大市商店街の中華「東天閣」 スライドショーに見る昭和時代の高商・経済学部の姿     

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年10月 トピックス】

◆米屋町通り・大市商店街に昔からある中華料理屋「東天閣」。

店内で会食していると店内のモニターに昭和時代の写真・スライドショーが目に入った。

その中には亀山時代の経済学部や鳳陽寮の写真が出てくる。

◆写真は昭和30~40年代が中心で、その数100枚を優に超える。

中身は米屋町や道場門前商店街、一の坂川、山口駅前、焼失前のザビエルの塔、昭和39年当時の水害の模様の他、当時の個人宅や商店街の名前が入った住宅地図もある。

山大関係では、亀山時代の大学鳥観図、経済の校舎・講堂の他、教育学部や文理学部の正門の風景の他、教育学部の第1回入学式や大学祭、大学正門を封鎖した立て看板(昭和46年3月とある)などのカットも含まれている。

http://1010kaku.com/YamaguchiArchive/index.html

◆このスライドショーを作成したのは店主の川端さん。

少しでも多くの記憶を後世に伝えておきたい。山口の古い写真が残っていれば、貸していただければありがたい、と呼びかけている。

(学23期kz)

モニターの下に置いてあるQRコードの載ったシート(持ち帰り自由)

日本橋べったら市

◆10月19(土)の狭山市での元力士の方の絵画展の後は銀座線の日本橋三越前駅に移動し、コロナで4年ぶりに開催された昨年に続き、べったら市に行ってきました。(19:00到着)

◆昨年迄は2016年に行ったのが最後でそれまでの10年間は2年に1回のペースで参加していました。
例年、曜日に関係なく、決まった10月19、20日に開催されています。
今年は土日の開催となりました。
宝田恵比寿神社周辺の日本橋大伝馬町、本町三丁目周辺です。
吉田松蔭が斬首刑に処された伝馬町牢屋敷はすぐ近くにあったようです。

◆江戸時代中期の中頃を起源とする伝統行事のようです。
日本橋本町1丁目で9年余り個人の店をやっていて、一時は職住接近の日本橋本町に住んでいました。
東京新高屋の麹のついたべったら漬の購入を毎回楽しみにしています。
3本購入し、2本は永年、苦楽を共にし、お嫁に行った栃木県塩谷郡在住の女性スタッフに送ります。
私はご飯がススんで困ります。(笑)

◆山口市ファンクラブメンバーのベアーズコーポレーションの中嶋唯雄社長のふくの鳥小伝馬町店も昨年に続き参加されていて寄ってみました。
焼き鳥3本セット(タレ500円)✕2を頂きましたが、我が人生、こんなに美味しい焼き鳥を食べたことはなく、絶品でした。 
20:00に思い出のいっぱい詰まった街を後ろ髪を引かれる思いで帰途に就きました。
今日はダブルヘッダーのイベントに参加し、自分のタフさを褒めてやりたい。
(学22期 Y・Y)

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厚木歴史講座 宝治合戦と毛利一族

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年10月 トピックス】

◆10月13日(日)の東京は晴れ、厚木毛利氏プロジェクト主催の掲記歴史講座に朝11時に大井町の自宅を出て本厚木のあつぎ市民交流プラザ迄、往復3時間かけて行って来ました。

◆12時30分に到着し、サラリーマン時代の昔、本厚木に拠点の営業所開設&立ち上げ為に6ヶ月間横浜から通いましたので、今回も営業所が入居していたビルを訪ねてみました。(写真3枚目)
今は大塚製薬が入居されているようですが。
38年前の遠い昔のことですが。

◆歴史講座は14時から2時間あり、参加者は募集定員の50名。
講師はあつぎ郷土博物館の学芸員、飯田好人氏。
冒頭、共催者の山口貴裕厚木市長のご挨拶がありました。
休憩時間に主催事務局の藤井さんと諸々お話する機会がありました。

追記)写真5枚目は15歳も年の離れた妹と言っておりますが、実は厚木市出身で大ファンなんですよ。😵💦
(学22期 Y・Y)

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「日本人論」の欠片 その7

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 10月トピックス】  

◆PDCAのチェック(C)

