雌雄の黒松・赤松の存在


山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年1月 トピックス】

岡山支部からの投稿

岡山 B


◆金沢の長町武家屋敷界隈の旧武家宅には黒松・赤松を左右に植えてある大層立派な門構えの宅がある。

松にはそもそも神が宿ると言われている。
そのせいか、能・狂言の舞台でも使われる能舞台の鏡板には複雑に曲がりくねって見事な枝ぶりの松が描かれることが多い。また、所謂正式な式典にも、小ぶりの松の盆栽(実は手入れをされ、何百年の樹齢を持っている)が飾られ、常緑樹、その翠の豊かさを我々に伝える。
松は一年を通じて緑を保ち、千年の齢を保つといわれる。うつろいやすい世の中の、うつろうもののみに目を奪われて、不変の真理を見失うようなことがあってはいけないという意味もあると、ものの本に書かれている。

◆そこで雌雄の黒松・赤松の違いを見ていこう。
黒松は文字通り全体的に黒目の色をしていて、防風林、防砂林に使われるほか、公園などにもよく植栽される。湿った土壌や、比較的肥沃的な土壌を好む。
一方、赤松は山の頂上部等の限られた地で自生することが多い。乾燥した瘦せた土地に育つと言われている。また、なかなかお目にかかることの無いまったけはこの赤松の根元、松露が落ちるところに自生すると言われている。

◆武家の世でもなく、現世に目を向けると宅地面積も猫の額ほどしかない中で、自宅に雌雄の黒松・赤松を植えると言うような不埒な考えには毛頭無理がある。
しかし、千年の翠の繁栄を願ってやまないのはやはり初老のつぶやきである。

◆北海道余市にあるウィスキー工場を訪問した時に、売店では黒ウィスキーと赤ウィスキーが販売されていた。両モルトウィスキー、黒は余市で、赤は宮城狭で作られている。
ここは上述の雌雄の黒松・赤松になぞらえて、床の間において飾るのも一興であろうと考え、今年一年は飾ってみようと思う。どうしても呑みたい、またブレンドして呑んだらどんは味なんだろう?とブレンダーの様な「飲欲」と闘ううつろいやすい自分をもきっと楽しめるであろう。

岡山 B

古本の限界効用!

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年1月 トピックス】

<岡山支部・岡山Bさんからの投稿>

◆今昔問わず、大学で使用する教科書は高い。”洛陽の紙価を高める”場合においても一般的に高い。また、読書百遍となれば、その本自身の学習における限界効用を逓増することが出来るのであろうが、試験の為のものとなると猶更限界効用は低減し、価格としても更に高く感じる。

80年代、国際経済概論を担当されていたのは、国際経済学科看板教授鈴木重晴先生であった。授業では、先生の教科書の指定はなかったように記憶している。

81年に刊行された先生の著書「現代社会主義貿易論」は、国際経済概論の中で各種貿易論の基礎となる解説がなされ、先ずは授業を受けるものには必携、所持すべき本であった。しかし、冒頭の様、専門書は高い。何とかならないかと当時3軒ほどあった古本屋を巡ったが、その本は売りに出されてはなかった。

たまたま見つけたのが、小島清教授著の「外国貿易」という本であった。これはおそらく小島教授が一橋で講義をされていた関係で著作された教科書的書籍であったのかもしれない。パラパラとの立ち読み、貿易論を論じていることを確認、これで、試験には勝負をかけよう!

◆ここでは当時の成績の優劣は問わないこととする。30年くらい時間の経過がして、その本の効用が日の目を見ることとなった。 何か!

