随筆 横目で眺めた経済学 ⑮インフレ・デフレ 思い出話

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】

◆デフレ

デフレの時は前稿で述べたインフレの時とは逆だ。

モノの値段がこの先も下がると読めば、さらの下がるのを期待して買い控えをする。

このため消費者は買うのを止め、貯蓄することに。

企業では売り上げ減→投資減→業績減→雇用減となる。

こうなると個人は生活防衛へ向けて消費を減らす。

このためGDPは低下し、税収減となり、国の施策にも影響が出ることになり、国力は低下に向かう。

景気の減退とともに物価は下落に向かい、膨大な国の債務は実質的に返済負担が増える。

現在でも政府長期債務のGDP比率は先進諸国の中で突出して高いが、デフレに陥ればこうした債務が一段と重くなる。

◆デフレ下の通貨安

「失われた30年」において、厄介な問題は、なぜデフレ下で円安になったのかということだ。

本来ならデフレは通貨・円の価値が上がるため、理論的には円高になるはずだ。

しかし、様々な要因が重なって円安となった。

この要因として、日米金利差、世界経済の不透明によるドル需要、日本経済のパフォーマンスの低下、日本経済への先行き期待喪失、これに伴う円売り・外貨買いマインドの高まりなど、様々な要因があった。

30年デフレと円安。

これで日本の国力は決定的に大きく落ちた。

一人当たりGDP然り、賃金水準も然り。各国比較で大きく落ちた。

日本は人口減で労働力が不足している。各種専門分野の優秀な人材も不足している。

こうした労働力を海外から招こうにも、払える賃金が低ければ海外から働き手はやってこない。

逆に、日本の若者は海外を目指し、シンガポールや、オーストラリアへ働きに行く。

この日本、少なくとも賃金面では魅力のない国になってしまったようだ。

中国では人口減少問題もこれあり、この先デフレ圧力が掛かることが見込まれており、30年デフレ時の日本と同様な症状を来している。

いや日本よりも、もっとひどいことになるかもしれないとの識者の見方もある。

中国政府は威信をかけてデフレをコントロールしようとしているが、これまでのところうまくいっていないようだ。

間違いなくデフレはとんでもなく厄介だ。

◆デフレ脱却

日本がデフレに入ったとされるのが2001(平成13)年。

経済状況に関する政府の公式見解を月ごとに表明する「月例経済報告」で、2001年3月に「緩やかなデフレにある」とされた。

しかし、ここ2~3年の物価高が続いており、本年7月の消費者物価上昇率は3.1%と、年初来3%を超えた状態が続いている。

ならば、既にデフレから脱却したのではないか。

実はこれまで政府から「デフレ脱却宣言は」出されていなかったが、今般の2025年度・経済財政白書で、ようやくデフレ脱却宣言が出された。

エコノミスの間では物価が2%(前年同期比)を超えた2022年頃には事実上デフレを脱却したとする見方もあるが、実質賃金は上げっていないため、日本政府として、なかなかデフレ脱却宣言を出さなかったのだ。

また選挙用や政府の信認を高めるための「巨額の経済対策実施」を打ちやすくするため、急いで脱却宣言を出しにくかったという事情があるのかもしれない。

(学23期kz)

「ドキュメント72時間」in礼文島

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】

岡山支部 岡山Bさんからの投稿

◆年末、視聴者による年間リクエストとは別に、夏に関連する内容、8月10日深夜、5本立てで再放送があった。
昨年年末にも放映された『礼文島のユースホステル”桃岩荘”』での“ドキュメント72時間“がその一つ。

この宿は日常とは異次元!宿にあって宿にあらず、宿泊客の”自宅”なのだ!