実施段階(D)で大きく削がれた「計画」。

次の過程・チェック(C)でも大きな問題がある。

誰がチェックをするのか。

改革実施者が自らチェックしたのでは意味をなさない。

本来は第三者あるいは(第三者機関)が客観的にチェックをしなければ、有効なチェックにはならない。

しかし、実際には改革を行う当事者がチェックしている例が一般的だ。

特に行政機関の改革が官庁がそうだ。

官庁が保有している各種データ。こうしたデータには対外秘、情報公開対象外など、第三者がチェックできない場合が多い。

こうした場合、チェックはどのようにするのか。

データを保有している機関が自らチェックし、自己申告することになる。

これでは自画自賛のチェック、手前みそのチェックといわれても仕方なく、有効なチェックは出来ない。

◆少子高齢化対策の例

何十年も前から、確実に到来が予測されていた日本の人口減少問題。

日本の生産年齢人口が減少に転じたのが1995年、総人口が減少に転じたのが2008年。

経済予測とは異なり、人口動態は予測が容易。人口が減り始めることは分かっていた。

結果的には有効な改革がなされたとはとても言えない。

少子化対策でも、高齢化対策でも計画(P)は驚くほど多き出された。

また、計画に対する数値目標も意欲的なものが多い。

しかし、その実施(D)について、大きくグレードダウン、次の評価(C)については「なあなあ」のチェックに終わった感がある。

計画Pが、実施DとチェックCで骨抜きにされた場合、最後のアクション(A)はほとんど意味をなさない。

かくして、ふたたび同じ改革案が新たな装いでスタートし、大々的に発表・報道される。

「今度は違うぞ!」・・・そうした改革するにはどうすればよいのか。

解決不能で絶望的なのか、それともまだ尻に火が付いていないだけのか。

われわれの手には負えないのか。

そんなことはないはずだ。

(学23期kz)

山大・花の経済学部 その9

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年10月トピックス】

先輩の中には、河上先生、柴田敬先生のような学者、金子・浦上・松本先輩のような文化・芸術界に進んだ方のほか、政界、官界で活躍された先輩方もおられる。しかし、やはり実業界で活躍された先輩方が多い。

銀行・保険などの金融界、商社、各種メーカー、小売、新聞・テレビの報道界などだ。

金融機関では地銀や、第二地銀協会の会長に就任した第二地銀の頭取も出ている。

また、信金や信組でも活躍された先輩が多くおられる。

最近では第4のメガバンクを狙う新生銀行に山大・経済卒のトップ(学33期)が出た。

先輩の話を伺っていると、先輩方それぞれに、実に深く、比類なき貴重な体験を豊富に持っておられることに驚く。

鳳陽会東京支部の中で、2~3か月に一度の頻度で開催されている県人会の小ぶりな会食会がある。

この中では学10期代から30期代までが集う。その中で先輩方から昔話が出てくるが、お聞きしていると、その場にとどめておくことがもったいないような貴重な体験談がポロリと披露されることがある。

先輩方はこうした貴重な経験を地方で、東京で、そして世界で業績を積んでこられたのだ。こうした先輩方の蓄積がかつて「山大・花の経済学部」と呼ばれた所以だろう。

こうした体験を同期の仲間だけでなく後輩たちにも、また、現役の学生にも、またこれにとどまらず、山大の教職員の方々や、さらには学生諸君の父兄の間でも共有したいものだ。

(学23期kz)

「北九州フェリー旅」(9/24)投稿の“鳳波”の繋がり、拡がり

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年10月 トピックス】

<岡山Bさんからの投稿>

◆現在山口現代美術館が建っている亀山の地には、1972年くらいまでは山口高商

より連綿と歴史を紡いできた山口大学経済学部があった。

80年代、その地に美術館が新設された。

当時を偲ばせるものとしては、これから秋が深まる中で黄金色に変わる大銀杏、

、一部だけ残る石垣、そして少し奥に控えている山口大学経済学部跡地の石碑

がある。

その石碑には「鳳陽寮歌」の歌いだしの詞、“花なき山のやまかげに・・・”、そ

して、平川地区移転までの歴史が刻まれている。

◆東亜経済研究をも担っていた山口高商には、高商、経専時代は留学生も多くいた。

山口より郷里の中国に、台湾に、朝鮮に想いを馳せ、また学生は、大海の向こう

の他国をも視野に入れ、大志を抱いたであろう。

そして今、その中心にあった山口に逆に想いを致す同窓生は多い。リタイアー後、

終の棲家として山口の地を選ぶ同窓も数々いる。

◆トピックス欄にSさんの投稿「北九州フェリー旅」が一つの波となり、それに呼応するか

のようMYZさんのものと続き、それぞれのその時の思いが文に込められる。

投稿場所もそれぞれの在住場所、東京と山口、また山口で過ごした時代に違いが

あっても、鳳陽会の友垣の波 ”鳳波”は時に共鳴し、時に同調する。

ふと、”鳳波”の繋がり、拡がりは、永遠なれ!と願ってやまない。

岡山B

(篤志家の同窓生の寄付により建設された一社)鳳陽会 本部事務所もその公園

内の北にある)

