長州歴史ウォーク余話(勝海舟と山岡鉄舟)

―横浜市北部ボランティアガイドの視点―

6月の長州歴史ウォーク(鳳陽会東京支部主催)では勝海舟の旧居を訪ね歩いて維新前後の歴史に思いを馳せた。勝の最大の功績は「江戸城無血開城」の立役者であることに異論は無かろう。

一方、徳川慶喜の直接の命により山岡鉄舟が官軍参謀の西郷隆盛の元(当時駿府に駐留)に単身乗り込み、慶喜恭順の意向を伝えて無血開城のお膳立てを整えている。鉄舟が江戸を発つ前日に赤坂の勝海舟宅を訪れて西郷への書状を預かった事で、勝海舟が鉄舟を西郷の元に派遣したと世間で思われていることが多いようである。しかし、その日が二人の初対面である事が海舟日記に記されており、そうでないことが分かる。

             ◇門人仲間    

ところで、鉄舟が神田の千葉周作道場に通っていた時に門人仲間である日本橋山本海苔店の2代目の山本徳治郎と親しくなった。店の初代夫婦が現在の横浜市港北区の吉田村と南綱島村の出身であったことから徳治郎も吉田村から養子に入り、山本海苔店の身代を大きくすることに貢献した。その関係で、鉄舟は維新前から吉田村に何度か逗留して近隣の村人と親しんだ。現在も吉田町の若雷神社には鉄舟の揮毫が残っている。

因みに明治になって、西郷隆盛の推挙により鉄舟が明治天皇の侍従を務めていた時に天皇の京都行幸に際して江戸土産を鉄舟から相談されて徳治郎が考案した味海苔が味付け海苔の元祖と言われている。(山本海苔店ホームページより)

               ◇名主

言わば、駿府に向かって多摩川を渡った神奈川の地は鉄舟にとって馴染みの地であり名主や村役人にも顔見知りが多かったが、その事が後に思わぬ効果を発揮する。

と言うのは鉄舟と西郷の会談が終わった後、官軍が駿府から江戸に向けて陣を進める中で北綱島の名主で鶴見川下流48ケ村の代表名主を務める飯田助大夫(現在も同家の長屋門が残る)が農兵を組織して果敢に官軍を迎え撃った。捕まって多摩川の河原であわや処刑される寸前に鉄舟の口利きで一命をとりとめたと伝わっている。(この話は約50年前に土地の古老が先祖から聞いた話をまとめた郷土誌「港北百話」に記されており、事実の確証こそないものの鉄舟が村人からいかに崇敬されていたかよく分かる)

             ◇一枚上

ここで最初に戻る。世間では江戸城無血開城は勝海舟一人の功績のように思われているが、この理由は明治14年に政府が維新の功績調査をした際、勲功禄を提出した勝に対して鉄舟は沈黙を守って勝に栄誉を譲ったことによる。

勝海舟が稀代の人物であったことは歴史が証明しているが、こと男(武士らしさ)という点では山岡鉄舟が一枚上であると考える所以である。

(山口大学経済学部22期生 Y)