◆民間の会社に勤務していた当時、決算監査の時、公認会計士に同行して常勤監査役の来社があった。事業所の責任者の一人として、製品棚卸監査の時、日常の業務、管理方法、棚卸の手順、そして、日常現場で職場で取り組んでもらっていた改善活動を紹介した。その決算監査後は、簡単な食事会を予定され、酒を共にする機会を得た。

何かの拍子で、常勤監査役が学生時代の話をされ、「僕は小島先生のゼミ生なんですよ」とおっしゃった。「えっ..、小島先生の「外国貿易」は学生時代に読んだことがあります」から始まって、その経過も含め、それなりに盛り上がったことは間違いない。

◆その後一週間ぐらいして、本社の取締役会でその常勤監査役が監査役報告として、自分が勤務していた事業所について、わざわざ少しコメントしてくださった話を伺った。仔細は省略するが、「社会工学的な視野も入れて、職場改善に取り組まれている」とコメントされていた。

「社会工学的な視野」??事業所で頑張ってくだって改善活動をされていた現場の皆さんに対するほぼ最高の称賛に近い言葉のようであった。

そのときの決算監査に問題がなかったのはもとより、その後もその常勤監査役と仕事を通じて、親しくお付き合いを戴いた。

◆昔、都市銀行で専務をされていたその方は、銀行での現役時代「営業五訓」と言う自分なりの営業訓を背広の懐に忍ばせ、気になる部下に配布をされていた様子である。自分の勤務先の何人かはその書き物を持っていた。しかし、所謂、職制による配布基準ではない。

「外国貿易」、そして、酒の席、そして旧高商の系譜の縁を戴き、その恩恵を少なからず受けた「営業五訓」である。

(岡山 B)

「日本人論」の欠片 その14 日本人の不安症①

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年 1月 トピックス】

 ◆不安症

日本にはうつ病や自殺者が多く、うつ病は日本の風土病ともいわれている。

几帳面、真面目、責任感が強く、不安症で、周囲の目を必要以上に気にかけ、人間関係のトラブルを嫌う。

日本人によく当てはまる特徴だ。

こうした性格から、日本人の経済行動も株の売買・保有に消極的で、現金決済を好むのが特徴だ。

もっとも、最近の株高や新型NISAスタートに伴うZ世代の投資機運の高まりなど変化は出てきているが、欧米諸国に比べ、金融資産に占める株の保有割合はいまだ低いほか、現金での決済比率も高い。

また貯金が好きで、カネを使うことに消極的だ。

なぜか。

将来が不安だからだ。

デフレからかなかなか脱却できないのも、また個人金融資産が2000兆円ありながらも、なぜカネを使わないのかという疑問も、こうした日本人の性格が影響しているように思える。

◆日本人の行動を裏付けるもの

日本人がこうした性格を有するのは故なしとしない。

医学的・生物学に関する研究論文が紹介されている。

セロトニンという神経伝達物質がある。

セロトニンは別名「ハッピーケミカル」、あるいは「幸せホルモン」といわれ、セロトニンが脳内で支配的な状態になれば幸せを感じることになる。

しかし、アジア人、中でも日本人は、アフリカ人や欧州人に比べ、セロトニンの濃度が低いというデータがある。

セロトニンを脳内に運ぶ遺伝子、すなわち「セロトニン・トランスポーター」にはセロトニンを運ぶ能力が高いL型と、その能力が低いS型があり、この組み合わせでLL型、SL型、SS型という3つの遺伝子パターンの組み合わせができる。

2008年の科学誌に発表された研究結果では、この組み合わせは人種によりパターンが分かれているという。

アフリカ人にはLL型が多く、SS型をあまり保有していない。

欧米人はSL型が支配的。

これに比べアジア人はアフリカ人と逆で、LL型保有割合は少ない。

中国人で13%、韓国人が4.8%、日本人が4%と最も低くなっている。

他方SS型の保有割合が高く、中国人で56%、韓国人で54.4%、日本人は65.3%となっており、欧米人(独・英とも18%程度)に比べて高くなっている。

このため、日本人の脳内は「幸せ物質」であるセロトニンの濃度が薄く、日本人は幸せを感じにくいということになる。

(学23期kz)

大相撲初場所初日観戦

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年1月 トピックス】

(学22期Y・Y)

◆巣鴨会という会で団体予約された久保さんにお声掛け頂き、2年前に続き、初日観戦(30名)が実現しました。
mixi時代からの18年余りの友人である、ゆりにゃんさんをお誘いし、7年余りぶりの再会が実現しました。
大相撲観戦は初めてとか。
12時45分に国技館前に集合し、入場となりました。