宿側の”おかえりなさ〜い!” に対して ”帰りました” と答えて客は敷居を跨ぐ。敷居が高いか低いかは“客の心”が決める。(それだけの覚悟がいる)
初めての人もいれば、30年ぶりや、50年ぶりに再来した人、その人は宿のサポーター(従業員)になって2年目と言う。

6〜9月の夏の4ヶ月限定の営業。
礼文島、ある意味、最果てのユースホステル。宿泊客は各人の人生を凝縮し、自分と向き合い、自分の殻を打ち破る為に自問する場所ともなる。

先の敷居の高さは”偉大なバカ”に成れたものにはその敷居さえ無くなる。これが中途半端なバカのままだとまだ高さが残る。”郷に入れば郷に従う”、これが唯一の掟♬
管内一斉放送の”作指指示”これがユースホステル全体のイベントの仕切りの合図となる。ギターの伴奏に声を揃え歌う、お掃除タイムもテンション高く皆で働く。
せっかくユースホステルを利用したんだから、バカ(出来れば偉大なバカ)になる事を楽しまないと勿体ない。(笑)

◆何か、ひと昔の 学生寮生活の様な体をなしてくる。鳳陽会会員においても、亀山世代(鳳陽寮生活経験者)は鳳陽会に対する想いは熱い! そして、バカを超越した“偉大なバカ“も多い。

宿に来る前は”悩める仔羊”…宿に来て羞恥心を捨てる事が出来た“偉大なバカ”は、自分は何者なのかを確認して、自信を持って前に進む。

紹介された悩める仔羊たち…
-ある研修医は今後の専門医の進路に悩む、その答えを確認
-18歳浪人生活…宿に来るとリヤカーを引き北海道一周を目指す者、竹馬で一周を目指す者を知り…何とちっちゃな18歳の自分…もっと気楽に生きようと生き方を見つける
-子育てが一段落、20歳の時どうして来訪した自分なのか?35年ぶりの再訪、そしてその時を再現回収
-宿で出逢った男女が夫婦になり、子供も連れ、一家での宿泊
-波瑠間島からの医師、最北端の医師に教えを請いに来た

◆早朝からの島のトレッキング18kmを踏破するメニューに参加すると“桃岩荘“の肝に出会える。
終盤のトンネルに差し掛かると、「一番大切な所に手を当てて、ぐっと掴んでポイっと捨てる」。 『羞恥心』、さようなら
その魔法の儀式で、“悩みのトンネル“を抜け出す!

自分自身、それなりのバカだが、“偉大なバカ“になる為、最果ての地、一度は訪れたい!

フェリーに乗って帰路につくお客さんも宿側はみんなで見送りだ。宿側「いってらっしゃ〜い、また来いよ〜」。

これに対して、お客は「またくるよ〜」と……
こころもこだまする。

(岡山B)

宿の中で・・・

全国各地で猛暑日が続く・・・

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】

岡山支部 岡山Bさんからの投稿

◆暦の上ではお盆も明け、24節気の「処暑」が過ぎたにもかかわらず、まだまだ暑い。

 先日、年代ごと、猛暑日の年間の発生日数をデータで追っていた話があ った。

 ネットの中で山口市における発生数を追ってみるとやはり他の地区と同 じような傾向値になっている。(山口県 山口市の気温に関する統計情報より)

 年代     

・1991-2000

4.9日  

・2001-2010

7.3日 

・2011-2020

14.3日 

・2021-24(4年途中経過)年

21.8日(4年間平均) 

明らかに上昇傾向にある。

◆この中でも特筆すべき年もある。

 1994年に 23日、 2018年には 35日とある。従来の例年の10台の日数を大き く超えている。所謂”暑い夏”の年である。

また、90年代は猛暑日がない年もある。

 2020年代になって2024年には47日、2025年も最多の24年に迫ろうとしている。

また、通常年、猛暑日は7月8月に発生していたが、2022年には6月から9月まで発生している。

2025年も6月から発生している。そして、長期の天気予想

 では9月10月も暑い日が続くと言われている今年…

◆80年代初頭の春先、大学のキャンパスある平川の教養部駐輪場の自転車は 平川砂漠の暴風によってなぎ倒されていた。

 自分の出身地では、暴風によって自転車が倒される光景を目にすることが少 なかったのである意味驚きでもあった。

 当時は田園風景に囲まれた平川は風がよく流れる土地で、夏場は洗濯物は半日で乾燥する。夜も扇風機という文明の利器を持っていなくても熟睡できた。

 (日中のアクティブな活動があって、夜は良質の睡眠がとれていた(笑))