能吏・小栗上野介忠順 ②

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年10月 トピックス】

◆一刻者

信念を曲げず、忖度もせずものを言い、気も強かったため職を辞することが多い。

しかし相当出来る人物だ。

職を辞めても幕閣からはすぐに職の要請が来る。

職をすぐ変えることから「一刻者」と評されたようだ。

行く先行く先でよい仕事をするが、何せ上司にも忖度しない。

優秀がゆえにエリート中のエリートが得る「勘定奉行」の職に4度も就いている。

◆薩長軍への徹底抗戦を主張

慶応3年の大政奉還、明けて慶応4年の鳥羽・伏見の戦いが行われ、戊辰戦争が勃発。

慶喜の江戸帰還後、江戸城で行われた大評定。

ここで小栗は榎本武揚、大鳥圭介、水野忠徳らと薩長軍との主戦論(徹底抗戦)を主張。

決断を避け、場を外そうとする慶喜公の袴の裾を掴んでまで、殿・慶喜の再考を促すも、殿は小栗の手を払い奥に消えた。

この時、小栗の人生が決まった。

◆高崎で帰農

小栗はまもなくお役御免になり、領地の群馬・高崎で隠棲帰農した。

この時、慶応4年2月末に彰義隊の渋沢成一郎が小栗にアクセスしている。渋沢は小栗に彰義隊隊長(頭取)就任の話を持ってきたが、「(殿・慶喜に)薩長と戦う意思が無い以上、大義名分の無い戦いはしない」と断ったという・・・

その後の小栗のあわれな顛末については、ここでは触れない。

上手く身を処せば、小栗は福沢諭吉や渋沢栄一のように1万円札の顔になったかもしれないとする識者の見立てもある。

しかし幕臣であることの矜持を持ち続けた小栗は、混じり気のない清らかな生き方をした。

「上手く身を処す」ことのできた他の幕臣とは異なり、純な能吏であった。

(学23期kz)

土光洋子 米寿記念 日本画展 

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年10月 トピックス】

◆10月12日(土)の東京は久しぶりの晴れで、気温26℃と穏やかな天気でした。
こうした中、東京・京橋のギャラリーくぼた 本館4階で開催の土光洋子さんの個展に行って来ました。
ビルが林立する京橋に着いたのは正午でした。

◆土光洋子さんとは先月の中野での5時間に亘る台湾講座受講でご一緒しました。
経団連会長や臨調会長を歴任された土光敏夫氏のご親族でもあります。
1974年に入社したT社で会長職にあり、川崎・柳町体育館での入社式で颯爽と登壇され、拝顔した記憶があります。
その話を再度し、不正会計に手を染め、とんでもない会社に堕落し、さぞや土光さんもご立腹されているのではという会話をしました。

◆土光洋子さんは米寿を迎えられたというのに凛とされていて凄くお元気です。
美人画を中心に40分堪能しました。

◆美術は子供の頃から大の苦手で小学生の頃の通知表は5段階の2でした。
得意なのは校庭に円を書いての相撲(得意技は腰投げ)と給食時間の早食い競争のみで、飲み込むので、いつもクラスで1番か2番でした。

これまで訪れた美術館)
ひろしま美術館、広島市現代美術館、足立美術館(島根県安来市)、横浜美術館、MOA美術館(熱海市)、東京国立博物館、東京都美術館、上野の森美術館
(学22期 Y・Y)

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牧水と山頭火 Vol.2

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年10月 トピックス】

◆旅と酒を愛した歌人

若山牧水(1885年~1928年)は、旅を愛しました。「漂泊の歌人」としての彼の代表的な歌は、Vol.1で 紹介しました

『幾山河 越えさり行かば 寂しさの はてなむ国ぞ 今日も旅ゆく』

です。

この歌は満たされぬ思いや様々な苦悩を胸に秘めて、寂しさの解消される「心の平安(peace of mind)」や「幸福(happiness)」、 あるいは心穏やかに過ごすことのできる「安住の地(safeliving land)」を求めて旅を続けた彼の生きざまを表現した歌だと思います。

しかし結局、それは見つけられず、酒浸りになり、肝硬変で43歳の若さで亡くなります。

大の酒好きで一日に一升程度の酒を呑んでいたそうです。

暑い夏に亡くなったのに、死後しばらく経っても腐臭がしなかったため、「生きたままアルコール漬けになったのでは」と医師を驚嘆させたとのエピソード があります。 

◆旅と酒を愛した俳人

 種田山頭火は、山口県佐波村の生まれ。早稲田大学まで進みますが、中退して故郷の酒造業に従事します。

 大正2(1913)年、荻原井泉水に学んで俳句を作るようになります。しかし事業の経営に失敗してしまい、 熊本や東京などに移り住みますが、結婚生活もうまくいかずその後出家、大正14(1925)年にはあてのない放浪の旅に出ます。