山口大学硬式庭球部

 1970年代、私は佐賀県の高校を卒業し、山口大学経済学部に入学した。

体育会系のサークル(部活)に入部して高校時代になまった体を鍛え直そうと、考えた。入学してすぐ、先輩に聞いた。

 「山大で一番、練習の厳しいサークルはどこですか」

先輩は答えた。

 「空手部と硬式庭球部だろう」

       ◇球拾いの日々

私は硬式庭球部に入部した。入部早々、上級生はこう告げた。

「新入部員は1年間、球拾いだ」

 コートで練習できるのは上級生だけという。

私たちは球拾いの日々。そしてランニングと素振り・・・。

新入部員は50人ほどいたが、嫌気がさして次々に退部していった。

夏休みが終わったとき、残ったのは10数人だった。

 練習は厳しかった。だが、上級生のパワハラは一切なかった。

  私は夜中も、体育館でひとり、自主練習をした。

徹夜で壁打ちを繰り返した。白々と夜が明けることもあった。

       ◇歓喜の優勝

3年になって正選手となった。中国選手権大会にダブルスで出場した。

ペアを組んだのは経済学部の同級生。彼は強く、優秀な選手だった。

私たちは勝ち進んだ。ついに決勝戦に勝ち上がった。

決勝戦の相手は岡山大学の選手。決勝戦の会場も岡山大学だった。

 観客全員が岡山大学の選手を応援する。相手が決めると、大声援と

拍手。だが、私たちがポイントをあげると、冷たい沈黙・・・。

苦しい試合だった。だが、我々が勝利。優勝を果たした。

 やった。勝ったぞ。厳しい練習が報われた。

        ◇現役選手

大学を卒業して銀行員になった。日本各地で勤務した。

テニスをやってよかったと思うのは、どこに行っても

ラケット1本ですぐに仲良くなれることだ。

 私は60代だが、地元・横浜市のクラブで練習を続けている。

現役選手として大会にも出場している。

 大学時代は、練習が厳しく、テニスが楽しいと思ったことはなかった。

だが、今は、テニスの楽しさを体感している。テニスを続けてよかった。

       (元山口大学硬式庭球部員 N)

乃木大将 その3

 長州歴史ウオーク(鳳陽会東京支部主催)が6月5日、開催された。

山口大学経済学部の同窓生たちは日露戦争で後世に名を残した

乃木希典(まれすけ)大将の旧宅を訪れた。

乃木大将が心から愛したもの。一つは野良仕事であり、もう一つが文学だ。

            ◇百姓姿      

「軍神」となった乃木大将。実は生涯で4度軍籍を離れている。その度に向かった先が畑だ。最初は長州で、あとの三度は栃木の那須野で百姓をしている。那須野の畑は妻の親戚筋から手に入れたもので、軍神らしくなく、心の傷を癒しながら土と緑に囲まれ畑を耕す日々を心から愛したようだ。

             ◇乃木少年

若き乃木少年が学者を夢みて父に無断で兵学者である玉木文之進のもとを訪ねた時、玉木は武士の子に生まれた者が武芸を好まぬなら百姓をやれ、と一喝した話は知られている。なぜ百姓か。実は乃木の父、稀次(まれつぐ)は、江戸詰めの長府藩下級武士で生活は苦しく、実は半農半武。このため希典も幼き時から野良仕事を手伝っており、玉木はこのことを知っていたのだ。というのも玉木と乃木の父、希次は親戚筋にあたり、両者は気が合う仲だったという。また、玉木自身も晴耕雨読、半農半学の生活をしており、玉木家に棲みついた乃木にとって農事は身近なものであった。このように乃木は幼少の時から野良仕事に馴染んでおり、野良仕事は乃木にとって若き頃に戻ること、乃木の本性に近いところに還ることを意味していたのではないか。

              ◇囲炉裏(いろり)
こうした経験から、乃木は近隣の農民よりも農業の知識があり、那須野の乃木家の囲炉裏には百姓方が集まり、乃木の話を熱心に聞いたという。乃木は晩年、学習院院長を務めるが、もともと学者を夢みていた乃木。人に知識を教え、指導することが好きであったようで、こうした日々をとても楽しんでいたという。また、那須野のエピソードとして、お気に入りの湧水の話がある。水はこんこんと湧いているが、もったいないとしてコップ一杯しか使わず、顔を洗う乃木。これを皆が可笑しがったという。

              ◇文学

以前の号でも取り上げた米国人従軍記者のウォッシュバーグ。乃木から特ダネをとろうと近づくが口が堅い。乃木に取り入ることができるような糸口を探していた折、探し当てたのが文学論議。詩歌の話になると子供のように目を輝かせ、身を乗り出してきたという。これが、ウォッシュバーグのいう「乃木のアキレス腱」だ。これを足掛かりに、ロシア軍のステッセル将軍の話を聞こうとすると、乃木は再び口をつぐんだという。

 美文を愛した乃木。ひとつ乃木の言葉を紹介したい。ウォッシュバーンをはじめ外国人記者と別れを告げる会でのスピーチだ。

「願わくば 互いの友情を永遠に黎明の空に消える星の如くあらしめたい。暁の星は次第に目には見えなくなる。しかし、消えてなくなることはない」と結んだ。

             (元山口大学経済学部生K)