 {1905年から培われた亀山にあった文化が1970年代平川への大学移転に伴い途切れそうになったり、層が薄くなった時期があるかもしれない。これを称して「平川砂漠」とは上手く言ったものだ。

 本屋で言うと、亀山、道場門前には、大手の書店としての文栄堂、金子書房をはじめとする古本屋も数軒あった。しかし、平川は文栄堂、金子書房の二軒 だけが書店であった。}

◆今のようにワンルーム下宿(マンション)が主力の時代でなく、農家の納屋や俄か作りの細長い下宿が主力の時代であった。共同風呂、共同トイレ、全てが共同である。

 下宿が二階ともなると今では不安全だが、網戸があれば暑いときは開けっ放しで外気を取り入れるとこで空調をしていた。

 あと、あるとすると団扇が自分用と客人用があるのみ。

 これで過ごせていたから救われる。夕方には上半身は裸になり、バットの素振りで汗が滲むくらいまではスイングを振り込み、そのあと入る共同風呂は格別である。

(岡山B)

トランプ劇場 ⑧動かない国際機関

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】

◆「相互」関税にあらず

止まないロシアのウクライナ攻撃、止まないイスラエルのガザ空爆、米ロ首脳会談、米・ウクライナ首脳会談

そうした中でのダウ(株価)最高値更新・・・

国内では猛暑、洪水、高校野球、そして日韓首脳会談・・・

次々と重なる出来事の中で、トランプ関税はもはや昔の話になったかの感があり、ニュースにも取り上げられなくなった。

しかしこの先、各国でトランプ関税の負のインパクトを消化しようとすれば、それぞれの国に問題が生じることになる。

その結果、世界の経済成長率が鈍化し、マイナスの影響は回り回って米国にも確実に及ぶ。

◆ゲームチェンジ

日本にとって大どころの自動車関税。

「25%から15%になってほっとしている」・・・というような問題ではない。

自由貿易の盟主だった米国がゲームの仕方を変えた。

ルールによって自由貿易で繁栄をもたらしてきたが、物流に水を差す関税を乱暴な形で一方的に課し、これまでのルールではなくディールで対応しようとするトランプ大統領。

報道機関も「相互」関税という、トランプサイドが使う言葉を無批判に使うべきではない。

一方的なトランプ関税なのだから。

こうした貿易交渉、これはルール違反だろう。

いや、トランプ大統領がやっていることはそもそも貿易交渉ではない。

プロレスに近い。しかも大変無礼なプロレスだ。

日本が同じことをやれば、どうなるか。

世界各国から、とんでもないブーイングが起きること必定。

しかし、「大国のやんちゃなリーダー」がやれば、みな黙る。

これいかに。

やんちゃぶりは米国内でも然り。FRB議長(中銀総裁)に対する辞任要求、労働統計をめぐる労働省の担当局長解任・・・

トランプ大統領のすること・なすこと・とんでもないこと、これは世界の大国のパワーゲームの構造を理解するうえで、また米国内の力学構造を解明するうえで、ある意味とても勉強になる。

