会報「東京鳳陽」発行

           会報「東京鳳陽」発行

山口大学経済学部同窓会、鳳陽会東京支部は会報「東京鳳陽」(第105号)を発行します。 編集作業は順調に進んでいます。10月末、発行予定です。会員の皆様に発送します。

 今回の主要な記事を事前に紹介します。

  • 第2回長州歴史ウオーク(令和3年12月4日開催)の案内
  • 吉田寮の青春
  • 鈴木重靖教授の想い出
  • 第1回長州歴史ウオーク(6月5日開催)報告

読み応えのある会報を目指しました。ご一読していただくと、幸いです。

【トピックス募集】

鳳陽会東京支部のホームページを会員交流の場として活用しています。

トピックスを募集しています。学生時代の思い出、サークル活動、ゼミ、

近況報告などをメール、手紙でお寄せ下さい。お待ちしています。

 アーカイブ(ホームページの最下段)で検索すれば、過去のトピックスを読むことができます。

長州藩の転機

幕末や明治維新では長州藩の偉人が活躍し、その足跡が山口に残っていたが、学生当時ほとんど興味を持つことがなかった。もったいないことをした。

 ◇関ケ原負け組の毛利・長州藩

関ケ原の戦いで西軍の総大将に担がれた毛利輝元。家康の世が始まると、以前の山陽道・山陰道八国112万石から周防・長門二国約30万石へと大幅な減封となって長州藩が始まる。藩庁も山陽道ではなく、長門の北部で山陰の海沿い、萩に押し込められた。

◇朝敵

負け組の汚名を討幕によって晴らそうとする長州。正月には、報復に打って出る機会を藩主に伺う「殿、まだでござるか」と問うことが習わしになっていたという。関ケ原から250年を超える執念だ。

黒船到来以降、攘夷派の孝明天皇を担ぎ出して討幕に焦点を合わせる急進的攘夷派の長州。しかし孝明天皇は妹和宮を14代将軍・家茂(いえもち)に降嫁させた如く、攘夷派ではあっても反幕に非ず、むしろ親幕であったのだ。天皇の意向を見誤った長州は「8月18日の政変」、「禁門の変」を経て「朝敵」となる。天皇は長州を許さず、これを受け将軍家茂も長州征伐に乗り出す。

こうした局面から長州はいかにして復権し、初代内閣総理大臣を長州藩士から出すまでに至るのか。

なんと反長州の大権威が次々と倒れたのだ。

◇まずは家茂の早世

第二次長州征伐のさなか、家茂が死去する。死因は「江戸患い」といわれた脚気らしい。ビタミン1不足による病であるが、ほとんどの歯が虫歯になるほど甘いもの好きの家茂。甘いものはビタミン1の消費を早める作用があり、これが死期を早めたようだ。

◇孝明天皇も崩御

その半年後、長州を嫌い、長州討つべしとした孝明天皇も崩御する。原因は流行り病の天然痘という。当時既に予防策として種痘が知られており、天皇に近い関係者は種痘を打っていたようだが、孝明天皇は鎖国派で異国嫌い。種痘を「外国の文化」だとして種痘を打たなかったことが命取りになったようだ。

 ◇二人の死因の虚実

孝明天皇は病死というのが定説とされるが、周囲の者が関わったとする暗殺説が根強く残っている。

また、脚気が原因で第二次長州征伐のさなか、大阪で死去したとされる家茂も然り。江戸に運ばれてきた死体は黒ずんでおり、それを見た天璋院は毒殺との見方を曲げなかったという。

ただ、真相は闇だ。

明治天皇は親・長州

孝明天皇に代わり即位した明治天皇。明治天皇が親・長州であったことも長州復権に大きな役割を果たしたように思う。

明治天皇の母は中山慶子(よしこ)。慶子の父中山忠能(ただやす)は攘夷派の公家で孝明天皇から妹和宮と家茂の縁組御用掛を任ぜられるも、禁門の変では長州の動きを支持、孝明天皇から処分を受けた人物だ。

また慶子の弟忠光も久坂玄瑞ら長州の尊攘過激派とのつながりが深い。この忠光は明治天皇より7つ年上で、忠光が幼少の頃、明治天皇が5歳になるまで実家の中山家で共に過ごしている。また宮中に移ってからも近臣として、明治天皇がお好きなチャンバラ遊びや学問の相手をしたという。親・長州でないはずはない。 

