山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2026年6月 トピックス】
◆長州つながり
大阪では同郷の大賀大眉(たいび、号は幾助)を頼り、その下で製靴業に従事した。
大賀とは幕末に、ともに攘夷運動で行動を共にした仲だった。
その当時、軍は輸入した革靴を兵士に支給していたが、舶来品は高い。このため、軍は国産への切り替えを望んでいた。
時の(1872年・明治5年)大阪鎮台の司令官は四条隆謌(たかうた)陸軍少将。
幕末期、少将は攘夷派公家で、八月十八日の政変で「七卿落ち」し長州へ移った一人。このため長州人に親しみを持っていたことが幸いした。
また大賀は五稜郭の戦いで一緒に戦った兵部大丞(だいじょう・兵部省軍務局長)山田顕義(あきよし)が少将として兵部省大阪陸軍所に赴任していたことから、藤田伝三郎を引き合わせる。
山田は元長州藩士(萩出身)、14才で松下村塾に入り、軍事の才あり。戊辰戦争では討伐軍の指揮をとり、西郷隆盛から「小ナポレオン」と称された「大村益次郎の秘蔵っ子」だ。
伝三郎はその山田から、西洋風軍靴の製作依頼を受ける。これが明治2(1869)年のことだ。
◆なぜに軍の拠点が大阪に
もともと大村益次郎は薩摩士族の動きを警戒しており、陸軍の本拠は東京ではなく、九州に睨みが利く大阪にすべきとし、大阪に陸軍士官学校も建てる計画を立てていたが計画半ばで暗殺されたという経緯がある。山田顕義は兵部省の中堅幹部として、九州方面の守りの要所・大阪に身を置いていたのだ。
◆軍靴製造
それまでの兵士の足元はなんと草鞋履き。
しかし耐久性のある頑健な舶来品の軍靴は値段が高い。
伝三郎は軍靴の試作に取り組み、舶来品と遜色ないものが半値ほどで作ることに成功する。
大阪での軍とのつながりを機に、身を寄せていた大賀幾助から事業を継承し製靴業に乗り出し、
明治2(1869)年、藤田伝三郎商社を設立した。
ここでは靴の製造のほか、軍備品の調達を行った。
また、靴の製造に当たっては、和歌山西洋沓(くつ)伝習所の製靴指導教官だったドイツ人・ハイトケンペルを明治9(1876)年に雇い入れ、藤田製革所を設立、本格的な軍靴の製造に取り掛かる。
これが現在のリーガルコーポレーションの前身だという。
明治の初めは政情が不安定で、佐賀の乱や神風連の乱があり、軍備品はよく捌けたという。
(学23期kz)

陸軍中将。司法卿、司法大臣に就任。民法・刑法などの法整備にも貢献し。日本大学の学祖。
