鴎外、そして漱石 その2

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年12月 トピックス】

歴史ウォークでは「谷根千(やねせん)」も回った。

谷中から坂を下って団子坂下。

そこには地下鉄千代田線の千駄木の駅が口を開けている。

団子坂は、鴎外や漱石を始め、多くの文人の作品に出てくる。

団子坂には多くの菊人形屋が店を並べていたという。

以前江戸川乱歩も団子坂で古本屋を開いていたこともあり、乱歩には「D坂の殺人事件」という特殊性愛を持つ犯人と被害者をトリックとして用いた作品もある。そこでは古本屋の主人の奥さんが被害者となった。

団子坂下を西に上がった団子坂上近くにある森鴎外の旧居跡がある。

そこは高台になっており、約20年前に建てられたのが鴎外記念館「観潮楼」だ。

その昔、明治25年、森が30歳の時、記念館が建つところに自宅(歓潮楼)を構えた。

自宅の2階からは海がよく見えたのでこの名が付いたのだろう。

今では海岸が埋め立てられ海は見えず、ビルや住居しか見えないが、高いビルの隙間から、スカイツリーが見えるスポットがある。

◆観潮楼での歌会

日露戦争後、歌人の浪漫派の与謝野鉄幹(新詩社系、一時兄が経営する徳山高等女学校の教員として在籍)と写実派の正岡子規(根岸派)との深刻な対立を見かねて、両者の代表者も加わったサロン風の歌会を催している。

ここで有名どころの文人が集まったという。

与謝野鉄幹、正岡子規を始め、後に自然主義派を形成する石川啄木、北原白秋、斎藤茂吉のほか伊藤左千夫、佐々木信綱、上田敏、永井荷風なども集まったという。

この中で、ひときわ若かったのが石川啄木。鴎外と啄木の年の差は24歳だ。

鴎外は石川啄木の詩の才能をいち早く見抜き、啄木の詩を愛読した。また啄木が創刊した浪漫派の文芸雑誌「スバル」は鴎外が名付け親となっている。

また、5歳下の夏目漱石も贔屓にしていたのではないか。

というのも、夏目漱石がロンドンから帰って来た時、鴎外が観潮楼があるところに引っ越し、空いた住居を漱石に紹介し、漱石はそこに入居。その住居で、吾輩は猫である、坊ちゃん、草枕を執筆している。

また、漱石は東大予備門予科学校の同級生であり、また漱石が松山中学に赴任した時、愚陀仏庵で同居した正岡子規の親友だ。

正岡子規と漱石、何度か鴎外のサロンに同席したのだろう。

もう一人の天才作家がいる。

漱石の「門下生」を自認していた芥川龍之介。

小説「鼻」を漱石に激賞されたことから作家の道に進むことを決めたという。

漱石との歳の差は25歳。

漱石のお供で、鴎外の観潮楼に上がり、鴎外と挨拶を交わしたのかもしれない。

◆鴎外の故郷、津和野

森鴎外は山口線の終点、津和野の内科医の長男だ。

生涯、故郷の津和野を愛した。「余は石見人森林太郎(本名)として死せんと欲す」とし、11歳まで幼少の時期を過した津和野で眠ることを望んでいた。

また、漱石も5度にわたり、山口高商赴任のラブコールを受けたというが、実現することはなかった。

このラブコールは松山中学時代に縁ができた、当時教頭だった横路石太郎山口高商校長からの誘いだったと思われる。

◆漱石門下の芥川龍之介

芥川龍之介が漱石の門下に加わったのは23歳の時、漱石が48歳の時だ。

鴎外はこの時53歳で、文学の創作活動を盛んに行っていた時代にあたり、「スバル」に「鴈(がん)」を連載していたころだ。

この「鴈」という作品。

この作品は、東大の学生「岡田」と男運がなく高利貸しの妾となった「お玉」とのほのかな恋をテーマにしているが、映画化されたのが1953年(大映)。

お玉役が高峰秀子。

岡田役は芥川龍之介の長男・芥川比呂志が演じたところが面白い。

芥川の横にいるのは宇野重吉のようだ。

(学23期kz)