◆WTO

そうは言っても殿の「やんちゃ」を止める国際機関はないのか。

自由貿易を守る国際機関があるだろう。

そう、ジュネーブのWTO(世界貿易機関)だ。

貿易をウォッチする国際機関たるWTOは何をしているのか。

手を下さないのか。

厳しいペナルティーを科さないのか・・・

WTO加盟国には最恵国待遇という規定がある。

WTOはWTO加盟国である米国に与えられた有利な条件を他の加盟国にも適用されという規定を、改めて米国に通告すべきだ。

少なくともこれがWTOの最低限の役割ではないか。

これまで、最大の出資国でリーダーは米国であった。

米国からこうした大統領が出てくること自体、想定していなかったはずだ。

WTOのトップは誰だ。

◆スパチャイ氏

面識のあるスパチャイ氏がかつてWTOの事務局長になったことがある。

外地勤務のころ、T王国の中央銀行の副総裁だったスパチャイ氏のところに、インタビューに行ったことがある。教養のある、おとなしいジェントルマン、スパチャイ氏。

副首相も歴任し、2002年にはWTO(世界貿易機関)の事務局長へ就任した。

(2005年にはUNCTAD(国連貿易開発会議)の事務局長も歴任)

そのスパチャイ氏が数か月前、日本のマスコミからのインタビューに、次のように答えていた。

「今回のトランプ関税はWTOの基本原則であり、関税などの最も有利な待遇を全ての加盟国に適用する「最恵国待遇(MFN)」のルールにも反する。第1次政権での関税政策でも米国に投資が促されたとは言い難い。

関税政策が長引けば米国は世界貿易に占めるシェアを落とすだろう。国内では3~6か月以内に深刻なインフレが起きるはずだ。

各国は冷静に話し合い、相互関税が破滅につながることを明確に訴える必要がある。」

・・・そのとおり。

しかしトランプ大統領は各種国際機関からの脱退を進めており、WTOも例外ではない。WTOへの拠出金も凍結している。

◆トランプ後は・・・

桁違いのことをなさるトランプ大統領殿。

ターゲットにしているのは1年後の中間選挙なのか。

いや、掟破りの3選かもしれない。

3選が叶わないようなら、米国に平和な世界が戻ってくるのか・・・

いや、副大統領が控え、構えている。

バンス副大統領が。

トランプ氏より読みにくい。

かえって厄介なことにならなければ良いのだが。

(学23期kz)

スパチャイ氏
WTOのロゴ

随筆 横目で眺めた経済学 ⑭インフレ・デフレ 思い出話

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】

◆ケインズ政策・・・デメリットのインフレ

インフレ下では貨幣価値が下がる。

私が幼少の頃、生前の祖母から、私のために苦労して「10万円」を貯めたという話を聞いた。

今の貨幣価値に直せば100万円ほどを貯めていたような言い方だった。

昭和の時代に入るとインフレで貨幣価値が大幅に目減りした。激減だ。

祖母も不本意だったに違いない。

◆貨幣価値の下落・・・これは悪い話ばかりではない。

借金をしている身にとっては、借金がインフレ分だけ実質的に目減りし、負担が軽くなる。

いわゆる債務者利得というやつだ。

私が社会人になった頃、上司が新居を購入。オイルショック後のインフレで、給料は上がるわ、住宅ローンの「実質」残高は減るわで、返済が楽だったはずだ。

◆しかし、市民社会への影響をフローで見ると少し違った姿になる。

賃金と物価。

賃金は物価の上昇に連れて上がっていくが、そのスピードは通常物価上昇幅を追い越すことはない。

常に後追いだ。

従って実質賃金は切り下がることになる。

ただ、こうした問題を抱えたまま、経済は活況を呈することになる。

なぜか。

前向きの「予想」があるからだ。

モノの値段が上がっていく時は、値段が上がる前に買いたい。

このために先買いでモノが売れ、企業は生産し、従業員の給与も増え、経済は活況を呈する。

実際、当時はそういう経済サイクルであった。

賃金上昇が一時的に物価に追いつかなくても、あとで追いついてくれる。

毎日の生活が目に見えて変わっていき、時代の高揚感があった。

ユーフォリア・・・

当時、日本の姿はどの国よりも立派であるような感覚に浸かっていた気がする。

これに比べ、デフレは厄介だ。

続く

(学23期kz)

参考

◆国立大学授業料の変遷

(単位は円)

