9/12 IPO(新規株式公開)セミナー 参加登録

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年8月 トピックス】

IPOセミナー 15:00~16:30

講師:SBI証券営業本部顧問、日本IPO実務検定協会顧問 吉原直輔氏(元野村證券、学25期)

この他、三菱信託銀行証券代行営業推進部顧問、税理士法人や法律事務所など多くの企業の顧問を務めている。

会場: 港区 台場区民センター 第1+第2集会室

台場区民センター(財団指定管理施設):Kissポート

イベント参加登録【IPOセミナー】


    ※
    ※

    ※


    ※



    ※は必須項目です

    9/12 資産運用セミナー 参加登録

    山口大学経済学部同窓会

    鳳陽会東京支部

    【2026年8月 トピックス】

    資産運用セミナー 9月12日(土曜) 13:15~14:45

    講師: (一社)事業継続研究所代表理事、GBコンサルタンツ代表・町田秀雄氏(元三菱信託銀行、学23期)

    会場 港区 台場区民センター 第1+第2集会室)

    台場区民センター(財団指定管理施設):キスポート

    イベント参加登録【資産運用セミナー】


      ※
      ※

      ※


      ※



      ※は必須項目です

      三人の財界巨人 その16 久原房之介③

      山口大学経済学部同窓会

      鳳陽会東京支部

      【2026年8月 トピックス】

      ◆東京・商法講習所を首席で卒業した房之介

      久原庄三郎は明治11年(1878)年に単身で萩を出た。

      藤田組では中央官庁との行き来が便利な東京での駐在をあてがわれ、単身で東京赴任となる。

      翌年、萩に残していた家族を呼び寄せるが、呼び寄せた先は大阪だ。庄三郎は依然として東京支店詰めで単身赴任のままだ。

      明治14(1881)年、庄三郎は、子息の中で見込みがある4男房之介を、教育を施すため東京へ呼び寄せた。

      房之介が12歳の時だ。

      教育を施すにあたっては、藤田家・久原家に影響力のある井上馨候の示唆があったからかもしれない。

      萩には明倫館があったが、商人のための学校はなく、井上公は商人の子に学校教育を受けさせることを勧めていた。

      房之介は商法講習所(一橋大の前身)で学んだ。

      同講習所は政治家・外交官であった森有礼が渋沢栄一、福澤諭吉の協力を得て銀座に開設した商業学校だ。

      日本初の官立高等商業学校になったのが明治20(1887)年であり、房之介が入校した当時は私設の商業学校だった時だ。

      房之介の入校時、同講習所の修行年限が5年になっており、そこで簿記、和洋算術、英文法、英会話、地理のほか商業の実地研修も行われた。

      房之介は明治18年東京商業学校を、何と首席で卒業している。

      ◆慶応大に進学

      翌19年、房之介はさらに5年、「人生の根本原理を学ぶ」として、福澤諭吉の慶応義塾大でさらに5年学びたいと自ら申し出た。

      慶応義塾はもともと福沢諭吉が、江戸の中津藩中屋敷で中津藩の子弟を対象に開講していた蘭学塾であったが、慶応4年(1868年)に一般人に門戸を開放し明治4(1871)年に三田に移って規模を広げた。

      現、鳳陽会東京支部の事務所に近い。

      福澤諭吉の目指す教育内容は洋学に比重をおいたものである。

      明治19年に房之介が慶応義塾に入学した当時、入学者は約千人だったという。

      慶応義塾では予科と本科に分かれている。

      入学したての予科では書き取り、作文、漢書、語学などの一般教養を学ぶ。

      ここでは房之介の成績は優秀で、クラスの席次は50人中のトップ。

      しかし、本科では法律学、国際法、地質学、経済学が履修科目となり、洋書の解読も行われる。

      房之介は座学が嫌いだったようで、成績は次第に下降。

      最終的には席次も35人中33位という冴えない成績が記録として残っている。

      ◆将来の夢

      洋楽志向の福沢に学び、福澤の論文『日米貿易前途の望み』にも刺激を受け、貿易・商社を己の道にせんとして、商事会社に就職した房之介。

      将来、自分で商事会社を興すことを夢見た。

      また、房之介は福沢諭吉の座右の銘のひとつ「有無所畏(おそるるところなきにあり)」。

      何事に対しても畏怖しない。たとえ死に臨んでも・・・

      相当な覚悟と言ってよい。

      この座右の銘を気に入り福沢に揮毫してもらい、自宅の額に入れて呪文のように唱えたという。

      (学23期kz)