芥川比呂志

年の瀬に聞く「俵星玄蕃」

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年12月 トピックス】

三波春夫が歌った俵星玄蕃。

三波春夫より上手いと思う街中のカラオケスナック店で歌う年配の方がおられ、聞き惚れてしまう。

YouTubeで聞くと、歌の神様であるはずの三波春夫もたびたび音程を外しているが、その方は音程を外さなかった。

サビの口上も、声の出し方といい、間のとりといい、強弱のつけ方といい、見事。

(あれだけ歌えたら、さぞ気持ちが良かろうなと、唸ってしまう)

◆槍の名手「俵星玄蕃」

俵星玄蕃は後年に講釈師が創作した逸話とされるが、よくできた話だ。

第3回長州歴史ウォークでは赤穂浪士で語られる史跡を巡った。

四十七士の一人、杉野十平次(次房)は有名だ。

槍の心得があった杉野は、吉良邸討ち入りのため、夜鳴き蕎麦屋に身をやつし、吉良の家来に取り入り屋敷の様子を探る。

そうしたさなか、吉良邸の近くの俵星玄蕃の槍道場で、玄蕃の門下生からも杉野の夜鳴きそばの人気が高くなり道場に呼び入れられ、道場主・玄蕃との交流が始まる。

(玄蕃の槍のさばきを観る杉野の眼付から、玄蕃は杉野が槍に心得のある者だと気づく)

玄蕃の心情は討ち入り組に近かったが、吉良側から従者として仕えるよう話を持ち掛けられたと杉野に漏らす。

相手は槍の名人、俵星玄蕃。玄蕃が敵となれば厄介なことになる。

杉野からこのことを聞いた大石内蔵助は一策を講じ、玄蕃を偽り、加賀藩から400石で仕官する手はずが整ったことにした。こうして玄蕃と赤穂浪士が敵対することは避けられた。

或る晩、「ひと打ち、二打ち、三流れ」討ち入りの山鹿太鼓が聞こえたために、助太刀しようと玄蕃が出向くとそこで黒装束の討ち入り姿の杉野と出会う。

あの場面だ。

「先生!」

「おうっ、蕎麦屋か!」

玄蕃は吉良勢の加勢を両国橋のたもとで石突き突いて、大手を広げて叫ぶ。

「赤穂浪士を邪魔立てするものは、何人たりとも通しはせんぞ!」

後日、泉岳寺で大石内蔵助と俵星玄蕃が対面し、大石が加賀藩の召し抱えの話は作り話だったと詫びる。

後日、この話が加賀藩の耳に入った。

加賀藩は「忠義の士の話を嘘にしてはならぬ」とし、俵星玄蕃を400石で加賀藩に召し抱えたという。

◆「俵星玄蕃」の歌

ひとつ気に食わないサビのくだりがあり、どうしてもなじめない。

「時に元禄十五年、十二月(じゅうにがつ)十四日・・・」

しっくりこない。

やはり、昔覚えた口上、

「時は元禄十五年、師走半ば(しわすなかば)の十四日・・・」

こうじゃないと締まらない。

(学23期kz)