1963年(昭和38年) 12,000

  ↓

1971年(昭和46年) 12,000  

1972年(昭和47年) 36,000

1976年 (昭和51年)96,000

1978年(昭和53年)144,000

1980年(昭和55年)180,000

1982年(昭和57年)216,000

1987年(昭和62年)300,000

1993年(平成 5年)411,600

2005年(平成17年)535,800

第7回ヒロシマの高校生が描いた「原爆の絵」展in有楽町

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】


◆今日(8月16日(土))の東京は最高気温が32℃と少し下がったとはいえ、連日の暑さです。
こうした中、母校の広島市立基町高校の創造表現コースの生徒及び卒業生が被爆者の体験を直接聞き取り、絵画として描いた「原爆の絵」展(8月10日~16日)に5年連続で行って来ました。

◆最終日の11:35に到着し、事務局長の大越貴之さんにご挨拶しましたが、昨年の日本被団協のノーベル平和賞受賞を追い風に今年は戦後80年の年の開催で特別な思いもあるようです。
1時間20分かけて約35点のパネル展示他を鑑賞しました。
描いた場面の説明、描いた高校生のコメント、被爆体験証言者のコメントもあり、素晴らしい催しでした。
今回、特別企画として小説「黒い雨」…特別講演会、原爆にまつわる絵本の朗読会や紙芝居の上演等もありました。

◆この日は日本時間の早朝からアラスカで、プーチン大統領とトランプ大統領の米ロ首脳会談があり、行方が気になる中での参加となりました。


追記)
私事ですが、今回は怪我に加え、体調を崩し病院通いの日々で、到底無理と諦めていましたが、母校の「継続は力なり。」との教えを思い出し、最終日に何とか辿り着きました。

(参考)「原爆の絵」展in有楽町

2025年8月10日(日)~16日(土)
11:00~18:00
東京交通会館地下1階ギャラリー「エメラルドルーム」及び「シルバーサロンC」
(東京都千代田区有楽町2-10-1)
【協力金(入場料)500円】(税込、中学生以上)*小学生以下及び障がい者は無料
【主催】井伏鱒二先生生誕125周年記念「黒い雨」プロジェクト実行委員会

(学22期 Y・Y)
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「経済白書」よもやま話 その②

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】

岡山支部 岡山Bさんからの投稿

◆そもそも白書とは何か?

改めて確認すると意外なことを知った。

英国議会では内閣が議会に提出する公式報告書を「white paper」白い表紙を使用していたから「白書」、それを真似た日本の「白書」も次のものから始まる。

(現在使われている英国で使われている「white paper」は政策建白書的な意味があるという)

通称官庁発刊の「白書類」は白書、白書と言われているから、白だと決めつけてはいけない。外務省が発行するもの「外交青書(白書)」となっている。

これは、英国での外交官の報告を「blue book」と呼んでいた流れを汲み、青い表紙である。

◆1947年、戦後から2年経過した中で「経済実相報告書」なるものが発刊されている。白書の原型、つまり初の経済白書だ。その副題は「財政も企業も家庭も赤字」と名付けられていたという。

この主筆者は都留重人であった。あの70年代から80年代の定番の経済学の教科書「サミュエルソン 経済学」の翻訳者。経済安定本部に籍を置いていた。

戦後80年が2025年、経済白書は2027年には傘寿を迎えることになる。

願わくば、2027年には政府刊行物だけなく、豪華論客で紙面をまとめたエコノミストの、そして週刊東洋経済の”特集号としての「経済白書」”を読みたいと願うのは筆者だけだろうか?

◆しかし、出版業界は厳しい。学生時代、経済セミナーと言う”月刊誌”があった。

この経済セミナーの中から生まれた経済学の教科書の名著も多い。しかし、今二カ月に一回の発刊となり、ここから教科書が生まれる可能性は低くなっている。同じように法律セミナーと言う”月刊誌”もあった。これは2025年3月までは月刊誌であったが、2025年度になって、経済セミナー同様二カ月に一回の発刊になっている。(経済セミナーは早い段階からその流れ...)

