三人の財界巨人 その21 久原房之介⑧

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年9月 トピックス】

◆藤田組からの独立

久原房之介とは別に、伝三郎は伝三郎で明治30年代の終わりに小坂鉱山に人材を集めた。

明治35年、小坂鉱山では発電所、電解精錬工場も出来上がり、小坂鉱山は銅を産する代表的な鉱山となり、明治30年代の終わりには、銅の生産で日本一となった。

また前稿で述べた小坂鉱山の中に整備した住宅、地域電化、病院などのインフラ整備とともにハイカラな鉱山事務所や芝居小屋を建てた。

しかし、房之介はこれらの建物の完成を見ることなく、明治37年に本店に呼び戻される。

本店は伝三郎の長男・平太郎が事実上仕切っており、房之介が小山でこれ以上実績を上げ、プレゼンスを高めることを、良くは思っていなかったのだ。

◆藤田組を退社した房之介

小坂銀山が銅山として復活を遂げた。

房之介は「小坂鉱山」の復活で晴れて区切りをつけることができ、新たな道に進むことを考えていた。

その時、藤田家では誰が藤田家の宗家となるかを巡り内輪もめが起きる。

伝三郎自身は四男ではあるが、自分が事業を興し、藤田組の代表者であるとして、自分と長男の平太郎の筋を宗家とし、年上の兄たちを分家とする案を呈示する。

しかし、兄たちは黙っていない。

案が暗礁に乗り上げたため、久原は房之介、父庄三郎とも財産分与を受ける形で、藤田組を退社した。

◆赤沢銅山購入の決断

明治38年12月、退社のタイミングで房之介は売りに出されていた茨城の赤沢銅山(後の日立鉱山)の購入を決め、藤田組から独立する。

またこの時、鉱山の名称も赤沢銅山から日立鉱山と改称した。

また、赤沢銅山の購入にあたっては、藤田雲から財産の分与を受けたとはいえ、資金調達面で問題があった。

というのも、財産分与に伴う支払いが一括支払いではなく、10年分割だったため鉱山の購入資金が不足していた。

このため、隠居していた父・庄三郎の資金も新鉱山の購入に充てたがそれでも足りず、父・庄三郎時代に付き合いのあった鴻池組に資金支援を頼まざるを得ないことになった。

鴻池組側は、融資するに際し、「目付け役」として工部省出身で、毛利家の鉱山事業に長くかかわってきた神田礼治を日立鉱山の初代所長として送り込んできた。

しかし、房之介は目付け役の初代所長の神田礼治とハダが合わなかった。

銅の産出は順調で明治40年には前年の3倍となり、軌道に乗ってきたところに大事件が起きる。

所長の神田が鉱脈が断層に当たったことを告げた。

断層とはこの先採鉱が絶望となったことを意味する。

つづく

(学23期kz)

赤沢銅山

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