参考: 三島通陽 「回想の乃木希典」 雪華社 昭和41年  

出典: 皆川三郎 「外国武官の見た乃木希典」 菅原嶽・菅原一彪編

『乃木希典の世界』 新人物往来社 1992年 

 山口大学サッカー部の猛練習

           山口大学サッカー部

小生は6月5日に開催された長州歴史ウオーク(鳳陽会東京支部主催)に

参加しました。同窓生とともに歴史の現場を巡りました。一度は見てみたい

名所であり、小生にとり、とても有意義な企画でした。

 また、同窓生と語り合うなかで、山口の青春の記憶がよみがえりました。

           ◇サッカー部入部

小生は1960年代、山口大学経済学部に入学した。

亀山校舎に近い鳳陽寮・南寮に入寮し、学生生活を始めた。

中学生のころから「いつか、サッカーをしたい」と思っていた。

サッカーは世界のスポーツだ。

私はサッカー部に入部した。

        ◇炎天下の猛練習

 新入部員は20~30人いた。ところが、練習が厳しい。

夏の炎天下。走る。走る。しかも、当時のサッカー部の方針で

練習中、水を飲むことができない。これはつらかった。新入部員は

どんどん、やめていった。だが、私は音(ね)を上げなかった。

やめようと思ったこともない。サッカーを続けた。

 新入生のとき、私はとても痩せていた。骨が目立つので「ボーン(骨)」

と呼ばれていた。だが、サッカー部の猛練習で足腰が鍛えられた。

心肺能力も高まった。

           ◇雨の決勝戦

 チームの戦力は強化された。確か、私が3年のときだ。山大サッカー部は

国立大学対抗戦に出場した。中国・四国・九州の国立大学のサッカー部が

結集し、試合に臨んだ。山大は強かった。勝ち進んだ。

雨の決勝戦で広島大学と対戦した。

チームは敗北したが、2位となった。

 小生は大学を卒業し、商社マンとなった。

社会人になってからもサッカーを続けた。

新婚時代、妻をサッカーの試合によく連れていったものだ。

 大学卒業後もサッカー部員たちは、学年を超えて山口の湯田温泉に

集まるなどして、交流を続けている。

 (山口大学経済学部16期、元サッカー部 T)

勝海舟が恐れたもう一人の大物

勝海舟が恐れた、もう一人の大物

・・・偉人をナナメから学ぶ・・・

九州・熊本の私の実家のすぐ近くに、幕末の偉人の記念館が建っている。「教育勅語」の元田永孚(ながざね)、「五か条のご誓文」の由利公正から尊敬され、吉田松陰、高杉晋作から招聘のラブコールを受け、坂本龍馬が再三立ち寄り、水戸学の藤田東湖と交わり、松平春嶽のブレーンにして、岩倉具視が頼りにした男。一橋慶喜も意見を求め、感服した人物。60歳余にして暗殺されるが、若き明治天皇に御進講したこともあり、逝去を惜しまれ、多額の葬儀費が下賜されたほどの大物。

横井小楠(しょうなん)・・・。

今回、長州歴史ウォーク(鳳陽会東京支部主催、6月5日)で赤坂の勝海舟住居跡を回ったが、その勝が天下で恐れた人物として二人挙げている。一人が西郷隆盛。その西郷よりも、先に名前を挙げているのが横井小楠だ。

◇忘れられた偉人 

横井小楠は思想家として当時の名だたる知識人に大きな影響を与えたが、あまり知られていない。龍馬が司馬遼太郎の小説で知名度が格段に上ったのとまるで反対だ。

では地元の熊本ではどうか。私が高校までの間、加藤清正とは異なり、親や学校の先生、あるいは各種媒体でも、ついぞ横井小楠の話を聞いたことはない。

なぜか。以下は私の仮説、というか呟きである。

◇その1  繰り返す酒失は禁物

小楠は酒癖がよろしくなかったという。頭地明晰なれど、酒を飲んでの暴力事件をよく起こした。藩が手を焼き、江戸に出されるが、そこでも酒失事件を起こし帰藩・謹慎処分に。酒に絡んだ暴力。これはいけない。時代を問わず、洋の東西を問わず。

