西鉄ライオンズの中西太さん

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年11月 トピックス】 

学22期Y・Y

◆野球好きな友人が、プロ野球豪打列伝という懐かしい動画映像を送付してくれました。
子供の頃は広島カープファンでしたが、西鉄ライオンズの中西太さんの大ファンでもありました。
テレビで中西太さんの打順が回って来ると背番号6を応援したものです。
腰をフリフリ打席に入られ、愛嬌がありました。

◆時が流れ、20数年前に神宮外苑でのヤクルトの激励会に参加した際に終了後にエレベータの前で、お一人で帰られる中西太さんに遭遇。
中西さんは昭和30年代の黄金期の西鉄ライオンズを支えられ、西鉄、日本ハム、阪神で監督を歴任されました。
ヤクルトスワローズのヘッドコーチ&打撃コーチを務められたこともあります。
(1983~1984年)
中西太さんの大ファンだったと告白し、しばしお話出来、穏やかな笑顔に大感激しました。

◆「怪童」といわれたその中西太さんも昨年5月11日に90歳で亡くなられました。
85歳の時の夏の甲子園レジェンド始球式では見事な投球を決められていました。
(学22期Y・Y)
※コメントを宜しくお願いします。
①トピックス末尾の「コメントを残す」欄から。
あるいは
②私のメールアドレスへ
0rb6672r388367t@ezweb.ne.jp

「日本の炎」を再び・・・

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年11月 トピックス】

<「岡山 B」さんの投稿>

今朝の「あの人に会いたい」(NHK)はスキージャンプの笠谷幸生さん(享年80歳)。
走るより早くスキーを始めた「3歳」。

金銀銅と表彰台を独占した72年の札幌でのオリンピック。
「日の丸飛行隊」の一員。ウィスキーの里、余市近くの仁木町生まれ。

 
◆札幌の前大会では20位。

開催国で行われるオリンピック。従来年1回の強化合宿を年間100日にすると、メキメキ力をつけた。


スロープを助走する時は「野球のキャッチャーの姿」。

“踏み出す時は「猫の飛躍する姿」。

一旦踏み出すと「紙飛行機の姿」。

姿の三変化だ。


理想のジャンプを求め続けると上手くいかず下手になり、まぁ〜どうでも良いかと、ある程度開き直ると上手くいく。

行き着く境地は『無』!


◆以前は70m級(今スモールヒル)、90m(ラージヒル)と呼んでいたが、歴史は変わる。
1840年代スウェーデンのテレマーク地方で始まった競技(飛距離、飛行の姿、着地の姿の美しさで競う⇒美しさが高く評価されると“テレマークが入りました“と加点!)。


日本における個人競技でのオリンピック優勝者は笠谷、葛西、小林の三人と聞くと、その極めた存在の大きさを感じる。


先日たまたま団体優勝時のメンバー原田雅彦氏が全日本スキー連盟の新会長に就任というニュースを聞いたが、時の流れを感じる。


◆「虹と雪のバラード」に希望を夢み、大いに躍動した日本。
「生まれ変〜わる〜、札幌の火に〜 ・・・」

ちょっぴり難しいかもしれないけれど、そう、「日本の炎(ひ)」を再び燃やさなければ・・・

(岡山 B)

笠谷幸生 2024年4月23日死去(80歳)

並びなき偉才の長州藩士 長井雅楽(うた)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 11月トピックス】

  

藩内で及ぶ者なし

長井家は毛利家と同じく大江広元が先祖にあたる申し分のない家柄で長州藩家臣団の中でも屈指の名門の出だ。

明倫館に学び、時の殿様毛利敬親公から厚い信任を得た。

非常な秀才で、人物も重厚、見識の高さは「藩内で及ぶものなし」といわれた。

世の中が攘夷か開国かで揺れていた時、敬親公、すなわち「そうせい公」は「積極的に」江戸から長井を呼び戻し、世の混乱を収拾する打開策の立案を命じた。

揺れ動く時代はどのような策であっても評価は揺れ動き、人の評価も猫の目のように変わる。

評価が変われば生身の保証もなされない危ない時代だ。

刀あり、切腹ありの時代。

長井はこのこともよく心得ていたつもりだったのだろう。

それゆえ、一度は藩主からの立案依頼の命(めい)を断った。

開国論が藩論に

しかし藩主が重ねて長井に命じたため、長井も腹を決め、「国のとるべき途」を取り纏めた策を建白した。

中身はというと・・・後々から見れば合理的で無理のない開国論だ。

長井曰く、通商条約を結んだことは非難さるべきではない。条約を破案にすれば列強との戦は避けられず、日本に勝ち目はない。むしろ進んで開国し、貿易で富を得、富国強兵の国を作るべし。

