三人の財界巨人 その14 久原房之介①

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年8月 トピックス】

その

◆藤田伝三郎の甥

藤田伝三郎の血筋から、やはり萩出身の財界巨人が生まれる。

藤田伝三郎は主に明治時代に活躍したが、明治から大正時代、昭和の初めにかけて活躍したのが久原房之介だ。

藤田伝三郎のすぐ上に兄だった藤田庄三郎は久原家の養子となるが、その庄三郎の子が久原房之介で、久原房之介は藤田伝三郎の甥にあたる。

久原房之介は東京高商を卒業後、さらに慶応大に学び、慶応の学生時代に商事会社の森村市左衛門の講演に共鳴し、商事会社の森村組に入る。

この時、藤田組では秋田の小山鉱山危機を迎えており、房之介を小山鉱山の経営不振に対処させようとした。

森村組では将来会社を背負っていく有望株として、房之介のニューヨーク勤務を決めていたが、藤田組ではニューヨーク行きを辞めさせ、森村組から退社させる形で、房之介を秋田の小山鉱山に赴任させた。

この赴任には藤田組に近い井上馨候も関与している。

藤田組では秋田の小山鉱山を閉鎖に持ち込もうと考えていたが、久原房之介は、何と傾いていた小山鉱山の再興を果たしたのだ。

◆久原財閥

勢いづいた房之介は茨城の赤沢銅山を買収し、日立銅山と改称。また明治43年に鉱山の電機部門から派生した日立製作所を設立し、社名を久原鉱業へ。後に日本鉱業・JXグループを形成する企業グループの創業者となり、「鉱山王」と呼ばれるまでになる。また、アジアに進出し、シンガポールに事務所を構え、石油・石炭の開発にも積極的に取り組んだ。

事業範囲は次第に広がり、後の日産自動車、日立造船、東京生命、久原商事などの企業集団「久原財閥」の総帥となった。

第一次大戦後の恐慌を機に事業を譲り、アジア進出で多くの内外の要人との繋がりを基盤に政界に進出。

同郷の田中義一内閣で逓信大臣を務めた。

また、外交面では日本、ソ連、中国との間での衝突を緩和すべく、北東アジア地域の非武装構想を提唱した。

◆自宅は港区白金

住居は港区白銀に構えた。

今では八芳園になっている。

ここは家康の側近で「天下のご意見番」大久保彦左衛門の邸宅があったところで、明治の末には渋沢栄一の従兄・渋沢喜作の屋敷ともなったところでもある。

(学23期kz)

久原房之介

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