山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2024年 3月トピックス】

ポスターにある7駅に貼られている(防府、岩国、大畠、柳井港、岩田、下松、徳山)

熱い湯だ。市役所に問い合わせると、「源泉のままで、沸かしていない」とのこと。
なお、湯田温泉駅は無人駅になっている。









経済学部の前で。
山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2024年 3月トピックス】
熱い湯だ。市役所に問い合わせると、「源泉のままで、沸かしていない」とのこと。
なお、湯田温泉駅は無人駅になっている。
山口大学経済学部同窓会
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【2024年 3月トピックス】
宮沢賢治の愛読者の中也は、文人仲間で、やはり宮沢賢治に惹かれる草野心平と気脈を通じた。
この二人はともに宮沢賢治が好きで、酒も好き。また、すぐに酒の相手と喧嘩するところも相似ている。
新宿落合付近の檀一雄の家近くのおでん屋の「おかめ」で文人仲間が呑んでいた時の話。
中也の捨て台詞がもとで太宰治と喧嘩となり、両者を止めにはいった檀一雄と草野心平が
つかみ合いになり、四つ巴の喧嘩になったという。
それはさておき、太宰も中也の酒癖の悪さには辟易していたが、太宰は「・・・しかし書くものはよかったなあ。よくクシャクシャにした紙切れを持っているんで読んでみると、それが、うーんと唸るほどいいものなんだねえ・・・やっぱり天才というもんかねえ」と語っており、中也の才能を評価していたようだ。
◆だらしない中也だが、中也は子供が2歳、中也29歳の時、定職に就いて欲しいという妻の頼みもあり、親戚筋の紹介でNHKの就職試験を受けたという。
結核性脳膜炎で逝去するちょうど1年前の話だ。
文末の顔写真はNHKを受けた時、願書に貼った写真だとされる。
また願書の履歴書には「詩生活」とだけ記載されていたという。
面接官に呆れられたが、本人は大真面目だったようだ。これしか書きようがなかったのかもしれない。それほど詩に没頭してきたという自負もあったのだろう。
◆人の死は運命を変える。
中也が詩作を始めるきっかけとなったのが、8歳の時、弟(次男・亜郎・つぐろう)の死による。
また、NHKの面接試験を受けたその年の秋に可愛がっていた最愛の長男・文也を結核で亡くす。
中也は山口に移住することを考えていたが、気力も衰え、翌年に中也本人も療養先の鎌倉で逝去し、山口への帰郷は叶わなかった。
つづく
(学23期kz)
山口大学経済学部同窓会
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【2024年 3月トピックス】
◆ランボー
中也は「和製ランボー」と呼ばれている。
中也が影響を受けたというランボー。
ランボーとは何者か。
◆中学、高校の時からその詩人の名前だけは耳に入っていた。
ランボー
あまりいい響きではない。
アルチュール・ランボー・・・
やはりいい響きではない。
Arthur Rimbaud. 1854年生まれで、中也が生まれる15年ほど前に37歳で他界している。
冗談のような話だが、「アル中の乱暴」・・・実際そういう面があったという。
中也も同じだ。
理性、悟性を意図的に排し、既存のものに価値を置かない「ダダイズム」の世界にどっぷり身を漬けると、そうなりがちかもしれない。
ランボーの写真。
遠くを見つめる目。砂漠を見ているようなうつろな目。とてもさびしそうな目をしている。
◆中也は30歳で夭逝している。ランボーは15歳の時に詩作に目覚め、なんと20歳の時には詩作を放棄したという。
若い時の熱量の高いパッションは垣根を越えて影響を及ぼすのだろうか。
中也もそうだが、ランボーも、文人のみならず、他のジャンルの大物にも影響を与えていたようで、なんと「ノーベル文学賞」を受賞したフォークの神様ボブ・ディランもランボーをよく読んでいたようだ。
◆ランボー好きな学生時代の友人
学生時代、私の近くに神戸から来たF上君がいた。経済を学びに来たF上君。数学が好きな人物で、いつも紙と鉛筆を持っており、紙一枚で数式や図形を書いて遊んでいた。
身体は痩せており、眼鏡をかけ、神経質そうな面持ち。かなりの色白で、唇だけは異様に紅いのが印象的だった。
彼と出会って間もない時、少人数の飲み会でのことを思い出す。
飲みが進んだ頃にF上君が、突然スッと立った。
何が始まるのか・・・
みんなが注目する中で、彼の紅い唇から外国語が溢れ出た。