・・・結局は、明治になって取られた策だ。

長井の建白に藩主も大いに感心し、長州藩の藩論とした。

また、長井に藩主の名代として江戸で広めて来るべしと、長井に「中老」の身分を与え、「雅楽(うた)」というみやびな名を授けた。

この建白書「航海遠略策」は京や江戸で大好評となったという。

逆の潮目

しかし、潮目が急に変わった。

江戸では坂下門外の変が起きる。公武合体を進めていた老中安藤信正が攘夷派に襲われ、安藤が失脚する。これを機に長州藩では攘夷派が勢いを得たのだ。

その時攘夷派の総本山は水戸であったが、長州は攘夷の新たなリーダーになろうとしていた。

どこの世界でも同様、リーダーを取りに行くには「過激」は付きもの。

長州藩でも攘夷の新たなリーダーとして君臨するにはより過激な装いを囲う必要があった。

藩主が認めた「開国」の藩論であったが、藩内の過激な松下村塾攘夷派が藩論の流れを一気に変えた。

真逆の流れが藩論となった。

藩主はどうしたか。長井を救えたのか。

藩主は長井を救うどころか、過激攘夷論者の主張をどうすることも出来ず、なんと長井に切腹を命じることに相成った。

「そうせい公」の本領発揮だ。

いや、そうしないと己の身が危うくなるゆえの「そうせい」だったのかもしれない。

長井はどうしたのか。

長井は藩論が二分されることを憂い、脇差を握った。

辞世の句

長井雅楽 辞世の句

君がため 捨つる命は 惜しからで ただ思はるる 国の行く末

享年45歳。

岩倉具視の言が残る。

「長井より偉いものはない。あれは木戸や大久保より偉いぞよ」

(学23期kz)

LINEの友達登録】

LINEの友達登録をしてみませんか。

トピックスや案内をLINEで発信しています。
登録は下記のURLから。
https://lin.ee/5wwIJDa

鴎外、そして漱石 その1

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年11月 トピックス】

その昔、二人の文豪の作品は読んだことはありそうな気はする。

少なくとも「現国」の受験によく出るということで読んだことはあったが、よく覚えていない。

◆明治から昭和初期にかけて多くの文人が出たが、森鴎外は別格だろう。

鴎外は文学の世界だけではない。

森は医学博士にもなっており、陸軍軍医として日清・日露戦争に従軍している。

医学校に入るにあたり、実年齢より2歳多く偽り、東京医学校予科に入学し、本科も優秀な成績で卒業している。

医学を学ぶために留学した先のドイツ。

このドイツを背景にした作品も多い。

◆小倉時代の鴎外

この間、軍医人事の都合上小倉にも短い間に赴任するが、日露戦争の勃発とともに、翌年すぐに小倉を離れている。

しかし、短い間であれ鴎外が過ごした小倉の町には鴎外に因んで「鴎外通り」、「鴎外橋」がある。

この小倉時代の鴎外の足跡をテーマとした物語もある。

ご存じの「或る小倉日記伝」(松本清張)。

繰り返し読んだ。

身体に麻痺を持ち、不自由な身ながら熱心に鴎外の足跡を研究する息子を助け、懸命に手を差し伸べる。

我が子を思う母親の献身的な姿には胸が詰まる。

(学23期kz)