(学23期kz)

青春のアルバイト ①

1970年春、私は山口大学経済学部に入学した。

山口市の亀山の近くに建つ鳳陽寮・北寮に入寮した。

 教養部の講義は平川キャンパスで行われる。鳳陽寮から

自転車で平川に通った。

 大学の講義に興味があったので、4月は真面目に出席した。

ところが、講義はつまらない。知的好奇心を刺激しないものだった。

 5月の連休明け。天気のいい日だった。自転車に乗って平川に向かったが、

講義に出る気がしない。Uターンして山口の旧市街や寺、神社を巡った。

ーそうか。講義に出なくても、いいんだ。

 こうして、講義には出席しなくなり、その代わりにバイト生活が始まった。

      ◇昼食は社長家族とともに

 大学の掲示板にバイトの求人案内がたくさん、貼られていた。

中には「経済学部の学生に限る」という求人案内があった。

 山口市の大手文房具店もそのひとつだった。主な仕事は官庁や会社などへ

の文房具の配達だ。朝から、取引先を回る。新規の注文もとる。

 昼食時は店にもどる。一般従業員は弁当を食べるか、食堂に出かけた。

ところが、経済学部の学生である私はリビングで社長の家族とともに

昼食をとる。特別扱いだった。社長には妙齢のお嬢さんがいた。彼女も同席して食事をする。昼食が楽しみだった。

      ◇車体から白い煙

 私は車の免許をとった。バイトの幅が広がる。

バイト先は石材会社だった。重いブロックなどをトラックに積み、現場に運ぶ。

石材の揚げ降ろしも仕事の一部だ。重労働だった。

 ある日、私はひとりで運転席に乗り込み、トラックを発進させた。アクセルを踏むが、なかなかスピードが出ない。荷台に石材を積み過ぎたか。アクセルを強く踏んでしばらく走った。すると、車体から白い煙が立ち上るではないか。どうしたのだろう。停車して点検した。なんとタイヤが過熱して燃えていた。

 原因は私のミス。サイドブレーキを引いたまま、トラックを走らせていたのだ。

社長にお詫びした。社長は「辞めろ」とはいわなかった。だが、わたしは責任をとって自主的に辞めた。

次は、山口市内の外郎の老舗で働き始めた。車で山口県全域のドライブインを巡る。土産物コーナーで外郎の売れ行きをチェック。売れて品薄になったところには納品する。ときどき、老舗の社長が同乗した。社長は釣り好きだった。釣りの自慢話をよく聞かされたものだ。

居心地がよく、1年ほどバイトを続けた。

        ◇危険の報酬

 私のバイト生活の中で、最も効率が良かったのは山陽新幹線の工事だ。

山口に特殊な接着材の会社があった。この会社がトンネル工事の一部を請け負っていた。

 午前9時、会社に集合する。その日の工事の打合せを1時間ほどやる

午前10時過ぎ、会社を車で出発する。徳山郊外の工事現場に向かう。

徳山に着いたら、もう、昼前だ。ドライブインで食事をする。社長は太っ腹だった。

「なんでも、好きなものを注文していいよ」

しめしめ。ありがたい。ゆっくり昼食を楽しむ。

 午後1時から、トンネル工事現場で作業が始まる。上部から岩石や建材の一部がときどき、落下してくる。ヘルメットをかぶって作業するが、かなり危険だ。午後4時、作業終了。後片づけをして夕方、山口に戻る。実質労働時間は3時間である。“危険の報酬”が1日いくらだったか、記憶にない。一般のバイトより割高だったと思う。

現金を手にした私は、勇んで道場門前の酒場「大万」に向かうのである。

 (元山口大学経済学部生 S)