◇その2  強すぎる口論も禁物

舌鋒鋭く相手を遣り込め過ぎるのも問題だ。論を戦わすと負け知らずで、極めて強かったという。桂小五郎からは「舌剣」と冠を付けられた。特に酒を飲んだ小楠は頭の回転のギアが一段と上がったという。

口論は勝ちすぎてはいけない。特に人前で負けを食わされた相手は心に深い傷を負い、恨みを抱く。この恨みは執拗で、消せない。口論で勝ちを意識したら、「傍目」から「引き分け」とみられるような形づくりを心がけよう。また、相手に悟られないように、逃げ道を作ってあげることも肝要だ。

◇その3 庶民を不安に陥れる、偉大過ぎる着想も禁物

あまりに大きく時代を超えた進歩的な思想は、春嶽や海舟など知的で開明的な大物しか受け止められない。守旧派からは警戒され、また生活の激変が予想される庶民を不安に落し入れる。小楠が暗殺の憂き目にあったことは先述のとおり。

◇おすすめの格言

ひとつ、私が好む横井小楠の言葉がある。当時、攘夷から開国へ意見が変節したことを誹謗されたが、小楠曰く、「昨日の非を改めるのが学問。取り巻く環境に応じて日々考えを変えていかずば進歩なし」と。大御所になればなるほど主張を変えず、また変えるのに勇気が要るもの。

論語にもこうある。「過ちは改めるに憚ること勿れ」。また、こういうのもあった。「過ちを改めざる。これすなわち過ちという」。

(学23期kz)

山口大学準硬式野球部の思い出

      山口大学準硬式野球部の思い出

山口での学生生活の始まりは山口大学経済学部の受験からです。

湯田温泉の旅館に泊まり、平川キャンパスまで歩いて行きました。

      ◇田園の中のキャンパス

平川キャンパスは田園の中にあり、スポーツをするには

いい環境でした。私はゴールデンウイークの前、準硬式野球部に

入部しました。初心者に近い私が4年間続けられたのは同期部員、

先輩のおかげです。特に大津高校軟式野球部出身のM君には

精神面、技術面で教えてもらいました。

 当時、準硬式野球部には監督がいません。マネージャーは女性でした。

練習は自分たちで計画し、硬式野球部と交替で、山大野球場で練習をしました。

中国大学リーグ(2部)に所属し、海保大、島大、広医、川崎医大などと

試合をしていました。

          ◇1部リーグ昇格

私が3年になったとき、高校の硬式野球部経験者が入部。戦力が強化されました。チームは快進撃を続け、1部リーグに昇格したのです。

 そして4年のとき、春のリーグ戦で優勝。念願の全日本準硬式野球大会に

出場することができました。技術的、経験的に劣る我々が目標に到達できたのも

チーム一丸となって努力を重ねたことによると思います。

       ◇長門市の丘に眠る親友

準硬式野球部の思い出は練習と試合だけではありません。

新入部員歓迎、壮行などのコンパ。

“主戦場”は惣野(そうの)旅館でした。

2次会で深夜、道場門前の寿司屋に繰り出したこともあります。

“山女”との合コンも。“ダンパ” も計画し、実行しました。

 残念なのは準硬式野球部の同期、M君が17年前、

病気で亡くなったことです。某銀行を休職中の時でした。

 M君は山口県長門市三隅町の丘に眠っています。

 (山口大学経済学部29期 K・Y)

メシヤ 我が想い出

救世主の話ではない。定食屋の話だ。

昭和46年、山口大学経済学部入学で、学23期。

平川での教養課程を経て、2年時に古めかしい亀山校舎で最後の授業を1年間受けた学年だ。大学での「学び」の方と言えば、今では忘却の彼方に行って久しい。いや、ひとつ残っている。経済原論の有名F教授のオールバックと厳めしい風貌だ。

◇舌のふるさと、我がメシヤ

1 「経食」

亀山校舎の経済食堂のことである。並んでいるおかずは、主菜のほか小鉢に至るまで上品なコクのある味付けで、どれもうまい。厳しい予算制約下にあって、経済学部生らしく、最小の費用で最大の効果を上げるべく、毎回おかずの選択に迷い、熟考した。行く度に飯を大盛に装ってくれるおばちゃんが居たことを50年ぶりに告白しておく。