「日本人論」の欠片 その11

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 11月トピックス】

◆ほんとにそうか

日本に長く住んでいる外国人が「日本の食生活の豊かさ、多種多様な全国各地の商品の多さに比べて、日本人の行動が画一的なのは不思議だ」と述べていた。

日本人は画一的か、同調型の国民か。

本当に画一的なのか。

あるいはそうみえるだけなのか。

◆米国での実験

二次大戦直後、米国で同調する程度を図る面白い実験が行われた。社会心理学者ソロモン・アッシュが行った簡単な実験だ。

まず回答者A君の手元に(例えば)高さ10センチの棒グラフを描いた紙があるとしよう。そこで問いが出され、同じ長さの棒グラフはどれかと問われる。

問いとして示されたのは長さが①7センチ、②10センチ、③13センチの棒グラフ。

正解は言うまでもなく②だ。

しかし、ここで回答者を惑わす仕掛けが組まれている。

同じ部屋で10人が同じ問題に回答するという設定で、嵌められる被験者はA君のみ。

残りの9人は仕掛け人だ。

最初の回答者が、答えは①の5センチと間違った回答を出す。次の回答者も①の5センチと続き、A君は9番目に答えることになっている。

次は、新たなターゲットとしてB君は呼ばれ、同じ事件が繰り返される。

この実験で、仕掛け人の9人に同調して誤った回答を出した被験者の割合(同調率)は何と25%だったという。結構な同調率だ。

その後も同種の実験が、異なる地域、異なる年で繰り返され、平均的な同調率は25%だった。

◆日本での実験結果

同種の実験を1970年代の日本で行った米国の研究者がいる。彼はルース・ベネディクトの「菊と刀」に影響を受けた研究者で、日本での実験ではかなり高い値が出ると見込んでいたが、日本での値は25%となり、米国と変わらない値が出た。

この時の被検者は慶応大生だという。

鳳陽会東京支部の並びにある慶応大。

その実験の回答者になってくれた慶応大の学生諸君生に拍手を送りたい。

◆先の大戦中、日本人は画一的な集団主義という意見もあったが、しかし戦争中は、どこの国でも一致団結が基本だ。

戦争をしているときは日本でも、米国でも、欧州でもそうだろう。

戦時中に、みんなと違う行動、みんなと反対の行動をとるものは政府や警察からにらまれ、実際、日本では「非国民」の扱いを受けた。

日本人を、とてもひと括りにはできない。

実にいろいろな人がいるのだ。

◆あるラジオ番組で読者の声を紹介するコーナーがあるが、その意見は実に多様で深く、洞察力に優れている。

解説者より、よほど気の利いた意見が多く寄せられて、いつも感心させられる。

みんなは世の論調にすぐになびき、流されるのかと思いきや、そうではない。しっかりした意見が多いことに驚く。よほど新聞の解説者より鋭く、バランスもとれている意見が多い。

自分の頭で考え、分析、整理しているのだ。茶目っ気も添えながら。

しかし、そうした考えを日本人は、なかなか表に出さないのだ。

つづく

(学23期kz)

ダイヤモンドヘッドに架けられた虹🌈

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年11月 トピックス】

7年ぶりに訪れたハワイ(ホノルル)旅行は、滞在時間72時間足らずの弾丸ツアーであった。

甥っ子の挙式をハワイでと言う話があったのは、約1年前。ハワイでの挙式はフィアンセの子どもの頃からの夢だったらしく、なおさら挙式には参列せねば と思っていた。 

(私も29年前にハワイで挙式 当時は1$=90円だった)

コロナの前は、ほぼ毎月の様に海外出張していたが、5年ぶりの海外旅行は久しぶりに緊張。

何を持って行くんっだっけ? めずらしく持って行くものリストを作ったり、現地情報をググったり、楽しみというより 不安かつ、ちょっと(準備が)面倒くさい!と思いながらパッキングを進めた。

この1年は本当に落ち着かない日々で、3月から始めたフランスのスタートアップの日本法人の立ち上げは、フランス本社の資金調達がうまくいかず、給与遅延も起こる事態。僅か半年で会社都合(業績不振)退社することに。

捨てる神あれば、拾う神ありで、10月からは日本とフランスの大企業の合弁企業でのポジションを得たが、入ってびっくり‼️、この3ヶ月で次々に人が辞めて行く最悪な状態での立て直しが私のミッションとなった。そんな色んな気持ちが交錯する中での渡航となった。

久しぶりの国際線での気づきは、

チケットや荷物の預け入れは勿論の事、出入国審査や保安検査などありとあらゆるものが自動化、デジタル化されている事であった。狭い機内(エコノミークラス)や機内食は相変わらずであるが、搭乗すると、ワクワク感が不安を超えた気がした。

真っ青な、ワイキキビーチとダイヤモンドヘッドを望む、教会で挙式、そしてその後に続いた両家親族での会食は新郎新婦が忙しい中、たくさん準備した心遣いを随所で感じる素晴らしい時間であった。新婦のお母さんの幸せを祈る娘へのフラダンスは、新郎新婦だけでなく、参列した親族の心に沁みた。

