下田に吉田松陰、坂本龍馬の足跡をたずねる

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【20267月 トピックス】

22期 吉澤記

 6月末の梅雨の晴れ間に伊豆半島南端の下田市を訪れた。同地は幕末の開港地として知られているが、何といっても吉田松陰が金子重輔と共に下田湾に停泊中のペリーの艦船(黒船)で密航を企てた事件が有名である。

 松陰は後に獄中で回顧録を記しているため、下田到着の安政元年(1854)3月5日から密航失敗後に捕縛される3月28日までの詳細な記録が残っており、利用した宿や密航を断られて米艦のボートで送り返された上陸地(福浦浜))を示す碑、その後幕吏により拘禁された跡地など、下田の市街地と半周2㎞程の下田湾に沿って廻ると松陰と重輔の行動の過程が臨場感をもって伝わってくる。

 福浦浜に程近い柿崎の弁天島(企ての途中、弁天堂で一夜を明かす)には明治41年の松陰50年祭に建立した松陰七生説の碑(乃木希典大将も匿名で寄付)と金子重輔行状碑が並んで立っているが、印象深いのは弁天島に接する公園の一角にある「踏海の朝像」である。

 像は湾(入り江)の中央部に投錨した黒船を指さす松陰と重輔の姿であるが、日本国の行く末を憂い、国禁を犯す決死の覚悟で海外に密航しようとする若者の決意をよく表している。

 因みに乃木大将は明治43年(殉死の2年前)に両名が密航に失敗して自首を申し出た柿崎村名主の平右衛門宅を訪れ、子孫から家の保存について相談されるなど、松陰の下田での挙行について深い関心を持っていたことがうかがわれる。

 松陰が平右衛門から借用したと伝わる紬太織袷服が柿崎の玉泉寺に保存されているが、このお寺は安政3年(1856)にハリスが米国初代総領事として通訳官のヒュースケンと共に着任した日本最初の総領事館になったことで有名である。下田、ハリスと来れば必ず話題が出るのが幕命でハリスの侍妾として仕えた芸子の「唐人お吉」とその薄幸の生涯である。

 米国領事館の江戸への移転(1859年)に伴いお吉はハリスと別れるが、ハリスの米国帰任の頃(1862年)は芸子に戻った。その後横浜や三島で暮らした後、下田に戻って髪結いや宴席などで糊口をしのぐが生活に困窮した末、51歳で下田の稲生沢川に投身する。

 明治15年に稲生沢川の川岸に3日間投げ捨てられていたお吉の亡がらを引き取り手厚く葬ったのは下田駅に近い宝福寺の竹岡大乗住職である。従い、お吉の墓は今も宝福寺にある。この宝福寺には下田奉行所が置かれていたが、坂本龍馬飛翔の地と言われ本堂横に3m大の龍馬木像がある。

龍馬は土佐藩脱藩の後、勝海舟に出会い神戸から江戸への操船訓練中に時化で下田港に避難していた際、たまたま江戸から上洛する途中の山内容堂も宝福寺に滞在しており、そこに海舟が招かれて龍馬脱藩の罪を解いて身柄を自分に預けるように容堂に願い出た結果、龍馬が自由の身となり幕末に向けて飛躍する歴史の舞台となった。

(参考:吉田松陰下田の史跡とその生涯、宝福寺HP)

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