亀山の経専・経済学部、平川の経済学部を知っている数少ない先生、肱黒先生

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年11月 トピックス】

岡山支部 岡山 B(学32期) 

変動論の肱黒和俊先生といえば、70年、80年代当時の経営学科の看板教授であろう。

先生が通られた後は、少し甘い香りのいい匂いの”肱黒先生の香い”がすると言われていた老紳士の教授であった。

◆肱黒先生は84年に退官されます。各教官(教官と言う言い方自身も昔風の官立の学校雰囲気が漂う)退官前の授業はお得な授業で、退官祝いとして「優」を安売りするという伝説がありました。これはかなりの皆さんが恩恵に預かっているはず。

授業では、”財務会計と管理会計の違い”を丁寧に説明され、”固定費、変動費、準変動費について”概念的なことをしっかり教授されていました。

ある授業の時、先生曰く「実際の会計の詳細の扱いは各企業さんで取り決めがあるので、それは各企業さんに入って覚えるとして、皆さんは今しっかりした会計の考え方だけ習得しておけば問題ない」と言い切られました。これは名言でした!

◆前垂れ学校とも称された旧高等商業学校の系譜にある学部を卒業した関係か、偶々就職した会社では経理、管理を担当することとなった。

その段階で、既に”財務会計と管理会計の違い”だけはしっかり押さえていたのです。

新入社員として、赴任した博多では一応「経理がわかる新入社員」としての位置づけでした。(一応、先輩が言われていたのを敢えてそのまま記載(笑))

しかし、どこの業界にも意地悪だったり、少し若手を啓発する先輩はどこにもいます。

監査室の監査の時、北の水産学部出身のある主幹が新人の自分を捕まえて、「君は会計の一般原則をしっているかい?」と聞いてこられました。これは明らかに試されたのです。

どの年代にもいた、要領の良さと先輩からの伝承を大切に、単位を取得していた愚かな学徒にとっては全くの『詰問』です。(笑)  答えることはできません。。。

俄かに借り上げ社宅に帰って、学生時代の簿記論担当の永野先生(後に法政大に移り、税務試験委員に)が授業で使用していた教科書を探ると確かに最初の方にあります。

(永野先生は、学籍簿の数字を8桁精算表の一部に使用して回答させるなど工夫をされていて、誰でも同じ答えが出来ないように設定された問題を出題された)

【】しせしめけほた【】  ➡ 「原則」の頭文字一文字を取っている

1. 真実性の原則

2. 正規の簿記の原則

3. 資本取引・損益取引区別の原則

4. 明瞭性の原則

5. 継続性の原則

6. 保守主義の原則

7. 単一性の原則

です。若くて仕事を覚えることにも一生懸命だった自分は、先ず肝に銘じて、【】の言葉を

呪文のように覚えました。

その後経理の仕事、会計監査、公認会計士の監査時、これを少し話すといろんな意味で「免罪符」となる呪文のような言葉となりました。(実はこの原則についての深い理解も必要)

◆亀山、平川と時代を経て、卓越した教育力を持った肱黒先生の授業での哲学と少し社会人になって啓発された機会を生かし、その後工場総務、経理他の仕事をすることになりました。

経理とは離れ、他部門に移っても、監査業務を受ける事は実務を回す管理能力を評価されることにもつながる。若き日に、学び舎で、職場で、学んだことが色褪せることはなかった。

そして、肱黒先生のDNAは板垣先生に、また板垣先生から中田先生にと脈々とつながれ、管理会計論、原価計算論の授業に生かされていったであろう。

(他には70年代、80年代に活躍された、濱田先生、鈴木重靖先生他の先生がいらっしゃいました。関連投稿を望みます)

岡山 B(学32期) 

日本寮歌祭に参加して

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年11月 トピックス】

(学23期kz)