2 万両

筋骨逞しく、角刈りの跡が青光りしている大柄なお兄さんが運んでくる味噌汁が何ともうまかった。3年時に平川に移った後も不思議と土曜か日曜の朝は通った。いつも油揚げが入道雲のように盛り上がっていたお椀。中身は豆腐とワカメという何という事のない平凡な具材。この「平凡」がいい。ひと啜り、またひとすすり。嗚呼、心と身体が溶けていった・・・

3 ショウハイ

財布の余裕があるとき通ったのが中華定食屋のショウハイ。一番の繁華街たる道場門前の四つ角、山口ホールの隣にあった。確か「小孩」、看板にはこう記されていた記憶がある。調べてみると、「小さい赤ん坊」とある。ラードのうまみのきいた野菜炒めを食べるたびに、深い満足に浸った。気分がいい時には、奮発して白ゴハンではなく、チャーハンに。この比類なき贅沢。

4 鳥惣

年に1、2度の目出たいことがあった折には大市商店街の「鳥惣」に足を運んだ。無口なオヤジが出してくる鳥の揚げもの。表面がパリパリで香ばしく仕上がっており、最初の一口から「参りました」とコウベを垂れたくなる。多少の小骨ならかじって食えるような揚げ方になっており、食べ残した骨が俺は3本、ワシは2本と猛者ぶりを競っていた。

◇メシヤ再訪

5年ほど前に山口を訪問する機会があり、昔の繁華街を回ってみた。懐かしの店がことごとく姿を消していた。湯田にあり、“空気の天ぷら”として親しまれた逸品「しな天」を出す高級店・利平も蒸発していた。

それでも最後の砦「万両」に向かうが所在が分からない。道の付け替えが変わったこともあるのだろう。昔お世話になった下宿にもとうとう行き当らなかった。ようやく「万両」を探し当てたところ、なんと洋風になっている。喫茶店風の構えで看板は「REST 万両」。

カウンターの中で独り新聞を読んでいた初老の爺様。扉を開けたところ、老眼鏡を鼻までズラしてこちらを覗き込む。嗚呼・・・残酷な時の流れ。

いや、しかし待てよ。そういうオノレも他人が見ればまた然りということだ。

◇毎朝還る「ヤマグチ」へ

店は姿を消し、私も年をとった。ただ学生時代に覚えた味覚は私の中で今でも新鮮なまま。最近とみに早起きのクセが付き、起床は夜中の3時前後。朝食が「できる」までとても待てず、家族の分も含め自分で作るようになって久しい。ショーハイの野菜炒め、経食の小鉢、万両の味噌汁は欠かさない。

家で味わえないのが「鳥惣」の唐揚げだ。しかし3年前に、とうとう見つけたぞ。「鳥惣」を思い出させる味を五反田で。

ああ、早く立ち去れコロナ君。(学23期kz)

山鹿流兵法

山鹿流兵法

多くの者に影響を与えた江戸時代の儒学者、山鹿素行(以下「素行」と略す)。朱子学の徒であったが、朱子などの注釈によらず、孔子、孟子の原典に戻り、本来の教えを取り込みながら実践的な儒学と兵学を融合させようと試みる。

◇乃木と松陰

若き頃、乃木希典(まれすけ)が学問の道を夢みて、親戚筋でもあり、吉田松陰の叔父にも当たる兵学者・玉木文之進が始めた松下村塾の門を叩くが、玉木が教えていたのも山鹿流兵法だ。

乃木にとって松陰は塾の同門で、兄弟子にあたる。しかし、吉田松陰が伝馬町で獄死した時、乃木は10歳。両者は塾で重なってはいないが、塾には松陰の存在が色濃く残っていたはずだ。