そんな幸せな時間を過ごした後は、ワールドシリーズでの大谷、山本の活躍。

背番号17のドジヤースユニフォームを着た地元ファンで溢れる、スポーツバーでの観戦は、大いに盛り上がり、ビールが進んだ。

最終日の早朝に登った ダイヤモンドヘッドでは 大きな虹が迎えてくれた。

亡き父(新郎の祖父)と母(要介護5)が 新郎新婦の幸せを願って 掛けてくれた仕業かな?と思いながら、帰国便に搭乗。久しぶりのハワイを満喫した短い旅が終わった。

上野 啓 学37期

ゴルフ 何でそうなるの! ⑧朝イチのショット

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年11月 トピックス】

◆朝イチのドライバー
まず当たらない。
身体が温まっておらず、筋肉が硬い。
パートナーや後続のパーティーにいい格好もしたくなるので気負いもある。
身体の緊張をもたらすもう一つの要因がある。

◆入念な練習が裏目に

事前の入念な練習が裏目に出る。
私の場合、これで身体が硬くなる。
何十年とゴルフをやっていると、さすがにドライバーでチョロはやらなくなったが朝イチでスライスやフックが出てしまう。
OB、池ポチャ、ボーダー杭越えのワンペナ・・・
出だしからこれだと先が思いやられる。
こうならないように、入念な準備をするが、度を過ぎると却って不安が先に立つ。
打ち損じることを恐れる。
打ち損じでもしたら・・・

何のための事前打ち込みだったのか!と。

◆マリガン

スタートホールでは、できればボギーくらいで済ませたい。
「マリガン」というローカルルールがある。
朝の第1打は打ち直しオッケー!というルールだ。
打ち直したい気持ちは良く分かる。
しかし、スコアを作るためだけの打ち直しだ。
どうも女々しくて、後味もわるい。
たかが遊びだ。

天の采配を受け入れようじゃないか。
こういう時に限って、あがってみれば結果的にスコアはまとまることが多いのも、

よくあること。

(学23期kz)

そうだったのか、上野戦争 ②彰義隊

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年11月 トピックス】

◆彰義隊

2月12日、慶喜公が寛永寺に移り謹慎。

その前後に、ある廻状が一橋家の家臣の間で回る。

そこには12日に雑司が谷茗荷屋に集合が伝えられる。

「君恥ずかしかるれば、臣死するとき。・・・然れば多年の鴻恩に報いるはこの時也」として集まり、「何としても上様の名誉を回復したい」という思いで、一橋家の家臣を中心としたエリート勇士で結成されたのが彰義隊の始まりだ。

第1回会合は慶喜公が東叡山寛永寺に退去した直後に会合を開いた。

場所は雑司が谷、鬼子母神堂門前の料亭「茗荷屋幸吉」。

出席者は一橋家陸軍将校17名とある。

この時には主君慶喜公の延命と名誉を挽回し、昔日にお権威を取り戻すとともに、江戸の市中の安寧のために市中を見回りであり、朝廷方とことを構えよういう意図はなかったようだ。

2回目の会合が2月17日、四谷鮫ヶ橋入横丁の円応寺で行われ30名が集まる。

彰義隊はもてたという。

水色麻の打裂(ぶっさき)羽織と白っぽい逆パンタロン風の袴、これが江戸庶民に人気だったらしい。

◆渋沢成一郎

この会合の2日後、渋沢成一郎がグループのリーダーである頭取に推挙される。

一橋家家臣・渋沢成一郎(旧名および明治以降は「喜作」)。

大河ドラマでは「喜作」という名で他から高良健吾が演じている。

渋沢成一郎はかつて攘夷の志士であったが、一橋家家臣で慶喜公の側近・平岡円四郎(大河ドラマでは堤真一)の斡旋で、従弟の渋沢栄一と共に一橋家に仕えた。

すなわち渋沢成一郎は栄一の父(小林薫)の兄貴の息子、すなわち従兄で栄一より2歳年上にあたる。

成一郎は慶喜公の引き立てによって、老中の公設秘書にあたる「奥祐筆」から、奥祐筆御政事内務掛(内閣総理大臣秘書官)に抜擢されるほどの人物だった。

彰義隊の当初の目的はあくまでも慶喜公の警護、江戸の市中安寧見回りを主な目的としていた。

慶応4年(1868)、高輪の薩摩藩邸で徳川慶喜の身との安全と引き換えに、江戸城の無血開城を決めた大総督府参謀の西郷隆盛と旧幕臣の勝海舟。

二人の信頼関係により、西郷は江戸の治安維持を地元の勝海舟に任せることにした。こうしたなかで勝は治安維持の役を一橋の旧幕臣集団・彰義隊に任せた。

彰義隊は当初、江戸に流れてくる新政府軍の乱暴者らから江戸の治安安寧を守る活動をしながら一橋家の再興を夢みていたが、次第に新政府軍に対抗する旧幕臣の集団に性格を変えていった。