されど我らが山大卓球部

私は体を動かすこと、運動が好きだった。中学・高校では卓球をやっていた。

山口大学経済学部に入学して、やはり、自然に卓球部に入部した。

新入部員は経済学部、医学部、工学部、農学部、教育学部など20人ほどいた。

   ◇3経戦

 当時、卓球部は亀山キャンパスで練習をしていた。学生が計画を立て、自主的に練習を行った。練習場にシャワーはなかった。練習の帰り、よく銭湯に通ったものだ。

  選手として大会にも出場したが、強くはなかった。3回戦に勝ち上がればハッピーだった。

  当時、3経戦が行われていた。山口大学、長崎大学、大分大学の経済学部の選手が戦う。会場は各大学持ち回りだった。遠征費は自己負担だ。アルバイトで交通費・宿泊費を稼いだ。

   ◇マネージャー

 3年生でマネージャーになった。大会の手配など裏方に徹した。

新入部員がやめないよう、ずいぶん、気をつかったものだ。

 卓球部の3割が女子部員だった。教育学部や文理学部の女子学生が多かった。

 だが、私は男女交際にあまり関心がなかった。卓球部の中ではロマンスは芽生えなかった。

 コンパは年2回、盛大にやった。新入生歓迎コンパと追い出しコンパだ。

会場は惣野旅館などだった。コンパ代は1千円。アルバイト1日分だった。

 卒業後は仕事が忙しく、残業、残業の日々。卓球を楽しむ余裕がなかった。

しかし、卓球部員たちとは、学部を超えて付き合いがある。

 (元山口大学卓球部 M)

まぼろしの大内文化

 ◇“パトロン”大内氏

学生時代に歴史や文化に興味がなかった方でも、さすがに瑠璃光寺・五重塔や雪舟庭を訪ねたことはおありだろう。よその地から事前学習することなく、突然学生として住み着くことになった二十歳(はたち)前の我々。山口市内を見渡しても、これら有名どころのほかに、県外から訪ねてくる身内や友人を案内したいような歴史的建造物を探すのは難しかった。この点、京都は別格だ。京都では歴史的建造物を始めとする文化財の蓄積が多く、内外への発信力はあまりに大きい。このためか、山口に付けられる「西の京」というレッテルには違和感が付いて回った。しかし歴史を振り返ると、室町時代には応仁の乱をはじめとする多くの戦乱から逃れてきた僧侶、学者・文化人、公家が山口へ集まり、京を凌ぐほどの文化的な隆盛を見せたという。この時代に日朝・日明貿易や石見(いわみ)の銀採掘による財力を背景に文化人のパトロン役を務めたのが大内氏であった。この大内氏、フィレンツェ・メディチ家のジパング版というのは言い過ぎか。

  ◇24代弘世(ひろよ)と京風街づくり

平安時代には権介(ごんのすけ)として周防国を統治した大内氏。南北朝末期に弘世は長門国を加え二国を平定した後、東は石見(いわみ)(島根)、安芸(広島)、西は九州へと勢力を伸ばし西国の雄となる。2代将軍義詮(よしあきら)に拝謁すべく上洛した折、京の街並や文化に感銘を受け、京に地形の似た山口に本拠を移し、一の坂川を鴨川に見立てて京を手本とした街造りに取り掛かった。京から招いた姫君が寂しがらぬよう、宇治から取り寄せた源氏ボタルを一の坂川に放ったという話が残る。

◇25代義弘(よしひろ)と瑠璃光寺・五重塔

続く義弘の代になると室町幕府に反旗を翻した山名氏討伐で功績をあげ、豊前のほか、関西の紀伊、和泉の守護をも兼ね、一段と勢力を増し、室町時代の実力者となるに至る。一時は蜜月関係にあった将軍・足利家と大内氏だったが、勢力を拡大させる大内氏に幕府は警戒を募らせ、とうとう義弘は3代将軍義満に謀反の疑いをかけられ、討たれ、敗死する。後年兄義弘の菩提を弔うために弟盛見(もりみ)(26代)が建立したのが瑠璃光寺・五重塔だ。

◇28代教弘(のりひろ)・29代正弘(まさひろ)と雪舟

涙で鼠を描いた雪舟。京の寺に入り修行の傍ら絵を学ぶが、水墨画の本場、明に渡ろうと「西の京」山口へ移り住み庵を結んだのが34歳の時。柳井港から遣明船で明に渡り、学んで帰国した雪舟は応仁の乱で荒れた京には上らず、山口を始めとする九州・中四国に留まる。雪舟の技法は尾形光琳、狩野探幽、長谷川等伯ら後世の大物に影響を与えたという。また雪舟は全国各地に庭園を造っており、山口の雪舟庭は三方が山林、中に池を配し、日本庭園の代表作とされる。また、松尾芭蕉に影響を与えた連歌の宗祇法師も、正弘と交流があったことから、山口ではかつて連歌が大変盛んになったという。

