塩塚支部長追悼 「その日」

事務局長 葛見雅之(2026年3月26日記)

◆出会い

当時の塩塚さんから、鳳陽会の活動をしないかと誘いがあった。同窓会活動に縁がなく、自信がなかったが、三田の事務所に通い始めた。

爾来、塩塚支部長のもと、鳳陽会東京支部を二人三脚で運営してきた。

ようやく3年目に入ったかなという感覚だが、まる5年が経つ。

◆「その日」は3月21日、土曜日

翌日に予定されていた鳳陽会本部での定例理事会参加のため、二人とも前日から別ルートで山口入りした。

投宿先である市役所前の国際ホテルに荷物を預け、昼食を食べに米屋町商店街に出向くと、ばったり塩塚支部長に出会った。

支部長は人通りの少ない商店街のアーケードに腰を落とし、片膝を立てて熱心に写真を撮っていた。

産経新聞記者だった支部長。

首から下げた重そうなカメラはプロが使う業務用のカメラなのだろう。

鳳陽会東京支部への投稿の際、文末に貼られた多くの写真はそのカメラで撮られたものだ。

鳳陽会東京支部ホームページのカバー写真も昨年のこの時期、卒業式の当日に経済学部前で撮った「お気に入り」の写真だ。

◆話しを戻そう

アーケード街で、カメラのレンズの先には太陽堂旅館があった。

学生時代にはあった多くの馴染みの店が姿を消す中、太陽堂旅館は、いまだ健在。昔の姿をとどめている。

1970年代の学生時代はワンダーフォーゲル部に属し、青春を謳歌していた支部長。ワンゲルのコンパではよく使っていた会場のようで、ひとしお強い思い入れがあったようだ。

◆防府へ

昼食を終えたとき、支部長から誘いの電話が鳴る。

「松永さんからの誘いで、今から防府天満宮にいくが、君も行くかい?」

松永理事長もそうだが、私も防府天満宮は初めてだ。

夕方に予定されている新旧経済学部長との会食会までにはかなり時間があるため、同行させていただくことに相成った。

防府天満宮までは20km弱、車で30分程度。

車の中では、教育学部で防府出身の奥様との出会い、産経新聞時代の外地赴任生活のこと、三人の自慢の御息女のこと、お孫さんのことなど、最近の近況まで話が及んだ。

◆道真公

防府天満宮には菅原道真公が祀ってある。

全国に菅原道真公を祀る神社は1万2千社あるが、最初に創建されたのが防府天満宮だという。

道真公が大宰府に左遷される折、三田尻港から出港予定であったが、時化のため数日をこの地で過ごしたのが由来とある。

「自分のための勉学」を「社会のための勉学」に昇華させた道真公。

学問の神様、ということで受験生が祈願に来る。

当日、天満宮には合格が叶った若者達から、お礼のメッセージが貼ってあったがその中に、「山口大学経済学部に合格しました。最後まで自分を信じて頑張ってください!山口県岩国市・・・・」

というのを見つけ、塩塚さんに紹介すると・・・

「ほんとだ!」。

母校愛がとても強かった塩塚支部長。

天満宮の石段を登りながら、山大経済学部合格時のことを話してくれた。

合格発表はラジオで聞き、飛び上がるほど嬉しかったという。

しかし、ラジオで聞いたのは一瞬のこと。

聞き違えだったのかもしれないという疑念が湧く。

そこで、しっかりと確認したいとの衝動に駆られ、合格発表を文字で伝える媒体である西日本新聞・朝刊が店頭に並ぶまで徹夜したという話をしてくれた。

◆夕食会で 有村学部長

理事長の発案による新旧学部長と東京前泊組有志の会食会だ。

2年間お世話になった有村経済学部長に感謝の意を伝え、新学部長の古賀先生とのお付き合いが始まることを祝す会。

有村先生には大変お世話になった。

大学と鳳陽会の間、学生諸君と鳳陽会とを繋ぐことに配意して頂き、常々鳳陽会の支援に、経済学部のホームページを通じて、また鳳陽会総会での来賓祝辞などを通じて、謝意を表して頂いている。

昔の高商時代、卒業期一桁台の諸先輩方には錚々たる方が多いが、最近の学生諸君も負けてはいない。

ゼミ単位での研究発表・討論会等での全国優勝など全国的な活躍ぶりを始め、現役での公認会計士や税理士試験合格など最近の学生諸君が、山大経済学部のブランド力を上げる活躍ぶりしているのだ。