そうだったのか、上野戦争 ④切り札の部隊

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年12月 トピックス】

新政府軍・大総督府の中でも彰義隊への対応を巡って対立があった。

もともと無血開城にあたり、江戸での内戦に対して英パークス公使から戦闘回避を要請された西郷、また大将の有栖川宮は穏健・交渉派。

これに対し、岩倉具視、三条実美、長州藩・大村益次郎は薩摩の独走阻止、廃仏毀釈への地ならし、奥州列藩を牽制し、東征のはずみをつける意味から交戦論を主張。

この両派の間で論戦が続いたという。

こうしたなかで、彰義隊の勢力が増長するに及んで、交戦派が力を得ていく。

この過程で、新政府軍の実質的な司令官が西郷隆盛ではなく、大村益次郎になり、西郷は一武将として正面・黒門攻撃の指揮を執ることになる。

◆時間の問題

東征軍は日を跨ぐと幕臣たちの不穏な分子が蹶起し江戸市中が火の海になることを恐れて早期決着を目指していた。

抜かりない算段が得意な大村は、開戦の午後には決着が着くような戦術を考えていた。

◆切り札の部隊という説

上野戦争当日、午前中は一進一退の戦闘を続けた両陣営。

ここに切り札となった500名の部隊が活躍したという説もある。

その部隊は、前日は千住の宿に泊まり、当日の昼頃、会津の援兵と称して会津藩の旗を掲げ、鶯谷駅のある新門(坂下門)から入った。

文化会館の北寄りのところにある摺鉢山という古墳のあるところまで来たとき、会津の旗を降ろして代わりに長州の旗「一文字三ツ星紋」を掲げて、黒門口を内側から攻撃。

これにより上野の山内は大混乱になり、彰義隊は崩壊した。

こうした戦闘模様を報じたかわら版があったが、官軍は回収にかかった。

しかし1枚だけが残っており、覆面部隊工作が知れることになったそうだ。

本当か?

中外新聞外篇の二十巻(慶応4年5月刊行)にはこうある。

「官軍東叡山屯集の彰義隊を攻むる事」

・・・「會」と相記し候旗押立候て援兵来り候様子の処、右は儀兵にて忽ち発砲・・・とある。

勝ちを時間単位で読み切っていた感のある新政府の東征軍総司令官・大村益次郎。

大村益次郎にとって、この部隊の動きが、アームストロング砲よりも確実に勝ちを引き寄せる戦略だったとは考えられないか・・・

こうしたこともあってか、黒門が突破されたとの報に、天野八郎は隊士を率いて反撃に向かおうとしたが、気が付くと従うものは若干名だったという。この時に彰義隊の隊士の戦意はすでに失せていたようだ。

◆江戸での新政府軍勝利のシンボル

もともと、新政府軍にとって彰義隊を潰すことは問題ではなかった。

ただ、扱いを間違えば江戸庶民を敵に回し、今後の新政権にとって厄介な存在になると考えられた。

江戸庶民に徳川に代わり、新政府の存在を知らしめるために、彰義隊との戦い、そして上野戦争での勝利は格好の舞台となったのではないか。

(学23期kz)

A4の魔術師

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年12月 トピックス】 

◆サラリーマン時代の話で申し訳ありません。
マンション管理人をやっていた頃、月に一回、月末に管理会社や管理組合に月次報告を取り纏めていてなぜか思い出しました。

◆私の勤務していた会社に 「A4の魔術師」と言われる人がいました。
企画したものや仕事上の成果をA4の大きさに取り纏めるのを得意としていて抜群だったようです。
誰が誰をこう評したのか具体的には知りませんが、私は凄い呼称だと羨ましく思っておりましたが、これは人に良く見せるA4の取り纏めは抜群に上手ですが、実は骨がなく机上のものであることを揶揄する意味も含んでいたようです。
恐らく偉い方が、その人の本質を見抜いていたのでしょう。

◆私はというとそのような特技もなく、スタッフとして半期毎の支社の業績評価等をA3に取り纏めていましたが、なかなか纏まらなくて、いつも苦労しておりました。
当時はパソコンもありましたが、私は業務用ワープロを使っておりました。
自分自身の目標管理の達成評価なら、やらなかった、出来なかった、で済みますが、組織全体のこととなるとそうはいきませんでした。
プレッシャーがかかったものです。
S評価となればメンバーのボーナスも増えますが、C評価となると最悪です。
定量的評価は数字ですからどうしようもありませんが、定性的評価は書き方にも依るところ大であり難しかったです。
皆が出来なかった施策を出来たと嘘は書けませんが。(笑)

◆そういえば、生え際の魔術師、退職後は相場でマーケットの魔術師、日足の下髭取りの魔術師と言われる人もいましたね。(爆)

写真はワープロRupoのCM撮影で広島市西区横川のマンションの一室での撮影現場。
右は立花理佐さん
(学22期Y・Y)

