三人の財界巨人 その20 久原房之介⑦

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年9月 トピックス】

◆小坂鉱山所長に就任

久原房之介は明治33(1900)年、19世紀最後の年の元旦、32歳で小坂鉱山の事務所長に就任。小坂鉱山の運営を一手に任されることになり、4月、新たな精錬法を有する新精錬所の建設に着手する。

新たな精錬法は藤田組傘下の他の鉱山でも採用され、銅の生産量は大幅に拡大。

銅価相場の上昇もあり、毛利家からの借り入れも一気に完済できた。

藤田組の経営から外されていた藤田伝三郎も経営に復帰でき、資金不足から滞っていた児島湾干拓も進んでいった。

◆小坂に集まった精鋭たち

房之介が所長になった7月には溶鉱三羽烏のひとり竹内維彦と東京帝大出の同い年、電気工学科の小平(おだいら)浪平が入社し、小坂鉱山に赴任。

小坂鉱山の電気主任技師として電気関係を担当した。

後に日立製作所を創設することになる小平は鉱山関係の変電所、発電所、電気鉄道、電灯設備、また地域の電化を通じた近代化に大きく貢献することになる。

伝三郎は伝三郎で、明治30年代後半から40年ころにかけて小坂鉱山の管理部門に監督官庁の農商務省の鉱山局長経験者や帝大・工学博士の学識経験者を多く採用し、若手の技術者として東京帝大の工学部冶金学科のトップクラスを年々集めた。

◆山の中の別世界

小坂鉱山では労働者を集めるためにアパート、病院、鉄道などが整備されていった。

また、明治38(1905)年には、ハイカラで小坂鉱山のシンボル的な建物、後に重要文化財に指定されることになる旧小坂鉱山事務所や、明治43年には芝居小屋の康楽館を建てた(文末の写真参照)。

ただ、良いことばかりではない。

それは公害問題。

明治35年以降、鉱山から出る煙害が問題化した。

しかし、これには煙害に強いニセアカシアの植林を大規模に行い、煙害に対応した。

(学23期kz)

小平 浪平
旧小坂鉱山事務所(門の看板には「合名会社藤田組」とある)

康楽館

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