こうした事績を経済学部のホームページに精力的に投稿・掲載しておられることに塩塚支部長ともども日頃から感謝の念を抱いており、お礼を申し上げる良い機会となった。

◆もう一人、古賀新学部長

古賀先生と塩塚支部長は古くからのお付き合いがあり、メールではなく、電話を掛け合う仲だ。

というのも、かつて鳳陽会の寄付講座で、塩塚さんが新聞記者時代のことを大講義室で講演された時以来の仲とのこと。

古賀先生は新入生などを対象とした「基礎ゼミ」を通じて学生から、高く評価されている。

鳳陽会東京支部で活躍する若者に出身ゼミを聞くと、口々に「古賀先生」、「古賀先生」と古賀先生の名が上がる。

3年生からの本格ゼミではなく、新入生「基礎ゼミ」でお世話になった古賀先生の名前が出るのだ。

◆戦時特派員

酒もお好きだった塩塚支部長。

当日もビールで乾杯した後、ワイン少々。

紹興酒が始まった時にはオンザロックで。

手元にはいつものように必ず水があり、健康にも配意されていた。

健啖家で何でも美味しそうに食される。

しかし、その日はいつもと少し様子が違う。

「場を仕切る」のが得意技の支部長にしては、なぜか物静かだった。

会話の流れで、時事の話題となる。

トランプ大統領とイランの動きに話が及んだ時、支部長から湾岸戦争時の話が始まる。

現役時代、産経新聞の特派員として戦時下のイラクへ派遣された際の話だ。

弾丸飛び交う中、出国を図るため現地の運転手を雇い、夜間に戦場からの脱出を試みるも運転手が道に迷う。無灯火での走行だったのかもしれない。

暗闇の中、車に取り残された二人。

その時、現地人の運転手が逃げ出したという。

取り残された支部長・・・

支部長は人の注目を集める話し方をし、話が魅力的だ。

この時の話に、場の一同は支部長の話に身を乗り出し、聞き耳を立てていた。

◆洋風居酒屋

会食後ホテルに向かう途中にある洋風居酒屋。

いつも一次会の後立ち寄るスポットだ。

ここに、前回も、前々回も、立寄る度に対応してくれるアルバイトのお嬢さんがいる。

経済学部の学生だ。

その時も我々のことを覚えていてくれた。

アルバイトをしながら、国家試験を目指し勉強しているという。

そこで翌日の理事会の議案について意見交換し、店を出た。

◆コンビニ

支部長曰く「朝飯を買いに行こう!」

翌日はホテルの朝食を頼んでいなかったのだ。

踵を返し、朝食を調達しにJR山口駅近くのコンビニに向かった。

支部長のレジ袋には私の倍ほどのボリュームがある。

後で分かったが、中にはサンドイッチ、500ccの牛乳パック、400ccの缶コーヒー・ブラック、ヤクルトのサイズ大。おにぎりも入っていたのかもしれないと思えるほど大きかった。

◆コンビニを出て

当日は土曜。

夜の山口は繁華街近くでも明かりが少ない。

ホテルへ向かう途中、一軒だけ明々と輝いている店がある。

否が応でも目に入る店だ。

入口の大きな看板には「たこやきテンホウ」とある。

テンホウ・・・縁起の良い名前だ。

小腹も空いた。

店に入る。

◆その時

10時近くになった。

翌朝は亀山にある鳳陽会本館で9時から会議がある。

出よう!