※コメントを宜しくお願いします。
①トピックス末尾の「コメントを残す」欄から。
あるいは
②私のメールアドレスへ
0rb6672r388367t@ezweb.ne.jp

攘夷の背景  流行り病と経済混乱

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 12月トピックス】

美しい国日本、敬虔で危険な国・日本

1853年のペリー来航以降、1860年代に掛けて外国人殺害事件や公使館放火が起きている。

生麦事件が起きたのは1962年(文久2年)、その前年に英国公使オールコック一同が着任のため江戸へ向かう途中、霊峰富士山へ登山をしたが、その際水戸藩士が「神国を汚した」として英国公使館を襲い、公使館員を傷つける事件も発生している(東禅寺事件)。

当時の海外駐在員の記録を見ても、美しい島国・日本に魅せられるも、西洋人には馴染みのない敬虔なルールやしきたりがあり、それを犯せばいつ斬られるかも知れず、夜間の外出には気を付けていたとの記録が残る。

米国総領事館ハリスの秘書兼通訳ヘンリー・ヒュースケンも1861年1月に攘夷の刃に倒れた。

外国人が日本に住み始めた明治維新前夜には、確かに「不届きな」外国人もいた。蒸気船で上陸した水兵も、酒に酔って土地の人を殴ったり、家や店に入り、狼藉三昧をした者もいたという。

また外国人商人について「日本では商人の地位が低い。しかし西欧の服を着ていない日本人に優越意識を持ち、軽蔑・愚弄する。残念ながらその種の人間が非常に多かった」(ツー・オイケンブルク・プロイセン公使「日本遠征記」)とある。
しかし、攘夷の背景はこうした日本独自の思想信条や市民の一般的な感情だけではなかった。

外国船が持ち込んだコレラの流行

1822(文政5)年、1858(安政5)年、1862(文久2)年にいずれもコレラの感染地は長崎。流行った季節は7月から8月の夏場で、壮年層を襲った。特に安政5年から6年にかけて発生したコレラは江戸で3万人の死者を出している。

コレラはガンジス河流域のベンガル地方の風土病であったが、英国の植民地政策によって世界に広がったとされる。

安政5年のコレラの感染源は、かつて1853年のペリー来航に伴う4隻の中の一隻でもあったミシシッピ号。1858年に長崎に再び寄港し、そこから瞬く間に全国に蔓延している。当時は対処するすべも乏しく、隔離し、祈祷するほかなかったという。

外国との通商に伴う混乱

国内での金銀交換比率を米国の総領事、タウンゼント・ハリス(後に公使)との通商交渉で、ハリスに押し切られる形で設定された交換レート。すなわち、外国では金と銀の交換比率が1対15のところ、諸般の事情から1対5と設定することで決着した。するとどうなるか。外国人は海外から大量の洋銀を持ち込み、金に換えることで容易に3倍の稼ぎができる。かくして金の大流出が起きた。流出した金は10万両とも2000万両とも言われるが確かなことは分からない。こうした単なる通貨交換比率の設定だけで、外国商人は一夜にして大儲けしている。

これはこれで問題であるが、この後の対応も経済を混乱させたのだ。

すなわち幕府は金の品位を下げる改鋳に向かう。すなわち金の含有量を3分の1に引き下げることで金と銀の交換比率を外国並みとし、金貨の流出に歯止めをかけた。また、金貨の流出で金貨が不足していたことに対応するため、鋳貨量を増やしたのだ。これにより金貨の価値は暴落し、ハイパーインフレが生じたのだ。

こうしたハイパーインフレは特に貧困層に経済的な打撃をもたらした。1858年から1866年までに米価は11倍に跳ね上がり、賃金水準(実質)は1800年ころに比べ約半分になったという。いうまでもなく、一揆や打ちこわしが流行った。

このように、外国とのヒトやカネの行き来が増えたことに伴い、得体の知れない流行り病に侵され、先行き見えない経済混乱も攘夷をもたらした背景にあったといえる。

(学23期kz)