◇31代義隆とザビエル

家臣の謀反により義隆の時代で大内氏が滅ぶが、公家文化を好み、漢学や儒学などの学問、連歌や管弦などの文化に通じていた義隆の時代が大内氏の最盛期とされる。ザビエルのキリスト布教の拠点として義隆が与えたのが廃寺の大道寺。これが「ザビエルの塔」と称せられ、そこで日本初のクリスマスが開かれている。また、献上品の「珍陀(ちんだ)酒(しゅ)」と呼ばれたポルトガル産赤ワインを最初に口にしたのも織田信長ではなく、義隆であった。

  ◇山口の光景、今と昔

当時の山口の繁栄ぶりはザビエルや、筆の立つルイス・フロイスの記録に残されている。その時代は間違いなく「西の京」であったろう。しかし、「形あるもの」は室町末期の戦乱でその多くが焼失したという。「西の京」という名前こそ残るが、今日では街中で誰の目にも映る歴史的文化遺産がほとんど姿を消した山口。我々が目にした山口は焼失後の「西の京」だったのだ。一度、大内文化最盛期の山口を訪れ、「そうか、これが”西の京”だったのか。なるほど!」と唸ってみたかった。(学23期kz)

生き残った山大・東亜経済研究所

生き残った山大・東亜経済研究所

学生時代、山大の東亜経済研究所(以下東亜研と略す)には「満蒙や満鉄時代の蔵書・資料が豊富で、他に類を見ない」という話を聞いたことがある。

◇山口高商の校是

満韓の支配を巡って戦われた日露戦争。山口高商はその戦中に設立されている。戦勝によって満韓経営問題が我が国の大きな課題となり、特に満韓に近い良港下関を擁していた山口高商では、満韓を担う人材の育成が校是とされた。

◇“日本の生命線”とされた満州

満州への関心が一気に高まったのが1932年の満州建国。東亜研はその翌年の1933年に設立された。当時満州は軍事面からは共産主義拡大に対する「防衛基地」であり、また経済面では、昭和恐慌の混乱が続く中、経済混乱打開に向けた「日本の生命線」と位置付けられた。このため満州には、満鉄や満業(財閥系重工業)による基幹産業への投資が行われ、農業の分野でも耐寒性に優れた改良品種により耕作地が広がり、満州こそが希望の地となった。

東亜研の設立趣旨にも、東亜の調査・研究は「国民に課せられた・・興亜の世界史的使命を貫徹する・・必須の条件」と大変気合が入っている。

◇山大だけに残る“東亜”経済研究所

当時は「東亜新秩序」、「大東亜共栄圏」こそ我が国が目指すべき道とされ、「東亜」の名称を付して満蒙の調査研究を行う研究所が、山口高商以外にも、東京、神戸、長崎など全国各地の高商で多数設置されている。こうした研究所はGHQの指令で一時廃止されるも「東亜」の文字を廃し、単に「経済研究所」と呼称することで多くが現存している。しかし「東亜」を付した名称で研究所が続いているのは山大の東亜経済研究所だけだ。実に誇らしい。

研究所の蔵書と「大林コレクション」

東亜研研究室に在籍された金重氏の東亜研紹介レポートによると蔵書・史料は12万5千冊。戦前のコレクションが満鉄関係、朝鮮総督府、台湾総督府、中国の清朝時代、その後の中国など9つのジャンルに区分・収納されているという。

同氏のレポートを読んでいくと、最後の9番目に「大林コレクション」とある。アッと思った。

中国および中国の少数民族問題がご専門だった大林先生。学生当時、先生の研究室を訪ねると、「“収入”の大半を注ぎ込んだ」という、うず高く積まれた本の中で、現在人権問題として取り上げられているような中国辺境少数民族の話を伺ったものだ。コレクションは先生が2001年3月に退職された際、寄贈された8千冊。貴重な史料が多く、他大学や研究機関から最も引き合いが多い人気のコレクションとなっているそうだ。

