三人の財界巨人 その6 藤田伝三郎⑤

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年6月 トピックス】

◆木戸孝允との出会い

前稿で述べたように、伝三郎は二十才を過ぎる頃に分家の醸造屋を再興させるが、時は尊王攘夷の機運が高まっており、「高杉晋作に師事し」(藤田翁言行録)とあるように、「正義派」の高杉晋作を支援し、禁門の変にも参加している。

自分の身の振り方を考え、公に尽くしたいと官吏の道に入ることも考え、明治の初めに同郷の木戸孝允のもとを訪ねている。

この時の木戸のことば・・・「開国が決まり、これからは富国強兵に向かう時。強兵には成算があるが、有為な実業経験者による商工業の発展がなければ国の前途は不安だ・・・」

これに伝三郎は反応する。

伝三郎は木戸に出会い、商工業の発展に尽くす思いを固めたとされる。

そのためには海外の実情を視察しなければ・・・こうした思いが伝三郎に芽生えた。

◆夢見た欧州視察・・・

明治2年、伝三郎が27才の時に萩を見限り、大阪へ出る。

伝三郎の夢は欧州へ渡航し、現地の商工業の実情を学ぶことだ。

たまたま大阪で欧州行きの船を待っていたが、どうしたわけか大阪から船が出なかったという。

渡航する機会を伺ううちに、親元から手紙で呼び戻され、萩に戻ることになる。

伝三郎が戻った故郷・長州では、藩の陸軍局が廃止されたことから、不要になった大砲、銃器、弾丸などの払い下げを受ける機会に恵まれた。

この軍関係の物資を再び大阪へ売却しに行く機会ができたのだ。

これが伝三郎28才の時。

大阪で武器をすべて売り払い、資金を用意して欧州渡航の準備をしていたが、またも船が出なかったという。

日本で最初に欧米へ産業視察に渡ったのが大倉喜八郎で、明治5年のこと。

伝三郎は喜八郎の3年前に欧州の実情視察を目論んでおり、この面でも両者は、似た者同士といえる。

◆大阪の変貌

伝三郎が大阪に居ついた要因として、東京では同郷の長州人が多いので面倒見なければならず、煩わしかったという伝三郎の言葉が残っている。

維新後は確かに江戸期からの蔵屋敷が廃止され、40万の人口が3割方減ったものの、大阪は大阪で街の風貌が変わっていった。

明治4(1871)年に造幣寮(現造幣局)、造兵司(のちの陸軍造兵廠)などの官営施設が設置されると金属・機械・化学などの工業が興り、港や鉄道も便利になり、大阪は魅力に満ちた新天地と化した。

伝三郎にとって大阪は東京と違い、誰にも邪魔されず自由闊達に商売ができる地となった。

この大阪で、薩摩の五代友厚が初代会頭となった大阪商法会議所(後の商工会議所)で、伝三郎は二代目会頭となる快挙を成し遂げる。

(学23期kz)

造幣局旧正門
大阪陸軍造兵廠跡

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