◆11/24(日)に都内ホテルで全国日本寮歌祭が開催された。

開催時間は11時から。

テーブルにはすでに日本酒、焼酎、つまみが用意されている。

◆開会挨拶などセレモニーの締めくくりに、壇上で「檄」を披露したのは鳳陽会東京支部の塩塚支部長。

なかなか堂に入った立派な檄の飛ばしぶりであった。

◆参加校はナンバースクールや高商、また旧制高校や私立大学を含め約60校が参加した。

各校の参加者は、やはり東京に支部のある参加者が多いようだ。

我々鳳陽会は東京支部が参加。上は毎回参加の大御所・6期の井上大先輩、下は卒業3年目・71期・井藤君まで10名を超えた。

我々の参加者の中には、書道展で大賞を受賞され、夕刻から山手線の真反対の離れた会場で受賞セレモニーを控えた18期の田口先輩も駆けつけて頂いた。

◆各校の参加者はそれぞれの法被を纏う。

我々の法被は鮮やかな橙色で、前襟左には白地に「山口高商」、右には「鳳陽会」と書かれ、背中には山口高商の徽章が染め抜かれている。

◆挨拶セレモニーが終わり、さっそく乾杯。

各校が順番に寮歌を披露し、威勢のいい掛け声に会場から手拍子と拍手が起きる。

馴染みのない寮歌であっても、主催者側で各校の寮歌を載せた冊子が参加者に配られているため、一緒に口ずさむこともできる。

我々の出番は14時過ぎ。

それまで酌み交わしが進み、だいぶ出来上がった状態で登壇。

みなさん燃料満タン、元気が湧いている。

◆登壇した我々は鳳陽寮歌「花なき山」を披露。

一列横隊で肩を組み、列の両翼では山口高商旗がはためく。

嬉しいことには、日ごろから交流のある小樽商大の「緑丘会」、長崎商大の「瓊林会」の皆さんが、大挙して壇の両脇、また後ろの2列目に応援に駆けつけてくれた。

もちろん、小樽商大や長崎高商の時には我々鳳陽会も登壇、応援した。肩を組む列の中に入り、旗をひらめかせた。

また、我々の卓の隣が第7高等学校造士館・鹿児島大学だったこともあり、「薩摩」の皆さんも壇上に上がって応援していただいた。

ここで、幕末に維新を生む力となった「‥同盟」が期せずして再現する形になった。

◆会の途中でも各校の皆さんと交流が進む。

私と卓を同じくした六高・岡山大、高知高・高知大の皆さん・・・

このほか、応援団よろしく学生服を纏った「都の西北」のW大・現役学生君が訪ねてきてくれ、面識ができた。三田の事務所に一度お邪魔したいという。

いいじゃないか。

◆バンカラが歌う寮歌の合間に、一筋の涼風がそよぐ。

各校から参加した女性の皆さんが壇上に集合・整列し、旧制三高ボート部の琵琶湖周航の歌を斉唱。

その間、男性諸君は壇の下で連なり、ボートを漕ぐ。

毎年恒例の出し物だ。

各校の歌が続き、会の終わり間際には、誰からともなく踊りが始まり、周りの皆さんも輪になって踊る。

そして、お開き。

来年の再会を約して・・・

その後は、同好の士どうしが連れ立ち、場外であらためて盃を酌み交わした。

(学23期kz)

塩塚支部長の檄
琵琶湖周航の歌

日本寮歌祭開催 東京支部有志が鳳陽寮寮歌熱唱

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年11月 トピックス】

鳳陽会東京支部事務局

 第64回日本寮歌祭が令和6年11月24日、東京・日暮里のホテルで開催されました。全国の大学同窓生が参加しました。鳳陽会東京支部は若者や現役・シニア世代が結集。伝統の鳳陽寮寮歌を熱唱しました。

 ◇開会式で檄(げき)

午前11時から、開会式が行われました。開会宣言や実行委員長あいさつなどの後、鳳陽会東京支部の塩塚保支部長が壇上で、声高らかに檄(げき)を発しました。

「いざや歌わんかな 熱き血潮のおもむくままに いざや歌わんかな 青春の讃歌を 我ら 寮歌の灯を高く掲げ 混迷の世に一筋の光を献ぜん」

会場から大きな拍手が沸き起こります。

 そして参加者全員で乾杯。いよいよ、寮歌高唱が始まります。各大学の同窓生は母校の寮歌を次々に歌っていきます。旗を振り、歌い、踊るのです。

 ◇薩長同盟結成

山口高商の伝統を受け継ぐわが山口大学経済学部は後半に登場します。決められた席でしばし談笑。たまたま、会場で隣り合わせたのが鹿児島大学(旧制第七高等学校)でした。酒を酌み交わすうちに意気投合。急きょ、薩長同盟が結成されたのです。