◆横綱を目指す琴櫻、豊昇龍は快勝しましたが、2場所全休後に出場した横綱照ノ富士、大の里はあっけない黒星スタートとなりました。
照ノ富士は不戦敗以外に一度も負けたことがない若隆景との対戦でしたが、私の予想通りの敗戦となりました。
大の里は曲者の翔猿でしたが、立ち合いからの一瞬での完敗は予想すらしなくて大波乱でした。

◆私的には応援している小結阿炎、平戸海の黒星スタートはショックでした。
特に阿炎は先場所からお父様の貴闘力さん繋がりで応援し始めた王鵬でしたが、何ともがっかりし悔しい。
若元春、相撲内容も素晴らしく幸先良い白星スタート。
玉鷲は安定の白星。

◆山口市関連で応援している序二段若輝元(将軍改め)、同じくスモ友、はとりんさん絡みで応援している翔傑さんと対戦。
押し出しで快勝。(入場前でAbemaで観戦)
年齢も25歳で今年は正念場。
今年中に幕下上位に番付を上げるようでないと関取は厳しいか。
式秀部屋の大当利は黒星スタート。

◆神奈川県葉山町在住のゆりにゃんさんは湘南乃海を応援されることになりました。
身体は恵まれているのに相撲が遅いのが残念です。
途中、十両力士の出待ちを案内しました。
団体の親方との記念撮影は西岩親方(元関脇若の里)でした。
握手もして頂きました。
終了後はゆりにゃんさんと両国の「舎鈴」で、つけ麺を食べて帰途に就きました。
美味しくてお奨めです。
(学22期Y・Y)

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水原秋櫻子

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年1月 トピックス】

第5回長州歴史ウォークでは森鴎外の旧居跡・観潮楼を訪ねた。

森鴎外は石見藩の医者の子で3歳も年を偽り、歳若くして東大の医学部に入学し、しかも立派な成績で卒業した。

軍医で最高位まで登り詰めると同時に、多くの文学作品を残している。

やはり東京の医者の息子で東大医学部に入いり、医者稼業と同時に文学(俳句)の世界に身を投じた者に水原秋櫻子がいる。

森鴎外より年が30歳若い。

夏目漱石の門下生・芥川龍之介と同い年に当たる。

秀才森鴎外とは異なることは、自らが告白している。

以下は昭和38年8月「私の履歴書」(日本経済新聞社)から。

・一高に三度目の受験で合格

・数学が一番の苦手で、物理も苦手

・一高では野球部に在籍し、プロ野球の大ファン。当時のメジャーリーグにも通じていた

・もともと医者になることに気が進まず、絵画や芝居にも大いに興味があった

こう来ると、鴎外よりも秋櫻子の方が親しみが湧く。

秋櫻子の専攻は産婦人科。産院では皇族を多く取り上げたという。

 

◆ホトトギス

秋櫻子は東大では俳句部に在籍し、正岡子規の雅号「ホトトギス」に因んで松山で創刊された俳句雑誌ホトトギスを引き連れて東京に出てきた高浜虚子の門下生となった。

高浜虚子といえば盟友河東碧梧桐とともに、同郷・松山の正岡子規を師と仰いでおり、秋櫻子もホトトギスにつながっている。

夏目漱石はどうか。

漱石は正岡子規と東大の同級生。

漱石が松山中学に赴任したとき、漱石の俳号・愚陀仏に因む漱石が住居とした愚陀仏庵に子規が押しかけ、子規が1階、漱石が2階に住み、2か月ほど寝起きをともにしたほど、漱石と子規は昵懇の仲だ。

彼らはいずれも写実派で、ホトトギスに句を寄せた。

夏目漱石が「吾輩は猫である」、「坊ちゃん」を発表したのもホトトギスだった。

◆秋櫻子の句

秋櫻子は一日の吟行で50句くらいは作っていたという。

秋櫻子の椿の句をひとつ。

一輪の 椿にむかひ 雨をきく

この句を18期の田口先輩が書にし、大会で大賞を受賞している。

【写真参照】

(学23期kz)

学18期・田口浩一氏の作品

昭和20年の空襲で焼失する前の松山・愚陀仏庵

「安芸灘の風」byレーモンド松屋

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年1月 トピックス】

(学22期Y・Y)