                             商法講習所

      東洋英和女学院、戦前から続けられている「学級日誌」に学ぶ

      山口大学経済学部同窓会

      鳳陽会東京支部

      【2026年8月 トピックス】

      岡山支部 岡山Bさんからの投稿

      YYさんのご投稿に、22y.nさんのコメント、素晴らしい流れ。鳳陽会会員の中の響き合いです。

      ◆終戦から81年…

      『少女たちの戦争 ~読み継がれる学級日誌~』

      東洋英和女学院の戦前から続けられる「学級日誌」を通して、戦前、戦争、そして今の生き方を問う番組がありました。

      今が”今の刹那”でなく、過去、現在、そして未来に続く連綿たる”時の糸”、授業を通してそれを探る。

      変わるもの、変わらないもの、その中に戦前から続けられているものに「学級日誌」がある。

      ◆東洋英和女学院というと小中高、そして大学も併設された学園だ。

      建学の精神であるキリスト教の「敬神奉仕」を根幹に、英語教育と音楽教育にも力を入れている学園。

      経済学の教鞭を取った教師陳も一流だ。根岸隆、池間誠、そして「高度成長の時代」の著者でも有名な官界エコノミスト香西泰も。

      東工大定年後に勤務された学園でもある。(香西泰は東工大教官時代、山大経済でも講演をした)

      戦時下では「東洋英和女学院」の学校名を「東洋”永”和女学院」と変えて存続の道を探ったという。戦前の鬼畜”英米”の”英”だからだ。

      時の総理がカメラを意識してかしてないかは不明であるが、終戦記念日の日に靖国神社の方向に向けて”遙拝”をされた報道があった。

      そして、千鳥ヶ淵戦没者公園に足を運ばれた。

      戦前から続けられている「学級日誌」を題材に、教師がある答えを生徒に求めることでなく、自ら考えること、そしてみんなで考えることを大切にして授業を構成する。

      「学級日誌」に学ぶ。そして、自ら、事に当たって考える。

      そして、一つの答えがあるような問題ではない問題に、向かい合うことの大切さに出逢う。

      (岡山B)

        経済企画庁ご出身の香西泰先生

      秋の音楽祭 in 竪小路 11/21(土)~22(日)

      山口大学経済学部同窓会

      鳳陽会東京支部

      【2026年8月 トピックス】

      今秋、山口・竪小路で音楽祭が開催される。

      主催者は学生時代から、歌を愛し、竪小路をこよなく愛し続ける香原詩彦(こうはら・ふみひこ)氏(23期、福岡出身)。

      その香原氏から音楽祭の開催パンフレットが届いた。

      誘い文句は・・・「山口市の一番山口らしいストリートを一日中散策してみませんか?」と。

      竪小路・・・西の京らしい上品な響き。むかし懐かしい竪小路。

      近くには修復を終えた瑠璃光寺・五重塔がみえる。

      晩秋のよき日、いかがでしょうか。

      (事務局)

      「9.12・鳳陽セミナー」のご案内

      山口大学経済学部同窓会

      鳳陽会東京支部

      【2026年8月 トピックス】

      ●期日 9/12日(土曜)午後
      ●会場 港区立 台場区民センター(第1+第2集会室合体(スクール方式、定員36名) https://share.google/7UlXCjwMjbqYIhSEx
        

      【その1】

      ●資産運用セミナー
      13:15~14:45

      講師 町田秀雄氏(元三菱信託銀行、23期)
      ●参加希望

      の方は以下へ入力お願いします
      Googleフォーム
      https://x.gd/vFRzt

      【その2】

      ●セミナー・IPOものがたり
      15:00~16:30

      講師 吉原直輔氏(元野村證券、25期)

      ●参加希望の方は以下へ入力お願いします
      Googleフォーム
      https://x.gd/HLMGL

      ●セミナー後
      時間がある方は新橋に渡って乾杯したいと思います。参加希望の方はお知らせください。

      当日もお声掛けします。

      (事務局)

      第8回ヒロシマの高校生が描いた「原爆の絵」展in有楽町

      山口大学経済学部同窓会

      鳳陽会東京支部

      【2026年8月 トピックス】



      ◆8月15日(土)の東京は13、14日に千葉県下に豪雨による大変な被害をもたらし、まだ不安定な変わりやすい天気でした。
      こうした中、母校の広島市立基町高校の創造表現コースの生徒及び卒業生が被爆者の体験を直接聞き取り、絵画として描いた「原爆の絵」展に6年連続で行って来ました。


      ◆最終日の12:00に到着し、事務局長の大越貴之さんにご挨拶。
      2時間かけて約35点のパネル展示、基町高校卒業生による平和祈念の油彩原画数点他を鑑賞しました。
      描いた場面の説明、描いた高校生のコメント、被爆体験証言者のコメントもあり、素晴らしい催しでした。
      今回、特別企画として小説「黒い雨」特別講演会、原爆にまつわる絵本の朗読会や紙芝居の上演等もあり、私はこの日は朗読会に参加ました。
      帰路に就く際は大越さんに井伏鱒二作「黒い雨」について全くストーリーを知りませんでしたが、お話を伺いました。
      高校時代に「山椒魚」の短編は読みましたが、今度、是非、読んでみたい。

