山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2026年5月 トピックス】
◆五指に入る大富豪
世に出回っている、いわゆる”豪商物語”の中には高田屋嘉兵衛、岩崎弥太郎、五代友厚、渋沢栄一、伊藤忠兵衛らと並んで、藤田伝三郎の名が出てくる。
明治45(1912)年、72歳で他界した時には「日本で五指に入る大富豪」ともされた。
藤田伝三郎を指す形容として「明治実業界の傑物」、「明治財界の風雲児」とされるものもあるが、「大阪実業界の重鎮」、「関西実業回界の大立者」など、西日本の財界を代表する形容が多く、「住友と並ぶ西の二大富豪」とするものもある。
初代の五代友厚(薩摩)に次いで、二代目の大阪商工会議所の会頭を務めたためだろか。
また、その土地(地域)に対する一大勢力を張った重鎮としての影響力という観点では、「実業界の巨人と称すべきは、東の渋沢栄一、西の藤田伝三郎」(吉本義秋「大阪人物小観」(明治38年))とするものもあり、調停ではあたかも「親分」のように、もめごとを収めたという話が残っている。
◆秀吉格の伝三郎
藤田伝三郎を評する者は、その手掛けた事業内容が似ており、美術収集にも精を出した大倉喜八郎(越後)と対をなすとして、「東の大倉、西の藤田」と評した者もいた。
また、日本で最初のデパート・三越の基礎を作った実業家・高橋義雄は、明治の実業家と戦国時代の英雄を対比させ、藤田を豊臣秀吉になぞらえた。
というのも五尺の小身、天下を圧する豪胆、網島に大伽藍を建て、比肩なきほど書画骨董を収集して明治に引き継いだのがその理由というのだ。
「西の藤田伝三郎、東の渋沢栄一」と藤田を豊臣秀吉と見做すならば、渋沢栄一は誰に相当するか。
先の高橋は渋沢栄一を上杉謙信と見做した。
(なお、上記・高橋氏は藤田のライバル大倉喜八郎を武田信玄、岩崎弥太郎を織田信長と見做している)
ただ、藤田観光、藤田美術館・・・という形で藤田の名前は残っているが、藤田伝三郎自身を知る者は意外と少ないのではないか。
大変もったいない話だが、これは理由なしとしない。
つづく
(学23期kz)


