山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2023年6月トピックス】
こんにちは、22期の「じゃない方のY.Y」です。鳳陽会のホームページの廃仏毀釈に関する投稿を興味深く拝見しましたが、私の住む横浜市都筑区にも廃仏毀釈に関する興味深いエピソードがありますのでご紹介します。
都筑区の北東の東山田町の中原街道沿いに鎌田堂と呼ばれる小さな祠がありますが、そこの裏山は源義朝の側近であった鎌田正清(政家とも)の館跡との伝承があります。義朝と正清は平治の乱で敗れて落ち延びる途中で立ち寄った知多半島の正清の舅の家で裏切りに合い惨殺されています。
そんな正清の伝承が何故ここにあるかと言えば、昭和51年(1976)に鎌田堂から1キロの川崎市久末にある妙法寺というお寺の古井戸の工事中に底に捨てられていた大きな板碑が発見されたからです。
江戸時代後期の地誌「新編武蔵風土記稿」の山田村の項に、鎌田堂に程近い三宝寺の寺伝として建長7年(1255)に家臣によって正清の百回忌法要が行われて石碑が造立されたと記されており、長い間行方不明になっていたその板碑だったからです。
三宝寺は廃仏毀釈の流れを受けて、明治8年(1876)に廃寺になっており同時に板碑も行方不明になっていましたが、100年後に突如出現したわけです。(板碑のレプリカは川崎市が保有、公開)
廃仏毀釈の嵐はまことにすさまじく、薩長明治の始まりと共に古き良き江戸の文化も暴力的に破壊されてしまいましたが、日本を訪れた外国人がその真価を認めたのは歴史の皮肉と言わざるを得ません。
なお、源頼朝が鎌倉幕府を樹立した後、鎌倉の勝長寿院で父義朝と正清の法要を行いました。その寿院跡(鎌倉市雪ノ下)に義朝と正清の墓がひっそりと佇んでいますので写真を添付します。
現代に生きる我々は、石牟礼道子を長く支えて今年亡くなった渡辺京二氏や民俗学の巨頭宮本常一氏の著書の中でしか、なつかしい日本人に会えなくなってしまいました。 (22期 Y.Y)
学22期 Y・Yさんの廃仏毀釈に関するエピソード、興味深く、読ませて頂きました。
川崎市久末は兄が長年住んでいたところで、30代前半には横浜市の菊名から自転車で何度か行ったこともありますが、妙法寺の存在も板碑の話も全く知りませんでした。
今度、機会があれば、川崎市保有、公開の板碑を観てみたいと思います。
久末といえば1989年4月の竹薮で約2億3,500万円のお札が見つかった事件ですね。
私も発見された翌日にサラリーマン時代の先輩と駆けつけた恥ずかしい思い出があります。
私達が行った日も、又、発見されたようですが。
話が脱線しました。
安田さん、コメントを有難うございます。
鳳陽会員であれば、お金より歴史に関心持って下さい。お願いしますよ。