      ご参考)
      2026年8月9日(日)~15日(土)
      11:00~18:00
      東京交通会館「2Fギャラリー」
      (東京都千代田区有楽町2-10-1)
      【協力金(入場料)500円】(税込、中学生以上)*小学生以下及び障がい者は無料
      【主催】井伏鱒二先生生誕125周年記念「黒い雨」プロジェクト実行委員会
      (学22期 Y・Y)(会社法、永倉ゼミ)
      ※コメントを宜しくお願いします。
      ①トピックス末尾の「コメンを残す」欄から。
      あるいは
      ②私のメールアドレスへ
      0rb6672r388367t@ezweb.ne.jp

      三人の財界巨人 その15 久原房之介②

      山口大学経済学部同窓会

      鳳陽会東京支部

      【2026年8月 トピックス】

      ◆久原家

      藤田伝三郎のすぐ上の兄・藤田庄三郎が養子に行った久原家とはどのような家だったのか。

      なぜ久原家は養子をとったのか。

      これには久原家の暗い過去がある。

      久原家は佐々木高綱の系譜であると称し佐々木姓を名乗り、石見国美濃郡久原で石見の豪族・益田家に仕え帰農していたが、益田氏を追って山口県東北部、日本海に臨む港村である須佐に入ったという。

      その時に姓を佐々木から久原に改姓した。

      久原家の初代・勘平治は有能な農民で須佐転入後、役人に取り立てられ裕福な家計を築く。

      第十代の半平保繁の時には士分に取り立てられ藩士籍の御船頭を務める一方、浦庄屋という役人を務め、産物から金融までを手広く扱い、家は繫栄した。

      しかしこのことが裏目に出る。

      不幸なことに、この半平が暗殺された。

      犯人の詳細は分からなかったが、久原家の栄華を妬んだ益田の仕業ではないかと噂された。

      生前、半平は嗣子がいなかったこともあり、跡取りを早めに決めていた。

      こうしたこともありうべしと、早めに段取りを決めていたのだ。

      先ずは養女。

      義兄で萩の豪商・田村金右衛門の次女・文子を養女に迎えた。

      次に養子。

      萩城下の醸造業・藤田半兵衛の三男・庄三郎を養子とし、久原家11代として迎え、養女の文子を娶らせた。

      後の明治の財界巨人として活躍する藤田伝三郎(藤田家四男)は庄三郎の実弟に当たる。

      ◆萩に転居した久原庄三郎

      半平の跡目を継いだ庄三郎は、養父が不幸に見舞われた須佐を離れ萩に生活の本拠を移し、造り酒屋や醸造業を始めた。

      しかし、うまくいかない。

      萩城下とはいっても藩主や家臣はすでに居を山口に移しており、全盛期に10万だった萩の人口は、明治に入ると5万へ半減していた。

      また、萩はもともと商人の町ではない。

      侍の町だ。

      侍の町は儒教の町。

      そこには士農工商の序列が色濃く残る。

      明治維新を成し遂げたのも侍だ。

      こうした風潮が強い萩にあって、商人道を目指す者は自ずと外を向く。

      ましてや長州・須佐は養父が暗殺されたところでもある。

      久原庄三郎には、先に大阪で忙しく働き、手助けを求めている実弟・藤田伝三郎がいた。

      伝三郎は軍部からの発注を受け、靴をはじめとした軍需物資の製造を手掛けていたのだ。

      このため、庄三郎は藤田伝三郎を頼って大阪に出ることになる。

      (学23期kz)

      須佐ホルンフェルス

      英英辞書の薦め

      山口大学経済学部同窓会

      鳳陽会東京支部

      【2026年8月 トピックス】

      岡山支部 岡山Bさんからの投稿

      ◆苗字をあいうえお順に並べて編成したのが、80年当時の教養部時代のクラス編成だったと思われる。
      自分が属することとなった クラス担任は稲田先生という若い英語の講師の先生だった。

      一応大学生活について、お話をしてくださったはずだが、あまり子細な記憶はない。

      そのクラスメイトはあいうえお順ということと、英語のクラスということでその後の大学生活、社会人生活を通じても、同期の仲間の根底となっている。

      (専門部・・・学部に上がっては、外書購読やゼミがその主役を取って代わることとなる。)