◆東京支部トピックスで「天晴れ友達!」というタイトルで昨年3月に投稿したサラリーマン時代の先輩のMさん(75歳)から先日、手紙とCDが入ったレターパックが届いた。
Mさんは五木ひろしの「夜明けのブルース」という曲を知り、その曲で日本レコード大賞作曲賞を取ったのがレーモンド松屋という人で何者ぞ?と。

◆彼がこの八月にインターネットで調べるとレーモンド松屋は59歳の還暦前に「安芸灘の風」で、有線演歌ランキング史上初の4ヶ月連続一位後にメジャーデビューを果たし、現在73歳。
四国を中心としたローカルで活動している。
Mさんと同世代で、しかも同じ愛媛県出身ということもあり、曲を聴いて自分の青春時代にタイムスリップし、心身が疲れた時は寝転がってレーモンド松屋の歌を聴いているとか。
後援会に入りCDを5組購入し、私にも写真のCDを贈って来た。

◆私も早速、YouTubeで「安芸灘の風」を聴いて見た。
先輩から経緯を聞いていたこともあったからなのか涙が止まらなくて、嗚咽する程であった。
聴く度に涙が出てしまう。
ロック調の演歌で、釣りに行ったことのある懐かしい下蒲刈島等の広島や愛媛のみかんで有名な大長等の地名が随所に出てくる。

◆Mさんは勤務していたT社を44歳の時に退社し、その数年後に起業。
急成長し、今や120名の社員を抱える会社の経営者である。
そんな成功者が、心身が疲れた時に聴いているとは。
「……きっと来る あなたは来る いくつもの橋を渡って……きっと来る あなたは来る 安芸灘の風に乗って……」このフレーズの熱唱に励まされる。
ありがとうMさん。
私もまだ若い。私もこの曲を聴いて自分を鼓舞して頑張らなくては。

追記)
横浜から広島に転勤となった39歳の夏に広島・宇品港からフェリーで松山に渡り、マウンテンバイクで、反時計回りで高知まで、3日で330kmを走破した懐かしい四国の地。
当時は安芸灘とびしま街道もまだない時代でした。
ただ、「安芸灘の風」は愛媛というローカル色ゆえに素晴らしい歌ですが、知名度は全国的には低いとのこと。
私も東京の地からレーモンド松屋さんを応援していきたい。
(学22期Y・Y)


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山頭火

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年1月 トピックス】

種田山頭火は山口生まれの俳人だ。

年またぎ また酔いどれる 山頭火

酔いどれ俳人・・・種田山頭火。

山頭火の句は自由律の句で、冒頭のような五七五と並ぶ句はまずない。

あてどもない行乞。山に入っては句に向かい、水のそばででも句を書き留める。酔って寝る時、朝目覚めた時、ノートに綴る。

山頭火の句には、「草、山、水、旅、酔い」という言葉がよく出てくる。

◆不幸な身の上

山口の佐波郡(現防府市)の大地主の長男に生まれる。

父の道楽が過ぎて母が井戸に身を投げる。父が造り酒屋を始めるが、失敗・破産し父は失踪する。

次に弟も自殺。

こうした身内の不幸で、酒に溺れ、旅に出、行く先々で句を作り、生涯で1万2千の句を作った。

俳句はもともと好きだったようだ。

しかし、どうも清々しい句がない。

造り酒屋がうまくいかなくなった後、友人を頼り熊本へ。

熊本では酔って、向かってくる電車に大手を広げて立ちふさがり、市電を止めたという迷惑な話もある。

熊本の寺で出家するも、定住することなく行乞を続ける。

◆酒とラーメン

日本酒の銘柄で「山頭火」というのがある。

山口の旧小郡近くの金光酒造で作っている。

また「ラーメン山頭火」も有名。

大抵のコンビニには山頭火のカップ麺置いている。旭川の塩とんこつラーメンだ。

なぜ旭川か。言われがあるようだが、ここでは触れない。

その昔、JR恵比寿駅の東口にラーメン山頭火があった。20年も前の話だが、そのラーメン店の暖簾をくぐったことはない。

山頭火の前を通り過ぎ、その先にある「一風堂」に足繁く通った。恵比寿の「ラーメン山頭火」が、まだ営業を続けているか調べたところ、2005年に閉店していた。店には申し訳ないことをした。