どうやらフランス語だ。
目を閉じ、手振りを交えて詩句を諳んじた。
パフォーマンスが終わった後、一同しばらく沈黙・・・
ランボーの詩句だという。
どんな詩で、どのような中身か、当時解説をしてくれたのか、どうだったのか。
今ではそれすら、すっかり忘れつちまつた。
(学23期kz)
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【2024年 3月】
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岡山支部からの投稿
山口大学経済学部同窓会
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【2024年 3月トピックス】
山口大学経済学部OBのkzさん、Sさん、そしてKYさんの投稿に誘われて私も書いてみました。
◇青きとき
中原中也の詩と言えば、あまりに有名な「汚れつちまつた悲しみに」がある。
背景には中也自身の失恋の実体験に基づくものと言われている。
青きとき、ある意味陥りやすい純愛への潔癖症、そして、愛すべき恋人を友人に奪われてしまう悲運を悲しみ、心の叫びを静かに詠う。
◇中也の詩集
私は山口大学経済学部3年から、山口市平川の農家の下宿で暮らした。2階に2部屋あった。隣の部屋には、理学部物理学科のK君がいた。薄い壁があったが、ほぼふたつの部屋を行き来し、2年間を共に過ごした。
K君のお気に入りの詩人が中也であった。
彼の部屋に入ると、物理を中心とする専門書が並んでいた。そして何気なく、机の端に中也の詩集がいつも置かれていた。
全国紙1紙の購読料をふたりで折半して、読んだ。新聞に掲載されている様々な問題をふたりでよく議論した。
日本の教育では大学受験のとき、理系、文系の区分が大きく影響し、“知の分断”を生むともいわれている。ふたりは文理の壁を乗り越え、なるべく共通のわかりやすい言葉で議を交わした。むしろ文理の融合でさえあったともいえる。
◇友が奏でるギター
そして夜な夜な、K君が奏でるギターに合わせて、ふたりで歌うのが何よりの楽しみであった。
よく歌い、終わりに歌ったのがCHAGE&ASUKAの「終章(エピローグ)」であった。この歌詞にもある意味、「汚れつちまつた悲しみ」があったとのではないか、と思いながら、最後にその詩をしたためよう。
汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる
(中略)
汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる・・・
(岡山支部 B)
山口大学経済学部同窓会
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【2024年 3月トピックス】
2011-5-8mixi日記投稿分より引用
3月11日以来の日記です。
東日本大震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。
被災された方々の一日も早い復興をお祈りします。
とても日記を書けるような心境ではありませんでした。
心が折れておりました。
株の崩落による大きな損失(私に取っての)もショックでしたが、それ以上にショックだったのは福島の原発事故に伴う、計画停電、電車の間引き運転による大混乱でした。
その上、放射能騒ぎ、この為、商売は売上が激減し大変な状況です。
店は計画停電地域から免れましたが、郊外からのお客様の来店が無くなり、堪えました。
中高年のお客様のウェートが高い為に、地震、原発が恐くてとても美容どころの話ではありません。
命が大切です。
苦し紛れに、サラリーマン時代の友人に電話をしたら、「株の暴落でしょう?」と言われ、「自分はもっと大変なことが起こった。」という。
「女房が突然、1月にクモ膜出血で亡くなり、大震災で四十九日も広島からの親戚が来れなくなった。」と。
昨年、夫婦でオレオレ詐欺に遭われ、大金を失われて、ひどく心を痛められていたのが・・・
奥様には店にも一度、来ていただいたことがあります。
その後、広島に住む学生時代の友人から携帯に電話があった。
「今、大阪に来ているが、友人のYが末期がんで、転移していて手術も出来ない状態。抗がん治療を続けているが・・・」
いきなり、病床の本人と携帯を変わられたが、私は掛ける言葉もない・・・
大学に入学した時に知り合い、夜間高校の出身でその時、既に22歳であった。
苦労人で随分と老けた学生がいるな、が第一印象であった。
