鳳陽会ゴルフコンペのご案内

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年8月 トピックス】

鬱陶しい季節となりました。

第97回の鳳陽会ゴルフコンペのご案内です。

今回は平日、千葉の総武カントリー・総武コースでの

開催となります。林間、フラットなコースです。(キャディ付き歩き)

ぜひたくさんの方の参加をお待ちしています。

第97回 鳳陽ゴルフコンペ 実施要領

日時 2024年9月27日(金)0915 キャディマスタ室前集合

場所:総武カントリー総武コース 

   西コーススタート0930から4組

   プレーフィ ¥18,500  (昼食付き)

   会費    ¥3,000

競技方法:ダブルペリア

出欠は8/31 までに、上野宛のメール. atomton@msn.com

に返信いただくか

下記 調整さんに 入力をお願いします。

第97回鳳陽ゴルフコンペ | 調整さん chouseisan.com

37期 上野啓 09061243835

外国人に映った開国日本 ①総領事ハリス

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年8月 トピックス】

幕末から明治にかけて

◆日本の土産

コロナ後、外国人の旅行客が増えた。

彼らの日本土産の人気は和柄の巾着、折詰の寿司・弁当キャンディー、扇子、キット・カットミニの詰め合わせ、花紋の箸袋付き箸セット。舞妓姿のチョコボールというのもある。

幕末から明治にかけて外国人によく売れた土産は、日本の風景を映した写真だったという。

日本有名な庭園や名所旧跡を映したものではない。庶民の何気ない生活の一片を切り取った写真だ。

すなわち「木と紙」でできた家に、白い紙が張られた左右に動か出る戸(障子)の前に子供が遊ぶ姿。こうした庶民の一部を切り取ったものだったという。

石でできてはいない家屋。脆弱で安全とは思えない造りであり、そこに驚いたようだ。「安全性に乏しい」とは外国人から見た危機管理上の感覚であり、日本ではこうした家でも犯罪はごく稀にしか発生しなかったのが不思議に思えたのだろう。

以下、日本に滞在した外国人の日記から、彼らの目にどのように日本が映ったか、その一端を紹介する。

◆総領事タウンゼント・ハリス

ハリスは日本贔屓(びいき)ではなかったが、日記にこう書き残している。

「下田は貧困の地であったが、人々は楽しく暮らしており、食べたいだけ食べ、着物にも困っていない。家屋は清潔で日当たりもよく気持ちが良い。世界のいかなる地方においても、労働者の社会で、下田におけるよりも良い生活を送っているところはあるまい」。

混浴の評価

また彼は日本人を評して、喜望峰以東民族で、最も優秀であるとしている。ただその日本人がなぜ「混浴」のような下品なことをするのか理解できないとしている。

混浴を下品とみたハリス。

しかし、これは文化の違いだ。ところ変われば文化も変わる。

彼が「下品」と感じたのであれば、それはそれで仕方ない。

下品な振舞い

下品といえば・・・

ハリスは有名な問題を起こしている。

金と銀との交換比率が日本と諸外国で3倍の開きがあることに目を付け、日本での俸給を金(きん)に替え、大儲けした。

しかも公職在任中、通貨(為替)交渉の最中だ。

オールコック駐日公使や他の在外公館の館員や商人もこれを真似て、このため日本の金貨が国外に大量に流出するという問題が起きた。

この問題の張本人となったのがハリスだった。

これは混浴などのような文化の違いの問題ではない。

下品で破廉恥な錬金術だ。

いや、下品というより、外交官としてあるまじき行為だ。

現に、オールコック公使は母国から処分を受けている。

(学23期kz)