帆立尽くし

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年12月 トピックス】

<岡山支部・岡山Bさんからの投稿>

今日はとあるところで“帆立尽くし“(安くて旨し)
先ず“帆立弁当“ ごろごろ感の野菜が旨い 帆立の味が染み込んだ炊込ご飯はもとより♬

次は“帆立特蕎麦“この“特“とは特別盛りは勿論、お得な盛りとくる
新蕎麦で自家製…
但し、“目黒のさんま“ではないが、さんまは七輪で肴からの脂も熱量にして焼き上げる、蕎麦はもっともっと欲しいと思う位、「軽め」に有り難さがありそうだ…(笑)

つけ出汁は帆立の旨味が凝縮されている 小ぶりの帆立で出汁をしっかり取り、衣をつけカラッと揚がったデカい帆立で満足をさせようとする二段仕掛けです
鴨南蕎麦と同様、鴨も帆立もうまい葱を背負ってこないといけないが、この蕎麦出汁の底に潜む斜めに包丁の入った葱は噛むと少しねっとり♬ これまた旨い♬

“とあるところの蕎麦“喰っても、喰ってもまだ蕎麦がある 帆立出汁でわんこそば特盛のお饗しを頂戴した感じ
禅宗の教えで“唯足るを知る“とは上手く言ったものだ

(岡山 B)

第5回長州歴史ウォーク・幕末風雲上野編 開催

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年12月 トピックス】

鳳陽会(山口大学経済学部同窓会)東京支部は令和6年11月30日、東京・上野周辺で第5回長州歴史ウォーク・幕末風雲上野編を開催しました。

大村益次郎(長州)が指揮する新政府軍と徳川幕府を支持する彰義隊が激突した現場を巡りました。

◇快晴の西郷像前で再会

この日は朝から快晴となりました。上野公園のイチョウが明るい陽光を浴び、黄金色に輝いています。

午前10時、西郷隆盛像前に同窓生らが集合しました。

笑顔で再会を喜びます。

西郷像前

写真撮影の後、移動して塩塚保支部長が新政府軍と彰義隊の戦いの背景と概要を説明。

彰義隊の犠牲者を悼む「戦死之墓」に向かいます。参加者の中に僧籍の男性がいて読経。皆で手を合わせました。

◇戦いの現場を巡る

 慶応4(1868)年5月15日朝、上野戦争が始まりました。

いざ、最大の激戦地、黒門跡へ。

西郷が指揮する新政府軍(薩摩軍が主力)と彰義隊が激突した現場です。

彰義隊は黒門前に前線基地を設営しました。高台には大砲を据え、鉄砲隊を配備しています。いかに精強の薩摩軍といえ、容易に前線基地を突破できません。新政府軍は苦戦しました。

 続いて清水観音堂へ。高台に建っており、眺望が開けます。

この周辺でも激戦が繰り広げられました。当時の様子を記した錦絵が堂内にかかっており、参加者は錦絵を眺め、戦いを偲びます。

彰義隊本営跡を歩き、寛永寺を参拝しました。

寛永寺前

◇長州軍の戦い

長州軍(約200人)は、最新鋭の銃を装備。新政府軍の他藩の兵士ともに江戸城から団子坂下に進撃していきます。彰義隊が立てこもる寛永寺の西北、三崎坂を攻め上る作戦です。

ところが、当日は激しい雨が降っていました。三崎坂は雨でぬかるんでいます。

進軍は困難を極めます。

 一方、彰義隊は坂の上に防衛陣地(約150人)を築きました。

坂の途中の寺院にも伏兵を配置して迎え撃ちます。新政府軍が前進すると、横の寺院から伏兵が銃撃。日本刀をかざして斬りかかってきます。新政府軍の大村藩(長崎)の隊長は重傷を負い、戸板に乗せられて戦線を離脱しました。