◆松山で

他界する1年ほど前に松山へ渡る。

山頭火の願いは二つだと告白している

本当の自分の句を作ること

そして

ころりと往生すること。

松山で一草庵を結び、1年あまりで、望み通り、ころり・・・となったようだ。

秋晴れ ひょいと四国へ 渡って来た 

この句碑が旧高浜港近くに置かれており、山頭火の生まれ故郷・山口の方を向いている。

(学23期kz)

日本で三番目の歴史をもつ山口大学と鳳陽寮歌

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年1月 トピックス】

学40期 山口勝裕

◆昨年11月日本寮歌祭に参加し、『鳳陽寮歌』を歌った。私の学生の頃は大学の寮として鳳陽寮はなく、『鳳陽寮歌』も知らなかった。

日本寮歌祭は、旧制高等学校の卒業生が中心となった寮歌の祭典であり、私は、参加にあたって、鳳陽寮歌の歌や作られた歴史など調べた。最近はネットで様々な情報が入手できる便利な時代である。

寮歌は、歌が作られた時代背景が歌に映し出されている。『鳳陽寮歌』もまた、山口の地で寮生活をした学生の思いが込められたすばらしい歌である。この正月、あらためて鳳陽寮歌の歴史と山口大学の歴史を整理した。

◆山口大学の歴史は、学生時代に教えられることも知る事も無かった。唯一、経済学部の前身は山口高等商業学校(以下、山口高商)である事、起源は上田鳳陽先生や長州藩校など漠然としたものだった。

おそらく、新制大学の卒業生や現役山大生はほとんど知らないのではないかと思う。

最近、大学の入学式や卒業式など祝辞のなかで以下のくだりが紹介されているが、昔はなかったと記憶している。

『山口大学は長州藩士・上田鳳陽によって創設された私塾・山口講堂が前身であり、東京大学・東北大学に次いで日本で3番目に歴史のある大学』と紹介される。

しかし、何をどう比較しての3番目かははっきりと紹介されない。

◆山口大学には非常に長い歴史があるが、ここでは明治以降の変遷について、わかりにくい点に絞って整理した。

1886年(明治19年)公布の中学校令に基づき、第一高等中学校(東京)、第三高等中学校(京都)に次ぐ全国3番目の高等中学校として、山口高等中学校が設立された。(前身は山口中学校)

その後、1894年(明治27年)公布の「第一次高等学校令」で山口高等中学校は、明治27年に山口高等学校(注1)に改組され、明治38に山口高商に転換され、現在の山口大学経済学部となっている。

(注1)この山口高等学校は旧旧山口高等学校(以下、旧旧山高)と呼ばれた。

「第二次高等学校令」が1918年(大正7年)に公布、大正8年に施行され、同年、再び山口高等学校が設立された。この学校令では、全国に多くの高等学校が出来た。この時出来た山口高等学校は、旧(再興)山口高等学校と呼ばれており、現在の山口大学人文・理学部の前身である。

山口大学の遍歴は、山口高等中学校の設立以降、改組や転換など行われ、他の官立学校と違、旧藩主毛利家など地元山口の教育界の影響を受け、非常に複雑な歴史を辿っている。

◆山口大学に関係がある代表的な寮歌に『花なき山の』(鳳陽寮歌)と『柳桜をこきまぜて』(鴻南に寄する歌(注2))がある。

『花なき山の』は、旧旧山高の学校の教員であった国文学者・俳人である佐々政一氏が、旧旧山高に歌がないことを残念に思い、明治32年に作り、寮生に遺贈した。歌は山都の質素な共同生活を歌ったものであり、学生には非常に愛唱された。旧旧山高が、山口高商に転換された後も、旧旧山高の寮と寮歌は山口高商に引継がれた。そして、大正11年山口高商の寮名が鳳陽寮と名付けられ、それ以降、『花なき山の』は『鳳陽寮歌』と呼ばれた。