◆最後に白書の意味について、平成2年(1990年)の坂本内閣官房長官の言葉(国会答弁)がある。その言葉は重い。 

言葉の中にある国民の皆さんには「御批判を願う、そして御協力をいただく」と。

「白書というものは中央官庁の編集する政府刊行物である、そしてその内容は政治、経済、社会の実態及び政府の施策の現状について国民に周知させることを主眼とするものである、こういうことであります。だから、国民の皆さん

に現実の政治あるいは行政の動きをよくお知りをいただいて、そして御批判を願う、そして御協力をいただく、それが私は眼目だろうと思います。」

(岡山B)

「経済白書」よもやま話 その①

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】

岡山支部 岡山Bさんからの投稿

◆経済学徒にとって今も昔も変わらない重要白書は「経済白書」であろう。

ちょうど夏休みの間に発刊されることが多い。政府刊行物として、書籍に纏まった形での提供。そして今では担当官庁の所管のホームページを覗くと、「白書類」と言ったフォルダーが準備されていて、自由に閲覧することが出来る。(今はなんと無料で「白書」にアクセスできる!)

40年位前は、政府刊行物とは別に、少し時期をずらして、毎日新聞社から「エコノミスト 経済白書特集号(**年度版)」、また、週刊東洋経済からは「解説経済白書(**年度版)と二社からその特集号が発刊されていた。

◆大学正面門前にあった文栄堂で、あるいは道場門前の文栄堂本店で、先ずは立ち読み、その年の経済白書に関し、経済学者、エコノミスト、官界エコノミストの解説者の顔ぶれ、解説、そして、力点を置いている論点を概略掴み、どちらの特集号を買うかを決めていた。また、キーワードになる用語を整理している項目も大切な項目である。(経済学を学ぶ者にとって、テクニカルタームと言われるその世界独特で、かつきっちり覚えておいたほうが良い語彙)

勿論、その両者は政府刊行物よりは安価で、そして微妙な価格差もあったと記憶している。貧乏学生でも、その価格差が購入選択の基準ではなかった。

(互いに1000円未満の特集号)

◆当時は本屋で紙袋に入れてもらった白書、自転車で下宿先に帰宅、開封。

各章、各節に題目として散りばめられているキーワードは何か?少しワクワク感があった。その副題にも…今も変わらないが、当時も経済学の教科書をしっかり読むとか、経済の古典を読むほどの学生ではなかった。実態の経済はどのように動いているのか、どのような観点が重要視されているのかには強い興味があった記憶がある。

読み始めたのは、恐らく専門に進級して、学部の二年生の頃からだろう。

◆社会人になっても、経理や管理部門と担当していた頃は特集号を読んでいた。転勤に伴う何回かの転居のうち、かつての特集号は殆どの手元からは散逸してしまった。

きっとその中には線引きが施されていたり、赤鉛筆で落書きに近い内容も残っていたかもしれない。若い頃の思索の足取りが辿れるとしたら、何と貴重なものを失ってしまったか・・・

(岡山B)

戦後80年 「語り継ぐ 私の戦争体験」を読む

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】

岡山支部 岡山Bさんの投稿

◆岡山県北のある市が編纂した「語り継ぐ 私の戦争体験」、というものがネットに出ていました。戦後2014年発刊ですので、今から11年前の話です。

兵士として出兵された方々が語られた「私の戦争体験」が主要なもの。その中で異色のものとして、親と家族の手紙のやりとりを通して、子供から見た「私の戦争体験」が記載されています。

それは、たまたま高校の物理の先生自らのご幼少の頃について、語り継がれていたものでした。(編集当時79歳)

◆お父様は旧広島高工出身で中国電力の技師、広島に転勤されてからに召集されています。

先生は、終戦時は10歳。お父様と奥様の他、お家の人との葉書、手紙のやりとりで、自宅に保管されている。それらから文字起こしされ、投稿されています。

記載されている文面からは、当時のお父様の声が聞こえてきます。

(8歳ぐらいから10歳ぐらいまで、戦地と自宅とでやり取りされた葉書、手紙)