山口大学が壇上で歌う時、鹿児島大学が応援に駆け付けます。鹿児島大学が歌うときは山口大学が応援するのです。

いよいよ本番です。

同窓生は山口高商の校章が入ったオレンジ色の法被(はっぴ)を着用して壇上に立ちます。伝統の旗を誇示しました。

寮歌高唱の前、塩塚支部長が檄を発しました。

「明治維新の策源地 長州・山口に 士魂商才の学徒あり」

檄文の節目、節目に同窓生が「ウオー」と叫びます。会場の全員が注目するなか、同窓生は肩を組みます。寮歌は肩を組んで歌ってこそ、味わいがでるのです。

明治時代から続く伝統の鳳陽寮寮歌「花なき山」

(佐々政一作歌)を1番から4番まで熱唱しました。

「花なき山の 山かげの 月も宿さぬ川の辺の 

はせに立ちたる 学び舎に 起き伏す友よ いざつどへ」

寮歌を歌い切りました。達成感がこみあげてきます。会場から大きな拍手が沸き上がりました。同窓生たちは意気揚々と壇上を降りていったのです。

 ◇三高商の絆

 日本寮歌祭には長崎大学(長崎高商)と小樽商科大学(小樽高商)が参加しました。鳳陽会東京支部は両校同窓会との交流を重ねています。会場で肩を叩き、再会を喜びました。そして寮歌高唱の際はお互いが応援し合ったのです。

次回の日本寮歌祭も三校が力を合わせ、盛り上げていくことを誓いました。

第65回日本寮歌祭は令和7年11月23日、東京・日暮里のホテルで開催されます。

同窓生の皆さん 日本寮歌祭に参加しようではありませんか。伝統の寮歌を歌い継いでいきましょう。

(鳳陽会東京支部事務局)

山口大学経済学部のぼり
鳳陽会東京支部有志
鳳陽寮寮歌高商
小樽商大
長崎大学
日本寮歌祭実行委員会
日本寮歌祭乱舞

新蕎麦を食す

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年11月 トピックス】

<岡山支部、岡山・Bさんからの投稿>


◆例年に比べ、青々とした蕎麦のままだったので収穫が1週間遅れ、先日11/23(土曜)が解禁日となったそうです。
会計を済ましたお客様が口々に店の方に、「美味かった♬ 有難うございます」とお礼を言って、店を後にしています。
店主は明大野球部OBで星野仙一氏の2期後輩だそうです。
デカい男の蕎麦打ちです(笑)


◆I蕎麦は福井産の種を岡山の地で店主自ら栽培。

旧農家の自宅を改修して、蕎麦好きの店主が蕎麦好きのお客さんの為に提供しているとのことです。

(岡山 B)

そうだったのか、上野戦争 ③開戦

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年11月 トピックス】 

上野戦争の舞台となったのが寛永寺だ。

◆寛永寺・・・その優れた立地

三代将軍家光が江戸城の鬼門(東北)を封じるため、京における比叡山延暦寺に因んで僧・天海が東叡山寛永寺を建てた。

その立地は、道は八方に通じ、海岸にも近く、隅田川という水利にも恵まれていた。

また、古来比叡山の天台座主(ざす)が宮家から座に就くのに相応して、京から宮様を迎えて輪王宮を立て、家康以来の将軍家の霊を祭主させた。

この寛永寺、寺とはいうものの、実のところは「江戸防衛の拠点」として造られたようだ。

これを裏付けるように、大田道灌も江戸城を築くにあたり、現在の場所にするか、上野にするか,

決めかねたとされる。

すなわち、仮に奥州方面から攻め込まれた場合、正面にあたる黒門口だけ守備を固めれば事足りる天然の要塞にもなるとされた。

◆名物僧・覚王院義観

またここには寺を仕切る名物執当がいた。覚王院義観(ぎかん)だ。

慶応3年(1867年)に京から宮様・公現入道親王が見え、輪王寺門跡を継ぐと、義観はそれと同時に輪王寺宮の執当となり、覚王院の号を授けられ、寛永寺の寺務全般を統括することになる。