 戦いの現場で解説を聞き、長州軍の奮闘に思いを馳せました。

 団子坂下に到着。さあ、昼時です。

気の合う仲間とそば屋、中華料理店、韓国料理店などに入り、昼食。ビールを飲みながら、談笑するグループもありました。

◇文豪たちの旧居跡

 午後は団子坂を上り、文豪、森鴎外の旧居跡へ。

森鴎外は山口に近い津和野出身です。少年のころ、上京し、東京大学医学部を卒業。ドイツに留学し、軍医の道を進みます。また、精力的に執筆を続けました。

もうひとりの文豪、夏目漱石も近くに住んでいました。

旧居跡で代表作「坊ちゃん」を巡る逸話が紹介されました。坊ちゃんに登場する人物のモデルとなった教官が松山から山口高商(山口大学経済学部の前身)に赴任。校長を務めたというのです。本人は否定したようですが、同窓生は興味深げに聞き入っていました。

◇アームストロング砲

 東京大学周辺を歩き、赤門へ。加賀藩が徳川将軍の姫を迎え入れたとき、建築された門です。今もなお、江戸時代の雰囲気を色濃く残しています。

東大赤門前

 新政府軍の佐賀藩は東大が建学された高台にアームストロング砲を配備しました。

彰義隊が立てこもる寛永寺を砲撃。彰義隊に動揺が走ります。薩摩軍は黒門を突破。長州軍は三崎坂を攻め上ります。彰義隊は敗走していくのです。

 ゴールは黒門跡です。全行程を完歩した同窓生は晴れ晴れとして、達成感に満ちています。

一本締めで現地解散。

有志は上野の九州料理店へと流れていきました。この打ち上げがまた、楽しいのです。

同窓生の皆さん、来年、参加しませんか。

(鳳陽会東京支部事務局) 

