山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2026年7月 トピックス】
◆毛利家からの借金
鉱山経営はカネがかかる。
明治18(1885年)、井上馨候に資金の手当て先を相談すると「毛利の殿様に頼んでみるか」との返事。
井上の頭の中には毛利敬親の世子・元徳公が頭取を務めた第十五国立銀行からではなく、毛利家の個人財産から借り入れる算段があった。
井上候は元徳公が世子定弘の時代に小姓を務めており、毛利公爵家の後見人を自任していた。
井上候の橋渡しによって、毛利家から都合三回にわたり、200万円以上という多額の金銭を借り入れることに相成った。
◆借入れの条件
毛利家では「商人顔負け」の7%前後の利息を取るのは当たり前として、井上候を仲立ちに、資金融通にあたって注文を付ける。
鉱山以外の事業を禁止したのもそのひとつ。
また、伝三郎の収集した美術品の売却のほか、藤田3兄弟の家計に対しても注文を付けた。
小山鉱山で藤田伝三郎から経営権を取り上げ、乗りかかっていた児島湾干拓事業に専心するよう注文を付けた。
このため小山鉱山の方は伝三郎に代わって伝三郎の甥(兄・久原庄三郎の息子)にあたる久原房之介をゆくゆくは経営を任せることを見越して平社員として採用、久原房之介は明治24年小坂鉱山に着任する。
毛利家=井上候のラインは、小山鉱山を閉山する方向で検討していた。
しかし伝三郎は高質な鉱脈の存する小山鉱山を新精錬法により復活させることが可能と見込んでいた。
こうした目利きも伝三郎の優れた能力の一つだ。
このため、農商務省での鉱山行政精通者や優れた採掘知識を有する技術者や東京帝大・採鉱冶金学科卒の若手エリートを多数小山鉱山に集めることも忘れなかった。
これが新精錬法の発見につながり、伝三郎は「鉱山持ち」として復権を果たすことになる。
◆毛利家の懐
幕末にはおおよその大名家のふところは底をつくが、財政改革に成功した薩長などの西南雄藩、特に長州の懐具合は豊かだったようだ。
これは7代・毛利重就の時に始まった長州独自の「撫育制度(特別会計)」を用いた蓄財で、莫大な隠し財産をこしらえていたことによる。
検地などによって新たな財源となった資金は一般会計に入れず、特別会計に繰り入れて運用することで財を積んだのだ。
明治になった時点の撫育金の残高は100万両。
毛利家は、このうち60万両を新政府に納めるが、残り40万両が手元に残り、毛利公爵家の財産となった。
40万両、これを現在価値でみると400億円と試算する向きもあり、明治時代の毛利家は他家に比べ
格段に裕福だった。
(学23期kz)