  ◇米・議会図書館で見つかった山口高商の図書

大林先生が書かれたエピソードを紹介する。終戦直後、進駐軍が山大・東亜研の資料を大量に持ち去ったという。大半が返却されたが、一部が戻ってこない。時代が流れ、ある時先生の知人から、米・議会図書館に“山口高等商業学校の蔵書印”が付いた本があるぞ、との報せを受けたという。

この時の大林先生は「無駄に資料を散逸させていないな。さすがにアメリカ人だ」と思ったという。続いて先生はこう続ける。「片や我が国。日本軍も東亜の史料を接収したはずだが、所在は不明。それを用いて立派な研究がなされたという話も聞いたことがない」と。

これではいけない。

   ◇史料は宝の山

史料は全て「みんな」のもの、公共の物だ。たとえ当事者の一部指導層にとって、容認できない内容を含んでいたとしてもだ。これを、偏狭な判断やその場限りの身勝手な意図をもって隠匿・廃棄処分をすれば、公共物とはならない。言うは易いが実際は難しい。とても難しい。古今東西そうだった。しかし我が国において史料が公共物であり、真実を共有しようとする意識は欧米に比べて低いように思われる。

公共物として、みんなで分析・検討し、解釈し、議論を重ねなければ真相に迫れず、同じ過ちを繰り返すことにもなりかねない。

また、こうした史料の「収集・保存」も重要だが、「活用」してこそ「収集・保存」が活きる。東亜研の史料は宝の山だ。この宝の山への引き合いが、他の大学や研究機関から寄せられることは大変ありがたい。さはさりながら、山大学内の研究者・関係者の方々や学生諸君からの引き合いが増えることを願っている。さもないと宝の持ち腐れになりかねない。

「西欧的な合理性に欠ける」(M.ウェーバー)とされたアジア。しかし、米経済史学会会長も務めたロバート・C・アレンは欧米先進国とは異なる径路で例外的に高い成長を遂げた国として「日本および日本の旧植民地だった台湾、韓国」を挙げている。東亜研の史料の中に、「西欧的な合理性」だけでは捉え切れない高成長の秘密が眠っているかもしれない。

(学23期kz)

ロックミュージカル

    ◇序章

1971年、私は福岡市でロックミュージカル「ヘアー」を観た。

テーマは自由と反戦。ロックバンドが大音量で演奏する中、

若者たちが舞台で歌い、踊り、躍動する。

感動した。

―よし、山口でもやろう。

山口大学経済学部2回生だった私は決意した。

まず、山大の演劇部に公演を提案した。

だが、当時の学生演劇はアングラ劇や不条理劇が主流であり、一発で却下された。

―上等じゃないか。俺たちだけでやるよ。

まず、ロックバンドを編成した。エレキギターを弾く学生はたくさんいた。

すぐにバンド仲間が集まった。

次は役者だ。男女の学生に呼びかけ、なんとか役者が勢ぞろいした。

経済学部、医学部、文理学部、教育学部、農学部・・・。

オール山大で取り組んだ。

    ◇けいこの日々

亀山校舎の経済学部講堂(格調高い木造講堂)でけいこを始めた。

音響や照明は演劇部から借りた。

出演する学生は大半がミュージカルも演劇も未経験だった。

台本の読み合わせから始まる。セリフを覚えて舞台に立つ。

ロックバンドの生演奏に合わせ、歌い、踊る。

私が演出兼役者で仕切った。

 数か月、けいこを重ねた。本番を想定した、通しけいこもうまくいった。

これなら、大丈夫だ。さあ、本番だ。

    ◇圧巻のフィナーレ

 公演当日の夜。会場の経済学部講堂は満席となった。

ロックバンドの生演奏が大音量で響く。照明が明るく舞台を照らす。

幕が開き、ロックミュージカル「ヘアー」が上演された。

 芝居が終わった。出演者全員が舞台に立ち、観客に手を振る。

大きな拍手が沸き上がる。幕が閉じられた。照明が落ち、会場は暗くなる。

観客が客席から立ち上がりかけたそのとき、突然、ロックバンドが再び、演奏を始めた。

 また、幕が開く。出演者が勢ぞろいし、主題歌を歌う。観客は手拍子で

応える。そのときだ。役者が舞台から客席に飛び降りる。観客とともに

歌い、飛び跳ねる。学生たちは踊り狂った。圧巻のフィナーレ。

経済学部講堂に若いエネルギーが満ちていった。

 その後、経済学部講堂は経済学部の平川移転に伴い、取り壊された。

おそらく、この夜のロックミュージカルが最後の祝祭となったのではないだろうか。

 (元山口大学経済学部生 S)