原爆ドームに涙がにじむ

 「8・6」

 日本人が忘れてはならない日。

 昭和20(1945)年8月6日午前8時15分

原爆が広島上空で炸裂した。

米軍のB-29爆撃機が投下したのだ。

人類史上初めて実戦で使用された核兵器。

強烈な熱線が放射された。広島の街は焼けつくされた。

死者14万人・・・。

私はこの夏(令和6年6月8日)、広島に行った。

鳳陽会(山口大学経済学部同窓会)の通常(全国)総会に参加した。

広島ではぜひとも訪れたい場所があった。

原爆ドームである。

広島駅から路面電車に乗る。

「原爆ドーム前」で下車。歩いてすぐ。川のそば。あの印象的な建造物が建っていた。

対岸(広島平和記念資料館側)からは何度か原爆ドームを望んだことがあるが、まじかで見るのは初めてだ。

原爆ドームは広島県物産陳列館として建設された。

爆心地に近かった。3階建ての本体部分はほぼ全壊した。

だが、中央のドーム部分だけが残った。

原爆ドームの周辺。少年と少女たちが座り、写生している。

原爆ドームを詳細に描いている。

私たちは決して忘れませんと意思表示をしているかのようだ。

私は初夏の陽光に照らされている。

じっと、原爆ドームを凝視する。

涙がにじんでくる。

(鳳陽会東京支部 S)

涼を求めて書道展

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年8月 トピックス】

◆鳳陽会18期・T先輩の作品が展示されている書道展に出かけた。

会場は六本木の国立新美術館。

先輩の作品は毎日書道展の「秀作賞」を受賞。

【文末の写真参照】

面白いもので、涼しげな美人画を描く大家・鏑木清方。

その鏑木の「文(ふみ)」を書の形にしたものだ。

もっとも鏑木は若い時に文筆家を目指したようで、文も達者。

文には夏らしい単語が並んでいた。

庭に打水

つくばい

清水満々と湛え

伊予すだれ巻きあげた軒先

灯籠

夏の夜の趣

◆独特の作品も

会場には多くの作品が展示されている。

26,700点の作品の中から選ばれたという受賞作品1,520点が1階から3階までびっしりと展示されており、一通り見て回るだけでもかなりの時間がかかる。

面白いもので、作品の中には、抽象画としても展示できるような「書」がある。

書というよりも「アート」だ。

松柏盆栽の根張りや白骨化した神(じん)、舎利にも似た味も、筆の「かすれ」で表現されており、盆栽にも通じる面白みがあると気付くことになった。

作品の写真は撮ってきたものの、著作権の関係で紹介できないのがもどかしい。

◆仮名

「かな」の書をみると、不思議に心が落ち着き、気が和む。

作品の中には有名歌人の歌を作品にしたものもある。

このうち二つの歌を紹介する。

この二つの書はいづれも女性の作品で、綺麗な書軸に縦書きでさらさらと涼しげに書かれている。

●山里は 春まだ寒し 旅人の 桜かざして いづくより来し

正岡子規

●夕焼の 紅の雲 限りなく 乱るる中の 美しき月

与謝野晶子

外は炎暑。

クーラーの効いた館内で、涼しいひと時を過ごすことができた。

(学23期kz)

「金利のある世界」が始まって思い出すこと

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年8月 トピックス】  

宇部・山陽小野田支部・MYZ(大17期)さんからの投稿〉

日銀は7月31日の金融政策決定会合で政策金利を0.25%に引き上げることを決定した。前黒田日銀総裁が進めてきた異次元の金融緩和策からの決別である。日本もいよいよ金利のある世界(正常な金融市場)に戻ったのである。しかし、この十年間金利ボーナスの世界にはまり込んでいた国の財政は、これから相当の覚悟が求められる時代に突入したのであろう。

私の脳裏には、1978年7月、私が大手金融機関の証券部に転勤となり、証券の世界に足を踏み込んで数年後の1980年に始まった「ロクイチ国債」の暴落の記憶が蘇った。国債の大量発行は1975年に始まり、「ロクイチ国債」も約8.8兆円発行されていた。当時はオイルショック後の景気後退によって税収不足が生じ、赤字国債を含む国債の増発を余儀なくされたのも要因の一つとされている。

しかし、1978年頃から景気回復軌道が確認され、折しも国債の流通利回りは急上昇し1980年4月には長期プライムレートは9.5%まで上昇したのである。「ロクイチ国債」の暴落は当然のことだった。

さらに銀行に追い打ちをかけたのは金融市場で間接金融(融資)から直接金融(市場)へと大きな流れが始まってきた時期でもあった。

銀行業務と証券業務の相互乗り入れには様々な法的規制があり、銀行は、直接市場に参加できないジレンマに陥っていた。当時の国債発行は引受シ団方式が採用され、銀行はあくまでも投資家の一員として証券会社から国債を購入し大量に保有していたため、この暴落の影響は多大であった。国債の流通市場に参加できていなかったことが大きな要因であろう。銀行の投資業務への危機感は相当なものであったと想像する。