義観は優れ者で、相当な胆力を持ち合わせている。

広く学問にも通じ、輪王寺宮に諸学を講じ、僧を教える学頭でもあった。

また、彰義隊の思想的・精神的な支柱にもなっていたほか、幕府から財政逼迫を理由に集めた資金500両を「大名貸し」とした益で彰義隊に資金面の面倒を見ていた。

開戦前夜まで、輪王寺宮を守り、戦闘を避けるべく、宮様を動かしてまでも、新政府軍と交渉に向かっている。

宮様を守り、徳川を守る気概が強い。

新政府軍にとって、また戦いを回避したい勝海舟や、新政府の使者・山岡鉄太郎(鉄舟)にとっては手ごわい相手だった。

かなりの頑固ものだ。

この頑固さが、上野戦争の回避を難しくした要因の一つではなかったか。

◆開戦

天野八郎の部隊は寛永寺の輪王寺宮公現法親王を奉じて寛永寺の諸院に立てこもった。

その数、千人とも、千五百人ともいわれている。最盛期には三千まで膨れ上がったとの話があるが、上野戦争に参加した有志はその時に比べ、半減している。

勝海舟も彰義隊に武装解除を説いたが効を奏せず、新政府軍との摩擦が街中で頻発するに及び、大村益次郎を総指揮官とする新政府軍は彰義隊への攻撃命令を下す。

新政府軍が江戸城大手門前を出発したのが5月15日。連日雨が降っており、当日の早朝は霧雨だった。

5月15日とはいうものの、新暦では7月4日にあたる。

上野の山は蒸れるように暑かったようで、羽織を脱ぎ襯衣一枚の夏支度だったという。

彰義隊は本営寒松院を軍司令部とし、上野の八門(黒門、清水門、谷中門、穴稲荷門、車坂門、屏風坂門、新黒門、新門)に兵を構えた。黒門には最強部隊を配置している。

対する新政府軍の布陣は、薩摩・因幡・肥後が上野寛永寺正面の黒門口を、長州・大村・佐土原藩が背後の団子坂に回り、肥前・津・備前藩がアームストロング砲で側面から援護射撃を行う役回りだ。

開戦8時。

正面の薩摩軍が機を見て突撃を敢行するも、地形が味方していたこともあり、彰義隊の防戦はすさまじく、なかなか黒門は突破できなかったようだ。

午前中は一進一退。彰義隊がよく頑張ったという。

新政府軍には鍋島藩のアームストロング砲2門があったが、威力を発揮したのか。

爆音は周りを圧したが、命中率は悪かったという。

彰義隊が守る黒門を狙ったようだが、崩せなかった。

いや、計画に抜かりのない大村益次郎のこと。

敢えて黒門に命中させなかったのではないかとも思われる。

ものの本には、赤門から発射されたアームストロング砲が黒門まで届かず、不忍池に落ちたとされる。

赤門から上野の黒門まで約1キロメートル。

他方、アームストロング砲の射程距離は3400ヤード、3キロメートルもある。

何しろ、黒門が無傷のままだ。

おかしい。(謎解きは別稿で)

また、アームストロング砲派は空砲のみ3発だったという話もある。

上野戦争が決着が着いたのはその日の午後4時過ぎ。

彰義隊は新政府軍の前に敗れ去り、生き残った彰義隊員は大村が逃走経路として用意していた根岸方面から逃走した。

実質的なリーダーとなった副頭取・天野八郎も戦死はせず、上野の山からは逃げることができた。

天野は再起を期して江戸にも出没していたが、7月に捕縛され、獄中で病死している。

つづく

(学23期kz)

彰義隊の墓(上野公園)

銃弾の跡

西鉄ライオンズの中西太さん

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年11月 トピックス】 

学22期Y・Y

◆野球好きな友人が、プロ野球豪打列伝という懐かしい動画映像を送付してくれました。
子供の頃は広島カープファンでしたが、西鉄ライオンズの中西太さんの大ファンでもありました。
テレビで中西太さんの打順が回って来ると背番号6を応援したものです。
腰をフリフリ打席に入られ、愛嬌がありました。

◆時が流れ、20数年前に神宮外苑でのヤクルトの激励会に参加した際に終了後にエレベータの前で、お一人で帰られる中西太さんに遭遇。
中西さんは昭和30年代の黄金期の西鉄ライオンズを支えられ、西鉄、日本ハム、阪神で監督を歴任されました。
ヤクルトスワローズのヘッドコーチ&打撃コーチを務められたこともあります。
(1983~1984年)
中西太さんの大ファンだったと告白し、しばしお話出来、穏やかな笑顔に大感激しました。

◆「怪童」といわれたその中西太さんも昨年5月11日に90歳で亡くなられました。
85歳の時の夏の甲子園レジェンド始球式では見事な投球を決められていました。
(学22期Y・Y)
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「日本の炎」を再び・・・

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年11月 トピックス】

<「岡山 B」さんの投稿>

今朝の「あの人に会いたい」(NHK)はスキージャンプの笠谷幸生さん(享年80歳)。
走るより早くスキーを始めた「3歳」。

金銀銅と表彰台を独占した72年の札幌でのオリンピック。
「日の丸飛行隊」の一員。ウィスキーの里、余市近くの仁木町生まれ。

 
◆札幌の前大会では20位。

開催国で行われるオリンピック。従来年1回の強化合宿を年間100日にすると、メキメキ力をつけた。


スロープを助走する時は「野球のキャッチャーの姿」。

“踏み出す時は「猫の飛躍する姿」。

一旦踏み出すと「紙飛行機の姿」。

姿の三変化だ。


理想のジャンプを求め続けると上手くいかず下手になり、まぁ〜どうでも良いかと、ある程度開き直ると上手くいく。

行き着く境地は『無』!