メシヤ 我が想い出 その2 長門館

 昭和46年の入学後、吉田寮にお世話になった。しかし、寮食を利用したのは右も左も分からない入学直後だけで、メシ時はもっぱら大学正門前の「長門館」へ通った。 当時は“ちょうもんかん”と呼んでいたが、今では“ながとかん”と呼ばれているとは知らなかった。
 ◇長門館の娘さん

 当時、注文したメシを運んでくれる、感じの良い姉妹がいた。“二人は双子”というのが学生仲間の定説になっていたが、定かではない。二人とも都会風の品の良い顔立ちだった。一人は小柄で顔がシャープに引き締まっており、いかにも姉タイプ。もう一人は多少ふっくら型。顔にあどけなさが残っており、いかにも妹タイプ。二人とも感じの良い娘さんだが、双子にしてはあまり似ていない。“似らん性双生児”か。

 ふっくら嬢の鼻にはホクロがあった。こう表現すれば品よく聞こえるが、漆黒のイボで、大ぶりだ。付いている箇所が鼻のてっぺん近くのため、結構目立つ。しかし、このイボすらもアクセントの一つに変えるほど、あどけなくも品のある顔立ちだった。残念ながら、このお嬢さん方お二人とは、卒業まで話一つすることもなかった。

 ◇サイモン&ガーファンクル(S&G)

長門館にはレコードプレーヤーが置いてあった。針を落として聴くヤツだ。ステレオタイプのヘッドフォーンで音楽を聴いたことのない貧乏学生の私にとって長門館での音楽鑑賞を楽しみにしていた。立ったままで、目を閉じ、気が付けば二時間近く経っていたという時もあった。ステレオの横に置いてあったのはドーナツ版。枚数もごく少なかったが、よく聴いたのがS&Gの「コンドルは飛んで行く」や「サウンド・オブ・サイレンス」。ラジオや街角で聞いた時は、何ということはない軽めの米ポップスと思っていたが、ヘッドフォーンを通して聴くと、これまで体感したことのない上等な音質、克明に分かる楽器の音色、重厚な音響、そして歌う二人の息遣い、生き生きと共鳴し合うハーモニー。全く別の世界に引きずり込まれ、時を忘れた。

◇大阪の友人、定食料金の安さに驚く

もっぱら学生向け食堂の長門館。社会人の姿はついぞ見たことがなかった。“味よし、値段よし”の長門館。当時、定食の単価は300円台後半だったろうか。大阪から来た友人を連れて行ったが、値段表を見るなり「安い!」を連発。私の方は彼が驚く姿にこそ驚いた。山口の物価はそれほど安いのか。

◇長門館 再訪

 数年前に訪れた山口。「万両」(「メシヤ 我が想い出 その1 参照)と同様、この「長門館」にも足を伸ばした。

あれれ、店の広さが当時の半分に!

夕食時前だったためか中は薄暗く、店の人の姿も見えない。間もなく奥に動きがあり、こちらに向かってくる気配。私は思わず外に飛び出した。万両での出来事(記述・その1)もあったためか、店の人と向かい合う勇気がなかった。 

◇現在の長門館

 今では“ながとかん”と呼ばれる長門館。ヤマグチの街中でやっていた中華料理が店を閉じる際、そこの職人さんが独立して店を始めたという。買い取ったのだろうか。いや、あるいはこの職人さん、ひょっとして双子の君のどちらかと良縁ができたのかもしれない。

 ◇学生に優しかったヤマグチ

 後になって聞いた話だが、当時、双子嬢の父で長門館のオヤジさんは平川地区の下宿代の相場を決める大立者だったそうだ。当時はオイルショック直前。家賃は1畳1000円、四畳半で4500円と分かりやすい家賃だった。では東京の家賃はどうだったか。当時、東京の大学に通っていた友人の話では、池袋近くの下宿長屋の家賃が、3畳で7千円と言っていた。