そのことも関係しているのか、1985年6月に銀行にもフルデーリングが認められた。2006年には国債の引受シ団発行方式が廃止され国債市場特別参加者制度(日本版プライマリー・ディーラー制度)が創設され入札による公募方式で国債は発行されている。

翻って、今日までの政策金利の動向は少なからず日本の金融市場に大きな影響を及ぼしてきた。バブルの発生から崩壊、そして様々な要因による国債の増発は金利ボーナスを享受した金利体系の中でその歴史を繰り返してきた。

今回の「金利ある世界」へと舵を切った日銀の植田総裁、これからの日本金融市場をどのように導いていくのかその手腕に期待したい。さらに国は国債を如何にして安定消化(日銀買取額減額及びプライマリーバランス黒字化)して国の財政を運営していくのか見極めていきたい。

ポールの歌がうまいマスター

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年8月 トピックス】

横浜・関内のカラオケスナック

ビートルズをこよなく愛する職場のN先輩の誘いで、8月中旬には店を閉じるという関内のカラオケバーに行ってきた。

私も学生時代にはビートルズのまねごとをしたこともあり、嫌いではない。

我々一行にはもう一人、ご婦人がいた。

先輩の親戚でN.瞳さん。プロのジャズシンガーだという。彼女もビートルズマニアを自認している。

初対面の方だ。

3人がカウンターに座った。

店にはギターやベースが置いてあり、ライブショーをすることもできるのだという。店が狭くキーボードは外に出してある。

N先輩はビートルズマニアで、1966年のビートルズ初来日の時は大学1年。武道館での公演をナマで聞いたという御仁で、ビートルズの話をしだすと止まらない。

その先輩のイチオシが店のマスターだ。

マスターは学校卒業後、数多くの人材を輩出した一流企業に就職したものの、ビートルズ好きが昂じて会社を辞めたという。

◆リバプール

そのマスターが8月下旬、世界中から、厳しい選考をパスしたビートルズのコピーバンドがリバプールに集う「インターナショナル・ビートルウィーク・フェスティバル」に日本代表として出場するという。

もちろんギャラもなく、交通費も出ない。名誉だけでリバプールのステージに立つのだ。

(為替の関係で今年のリバプール行きは、多少こたえるかもしれないが)

このため店は8月に閉めるものの、愛媛での開店準備に入るのが遅れるという。

◆「Oh, Darling」

マスターはステージで主にベースを弾き、ポールのパーツをやるという。

「これを歌えるヤツ者は日本ではほとんどいない」いうポールの曲を歌ってもらった。

「Oh, Darling」

キーはかなり高いが、歌いこなしている。かなりの迫力だ。

オリジナルキーのままで歌えることを羨ましく思う。

ポールもいまだ現役で、オリジナルキーで歌っている。

私はキーを2度、場合によっては3度下げないと歌えなくなってしまった。

マスターはポールのパーツをやっているが、本当はジョンが好きだという。

◆愛媛で新規開店

関内のカラオケバーを閉じてどうするか。

愛媛に行くという。

しかし、松山市ではない。隣町の東温市だ。

なぜ、東温市か。

親戚や身寄りがあるわけではないという。

彼は関東の育ち。奥さんは大阪出身。

義理の母(奥さんの母)が愛媛の八幡浜出身だという。しかし八幡浜からはかなり遠い。

松山市からも車で20分以上かかり、愛媛大学の医学部があるところだ。

横浜から移りたくなり、候補地となる各地を訪ね歩いたそうだ。

京都、奈良、神戸、福岡・・・どうも違う。しっくりこない。

ある時、たまたま東温市に寄ったとき、いわゆる「降りてくるもの」があり、「ここだ!」と決めたという。

私もかつて、愛媛に2年勤務したことがある。

今度愛媛にいった折は、覗いてみよう。

◆ジャズのライブ

後の話。

カラオケバーに一緒に行ったN.瞳さんのジャズライブをYoutubeで聞いてみた。

さすが、堂々たる歌いっぷりで、いい感じ。

一度、ライブに行ってみるのもいいかもしれない。

(学23期kz)