      ◆クラスの中には企業でいうと調査部、企画部のような用務を果たしてくれるような献身的な仲間がいた。

      教科書の訳本探しの名人だ。

      どこかで、その訳本のルーツを探し当ててきてくれる。
      周りは少しの努力で、短期的な効用とは言いながら、試験では最大のパフォーマンスを発揮してくれる。



      ◆一方、後に英語学、言語学の研究教育に従事されることとなる稲田先生は、新入生に英語の辞書を薦められた。

      それは、英語を英語で理解し、そして英語を使って調べ物をする「英英辞書」の薦めだ。

      その辞書の名は今でも記憶にとどめている『ロングマン現代英英辞典』であっただろう。
      1978年に編集された湯気が立っているような出来立ての辞書だ。(今だからこそ調べることも直ぐ出来る。)

        受験英語の延長でない大学での英語の勉強方法の薦めであったかもしれない。

      しかし、そのような親ごころ、いや兄貴ごころがわかるような学生ではなかったので、受験英語の余勢で外書購読、ゼミ、卒論作成まで進んでしまった。

      ◆その後就職することになったメーカーは、基本的に営業基盤は国内にあった。しかし、バブル経済が芽生え始めた頃、その会社においても海外進出が始まった。

      多数の若手の海外勤務を前提とした英語の社内試験が実施され始めた。

      準一級の英語力を求め始めたのだ。(因みに入社時の学科試験は国語と数学と一般常識のみだった)


      後から悔やんでも、いまさら取り返しがつかないの意、”後の祭り”という言葉・・・

      この時に兄貴分であった稲田先生の『ロングマン現代英英辞典』 の薦め、兄貴ごころを痛切に感じることとなった。

      もし今の学生さんが英英辞書の購入を考えているようなら、先ずは購入。

      そして、少しづつ使い始め、使い始めると英英辞書に慣れてくる。

      いつの間にか 英語を英語で考えられるようになる。いやきっとなるはずだ。頑張って!!

      (鳳陽会会員の中には在学当時から、商業英語を担当していた先生に一目置かれるような学生がいた。

      商社に行って、もともと出来た英語に磨きをかけた人も多くいる。そして、第二外国語も流暢に操れる人もいる。

      メーカーに行って、入社当初は予定もしないくらい海外勤務がメインとなり、外国語の達人となった人もいる)

      三人の財界巨人 その14 久原房之介①

      山口大学経済学部同窓会

      鳳陽会東京支部

      【2026年8月 トピックス】

      その

      ◆藤田伝三郎の甥

      藤田伝三郎の血筋から、やはり萩出身の財界巨人が生まれる。

      藤田伝三郎は主に明治時代に活躍したが、明治から大正時代、昭和の初めにかけて活躍したのが久原房之介だ。

      藤田伝三郎のすぐ上に兄だった藤田庄三郎は久原家の養子となるが、その庄三郎の子が久原房之介で、久原房之介は藤田伝三郎の甥にあたる。

      久原房之介は東京高商を卒業後、さらに慶応大に学び、慶応の学生時代に商事会社の森村市左衛門の講演に共鳴し、商事会社の森村組に入る。

      この時、藤田組では秋田の小山鉱山が危機を迎えており、房之介を小山鉱山の経営不振に対処させようとした。

      森村組では将来会社を背負っていく有望株として、房之介のニューヨーク勤務を決めていたが、藤田組ではニューヨーク行きを辞めさせ、森村組から退社させる形で房之介を秋田の小山鉱山に赴任させた。

      この赴任には藤田組に近い井上馨候も関与している。

      藤田組では秋田の小山鉱山を閉山に持ち込もうと考えていたが、久原房之介は、何と傾いていた小山鉱山の再興を果たしたのだ。

      ◆久原財閥

      勢いづいた房之介は茨城の赤沢銅山を買収し、日立銅山と改称。また明治43年に鉱山の電機部門から派生した日立製作所を設立し、社名を久原鉱業へ。後に日本鉱業・JXグループを形成する企業グループの創業者となり、「鉱山王」と呼ばれるまでになる。また、アジアに進出し、シンガポールに事務所を構え、石油・石炭の開発にも積極的に取り組んだ。

      事業範囲は次第に広がり、後の日産自動車、日立造船、東京生命、久原商事などの企業集団「久原財閥」の総帥となった。

      第一次大戦後の恐慌を機に事業を譲り、アジア進出で多くの内外の要人との繋がりを基盤に政界に進出。

      同郷の田中義一内閣で逓信大臣を務めた。

      また、外交面では日本、ソ連、中国との間での衝突を緩和すべく、北東アジア地域の非武装構想を提唱した。

      ◆自宅は港区白金

      住居は港区白銀に構えた。

      この敷地は、今では八芳園になっている。

      ここは家康の側近で「天下のご意見番」大久保彦左衛門の邸宅があったところで、明治の末には渋沢栄一の従兄・渋沢喜作の屋敷ともなったところでもある。

      (学23期kz)

      久原房之介