『鳳陽寮歌』の起点は旧旧山高の寮歌『花なき山の』である。

なお、経済学部の同窓会組織『鳳陽会』があるが、これは1908年(明治41年)3月に第1回山口高商卒業生によって創設され、同窓会組織『鳳陽会』は、山口高等商業学校を起点としている。

◆山口大学経済学部を卒業してから、経済学部の前身に旧旧山高があったことは、認識することはないが、源流である「山口講堂」と経済学部を結ぶなかで、旧旧山高が存在したことから、山口大学は日本で3番目に歴史のある大学と誇ることができる。

そして旧旧山高の寮歌として作られた『花なき山の』が、山口高商の寮歌として歌い継がれ、山口高商の寮名が鳳陽寮となったことから「鳳陽寮歌」と呼ばれるようになった。

経済学部関係者は、今日も鳳陽寮歌を東京、京都に次ぐ全国3番目の高等中学校の流れを汲む旧旧山高の寮歌として、また全国3番目の高等商業学校(注3)の寮歌でもあることを誇りとして、声高らかに歌うことができることを多くの人に伝えたい。

(注2)主として文理学部の寮となった鴻南寮の寮歌関連の文献を整理して記載した

(注3)官立の高等商業学校として、東京高等商業学校(一橋大学)神戸高等商業学校(神戸大学)の次に設立された

※ 本内容に相違がありましたらご指摘ください。

※本投稿を作成するにあたり、鳳陽会東京支部の葛見事務局長に多大なるご支援をいただきましたこと、大変感謝しています。

学40期 山口勝裕

(参考文献) 

山口大学の来た道5

名前のはなし ①結婚式の挨拶

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年1月 トピックス】

名前は難しい。

最近、女性の名前には似通ったものが多くなり、覚えるのに苦労する。

以下は実話だ。ただし仮名ということにしておこう。

◆私の友人の娘の名前はエリコだった。歌が上手い娘で、今でもOLをやる傍ら、クラブでジャズを歌っている。

字は絵里子だったか江理子だったか。

いや、江梨子だったかもしれない。

友人は娘のことをエリコと言い、時々はエリと端折って呼んでおり、学生当時はなかなかハイカラな名前だと思っていた。

◆また中学時代には名がリエという品の良い同級生のお嬢さんもいた。

漢字は梨絵。

苗字は香月で、フルネームは香月梨絵だ。

何やら高貴な筋の方のような名前で、宝塚の生徒のような名前だった。

◆そのうちに、ごく親しい若者がお嫁さんをもらった。

私も結婚式に参列したのだが、お嫁さんの名はエリカさん。

恵理香さんだ。

◆それと相前後して、職場に転属してきた女性がいたが、その名前がリエさん。理栄と書く。

ここまでくると、よくわからなくなる。

◆或る時、結婚式に呼ばれた。

スピーチをしてくれという。

新婦の名は「リエ」さんという。

私はメモを見ないでスピーチをするタイプだ。

その時も新郎・新婦の名前はもちろん真っ先に記憶した。

数分のスピーチに笑いを取る箇所を3つほど盛り込んで、颯爽とマイクを司会者に返し、席についた後、ゆっくりとめでたい酒を飲むつもりでいた。

このため、スピーチは数日前から何度も練習したのだった。

名前も含め、笑いの間の取り方も含めて。

笑いのネタは上等。当日はイケルと踏んだ。

◆いよいよスピーチが始まった。

最初のまくら言葉をサラリと並べて新郎の名を語ったまでは良いが、新婦の名をド忘れしてしまった。

エリだったか、リエだったか

二文字だったか。

いや三文字かもしれない。

エリコ、エリカ、リエカ・・・違う!