◇氷川神社

今回の長州歴史ウォーク(鳳陽会東京支部主催)では毛利藩下屋敷があった檜(ひのき)町公園を振り出しに、氷川神社に向かう。

氷川神社は備後国三次(みよし)藩浅野家の江戸下屋敷があったところで、忠臣蔵の赤穂藩浅野内匠頭長矩(ながのり)の正室阿久里(あぐり)はここを「実家」とする。松の廊下での出来事ののち、赤穂藩浅野家は改易となったため、阿久里は実家に引き取られ落飾して瑤泉院と称し、夫の菩提を弔う傍ら、四十七士の遺児の赦免に尽力し41で没する。

◇素行と浅野家

では忠臣蔵の当事者である浅野内匠頭長矩及び筆頭家老大石内蔵助義雄(よしたか)と素行との関係は如何。その実、関係は深い。

素行29の時、縁あって赤穂藩江戸屋敷に出向くが、このとき江戸の赤穂藩浅野家藩主の長直は素行の門下生となる誓書を出している。この素行、44にして独自の儒学体系を記した「聖教要録」を著すものの、徳川の官学たる朱子学を否定したとして45の時、流刑を申し渡される。この流刑先が赤穂藩浅野家であった。

そのとき赤穂藩の大石は9歳と幼い。また、大石の仕える浅野内匠頭長矩が江戸の藩邸で生まれたのがその翌年にあたる。

赤穂での素行の住居は大石邸内と定められた。というのも大石家は赤穂藩の名家。大石内蔵助が19で家老見習い、21で筆頭家老となるほど赤穂家筆頭家臣の家柄だ。素行は大石が18になるまで赤穂藩に留まり、謹慎中のゆえ藩士に教授することを控え、その代わり幼少の子息相手に教えていたという。大石との関わりがないはずはない。

さらに、素行が刑を解かれ約10年ぶりに江戸に帰ると、待っていたのは3代目藩主になったばかりの浅野内匠頭長矩。従って、素行は赤穂で10年間大石を教え、江戸に帰ってからは長矩を支えることに相成る。

               ◇義挙も山鹿流

改易となった浅野家。後を任された大石はその後山鹿流兵法を活用して事にあたる。浅野家再興と吉良上野介の咎めという二方面戦略。これが「一向二裏(いっこうにうら)」。討ち入りでも、正面、背後の二方向から敵を突いたのもその手法。また、討ち入りの覚悟を再確認するいわゆる「神文返し」も山鹿流。義挙をなした後、泉岳寺まで追手をかわす逃走の経路取りも然りとされる。

忠臣蔵でも実践的に活用された素行の兵法。素行は当時、流行った中国になびく中華思想に異を唱え、万系一世の天皇を頂く日本こそが中朝(中華)であるとした「中朝事実」を著す。この著書を愛読書の一つとして裕仁皇太子(後の昭和天皇)に捧呈したのが、学習院院長で皇太子の教育係、殉死する直前の乃木希典であった。 (元山口大学経済学部生 K)

乃木大将その2

乃木大将 その2

乃木希典(まれすけ)は周りの人物を虜にする不思議な魅力を持っている。軍人の中でも「乃木のためなら死ねる」という兵士が多くいたという。

◇無私

我欲を卑しみ、私欲を嫌う。日清戦争時、厳冬の旅順で、司令官に与えられる特別誂えの防寒外套の支給を拒み、また食事も一般兵と同じものを食したという。

日露戦争で多くの犠牲者を出した際には「愚将」との批判が渦巻いた。しかし、乃木が戦場で長男と次男の二人を相次いで亡くしたことが世間に知れると、「一人息子と泣いてはならぬ。二人亡くした人もある」との俗謡まで流行り、乃木への批判がぴたりと止んだという。

◇やさしさ

戦後、乃木は折を見ては手土産を持ち、負傷兵を慰問したという。ある兵士には天皇から下賜された金時計と同じ作りで、音が鳴るように細工を施したものを渡している。両腕を失った兵には自らが考案に関わった「能動」義手を手配した。負傷兵がその義手で乃木宛に礼状を書いてよこした際に、乃木は「大いに喜んだ」とされる。しかし、乃木将軍のことだ。人前を避け、おそらく慟哭(どうこく)したに違いない。