その後は九州、四国、中国地方などを放浪しながら俳句を作りつづけます。孤独を求めて 旅に出たのに、疲れると、もとの妻のところに転がり込むこともありましたが、

昭和7(1932)年には山口県小郡町に草庵を結び6年間を過ごします。

最後の地は、愛媛県松山。

脳溢血で亡くなります。享年59。

 社会も家族も捨てた、その人生は傍目には勝手気ままにも見えますが、彼にとっては作句と旅とは一種の修行であったようです。

若山牧水よりも破滅的でしたが、金欠でカネが続かず休肝日が続き牧水より長生きしました。

『この旅、果もない旅のつくつくぼうし』

『鈴をふりふりお四国の土になるべく』

 

◆最後に

 共通項 ほぼ同時代に生き、旅と酒を愛したこと

  牧水  1885年(明治18)~1928年(昭和3)43歳 

   旅と酒    楽しい酒、お酒が美味い

「人の世にたのしみ多し然れども酒なしになにのたのしみ」

  山頭火 1882年(明治15)~1940年(昭和15)59歳

   酒と旅 山頭火の内面、どこか寂しい

「ほろほろ酔うて木の葉ふる」

   了   29期 K.Y.

2024年度 第1回「こころの語り場」の会に参加して思うこと

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年10月 トピックス】

MYZ(宇部山陽小野田支部所属)さんからの投稿

2024年10月5日記

今回の“こころの語り場”で目指すところは「若年層・シニア層に関わらず、仕事・進路決定・家庭の事など人生にはあまり回数が多くないかもしれないがここ一番という困難に向き合うとき、自分の全力を挙げて事に当たらないと物事は前進しないものです。この語り場のなかから、人を動かす気迫を身に付けることを願う」としている。

この会の手法は“読書会”と“意見交換会”である。

この度は河合隼雄著「こころの処方箋」の55作あるうちNo.12の「100点以外はダメな時がある」、他2~3のエッセイを紐解いた。

コーディネータは、薄井洋基氏(神戸大学名誉教授)と三島瑞穂氏(宇部フロンティア大学准教授)、参加者は20数名、老若男女7~8名のグループで3チーム、夫々にコーディネータが付き議事を進める。

薄井氏から今回の語り場の趣旨説明、それは、“読み合わせ”から各自の理解と気づきを深め、その後“モヤモヤ”“わからない”“面白い”などありのままに語り合い質問をお互いに投げかける。

そのことで“創発”への道筋が発見できるとのこと。

すなわち各自の暗黙知が共同化され新しい成果を生み出すポイントになる。

私は“創発”という言葉はよく知らなかったがインターネットで検索してみると“部分の性質の特性が単純な総和に留まらず全体として現れることを意味する”と、もともとは物理学や生物学で使われている言葉のようである。近年はイノベーションなど企業の組織論にも使われているとある。

最初のテーマは「100点以外はダメな時がある」、中々難しいテーマである。

ひるがえって私の場合にはどうだったのだろうか?

今までの人生でこんな状況に出会ったことはあったのだろうか?

「人事を尽くして天命を待つ」

この心境になったことは何度か経験したが、これが自分にとって100点であったかどうかは分からない。

この100点の意味は自分なりに最善を尽くせ、中途半端に事を終わらせるなという戒めなのであろう。

仕事、家族、友人、近隣の人間関係等々でオール・オ・アナッシング100点を追い求めるのは人生疲れる。

ここぞという時に自分自身で判断し、力を出し切ること。それは日頃から鍛えられた心身を持って初めて出来る事であろう。

この度は初めての参加であるが、老若男女が同じチームでいろんな意見を出し合い理解し合う。

今の若い人達の考え方に私達シニアが気づきそして学ぶ。

有益な企画に参加できたことを今後の糧にし、引き続き参加したい気持ちになった。

考えてみると私が会員として所属している鳳陽会、最近は総会などに若い人や女性の参加が少ないという課題を抱えている。

年1回の総会(支部)では確かにそうであろう。

様々な提案がなされているとも聞いている。

私が思うに、時代も考え方も変わり従来型の総会開催には前ステップも必要なのだろう。

各支部で月1回程度のこのような“かたり場”を企画し、様々な年齢層による語り合いの中で新しい“創発”が生じるかもしれない。

以上