◆以前は70m級(今スモールヒル)、90m(ラージヒル)と呼んでいたが、歴史は変わる。
1840年代スウェーデンのテレマーク地方で始まった競技(飛距離、飛行の姿、着地の姿の美しさで競う⇒美しさが高く評価されると“テレマークが入りました“と加点!)。


日本における個人競技でのオリンピック優勝者は笠谷、葛西、小林の三人と聞くと、その極めた存在の大きさを感じる。


先日たまたま団体優勝時のメンバー原田雅彦氏が全日本スキー連盟の新会長に就任というニュースを聞いたが、時の流れを感じる。


◆「虹と雪のバラード」に希望を夢み、大いに躍動した日本。
「生まれ変〜わる〜、札幌の火に〜 ・・・」

ちょっぴり難しいかもしれないけれど、そう、「日本の炎(ひ)」を再び燃やさなければ・・・

(岡山 B)

笠谷幸生 2024年4月23日死去(80歳)

並びなき偉才の長州藩士 長井雅楽(うた)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 11月トピックス】

  

藩内で及ぶ者なし

長井家は毛利家と同じく大江広元が先祖にあたる申し分のない家柄で長州藩家臣団の中でも屈指の名門の出だ。

明倫館に学び、時の殿様毛利敬親公から厚い信任を得た。

非常な秀才で、人物も重厚、見識の高さは「藩内で及ぶものなし」といわれた。

世の中が攘夷か開国かで揺れていた時、敬親公、すなわち「そうせい公」は「積極的に」江戸から長井を呼び戻し、世の混乱を収拾する打開策の立案を命じた。

揺れ動く時代はどのような策であっても評価は揺れ動き、人の評価も猫の目のように変わる。

評価が変われば生身の保証もなされない危ない時代だ。

刀あり、切腹ありの時代。

長井はこのこともよく心得ていたつもりだったのだろう。

それゆえ、一度は藩主からの立案依頼の命(めい)を断った。

開国論が藩論に

しかし藩主が重ねて長井に命じたため、長井も腹を決め、「国のとるべき途」を取り纏めた策を建白した。

中身はというと・・・後々から見れば合理的で無理のない開国論だ。

長井曰く、通商条約を結んだことは非難さるべきではない。条約を破案にすれば列強との戦は避けられず、日本に勝ち目はない。むしろ進んで開国し、貿易で富を得、富国強兵の国を作るべし。

・・・結局は、明治になって取られた策だ。

長井の建白に藩主も大いに感心し、長州藩の藩論とした。

また、長井に藩主の名代として江戸で広めて来るべしと、長井に「中老」の身分を与え、「雅楽(うた)」というみやびな名を授けた。

この建白書「航海遠略策」は京や江戸で大好評となったという。

逆の潮目

しかし、潮目が急に変わった。

江戸では坂下門外の変が起きる。公武合体を進めていた老中安藤信正が攘夷派に襲われ、安藤が失脚する。これを機に長州藩では攘夷派が勢いを得たのだ。

その時攘夷派の総本山は水戸であったが、長州は攘夷の新たなリーダーになろうとしていた。

どこの世界でも同様、リーダーを取りに行くには「過激」は付きもの。

長州藩でも攘夷の新たなリーダーとして君臨するにはより過激な装いを囲う必要があった。

藩主が認めた「開国」の藩論であったが、藩内の過激な松下村塾攘夷派が藩論の流れを一気に変えた。

真逆の流れが藩論となった。

藩主はどうしたか。長井を救えたのか。

藩主は長井を救うどころか、過激攘夷論者の主張をどうすることも出来ず、なんと長井に切腹を命じることに相成った。

「そうせい公」の本領発揮だ。

いや、そうしないと己の身が危うくなるゆえの「そうせい」だったのかもしれない。

長井はどうしたのか。

長井は藩論が二分されることを憂い、脇差を握った。

辞世の句

長井雅楽 辞世の句

君がため 捨つる命は 惜しからで ただ思はるる 国の行く末

享年45歳。

岩倉具視の言が残る。

「長井より偉いものはない。あれは木戸や大久保より偉いぞよ」

(学23期kz)