また、心根の優しい乃木は目に触れた弱者を放ってはいない。今回の長州歴史ウォーク(鳳陽会東京支部主催)で回る乃木邸には、金沢で偶然出会った辻占(占いの入った菓子)売り少年と乃木の像が立っている。幼き時に父を亡くし、8歳にして一家を支えるこの少年へ当時の大金2円を持たせ、立派な人間になれと励ます。この少年の名は今越清三郎。長じて金箔職人として名を馳せた。

◇外国人もとりこに

乃木は、近くで接した外国人も魅了する。敗北した敵将、ステッセルとの会見で帯刀を許した乃木。また、乃木は彼の死刑回避に尽力し、彼が流刑となると、取り残された家族に生活費を支援し続けたという。

また、乃木と行動を共にした若き米国人従軍記者のウォッシュバーンは、乃木を“Father Nogi”と呼び、乃木を人情が美しく、武士道を体現した立派な軍人として描いた本を出版する。タイトルは「皇国日本」でもなく、「日本陸軍」でもなく、「Nogi」。海外の軍人の間で有名になり、GHQ司令官ダグラス・マッカーサーの父アーサー・マッカーサーもその著作に胸を打たれたという。また、父アーサーは旅順要塞戦で観戦武官として乃木に間近に接したこともあり、息子に「武士道の具現者たる乃木のごとき軍人たれ」と常々言い聞かせている。

その息子、ダグラスは第二次大戦後、日本に着任し、向かったのが乃木神社だったという。彼が着任した翌年、乃木邸に植樹したアメリカ・ハナミズキ。今では邸内で大きく枝を伸ばしている。

(元山口大学経済学部生k)

乃木大将その1

乃木大将 その1

乃木希典(まれすけ)の父、稀次(まれつぐ)は長州藩の支藩である長府藩の江戸詰め藩士であった。このため乃木は長府藩上屋敷があった麻布で生を受け、赤坂(乃木邸)で没する。乃木が最初に長州・山口に向かったのは、父が帰藩を命じられた9歳の時。山口に身を置くのは元服を挟み19歳までの10年間だ。

◇学者への夢

希典(まれすけ)の幼名は無人(なきと)。弱虫であったため、名に掛けて「泣き人」と揶揄(やゆ)されたようだ。両親が無人を厳しく育てる様子が、昭和初期の国定教科書に載ったという。私も母から幾度となく聞いた。両親は軍人として勇ましく育ってほしかったのだろう。

だが、無人は学者の道を夢見る。自然が好きで、情緒豊かな乃木。己の向き、不向きを悟っていたからであろう。乃木が萩で塾を開いている親戚筋の兵法学者・玉木文之進の門を叩くのが15の時。

◇軍人乃木

しかし、世は幕末。第二次長州征伐が始まった頃にあたる。長州報国隊として幕府軍を迎え撃つ立場で戦の奔流に組み込まれていく。乃木が本格的に軍人としての経歴を積み始めるのが、22歳の時からだ。その後、西南戦争、日清・日露の両戦争を経て「軍神」となる。

乃木の性格は清廉実直、無私無欲。器用な男ではない。軍人としての資質について時には「愚将」「戦(いくさ)下手」との評価も下されたが、そうした声には言い訳はしない。行政官としてはどうか。台湾総督時は政策運営の失敗、部下との軋轢から短期のうちに職を辞している。同じ長州の桂太郎のように政治に近づくことを嫌い、さらなる出世につながる軍中枢への誘いも断った。

乃木の夢は学者であり、教育者である。漢詩や和歌をよく嗜んだという。また、ユーモアも備えており、戦場での束の間の憩いのひと時、即興の都々逸(どどいつ)で場を沸かせたことが多々あったようだ。

◇軍服を愛した乃木

39歳で1年半ドイツに留学するが、ドイツから帰った後の乃木は謹厳・質素を徹底、奢侈(しゃし)を嫌い、軍服姿を常としたという。

軍服姿をこよなく愛した乃木。軍服姿の乃木は軍人であること、また勇ましくあることを願った両親への孝行だったのではないか。さらに内面弱き乃木にとって、己の身を包み隠す格好の出で立ちではなかったか。

武士道を体現したとされる殉死。乃木は軍服のボタンを外して腹を切った後、ボタンを掛け直し、隙のない軍人姿として果てたという。

(元山口大学経済学部生k)