◆天野八郎

彰義隊が会合を重ねるたび、に集う勇士が増えてくる。

2月23日、浅草本願寺での第4回会合で集団の中で穏健派の渋沢成一郎に代わり、強硬派で副頭取の天野八郎がリーダーとして台頭する。

天野は強引な勧誘策でも彰義隊員を募った。

こうした勧誘策もあり、3月には隊員は200名を越え、ピーク時には2千~3千人が集まったとされる。

また天野は、武断派で好戦的であったことから、新政府軍との対決色が強まっていく。

天野八郎は剣の腕が立ったという。

背は低く、でっぷりと太っていたが非常に敏捷で、2間(畳のタテ2枚分)はわけもなく飛んだという。眼光鋭く威圧的で、閑があればよく「切返し」の練習をしており、目にも止まらぬ速さだったという。

江戸の無血開城後、彰義隊の頭取で穏健派の渋沢成一郎と強硬派で副頭取・天野八郎の間で路線対立が起こり、天野八郎が徹底抗戦を主張し、血気盛んな若い幹部を始め、天野を支持する者が大勢だったため、頭取・成一郎が彰義隊を脱退せざるを得なくなる。

脱退した渋沢成一郎とその一派は「振武軍」なる部隊を新たに結成して江戸を去ることになる。

渋沢が去った彰義隊は天野八郎が実質的な大将となって上野戦争を戦うことになった。

つづく

(学23期kz)

天野八郎

「日本人論」の欠片 その10

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 11月トピックス】  

◆トップの決断

事業が良好な時の攻めの決断には部下がやれる決断もある。

しかし、事業を止める決断、事業から撤退する決断はトップでないとできない。

◆撤退に独特の情を持ち込む日本

日本は攻め一本で、撤退が下手という見方がある。

こうしたことは二次大戦の時に見られたとされる。

撤退することを過度に恐れる。

一歩たりとも撤退は許されない、撤退は士気を削ぐとの見方がされる。

確かにそういう面もある。

報道機関も、攻めの報道については、実に派手な文言を用い、歯の浮くような賛美の一辺倒だ。

一方、撤退について、米国はどうか。

一時的な撤退は戦略を再構成するために必要、あるいは次につながる価値につながる撤退を容認し、撤退のハードルは日本よりも低いようだ。

◆企業の撤退

日本の場合、戦争のみならず、企業でもそうだ。

撤退は許されない。

それを政府も助ける。

生き延びられないような競争力の低い企業のみならず、死にかけたいわゆる「ゾンビ企業」も助ける。

外形的には「恵まれないものを救う正義」ともなるため、政治がこれを票にしているようだ。

これが日本の生産性が上がらない要因かもしれない。

つづく

(学23期kz)

簡憲幸老師の中野で「台湾を学ぶ」講座 第2弾

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年11月 トピックス】

◆11月2日(土)の東京は生憎、終日、雨模様でした。 
こうし中、りんかい線、中央線を乗り継いで、中野区新庁舎で開催の掲記講座に行って来ました。
冒頭、講師も吃驚の酒井中野区長のご挨拶のサプライズがあり、途中休憩はありましたが、13時から3時間半学びました。
参加者は20名超で、皆様、台湾との縁が深く、造詣が深い方が多く、35年前に台北に観光で1度だけ行っただけの私には国策映画「南進台湾」の視聴と解説を通じ、「新高山(ニイタカヤマ)」や「高砂族」も出て来て、今回台湾の全体を知ることとなり刺激を受けました。
日本の台湾統治時代が50年の永きに亘りあったとは今更乍ら驚きです。

◆中野での台湾講座受講の後は、同じ中野のJR中野駅南口から徒歩3分の整体、リラクゼーションのごっつハンドに移動し、元小結の三杉里関と久しぶりに再会しました。
三杉里公似さんには中野ゆるカフェ会のイベントやちゃんこ会等を通じ随分とお世話になりました。
新宿・歌舞伎町シネシティ広場でのちゃんこ協会主催イベント以来ですから約6年ぶりの再会となりました。
整体の施術を受けながら、共通の友人の動静や相撲談義で、しばし話が弾みました。
腰痛持ちの私は我が人生2回目の整体でしたが、腰の辺りが随分と軽くなって帰途に就きました。
(学22期 Y・Y)

※コメントを宜しくお願いします。
①トピックス末尾の「コメントを残す」欄から。
あるいは
②私のメールアドレスへ
0rb6672r388367t@ezweb.ne.jp