三人の財界巨人 その17 久原房之介④

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年8月 トピックス】

◆房之介の就職

就職は商事会社の森村組。主に欧米へ陶器を輸出している商社だ。

房之介が藤田組の一員になることを避けたのも、「自主自尊」を主張する福沢に感化されたことによる。

社長の森村市左衛門は豊前中津藩の御用商人。

中津藩といえば・・・中津藩出身の福沢諭吉がいる。

森村市左衛門と福沢は同郷人同士の繋がりがあった。

久原房之介が慶応大で森村の講演を聞いたのも、森村組へ就職する契機となった。

森村は時折慶応大で講演しており、そこでは幕末開港時以降、海外に流れた日本の富である「金(きん)」を、貿易を通じて取り戻すという公共的使命を説いていた。

藤田組の役員の息子である久原房之介が藤田組ではなく、ライバルともいうべき森村組に入って来ることを森村自身が嫌ったようで、なかなか入社の許可を出さなかった。

育ちの良いところの子息の出来がたとえ悪くても、容易に首を斬れないというような過去の経験もあったのだろう。

しかし、森村は熱心な房之介に折れて入社の許可を出すことになった。

房之介の入社当初森村は森村で房之介を意図的に「倉庫番」に配属してみせ、「資産家のボンボン」の仕事ぶりを観察することにした。

ところが、房之介は倉庫番でも腐ることなく、気の利いた優れた仕事ぶりを見せ、すぐに支店長の相談役なども務めるようになったという。

そこで、森村は房之介を森村組の幹部に据えようと腹を固め、10年間のニューヨーク行きを命じた。

その時相当に喜んだのは房之介自身だ。ところが・・・

◆取り止めとなったニューヨーク勤務

しかしこれに激怒したのが井上馨候だ。

藤田組はその時経営が傾いており、藤田家が存亡の危機にある中で、藤田組を支えると見込んでいた久原房之介を森村組に入社させ、ニューヨークに駐在させることを容認した父・庄三郎を、井上候は叱りつけた。

井上馨候が一度癇癪を起すと、大変厄介なことになるのは有名な話、周知の事実だ。

結局、房之介のニューヨーク行きは取り止めとなり、房之介は森村組も辞めさせられ、藤田組に入ることになった。

◆小山鉱山の経営悪化

藤田組が金・銀が出る秋田の小坂鉱山を政府から払い下げを受けたのが明治17(1884)年。

小山鉱山購入の名義人となっていたのが久原房之介の父庄三郎だった。庄三郎は東京に詰めており、庄三郎が名義人となった方が政府との交渉や手続き上、都合がよかった方からだ。

藤田組はこの時すでに複数の鉱山を経営しており、この中でも小坂鉱山が主力の鉱山となることを見込んでいた。

鉱山を購入した当時は経営状態も良好で、銀の生産も官営時代よりも格段に産出量が増加したようだ。

小坂鉱山の銀の産出量が頭打ちとなったのが明治21年。

この時、世界の大勢は金本位制に傾いていた。金本位制になれば銀の価格は下落する。

このため小坂鉱山も手放した方がよいという意見も出ていた。

(結局、金本位制に切り替わったのが明治30年・1897年。)

◆小坂鉱山への赴任

明治24(1891)年に房之介が小山鉱山へ赴任する。

鹿角(かづの)盆地の北端が小坂鉱山だ。青森県の県境近くで、十和田湖も近い。

房之介22歳の時だ。

房之介を小坂鉱山に差し向けたのは小山を廃鉱にすべきか、鉱山再生の道が開けるかを探らせるためだ。

半々の賭けか?

実はそうではなく、事業資金を出していた毛利家=井上馨や藤田組幹部の間では、小山を廃鉱にする方針を固めていたようだ。

他方、藤田組の間でも総帥の藤田伝三郎は小坂鉱山の経営権を毛利家・井上馨サイドに剥奪されながらも、事業者の「勘」で、良質な鉱脈を持つ小坂鉱山から有益な鉱物を採取する採鉱方法を用いることによって鉱山を再興させる手法を模索していた。

すなわち、監督官庁の専門家や東京帝大で冶金関係の技術を学んだ若く優秀な学生を多数小坂鉱山に集めていたのだ。

やがて、藤田伝三郎の目利きと久原房之介の優れた経営手腕により、小坂鉱山は藤田組の救世主となっていく。

つづく

(学23期kz)

小坂鉱山 ウィキペディア

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