福島原発のあのハイテク施設が無残な恰好となり、ローテクとしか思えない。
三号機の納入会社に勤務していた者としては報道の度に胸が痛む。
浜岡原発も菅首相の全面停止要請が・・・
昔から浜岡は当社と聞いていたので、さらに辛い。
リタイアして10年になろうとするのに、この愛社精神は・・・
勤務のマンションも震災後は、住民のストレスからか、標的になることが多くなった。
人の良かった好印象の人まで、人が変ったように攻撃的である。
この年になって、戦後最大、生まれ堕ちて最大の危機に遭遇するのも辛い、の一言である。
(学22期 Y・Y)
※コメントを宜しくお願いします。
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【2024年 3月トピックス】
大学29期KYさんからの投稿
◆随筆家小林秀雄は、最近まで存命でした。中原中也と小林秀雄の関係は、長谷川泰子を巡る三角関係を中心にした愛憎劇に当方は関心を持っていました。
泰子は中也を捨て、小林を取った。
随筆家小林秀雄は、最近まで存命でした。中原中也と小林秀雄の関係は、長谷川泰子を巡る三角関係を中心にした愛憎劇に当方は関心を持っていました。
泰子は中也を捨て、小林を取った。
形の上では、小林が中也から泰子を奪ったことになる。
◆そうした事件の後からも、中原と小林の交友関係は続き、死の直前、故郷山口に戻る決心をした中原は、二冊目の詩集となる『在りし日の歌』の原稿を小林に託すほどだった。
◆湯田温泉中也記念館の碑面には、「帰郷」の一節「これが私の故里だ/さやかに風も吹いている/ああ、おまえは何をして来たのだと/吹き来る風が私にいふ」という詩句が掘られている。
(大学29期 KY)
(岡山支部からの投稿)
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【2024年 3月トピックス】
宇部・山陽小野田支部のMyzさんが投稿した山口大学準硬式野球部の話に触発されて、山口大学硬式野球部にいたある人物の出会いについて書いてみたくなった。
また、当時の準硬式野球部が遠征に行った久世球場(岡山県)への自分自身の再訪に繋がった。
◇入学試験前夜
私は1980年、山口大学経済学部を受験した。湯田温泉にあった小さな宿、加藤旅館(今はない)に泊った。受験前夜、風呂に入った。固形石鹸を丸刈りの頭にこすりつけ、洗髪しているがっつりした体格の君がいた。君との初めての出会いである。
洗髪に固形石鹸?こんな世界を知らなかった、10代の僕は驚いた。そして何学部を受験するのかと聞いた記憶があるが、他のことはあまり覚えていない。
入学して教養部の授業を受けに行ったとき、ばったり、固形石鹸洗髪の君に会った。
開口一番は「あっりゃ!」という驚きの一声であっただろう。
その後、学生時代の4年間、そして互いの転勤などによる中断はあったが、40年を超える交友が続いている。
◇野球部キャプテン
君は大阪の公立高校で、帽子の左右に3本線が入っていることで有名な野球の名門校のキャプテンをしていたという。そして専攻は理学部の数学科。将来は高校の先生を目指しているといった。
都会育ちであったはずの君が選んだ下宿先は、野球場南にあった平川の農家の納屋、その離れの小部屋であった。これだけでもかなり変わった人物であった。
教養部時代は自転車をこいで、よく君の下宿を訪問した。大阪出身の君は、同郷の司馬遼太郎の小説を早い時期からよく読んでいた。また、「父子鷹」とかも読んでいた。江戸時代の人情味あふれる市井の人にも興味を持っていたものとみられる。
今、振り返ってみると、生まれもっての教育者にふさわしい人間陶冶を早い時期から自ら重ねていたようにみえる。
経済学部には野球の名門の広島商業から入学した同期の学生もいた。彼は文武両道で、広島商業野球部で活躍していたという。
山大硬式野球部のキャプテンになったのは理学部数学科の君であった。
◇数学の高校教師
君は大阪の教員採用試験にも一発合格をし、念願の数学の高校教師となった。そして当然のように硬式野球部を指導することとなった。
教員としてのその後は高校野球界の名門校の出身、そして公立高校の教師という立場で大阪高野連ではかなりの重責を担うことになったようである。休日も練習試合があり、同行して指導する。そしてその時間を嬉々として楽しみ、高校生と一緒にクラブ活動をしている話をよく聞かせてくれた。
進学校で、大阪野球界の公立高校の星、春日丘高校の監督をしたこともあるという。その指導力の評価がうかがえる。「ああ、春日丘ね!」という人は相当な高校野球好きに違いない。