長州歴史ウォーク(上野編)に参加して

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年12月 トピックス】

11月30日(土曜)、快晴。

師走直前にしては風もなく、暖かくさえある。

歴史散策の集合場所は西郷像の前。

内外からの観光客の皆さんが入れ替わり立ち代わり、西郷さんの姿をシャッターに収めていく。

それもそのはず、西郷さんの背後には青く澄み切った晩秋の空と見事に色づいたイチョウの葉。

集ったのは13期から71期までの経済学部同窓生のほか、人文学部、理学部、また歴史ウォークに興味をお持ちのゲストを含め、総勢30名超。

乳母車を押しての参加あり。

また、なかには和服姿の参加者もおられ、一行に華やぎが加わった。

散策コースは、午前中が新政府軍と彰義隊との間で繰り広げられた上野戦争の戦いの模様を振り返る趣向だ。

まずは西郷像の前で、記念撮影。

西郷像近くにある彰義隊の墓を振り出しにスポット、スポットを回ってゆく。

散策の説明者は東京支部の塩塚支部長。

なかなか堂に入った説明ぶりだ。

ところどころにクイズを織り込み、参加者の注意を逸らさない。

コースの振り出しは彰義隊の墓。

ここで激しい内戦が繰り広げられた。

墓の前で、お参加者の一人から、お経を唱えさせて頂きたいとの申し出があった。

真言宗智山派僧侶・鈴寿(今橋克寿)さん。

一週間前の日本寮歌祭でたまたま鳳陽会と席を同じくした旧制高知高・高知大の方で、歴史散策の前日夕方、参加申し込みをされた御仁だ。

壮絶な戦いで散っていった犠牲者へ、一同お経を拝聴し、鎮魂。

実にありがたい。

彰義隊が立てこもった上野の山にある東叡山寛永寺は、徳川将軍家の菩提寺。

京都御所の鬼門を守る比叡山延暦寺に倣い、江戸城の鬼門である東北を守るため、天海大僧正によって創建された寺で、東の比叡山ということで東叡山・寛永寺となっている。

上野戦争でも姿を留めた清水(きよみず)観音堂。

清水観音堂から見下ろした処にある不忍池。

これは琵琶湖に見立てて作られている。

次に回ったところが移築された根本中堂。根本中堂があったところは、今では噴水広場になっている。

この中に寒松院があり、慶喜公が江戸時明け渡しのために慶応4年2月にここに移り住み、同年4月に水戸に移るまで、「葵の間」で蟄居した。

次は谷中霊園へ。

ここには慶喜公の墓がある。

慶喜公は慶応4年7月に駿府に渡り、宝台院で謹慎。

明治2年に謹慎が解かれるが駿府に残り、約30年後に東京小石川に戻る。

大方の徳川歴代将軍は徳川家霊廟に葬られているが、将軍職を返上した慶喜公は神式での弔いを望み、徳川将軍家の墓所には入っていない。

徳川慶喜公墓所

谷中霊園を出た後は、長州軍が攻め上った谷中・三崎坂ルートを逆に辿り、坂を下り切った団子坂下で昼食。

午後からは、文豪の居住跡や大学周辺を回る、「谷根千」の文学・アカデミックコースだ。

団子坂下から団子坂上へ。

かつて団子坂には水戸の両側に菊人形の店が所狭しと並んでいたとされるが、今では見る影もない。

またこの界隈には文人も多く住んでおり、江戸川乱歩も団子坂で古本屋をやっていた。

乱歩の作品にも団子坂が出てくる(D坂の殺人事件)。

団子坂を上がり、左に折れたところに「観潮楼」と呼ばれた森鴎外の旧居跡・鴎外記念館が建っている。

記念館を背に遠くを見遣れば、ビルの隙間からスカイツリーが覗く。

鴎外が観潮楼に転居した後にはロンドン帰りの夏目漱石が住み、ここで「吾輩は猫である」を世に出す。

「猫の家」として知られているスポットだ。

ここから東京大学沿いに進む。

途中、赤門前で再度記念撮影。

最後のスポット東大医学部・鉄門と無縁坂へ

「鉄門」も「無縁坂」も鴎外や漱石の作品によく出てくる。

ここだったのか!

我々一行が鉄門付近に留まっていると、無縁坂を上って鉄門をくぐり、構内に入っていく学生君が何名かいた。

東大理三。

常人離れした、とんでもない秀才なんだろうな。

鴎外の「鴈」に出てくる無縁坂

東大病院から無縁坂を挟んだ反対側には旧岩崎庭園がある。

今回は時間がなく入館はしなかったが一度は訪れてみたいとことろ。

終戦後間もない時にはGHQのニューニューディーラーが多い民政局と覇権を争った保守派のG2、ジャック・キャノン少佐率いる秘密情報機関・キャノン機関があったところ。

松本清張が好んで描いたところだ。

平成時代には最高裁の司法研修所が建っていたが、埼玉・和光に移転した後、都立庭園になっている。

入園料は400円。

65歳以上は200円と半額になっているのが、ありがたい。

年間パスポートもあるという。1600円のところが、65歳以上800円。魅力的だ。

ここを含む都立庭園共通の年間パスポートはあるのか。

あった。4000円。

ここでも期待を裏切らず、65歳以上は2000円となっている。

(学23期kz)

「日本人論」の欠片 その12 八百万のカミ

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 12月トピックス】

◆Buddhist

国際線に乗ると入国する国によっては、入国カードに「宗教」について書かされる欄がある。

その欄には「Buddhist」と書くべし。その昔、先輩からはそう教わった。この記載がなければ「無宗教」ということになり、大変なことになる。

M.ウェーバーによると「宗教とは行動様式であり、人の行動を意識的、無意識的に突き動かしているものの総称」としている。

社会学者らしい。

ここには社会的な伝統や慣習や、道徳も含まれていることになる。

こうした定義からすると、「無宗教者」はどのような規範に基づいて行動する人間か見当がつかず、神を信じない無神論者はとある国の国家が定める宗教を破壊しかねない危険人物とみなされ、恐ろしいことになりかねない。