介護雑感(母の死)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年7月 トピックス】  

(過去日記から)
2007-10-27mixi日記より引用

◆今日、午後、入院先の病院で母が87歳で亡くなった。
介護施設に入居していた母が、食事が全く喉を通らなくなり、8月24日に急遽、東京・品川区の病院に入院させた。
検査したら、翌日、末期のすい臓がんと判明。
主治医からは余命一ヶ月も持たないと宣告された。
2ヶ月余り、点滴でよく頑張ったと思う。
  
◆実は30年前にも私は父をすい臓がんで亡くしている。
父同様、本人には告知するわけにはいかない。
主治医からは、終末医療のホスピスを薦められ、告知不要の大田区のホスピスに転院して、8日目の今日午後、急に極めて厳しい状態との連絡があり、駆けつけた。
何とか、最期には間にあったが、着いて20分後に死亡が確認された。
3日前に面会した時は、珍しく目を開けていて、私のネクタイを引っ張る程、意識はしっかりしていたのだが。
マイミクの方にはご心配をおかけするので、この間、介護雑感は敢えて書かないことにしました。

◆私は6年前に早期退職で会社を辞めて、自宅で4年間、母の面倒を見、母の足腰が弱くなって立てなくなってからは、介護施設、病院でお世話になった。
広島勤務時代からすると、16年に亘って年老いた母の面倒を見てきたことになる。
自分なりに精一杯やったとの自負はあるが、これからは、ぽっかり穴が空いた気持ちとなり、母に対してあれもやっておけばよかった、これもやっておけばよかったのにと悔やむのであろうと思う。
故郷広島の墓に母を入れてやれば、私の役目は終わる。

◆これから介護されるマイミクの方の為にも、思い出しては、介護雑感を書いて行きたいと思いますが、とりあえずは、今回で最終回として一旦、締めさせていただきます。

介護施設に大好物の刺身を差し入れた時、大はしゃぎして喜んでいた母はもういない。
(学22期 Y・Y)

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直木賞、芥川賞発表の日に 朋(とも)遠方より・・・

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年7月 トピックス】

〈岡山支部からの投稿〉

 山口大学時代の同期からネット書籍のかたちで本を出版することになった-との連絡が入った。

 それも直木賞、芥川賞発表の日、7月17日に!?(笑い)

 担がれているのか。いやいや、僕を担ぐようなやつではない。

自分のキャリアについて何か本を書いたそうだ。

 東寺敷地内にある京都の名門私立出身の彼なら、それもひょっとしてありなん。

どこか桁外れスケールの彼は高校の卒業式さえ出席しなかったという。

 関西出身の彼が山口での学生時代を謳歌したことは間違いない。

 彼は卒業後、素材メーカーに就職した。大器は晩成す-のことばのよう、日本国内はもとより、中国・上海でも勤務している。

 大手自動車メーカーの購買担当者たちとは500枚を超える名刺を交換しているというから、その活躍ぶりは推して知るべし。

 僕が福岡にいたときは博多で、彼が単身赴任で東京にいたときは目黒で、住所のある大阪に戻ったときは、茨木で。人生の節目、節目に彼がいる。

 今回の節目は顔と顔、盃と盃を交えての話ではなかったが、きっと本の中で「未知の彼」と出会えるであろう。

 早速、ネット書籍に予約を入れ、レビューという返杯を用意したい。

芥川賞、直木賞受賞者の会見を見ながら、思う。

 (岡山支部 B)

なぜにオランダが ③

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年7月 トピックス】  

◆布教せず、貿易に専念したオランダ

1600年にリーフデ号事件が起きる。

リーフデ号とはオランダの商船で、豊後国臼杵に漂着したが、ここでイエズス会士はリーフデ号が海賊船である旨大老・徳川家康に進言する。

家康は乗組員を取り調べるが、ここに取り調べを受けたリーフデ号乗の組員が有名なオランダ人・ヤン・ヨーステンであり、イギリス人ウィリアム・アダムスであった。

彼らは彼らでポルトガルやスペインの覇権の切り崩しを狙っていた。

家康は彼らからよくよく話を聞き、欧州におけるカソリック国と新教国の対立などの話を理解し、欧州情勢を説く姿に好感を覚え、海賊船の嫌疑を晴らすに至る。

◆プロテスタントは貿易に宣教師を連れてこない。

貿易に、より力を入れ、キリスト教布教色が薄いことが幸いした。

1604年には朱印船貿易が始まり、布教に力を入れるスペインを嫌い、貿易に力を注ぐオランダや英国を厚遇し、1609年にはオランダが、1613年にはイギリスが平戸に商館を置いて平戸貿易が始まった。