やはり二文字だ。

絵、江、理、里、恵・・・

2秒ほどスピーチが止まり、恐ろしい沈黙が式場を包んだ。

マズイ、沈黙はまずい。

そこで賭けに出た。

新婦の名を「エリ」さんとしてスピーチを続けた。

5割の確率で当たっているはずだ。

しかし、どうも自信が持てない。

頭の中は真っ白で、スピーチの筋も吹っ飛んでしまった。

◆正解は「リエさん」だった。

友人が娘のことを呼んだ、慣れ親しんだ「エリ」名前がとっさに出た。

名前を間違えてしまった。

新婦の一族の方には、まったく申し訳ないことをした。

式の後、新婦のご両親に平謝りに向かったことは言うまでもない。

娘さんの名前には、似た名前が増えてきた。

とはいえ、決して名前を間違ってはイケナイ。

(学23期kz)

「44年目のミシン」とアルバイト代 当世アルバイト事情は如何に?

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年1月 トピックス】

<岡山支部・岡山Bさんからの投稿>

◆実姉から実姉から44年間使ったミシンが壊れたので、修理に出し、治ってきて、また使えると連絡があった。このミシンは姉の結婚祝いに学生の身分であった自分が贈ったものだ。

今は昔で、ネットで検索すると当時の定価では208000円とくる!(商品の謳い文句も”コンピューターミシン”とくる(笑))勿論就職もしていなかった当時の収入源はアルバイト代であろう。

◆昔の記憶と時系列的に少し最低賃金(最賃)の統計を拾ってみるとその価値がわかる。

中国地区の平均的な最賃でざっくりした時給の金額でとらえると、80年代初頭は380円、500円台になったのはバブルの頃の90年になってくる。今の時給が1000円に届こうとする時代とは隔世の感がある。

微かな記憶では80年代初頭のほとんどのアルバイトの時給は400円が相場であったような記憶がある。ホテルの皿洗い、布団敷・片付け、調理場板場の盛り付け、放送局の取材助手、夏のビアホールの配膳係、引っ越し応援(県庁新庁舎へ)。。。

◆当時別格の高給取りは「家庭教師」という部類があった。当時から学部指定で家庭教師を求人される親御さんが多く、中でも医学部生は別格として、教育学部、文理学部以外の他の学部でその職種にありつけることは稀有であったような記憶もある。(80年代)

たまたま出会った家庭教師のバイトは月15000円(月8回*1時間)!ざっくり時給換算すると1875円。破格である!その上、バイト終了後はおコーヒーかお紅茶にケーキ付と言うちょっとした喫茶店?であった。

そのバイトは10カ月ほどの期間であったが、高校入試合格に向けての依頼であったので、その目標貫徹に力を注ぎ、そして成果は出た。

◆今にして思えば、その「家庭教師」のバイト料から基礎財源を作った上に、長期の休み期間にバイトしたものをプールして、姉への結婚祝いを準備したのであろう。

44年経過しても修理できる業者、また使えるミシンにも感謝、そして、全国転勤族の妻であった姉が何よりそのミシンを捨てずに大切に使い続けていたことに感謝!

◆今のミシンの価格は、自転車のそれと同じように同等機能のもので、4万円以下で購入することが出来る。(技術革新やらグローバル競争の中での価格破壊か)

きっと今回は修理する方が新規に購入するより経費が掛かったことも予想される。(しかし、尋ねたりするのは野暮だから上記の三つに感謝するだけに留めよう)

◆値段の付けられないものに「思い出」と言うものがある。職務経験から輸送事故の補償では、壊れたもので代替えできるものは、対応は容易だが、思い出のアルバムの紛失、棄損と言った部類の「思い出」への対応は特に難しいと聞いたことがある。このミシンの修理は姉の中では「思い出」への出費なのかもしれない。

耐用年数から言ったら、既に備忘価格に過ぎない価値の”44年目のミシン”、されど他にはない”44年目のミシン”である。

蛇足)昨今賃上げ、初任給の大幅な上昇が話題になることがある。上記比較と同じように同じ時系列で、大卒初任給をざっくりとした金額で拾ってみておこう。

80年115,000円85年140,000円90年170,000円、93年には19万円に乗り、2008年には20万円台に乗る。今春の初任給平均は239,000円とも聞く。

先進国労働者の国際賃金比較をすると決して上位に位置する地位にはない日本ではある。

宇澤弘文先生には社会的費用が大きくかかっていると叱責されるのを覚悟して記載すれば、74年には78,700円が75年には89,300円と言った賃金上昇も経験した日本経済であった。

(岡山 B)