◆八百万のカミ

一神教の国に比べると、我が国では発言や行動はかなり自由だ。

一神教を縛る哲学や規則にとらわれなくてもよいからだ。

地動説を唱えようが、ガリレオのように異端裁判にかけられ、有罪にされるようなことはない。

学校の先生が進化論を教えようが、米国南部の先生のように、問題にされるようなことはない。

また無神論でも、当局に引っ張っていかれたり、寺や神社から問い詰められることもない。

一神教の世界では死刑にあったり、火あぶりの刑に処せられることもあった。

また、日本では、宗教的上の権威の併存状態があった。

すなわち、

儒学者が仏教を批判することもアリ。

国学者が仏教と儒学を批判することもアリ。

仏教がどのように反論しようと自由。

幕府は騒擾に発展しない限りタッチしなかったし、できなかったとされる。

自由な世界じゃないか。

◆可畏(かしこ)きもの

本居宣長はカミを「尋常ならずすぐれたる徳のありて可畏(かしこ)きもの」としている。

可畏きもの・・・

可畏(かしこ)きものとは、辞書には「深い敬意や恐怖を感じ、心から尊敬するという意味を持つ言葉」とある。

権威あるもの、感動を与えるもの、神々しいもの、それらは全て「神」となる資格を有しているということか。

自由な日本で、大らかな世界が生まれたのかといえば、そうはいかなかった。

イデオロギーが存するところには、「カミ」が担ぎ出され易い。

歴史を振り返っても、暴力的な運動や活動でさえ、それらを権威づけるために権威を有する者が「カミ」として「信者」によって担ぎ出されてきた。

この「カミ」には経典がない。

ここに「信者」による利己的で勝手な解釈が入り込む下地がある。

◆では、経典がある一神教の経典、聖書やコーランでは解釈が入り込む余地は無いか。

そんなことはない。

正統派と異端、正論・正義と俗論。洋の東西を問わず、これらの両論の争いが繰り広げられてきたのが人類の歴史だ。

(学23期kz)

懐かしい味、残業時の出前

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年11月 トピックス】

◆西新橋には多くのメシ屋があり、夕食によく食べていた。

しかしあまり行ったことはない。

どういうことか。

出前だ。

◆かつて大部屋で比較的長く勤務したことがあった。

ワンフロアーで70~80人いたろうか。

夕方6時頃になると、残業に備え、その日の2名の当番クンが残業する職員に一人づつ注文を取る。

●●から出前が届くと「●● 来ましたぁ」と当番君。

別の店▲▲から出前が届くと、「▲▲ 来ましたぁ」と大声で叫んで知らせてくれる。

◆大声で知らせないと、出前に気付かず、食べ時を逃し冷めてしまい、仲間うちで小さな問題になったことがあった。

中には小柄ながら、仕事部屋にふさわしくない、とんでもなく大きな声で叫んでくれる当番君もいた。

その時には、その「大声クン」、ただ者ではないかも、とは思っていた。

その大声クン、国会議員となり、昨今では年収の「壁の問題」で時の人となっている。

◆出前の注文も、簡単ではない。

ラーメン、うどんでもトッピングのバリエーションがある。

焼きそばでも硬焼きそば、柔らかい麺、ぱりぱり炒麺、具の大盛・普通盛、餃子を付けるか付けないか。

また、出前の注文のタイミングも6時、7時、8時頃に。

うどんやラーメンの場合、早く食べないと麺が伸びるが、ただ、中にはうどんやラーメンをすぐに食べず、ふやけさせ、太らせて食す猛者もいた。

◆当時は、土曜日は半ドン。

その時にも昼飯を出前でとっていた。

それから徐々に隔週で土曜半日となり、間もなく完全週休二日制となり、土曜の出前は自然消滅と相成った。

以前は職場の近くに、先輩から引き継いだ多くの名店があった。

役所、公社・公団があったため、つい数年前まで土曜も店を開いていた。

うどん、ラーメン、中華屋、イタ飯、蕎麦屋、寿司屋、和食、焼き鳥、焼きとん・・・

◆2020年の東京オリンピック開催が決まった頃からだろうか、飲食繁華街を含み一帯が再開発の対象となり、多くの老舗のメシ屋、居酒屋が姿を消した。

中には店を移転して営業を続けている昔の出前店がある。

ありがたい。

出前・・・若く働き盛りの頃の懐かしい、想い出の味。

最近では、用事を作っては店の大将や、出前を届けてくれていた昔馴染みの店員クンに会い、昔の味に出会うために足を運ぶことを楽しみにしている。

(学23期kz)

「おぴっぴ」は閉店
移転前
移転後 ハイカラな看板に