子供の怪我の様子、家での行事、子供の家での勉強のこと、また、親戚のこと等様々な心配、いや心配りに満ちた内容です。また、時には、幼い子供の為に、末筆にはカタカナのみで書いたりされているので、如何に子煩悩であったか、その姿が偲ばれます。

当時のご時世として、郵便物に関して、軍の検閲も想定されるご時世。

人名を使って派遣される地域を伝えるために、夫婦の間でだけ分かり合えるちょっとした暗号帳のようなものも残っています。

(例えば、東京=森君、神戸=水島君、山口=上田君とかの様)

また、葉書の各行、五月雨で”段落ちに文字を拾う”と本当は伝えたいのだけど検閲に引っかかるような情報も”段落ちに文字を拾う”夫婦間二人だけには通じ合う文字が拾えます。きっとそれを読み取るに奥様が使用したと思われる赤〇をされた文字。

戦地に赴く前に約束(”通信要領”)を作り、それを拾うと心が通じあえるようにされています。

19年11月以降は戦況の厳しさに伴い、航空郵便は途絶え、送金する際の通信欄が唯一の連絡のやりとりになっていきます。

◆戦死公報によると、お父様の最後はフィリピンの本部詰めで勤務されていて、そこで戦死をされています。その年月日は”昭和20年7月”になっています。

戦後、無事の復員を願いつつ過ごされた月日、昭和23年1月になって戦死公報が届きます。戦後いろいろな混乱が続いていたことでしょう。

県からは紙切れ一枚、岡山県民生部長発のもので、哀悼の言葉(1月16日付)は尽くされたものですが、日付、宛名のみ追加で手書きされたもの。戦死通知は別の木箱。

戦死の公報伝達(1月20日付)については津山市長の”職務権限”で戦死に伴う戸籍の抹消処理がなされることを記されています。また両者ともあくまで”事務的なもの”です。

戦後になって、奥様はご自身で軍での同僚だった人を探しあて、一人で夫の消息調査を進められています。

本部詰め士官11人の中で、生き残ったのは2人。その一人の話では昭和20年には本部が壊滅した時の状況、事実を突き詰めています。

◆戦後80年ではすでに集めることの出来なくなっている「語り継ぐ 私の戦争体験」がその中にはありました。

高校時代、その物理の先生は大変苦学されて大学を卒業され、教師になられた話、それは生徒間では言い伝えられていました。その苦学の謎が解けた50年後の8月。

先生は出身大学で物理学を、そして晩年は出身地の最寄りの大学、高専で物理を教え続けられました。

追記:

2024年のノーベル平和賞は、被爆者の立場から核兵器廃絶を訴えてきた日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)が受賞されました。

「語り継ぐ」ことの難しさに直面されています。

一方、多くの学徒が戦陣に散りました。1947年の「はるかなる山河」に続き、1949年には「きけ わだつみの声」が発刊されています。その中には、我々の先輩の山口高商関係者の投稿もあります。

(小樽商大では毎年8月15日、学徒出陣などで亡くなられた学生たちを追悼する慰霊祭が行われています)

(岡山B)

投稿「なくなって寂しいもの」に関連して

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】

37期の上野さんの投稿「なくなって寂しいもの」に関連して

岡山支部 岡山Bさんからの投稿

◆90年代の地方の工場における情報系のネットワークの進展の軌跡について記載してみよう。

世間では、Windows95に沸き返った1995年があった。テレビのニュースではそのソフトの発売に併せ、徹夜組、また長蛇の列が出来た。そして、やっと手に入れたWindows95でも、用心しないと帰路の途中に盗難にあってしまうかもしれないほどの過熱ぶりであった。

地方の工場に仕事の中にWindows95が導入してされてきたのは確か96年だったと記憶する。

◆本社のオーナー社長は若い頃システム管理室の室長の経験も積んだ方だったから、コンピューターに関する敷居は低かった。既に基幹系のシステムは国内の「H社」のものでしっかり動いていた。そして、その後、会社の中では、生産統合システムと大きなプロジェ