二人一緒にスッと立った。

その時、見たことのない光景が。

支部長の顔が私からゆっくり遠ざかっていく。

私の目の前で支部長が仰向け大の字に倒れた。

映画に出てくるシーンよりも、はるかに大胆な倒れ方だった。

帰り支度で帽子を被り、またテーブルに腰が当たっての倒れ込みのため、後頭部を強打したということはない。

愛用の黒い帽子は飛んだが。

支部長に声を掛けるが反応はない。

困った。

どれくらいの時間が経ったのか。

2分か、5分か。

今から考えると、そんなことはない。

10秒か15秒ほどだったのだろう。

支部長をゆっくり起こすと、意識が戻ったようで、私の言葉に応じてくれた。

「さあ、帰りましょう」と促す。

勘定書は3千円弱だ。

勘定書を見た支部長。

「僕が2千円出す。後は君が」と、財布から千円札を二枚。

ホテルまで歩いて4~5分だ。

私の肩に身を預けてもらい、出口のサッシの扉を開ける。

一歩出た瞬間、支部長が右肩から大きく崩れ、絵に描いたような大の字に。

私より体格が良く、骨太の支部長。

私も引き込まれて一緒に転倒することになった。

顔面からアスファルトに突っ込んだが、幸い割と頑丈な金属フレームの眼鏡を掛けて居たおかげで、フレームが曲っただけで済んだのは助かった。

◆救急車で病院へ

たこやき屋の店長にタクシーを呼んでと依頼。

間もなくタクシーが来たが、運転手は大の字に倒れた支部長を見て、即答し「私どもでは触れません」と。

すぐに救急車の手配を店長に依頼。

繋がった救急車の隊員から、救急車到着まで心臓マッサージをするよう要請あり。

私と、店長、それに通りがかりの若者3人で、かわるがわる心臓マッサージを続けた。

救急車が着くと救急隊員にバトンタッチ。

救急車が到着したのは22時過ぎだったろうか。

救急車の中では救急隊の心臓マッサージが続き、搬入先の済生会病院に着くまでの間、5回の電気ショックを加えた。

そのたびに、大きな身体が跳ねたが、思わしい反応はなかったように見受けられた。

◆救急病院で

病院に運び込まれ、救急スタッフが対応にあたる。

長い時間が経過すれど、救急治療室からなかなかスタッフが出てこない。

たまに、看護スタッフが出てくるのをつかまえて様子を聞くが、

「私からはお答えできません」と。

長い・・・

零時、まだだ。

1時になってもまだスタッフはまだ出てこない。

1時半ごろ、看護スタッフが出てきて、奥さんの電話番号を聞かれた。

電話番号・・・困った。

電話番号は知らないし、登録した覚えもなかった。

しかし、奥様とはLINEで繋がっていたかもしれないことに思い当たる。

支部長は奥様と各種会合に一緒に出掛けられることが多く、奥様とはLINEの交換をしていたことが助けになった。

教育学部の奥様と私は同学年で、共通の通人もいる。

また鳳陽会東京支部での看板行事にひとつで、塩塚支部長が企画しリーダー役兼案内役を務め、名物行事になった史跡巡り「長州歴史ウォーク」に奥様は毎年参加しておられる。

奥様へのLINE電話が繫がり、その電話を看護スタッフに渡した。

ドクターが出てきて説明を受けたのが2時頃だったろうか。

「蘇生の見込みはほとんどありません」

病院には5人ほどの警察関係者が来ており、事情聴取を受けた後、現場検証に同行、ホテルに帰ったのが3時近かった。

◆「急性心疾患」・・・

死亡時刻は23:50分。

死因は「急性心疾患」となった。

救急隊員から後で聞いた話だが、救急車が22時過ぎに着いた時点で心臓は止まっていたとのこと。

支部長はもともと心臓に問題を抱えており、13時間にも及ぶ大動脈瘤の大手術をし、3年前には心臓バイパス手術も終えて、快適な日常生活を過ごしていたように見えた支部長。

昔と違い、大好きな酒でも大酒飲みはしなくなり、健康に気を使い、東京支部での各自持ち寄り会食でも必ず、酒好きに似合わず、グラスの脇には必ず野菜サラダがあった。

古賀先生が気になることを仰っていた。

古賀先生は医者の家系。医学にも通じておられるようだ。

先生曰く「いつもの塩塚さんと、どうも違う。表情が乏しい、あれは脳梗塞のように思えた」と。

心臓の場合、心臓マッサージや電気ショックを加えると蘇生する場合が割と多いようだが、脳梗塞になれば、即死となるようだ。

◆寝顔

塩塚さんらしく穏やかで、実に堂々としていた。

塩塚さんと同期、私の一つ上の先輩の塩塚評で「裏表のない男」だと。確かにそうだ。

情に厚く、細かいことに拘らず、少年のように純真で、人の失敗を庇い、人の好い所を褒めてくれる。

こちらが気恥ずかしくなるくらい褒めてくれる。

眼を輝かせ、「それ、いいね!」が口癖だった。

人を貶めるようなことは言わないし、しない。

何をやるにも姑息なことはしない。正攻法の正面突破だ。

仕事の仕方も綺麗なものだった。

金の払いも綺麗。

あの時、最後の店で、借りを作りたくないという強い思いから、無意識に意識を戻したのではないかとさえ思う。

博識で歴史には知見があり、特に幕末ものに蘊蓄が深かった。

日本寮歌祭での檄は見事だった。全国から集った強者たちが集う寮歌祭の仲で、代表者として先頭を切って檄を発しる姿はとにかく勇ましかった。

そして何よりも存在感のある兄貴分だった塩塚さん。

通夜で改めて、棺におさまった塩塚さんに対面すると、あまりにも堂々として立派な男振りの良い人相に、こころ打たれた。

母が高校3年の受験前に逝去した時も涙しなかった私だったが・・・


母校・山大経済をこよなく愛した塩塚さん。

「花の経済学部」というセリフがお気に入りだった。


青春を謳歌し、大好きだった町、山口
奥様と出会った町、山口
その山口で、大好きな桜の季節に旅立った塩塚さん。

この先も、必ずみんなを見守り、いつまでもみんなを応援してくれるだろう。

撮影:塩塚支部長

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