3代将軍家光の時になると鎖国色が強まり、カソリック国の来航禁止となった。

イギリス人の商館は平戸にあったが、日本との貿易が儲からなくなったために日本から手を引き、イギリス商館は閉鎖となる。

このため、オランダだけが貿易取引相手として生き残ったという具合だ。

◆1641年にはポルトガル人の追放により無人となった出島にオランダ人が移り、これを機に鎖国令と禁教令が徹底され、来航するオランダ人にはカソリック国の宣教活動などの情報提供をも義務付けた。

オランダ側では情報提供が日本との貿易独占を維持する条件となっていた。

オランダ船が日本に到着するたびに、日本側はオランダ商館長を訪れ海外情報を入手した。この時作成されたのが「風説書」と言われるものだ。

19世紀中葉、国際情勢が緊迫化した時にはより詳細な内容の「別段風説書」を提出させた。

幕府はこうしたオランダを窓口とする情報入手により、対外的な事情をほぼ正確に把握しており、ペリー来航についてもかなり詳細な情報をつかんでいたというのは事実のようだ。

そうした情報を認識したうえで、落ち着いた適正な行動ができたのかというと、話は別だ。

(学23期kz)

なぜにオランダと ②

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年7月 トピックス】  

◆オランダの国柄

スペインの一時領有から独立を果たしたオランダ。

もともとオランダは中世以来、穀物自給に乏しいオランダは地理的にも海路交通の要衝にもあったことで貿易を重視。そのため造船業にも力を注ぎ、17世紀には欧州の6割がオランダ船だったという。高杉晋作が上海から長崎に帰港した時、どうしても欲しくなった二万両の蒸気船、これもオランダの蒸気船だった。

また、オランダは国柄として自由な気風を持ち、新教・プロテスタントの国。他国で思想信条により迫害を受けた人々を受け入れることで繁栄してきた歴史があり、自由を尊重し、宗教にも寛容だった。

こうしたこともあり、欧州諸国から情報が集まり、新聞・印刷が盛んになり、科学者や思想家、また画家を始めとする芸術家も移り住み、芸術文化面でも花を開かせた。

15世紀末にオランダは一時スペインを本家とするハプスブルグ家の領土となったが、当時のスペイン王がカソリックを強制したうえ重税も課したため、独立に向かう。

17世紀初頭には東インド会社を設立し香辛料貿易を独占した。

◆イエズス会

当時、イエズス会に代表されるポルトガルやスペインなどカソリック国の対外進出の特徴は貿易と布教がセットになっていた。すなわち貿易で儲けてもらい、その代わりにキリスト教の普及を進めたのだ。

しかし、キリシタン大名がイエズス会本部へ土地の寄進をしたり、スペインによる日本征服の意図(スペイン船・サン・フェリーペ号事件)などもあり、幕府はカソリック国による宗教的な浸食を警戒を強めるようになる。

もうひとつの事実。

ポルトガル人により人身売買がある。

秀吉が九州平定の際に博多で、ポルトガル人による少年少女の人身売買があったことを認識した。その数約5万人ともいわれている。

こうした子供たちの人身売買はポルトガル人が積極的に手を染めたというより、子供らの「人身」は日本の戦国から江戸時代にかけて日本の戦乱に中で生み出されたもの。

ポルトガル人の弁明は、日本側が差し出すので買ったまで、と申し開いたという。

戦乱の犠牲者は、若くしてポルトガル船に乗って東南アジアに国々を中心に運ばれていった。

当初信長のキリシタン保護を踏襲した秀吉だが、こうしたことから1587年バテレン(伴天連)追放令を出すに至る。

(続く)

(学23期kz)