やはりヤマグチは学生に優しかった。

(学23期kz)

鈴木侍従長と青年将校・安藤輝三

8月15日は終戦の日。困難な戦争終結という大仕事を成し遂げたのが鈴木貫太郎首相である。彼は2.26事件で襲撃されている。

6月に行われた長州歴史ウォーク(鳳陽会東京支部主催)の集合場所は東京ミッドタウン裏の檜町公園。その昔、江戸の長州藩下屋敷があったところで、戦前は陸軍第一師団第一歩兵連隊、戦後は進駐軍の接収を経て防衛省の前身となる防衛庁が置かれたところだ。2.26事件で第一歩兵連隊の蹶起部隊はここから首相官邸に向かう。

◇気になる青年将校

2・26事件に出てくる青年将校の中に気になる人物がいる。安藤輝三大尉だ。英語教員であった父の三男として岐阜に生まれた安藤。早くから革新的青年将校の指導的存在であったという。日蓮宗を信仰しており、彼の容貌は軍人らしくなく柔和。軍服姿の写真が残るが、軍服姿はあまり似合っていない。

部下を愛する気持ちが人一倍強く、給料のほとんどを部下に割き、地方の窮状を話す農村出身の部下には、自分の給料から部下の家族に送金したという。情に厚く、部下の寄せる信頼は大きかった。安藤は他の青年将校と異なり、蹶起に慎重で、決行直前まで悩み抜くが、結局同僚・部下の志を受け止める形で蹶起を決意する。

◇侍従長襲撃

第三歩兵連隊に属した安藤が500名の大部隊を連れて向かうは、海軍大将上がりの鈴木貫太郎侍従長宅。

下士官が侍従長宅を捜索すると、激しい叱責の声が飛ぶ。「あなたは何です。土足のまま無断で入るなど、それでも帝国軍人ですか!」。

声の主は鈴木の妻、たか。度肝を抜かれた軍曹は怯み、敬礼し、部屋を去ったという。たか夫人の胆力たるや、ただ者ではない。

鈴木自身は自宅内に身を隠していたが再考し、身を隠すことを良しとせず、襲撃者たちの前に自ら姿をさらす。それを下士官が見つけ、発砲。倒れる鈴木。駆け付ける安藤。安藤が夫人に襲撃目的を告げると、たか夫人は虫の息となった夫の脇で正座し、微動だにせず聞いたという。

◇とどめは刺さず

鈴木の回顧録では、下士官が銃口を喉に当て、とどめを刺すか安藤に判断を仰いだところ、「とどめは止めておけ」と言ったという。

他方、下士官の証言録では、鈴木に命脈があったため、安藤が「とどめを・・・」と軍刀を抜いたところ、夫人が「それだけは私に任せて欲しい」と訴え、安藤は夫人に任せたとされる。

いずれにせよ、安藤はとどめを刺すことを止めた。

安藤はここまでに至ったことを夫人に詫び、鈴木に対し挙手の礼をし、また下士官に捧げ銃を命じ、素早く立ち去る。たか夫人は鈴木を抱き起し、手際よい措置で鈴木の一命を取り留めた。

とどめを刺すことを止めた安藤。情が動いたのかもしれない。実は蹶起2年前、安藤は侍従長宅を訪ねている。予想と違い“西郷隆盛にも似た懐の深い大人物”の鈴木に惚れ、座右の銘を書いてもらっていたという。また、鈴木も後日談で、この時の安藤を「思想的には実に純真な、(死なせるには)惜しい若者」と評している。

また安藤は、たか夫人について、その存在を当時、軍の上司であった秩父宮から聞いていた。たか夫人はかつて昭和天皇、秩父宮ら皇子たちの養育係を務めていたのだ。

◇終戦の大仕事

こうして一命をとりとめた鈴木侍従長は、昭和天皇から厚い信頼を得ていたため、天皇直々に請われる形で1945年4月に首相となり、陸軍の反対を押さえて、ポツダム宣言受諾をはじめ、終戦の段取りを仕切るという大仕事をなした。