クトを組み、中小企業の製造メーカーとしては、注目される内容のものとなった。

「H社」のシステムPRのような小冊子には、企業名は伏せられていたが紹介された。

ある意味、新たな情報系のネットワークを導入するには環境は整っていた。

◆しかし、地方の工場でどのように推進するのか?誰がキーマンとなって、みんなに普及していくのか、この辺は時の流れに任せるようなあいまいな状態だったような記憶がある。

当時の自分は工場総務で比較的若手でもあった。何とはなしに自分が少し勉強して、その役割を果たさないといけないかな?とぼんやりした感想を持っていたことは事実であろう。

そこで地元の商業学校で、夜学で無料でやっていた「Windows95入門」と言うような講座を自主的に受けてみた。その席には地元のケーブルテレビでネットワーク構築をするような人も参加しているような状況であった。つまり、地方では、まだまだ誰もがヨチヨチ歩きであった。

その講習が終わって、数カ月した頃だったと思うが、工場総務の人間に情報系のネットワークを広めるような役回りが振られてきた。

先ずは、四の五の言ったって、始まらない。コンピューターといえども通常の業務をコンピューターに業務を置き換える(置換)ことで成り立っているのではないか?と言った実感があった。

そこで、如何にも今の業務がどのような部分が、コンピューターの業務になるのかを対比することから始めた。

◆最たるものが『メール』(電子郵便)と言った仕組みだ。

郵便:

①紙と封筒の準備

②手書きの文字書きによる文書作成

③封筒へのあて名書きをして、切手を貼る

④郵便ポストまで赴いて、封書の投函となる。

大まかにはこれが今まで事務所の中で行われていた事であろう。

その後郵便物は赤いポストを中心として郵便局内での大まかには次の流れになろう。

⑤郵便ポストから郵便局員による集荷⑥局内での郵便番号ごとに郵便配送の振り分け⑦配達局での配達順による並び替え⑧オートバイにより郵便配達員さんが各お宅へ郵便物のお届けとなる。

もう、既にメールに慣れきってしまった皆さんなら、何をまどろっこしい説明なのか!

この実感が情報系のネットワーク凄さである。

パソコンに向かい、宛先をクリックして、件名を入力、敬称も時候の挨拶もすべてすっ飛びとなる。用件を書きこみ、送信ボタンとクリックすると相手のパソコンの受信トレーまで”電子郵便”は届いてしまうのだ。 

 

◆80年代半ばに社会人になってから、10年!

 劇的変化は突然やってきた!

上記のような流れをレジメの左右に並べ、説明の時もアナログとデジタルを具体的にテーブルの前に並べて先ずは皆で感じてもらう。

 

アナログ ➡ 紙と封筒 郵便切手 おもちゃの赤ポスト

デジタル ➡ 2台のパソコンを持ち込み”電子郵便”を送ってみる、返信してみる、送受信が成り立つ

文字通り、「習うより、慣れろ!」の勢いで社内には急速に普及していった。

◆「やぎさんゆうびん」(作詞:まどみちお)の童謡の歌詞をみてみよう。

 1 白やぎさんからお手紙着いた
   黒やぎさんたら読まずに食べた
   仕方がないのでお手紙書いた
   さっきの手紙のご用事なあに

 2 黒やぎさんからお手紙着いた
   白やぎさんたら読まずに食べた
   仕方がないのでお手紙書いた
   さっきの手紙のご用事なあに

こうした世界も生まれなくなる。

我々は便利さと時間と効率性を得たかもしれない。一方、その代わりに失ったものを自問自答してみると哲学的な問題になるかもしれない。

◆2024年1月に郵便はがき、郵便封書に関する料金が大幅に改定された。

ある部分儀礼的であったかもしれない年賀状の交換といった文化。

それさえ、30年の年月の間に、情報系のネットワークは打ち壊していった。 

(岡山B)