まさに君は大学入学当時から、そして在学、定年まで人の教育に携わってきた。そして進学校の教師として近畿圏の難関大学の数学の入試問題を毎年解き続け、進学指導、数学指導にも熱い情熱をささげてきた。
そんな凄い教育者の卵と出会えたのも山口・平川であった。そして君は親鳥となった。
定年を前にもうひとりの大阪出身の経済学部の同期と3人で飲んだお酒は格別のものであった。
(岡山支部 B)
中原中也「聖なる無頼」
山口大学経済学部同窓会
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【2024年 3月トピックス】
中原中也。詩人。
私は山口大学経済学部の学生時代から、彼に強い関心がありました。
彼の少年時代の写真もいい。見るからに賢そうな顔。
「神童」と呼ばれていたそうです。
湯田温泉界隈を歩いているとき、ある屋敷の表札に「中原」と記してありました。
―ここが中也の実家か
◇私の好きな詩
kzさんが「好きな詩もお伝えください」と書いていたので、私の好きな詩の一部を伝えます。
帰郷
これが私の故里(ふるさと)だ
さやかに風も吹いてゐる
心置きなく泣かれよと
年増婦(としま)の低い声もする
あゝ おまへはなにをして来たのだと・・・
吹き来る風が私に云ふ
私が山口で暮らしていたころ。
天気のいい日。窓を大きく開け放ち、この詩を
よく口ずさみました。
◇中原中也記念館
10数年前。山口を再訪しました。
湯田温泉の一角に建つ中原中也記念館を訪れました。
心地よい空間です。
窓辺の椅子に座り、中原思郎さん(中也の弟)の文章を読みました。
これがとても素敵な文章なのです。中也の臨終の情況も描かれていました。
◇詩人の臨終
中也は1937年10月、鎌倉の病院に入院しました。思郎さんは母親と共に鎌倉へ駆けつけます。
中也は死の間際、母親の指を自分の2本の指ではさむ。煙草を吸うかのように。
そしていった。
「おかあさん」
もう一度
「おかあさん」と呼ぶ。
「僕は 本当は 孝行者だったんですよ」
「今に分かるときが来ますよ」
10月22日午前零時10分、死去。30歳。
思郎さんはこう記しています。
―中原家から「聖なる無頼」が消えた感じであった。
(鳳陽会東京支部 S)
山口大学経済学部同窓会
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【2024年 3月トピックス】
◆山口の詩人といえば金子みすゞもさることながら、中原中也もいる。
中也も金子みすゞ同様夭折した。
ご存知のとおり湯田温泉には記念館が建っている。
そう、中也の出生地は湯田温泉だ。
今年の初め、NYタイムズに山口市が紹介され脚光を浴びたが、この機会に中也も海外の注目を集めて欲しいものだ。
中也はクセがある人物のように思うが、各界にファンが多い。
伝説的なロックグループ「はっぴいえんど」のメンバーでドラムを担当していた松本隆氏。
松本氏は作詞も手掛け、長年にわたり曲に歌詞を付けてきたが、気が付いてみると作詞家として阿久悠にも引けを取らないくらい多くのヒット曲を生みだしており、2017年には紫綬褒章を受章している。
その松本氏が、好きな近代詩人として宮沢賢治、萩原朔太郎よりも先に、中原中也の名を挙げているのだ。
ドラマーだけあって韻律、リズム感が「命」の松本氏。彼が中也は音楽家だという。言葉という楽器を弾いている音楽家だと。中也の詩を目で読むより、声を出して読んだ方が良いと語っている。
◆中也は、山口高商卒の「知の巨人」柴田敬教授の5歳下。山口高商の卒業期別でいえば、22期に相当すると思われる。
中也は代々医者の家系である中原家の長男として明治40(1907年)に湯田温泉で生まれる。幼い頃は神童呼ばわりされもしたが、青年時代には婿養子の医者として中原家に入った父親との確執もあった。
そういうこともあってか17歳の時に京都へ出る。その後19歳で東京に移っているため、高商生と酒を酌み交したことはなかったのだろう。しかし、幼馴染みはいたはずだ。
◆文人仲間
中也は多くの文人・詩人と交流があった。小林秀雄、太宰治、坂口安吾、吉田秀和、檀一雄、草野心平などだ。
しかし、中也はあまり人付き合いが上手い方ではない。むしろ下手だ。かなり下手だ。
喧嘩っ早いのが良くない。
特に酒が入り、酔いが進むと、しつこく絡む癖が出てしまい、喧嘩となることが多かったようだ。
相手に議論を吹っ掛け、「チェ、だからおめえは・・・」と、殺し文句を切る。
困ったものだ。
しかし、詩については評価される作品を残している。
◆皆さまの中也論・・・お聞かせください!
好きな詩もお伝えください。
(学23期kz)