真が撮れました。
ファンの声援とそれに応える人柄の良い熱海富士に私も泣きそうになりました。
終わりよければ全てよし。
(忘れ物をしたがゆえに場所の最大の話題の人に間近で会えたので)

(学22期 Y・Y)

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第4回長州歴史ウォークのご案内

【幕末風雲・品川編】

激動する幕末の舞台となった江戸・品川。桜田門外の変を決行した水戸浪士、そして英国公使館(御殿山)を焼き討ちした高杉晋作ら長州藩志士の集結地はここ品川だった。また、毛利邸や伊藤博文邸の跡地や若き日の坂本龍馬が黒船警備で駐屯した浜川砲台もある。晩秋の週末、歴史の舞台を巡る。
開催要項 令和5年11月25日(土)午前10時30分 品川駅中央口集合。
参加費無料。

高山稲荷神社(毛利家と縁)⇒毛利邸(明治期)跡=現・品川プリンスホテル⇒開東閣(旧伊藤博文邸)⇒ゴジラ上陸地⇒東海道・品川宿⇒土蔵相模跡(高杉晋作ら長州藩志士、水戸浪士の集結地)

⇒品川浦 昼食(分散して食堂やレストランで食事)

御殿山(英国公使館焼き討ち)⇒品川神社(徳川家康戦勝祈願・板垣退助墓地)⇒東海道・品川本陣⇒新馬場駅乗車(電車で移動)⇒立会川駅下車⇒坂本龍馬像(20歳のとき、黒船警備)⇒浜川砲台跡(若き坂本龍馬の駐屯地)⇒勝島運河⇒東海道⇒立会川駅
午後3時ごろ現地解散
有志で打ち上げ(立会川駅周辺か三田の鳳陽会東京支部事務所)

参加希望者は鳳陽会東京支部ホームページの「連絡・お問い合わせ」からお申し込みください。

御殿山の高層マンション
坂本龍馬像