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鴎外、そして漱石 その1

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年11月 トピックス】

その昔、二人の文豪の作品は読んだことはありそうな気はする。

少なくとも「現国」の受験によく出るということで読んだことはあったが、よく覚えていない。

◆明治から昭和初期にかけて多くの文人が出たが、森鴎外は別格だろう。

鴎外は文学の世界だけではない。

森は医学博士にもなっており、陸軍軍医として日清・日露戦争に従軍している。

医学校に入るにあたり、実年齢より2歳多く偽り、東京医学校予科に入学し、本科も優秀な成績で卒業している。

医学を学ぶために留学した先のドイツ。

このドイツを背景にした作品も多い。

◆小倉時代の鴎外

この間、軍医人事の都合上小倉にも短い間に赴任するが、日露戦争の勃発とともに、翌年すぐに小倉を離れている。

しかし、短い間であれ鴎外が過ごした小倉の町には鴎外に因んで「鴎外通り」、「鴎外橋」がある。

この小倉時代の鴎外の足跡をテーマとした物語もある。

ご存じの「或る小倉日記伝」(松本清張)。

繰り返し読んだ。

身体に麻痺を持ち、不自由な身ながら熱心に鴎外の足跡を研究する息子を助け、懸命に手を差し伸べる。

我が子を思う母親の献身的な姿には胸が詰まる。

(学23期kz)

「日本人論」の欠片 その11

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 11月トピックス】

◆ほんとにそうか

日本に長く住んでいる外国人が「日本の食生活の豊かさ、多種多様な全国各地の商品の多さに比べて、日本人の行動が画一的なのは不思議だ」と述べていた。

日本人は画一的か、同調型の国民か。

本当に画一的なのか。

あるいはそうみえるだけなのか。

◆米国での実験

二次大戦直後、米国で同調する程度を図る面白い実験が行われた。社会心理学者ソロモン・アッシュが行った簡単な実験だ。

まず回答者A君の手元に(例えば)高さ10センチの棒グラフを描いた紙があるとしよう。そこで問いが出され、同じ長さの棒グラフはどれかと問われる。

問いとして示されたのは長さが①7センチ、②10センチ、③13センチの棒グラフ。

正解は言うまでもなく②だ。

しかし、ここで回答者を惑わす仕掛けが組まれている。

同じ部屋で10人が同じ問題に回答するという設定で、嵌められる被験者はA君のみ。

残りの9人は仕掛け人だ。

最初の回答者が、答えは①の5センチと間違った回答を出す。次の回答者も①の5センチと続き、A君は9番目に答えることになっている。

次は、新たなターゲットとしてB君は呼ばれ、同じ事件が繰り返される。

この実験で、仕掛け人の9人に同調して誤った回答を出した被験者の割合(同調率)は何と25%だったという。結構な同調率だ。

その後も同種の実験が、異なる地域、異なる年で繰り返され、平均的な同調率は25%だった。

◆日本での実験結果

同種の実験を1970年代の日本で行った米国の研究者がいる。彼はルース・ベネディクトの「菊と刀」に影響を受けた研究者で、日本での実験ではかなり高い値が出ると見込んでいたが、日本での値は25%となり、米国と変わらない値が出た。

この時の被検者は慶応大生だという。

鳳陽会東京支部の並びにある慶応大。

その実験の回答者になってくれた慶応大の学生諸君生に拍手を送りたい。

◆先の大戦中、日本人は画一的な集団主義という意見もあったが、しかし戦争中は、どこの国でも一致団結が基本だ。

戦争をしているときは日本でも、米国でも、欧州でもそうだろう。

戦時中に、みんなと違う行動、みんなと反対の行動をとるものは政府や警察からにらまれ、実際、日本では「非国民」の扱いを受けた。

日本人を、とてもひと括りにはできない。

実にいろいろな人がいるのだ。

◆あるラジオ番組で読者の声を紹介するコーナーがあるが、その意見は実に多様で深く、洞察力に優れている。

解説者より、よほど気の利いた意見が多く寄せられて、いつも感心させられる。

みんなは世の論調にすぐになびき、流されるのかと思いきや、そうではない。しっかりした意見が多いことに驚く。よほど新聞の解説者より鋭く、バランスもとれている意見が多い。

自分の頭で考え、分析、整理しているのだ。茶目っ気も添えながら。

しかし、そうした考えを日本人は、なかなか表に出さないのだ。

つづく

(学23期kz)