終戦間際のエピソードをひとつ。

鈴木が首相になって1週間も経たないうちに米ルーズベルト大統領が病没した。

ドイツでは万歳を叫び、ヒットラーはルーズベルトを「戦争を拡大した扇動者として歴史に名を刻む者」と評した。

他方、鈴木はどうしたか。米国民に対し哀悼の意を表明したのだ。大戦真っただ中での敵国指導者逝去への弔意表明。米国では驚きをもって受け止められ、新聞には鈴木の談話全文が掲載、欧州紙からも称賛された。

 ドイツ人作家で当時米国亡命中だったトーマス・マンは日独指導者の対応について、「人間の品性に対する感性、死に対する畏敬の念、偉大なものに対する畏敬の念。これが日独の違い」とし、生き続ける日本の武士道精神を讃えた。 「武士道」を著したのは新渡戸稲造。たか夫人の父はこの新渡戸稲造と、札幌農学校の同期生であったという。

なお、鈴木のルーズベルトへの弔意表明に対して、不満を持った青年将校もいた。彼らは首相官邸に詰めかけ、2.26事件を思わせる出来事になりかける。しかし鈴木は正面玄関前で、いきり立つ青年将校を前に「日本古来の精神の一つに敵を愛するというのがある」と、穏やかに諭したという。

その時、青年将校・安藤輝三の姿が鈴木の脳裏をかすめたかもしれない。

(学23期kz)

怖い話

時節柄、納涼の話を。

学生時代の山口は街路灯が乏しく、中心部から少し外れると暗かった。暗闇には魔物が棲むという。当時体験した怖いできごとは、やはり暗闇で起きたものが多い。今思えば笑い話になるが、当時は怖かった。その時の話を“盛らずに”語ってみる。

◇墓場のわき

平川から山口の下宿へ戻る時、椹野川沿いにある墓地の脇を通る。川沿いの細い土手の道に街路灯などはなく、何事も起きないように念じながら急いで自転車を漕ぐよう心掛けていた。ある日、墓場に差し掛かった時のこと、視界の端に何やら白いものが・・・

ん・・! 大車輪でペダルを漕ぎにかかる。しかし、漕げども自転車が進む感触がない。これは夢か?

いや、夢ではなかった。チエーンが外れたのだ。

◇真夜中の老婆

吉田キャンパスの裏手に、婆様が独り深夜までやっている駄菓子屋“ばあさん家(ち)”があった。夜中に腹に入れるものがなくなった時、まれに行くことがあった。真夜中に行った時のこと。勘定したく奥にいる筈の婆様に声を掛けようとしたところ、婆様が現れなさった。白髪混じりの乱れた髪、手にはハサミ。口元には不可解な片頬笑い。私の身体は冷水を浴びたように硬直した。

友人の話では、その婆様、たまに寝ぼけて、そろばんと間違えてハサミを持ってくることがあったという。

◇図書館の帰り道

山口市内の図書館。閉館間際の夜8時前。高校生男子5~6人が私語を飛ばし、ふざけ合っている。図書館員を呼ぼうにも姿が見えない。結構な間、ふざけ合いが続く。とうとう私の堪忍袋の緒が切れて、高校生を叱ってやった。叱ったは良いが、直後に不安が鎌首をもたげる。この時期、若者による集団暴行事件が流行っていた。相手は若くて力の余った高校生だ。閉館後、図書館を後にしたが、下宿までは自転車だ。

鷹揚に構えたふりをして自転車で家路を辿ったが、下半身は慌ただしくペダルを踏んだ。後をつけられないように、遠回りして。

◇うなされる夢の正体

学園祭で演奏活動もどきをやったときのこと。マズイことに停電になった。照明は切れて辺り一面真っ暗闇。楽器もマイクも情けないほど無力化し、ただの金属の塊に。そんなことは上記の怖いものランキングには入らないと思っていた。

しかし、卒業して半世紀経つが、これまで何度か夜中に夢でうなされ、目を覚ましたことがある。悪夢の中身はなんと演奏活動をしている私そのものだ。

(よう、やるで!)

これが結構、心の重荷になっていたのか、5年前に心筋梗塞を発症し、救急車で運ばれた。

助かったのは、発症したのが幸い昼間だったからかもしれない。夜だったら持っていかれたかもしれない、魔物に。

(学23期kz)