山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2025年3月 トピックス】
《学22期:Y.YZ》
横浜暮らしが三十有余年になり自然に街の歴史に触れるようになったので、横浜ベイスターズのスタジアムがある横浜公園の銅像について鳳陽会員の方々に以下をご紹介したい。
銀杏並木の美しい日本大通りを、海を背にして歩いた突き当りの横浜公園の入り口に「日本の灯台の父」と呼ばれるリチャード・ブラントン(1841-1901)の銅像がある。ブラントンは「お傭い外国人」として1868年に来日し、灯台のみならず横浜開港期の街の建設に大きく貢献したが、時の英国の灯台建設の雄であったスティーブンスン兄弟社(以下ス社と略)を介して派遣されており、灯台の基本設計はス社がほとんどサポートしている。
1872年に岩倉使節団が欧米を視察した際は、一時帰英していたブラントンの自宅に木戸孝允が招待されている(木戸孝允日記)。
また使節団は当時イギリスの難所で知られたベル・ロック灯台をス社代表のトーマス・スティーブンスンとブラントンの案内により視察している。
視察団の案内・通訳をしたのは灯台学の修得のため国費留学していた藤倉見達(後の灯台局長)で、ス家の世話になったが、ス家にはトーマスの長男で藤倉より一つ年上のロバート・スティーブンスンが同居しており、ロバートはトーマスの期待に反して家業ではなく文学を志向していた。
このR・L・スティーブンスン(1850-1894)は19世紀後半のスコットランドの小説家で「宝島」や「ジキル博士とハイド氏」の作者として有名であるが、このロバートが1880年に吉田松陰の評伝(ヨシダ・トラジロウ)を日本人に先駆けて世界に紹介している。
松陰の事蹟をロバートに知らしめたのは正木退蔵(後に東工大の前身校の初代学長)といって13歳の時に松下村塾にて松陰に師事した人物で英国留学後、工業教育に従事していたが1878年に帝国大学の依頼により理学部教授を求めてエジンバラを訪れた際、エジンバラ大学土木工学部のジェンキン教授に招かれた夕食会で松陰について熱く語った時にロバートが同席していた。スティーブンスン家は工学を通じてジェンキンとも親しい関係にあったようである。
ロバートは父のトーマスに反目して葛藤していた時期であり、正木が語った吉田松陰の潔い生涯に励まされて心機一転サンフランシスコに移住し、世界的な作家になったのである。
ちなみに松陰は日米和親条約締結(1854年)の後、下田に停泊していたペリーの船で密航を企てて失敗し入牢、その数年後に伝馬町牢で刑死しているが、江戸から下田に向かう旅の途中、叔父の竹院が住職をしていた鎌倉の瑞泉寺に立ち寄っている。
また、上述の岩倉使節団には松陰門下でイギリス公使館焼き討ちの一員であった野村靖も参加していたが、後に野村が神奈川県権令(その後県令、伊藤内閣時に内務大臣)に就任した1876年に、三宅島流刑を赦免されて東京に戻っていた沼崎吉五郎(小伝馬町の牢獄で松陰と同囚)の訪問を受け、松陰が処刑前に獄中で書き上げて沼崎に託していた「留魂録」の正本を受け取っている。
(野村靖の墓は遺言により世田谷の松陰神社にある)
《学22期:Y.Y》
- 参考書籍:よしだみどり 知られざる「吉田松陰伝」
