北大・樽大 対面式

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【20266月 トピックス】

岡山支部 岡山Bさんからの投稿

◆2023年7月2日偶々行った小樽、街中の商店街に人集り…
何だ?

札幌大通りと小樽商店街を会場に、隔年交互に開催されている北大·樽大の対面式であった。
(定期戦を前にお互いにエールを贈っている様だ)

一時期は絶えた伝統が2010年から復活している。(絶えていた理由は樽大に応援團が絶えた事による)
しかし、樽大応援團OBたちが開学100年に備え、前もって現役学生に声掛け、部員を募集し、そして手塩にかけて演武指導をし、復活させたものだ。

◆2011年は1911年の開学から100周年の記念祭。
各界からご来賓をお招きして開催されていた。
樽大出身の学長さんが挨拶をし、会員各位、関係各位が100年の時を祝った。年配の同窓の方も全国から集結していた。(宴会が跳ねたあと、商店街を漫ろに数名の塊が何個も動く。一つ一つの塊に、友情と言う情が充満している)
→復活した時の団長は女子学生 樽大のジャンヌ・ダルクとも呼ばれていた!

 長い髪を紐で束ね、黒紋付の羽織り、袴、歴代使い古された高下駄の歯は削られ、欠けもある。
重い重い高下駄、少し汚れた白い鼻緒ではあるが、恰も志士の風をしていた。

自分は最初に勤務した会社の同僚が樽大出身。お誘いを受けて、その100周年の祝いの宴に参加した。樽大に「樽酒」、紙コップでその樽酒の祝い酒のお裾分けを頂戴した。
蛇足:100周年祭当日は、同窓会が再建した学生寮、輝光寮の見学会、貴重本”資本論”の初版の図書館での展示など催しも多彩であった。

◆それから12年の時が経過。コロナ禍明けで、数年絶えていた対面式のもう一つの復活の日。
同じ宿に宿泊した人は50年前応援團に在席し副団長をしていた人。
応援に東京から帰樽されていた。(ご本人の話では、東京で浪人生活は送っていた、島根県の出身なもんで進学先として山大も考えていたと言うからまんざら他人でもなさそうだ(笑))

対面、演武、檄文(挑戦状)を発するのが対面式の流れだ。
それぞれの団長の挨拶には、周りの観衆の野次も入る。時には口汚い野次もあるが、団長はそんなものには微動だにしない。
 
対面式の最後に皆がそれぞれの学び舎毎に、円陣、肩と肩を組み、寮歌”都ぞ弥生”(北大)、”若人逍遥の歌”(樽大)を互いに詠う。そして、さっきまで一部では野次ってもいた関係から互いの学校に、寮歌に敬意を表し、熱く拍手をする。

赤ふんの円陣が北大、OBも含め、服を着た紳士淑女が樽大となる。
(北大は企業の人事の間では”骨太の人材”が多くいると言われている、大学祭の折は、恵迪寮の寮生を中心に今でも街中に樽神輿が出る)

岡山B

マーチャン大神宮と白黒世界の商品梱包

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年6月 トピックス】

岡山支部 岡山Bさんからの投稿



◆白黒パッケージで商品梱包された商品が一部棚に置かれ始めたとの報道がある。

今から40数年前、会社で「マーチャン大神宮」と言う、営業推進のためのソフトがあった。
量販店とかをお得意先とする部署に店舗の商品棚割を提案するものだ。(B to C の食品メーカーにおいて)

◆「マーチャン大神宮」 は マーチャンダイジングを文字って、名づけられたものだろう。そもそも マーチャンダイジングとは、 消費者の欲求・要求に適う商品を、適切な数量、適切な価格、適切なタイミング等で提供するための企業活動と言われている。
商品政策 に関して、商売繁盛を願って、「大神宮」を訪れて 祈るとでも言ったところだったのだろうか。


◆今は昔かも知れないが仕掛けとしては簡単なものだ。

スーパー等の棚数、棚の幅を事前に調べ、それに色とりどりの自社の商品の割り付けを行う。(仮想の商品棚に、自社商品のアイコンを貼り付けると棚割りが出来る)
棚割りの提案として一覧性のあるものとして、店舗責任者や売り責任者に提案するものだ。
この棚割りは商品一つ一つの商品力はもとより、棚割りによって如何にお客様に(当時はメーカー側も奢った見方をしていたのか、消費者と呼んでいた)メーカーとして一連の商品群を売り込めるかが決まる。商品を売り込むと言うプッシュでもあり、お客さんを引き込むと言うプルでもある。

◆新商品、推奨の商品の配置も大切で、レイアウトの良し悪しにより販売数量には大きな差が出る。

このシステムが無いときは、 若き営業マンはきっと閉店後、店に赴き、実際の棚に商品を並べ、店舗の人に見てもらう。

「これ違うよね」となったら、改めて商品を並べ替える。この繰り返しの中で、延々と時間を費やしていたかもしれない。
しかし、「マーチャン大神宮」があれば、事前に事務所において何案か準備。前もって店舗側に確認を願う。最終棚割に店舗に赴くときは微調整で「答え一発!」。店舗間で「答え一発!」の横展開をしてもらえれば、より効率的な営業活動が出来る。

これは商品個々に色つきのパッケージがあるから成立する世界である。

◆昨今のニュースでは、ナフサ由来の印刷用のインキの調達が難しくなったという。そこで白黒の商品パッケージ。ある意味全体量の中でほんの少しだから、物珍しさもある。そして話題性もある。
しかし、棚にある商品群が全て 白黒パッケージ商品に埋め尽くされた棚を想像してみよう。どうだろう?

もっとわかりやすい例は、大相撲の関取を応援するために準備される懸賞旗に例えるとどうだろう。お茶漬け海苔で有名な企業さんの懸賞旗は 「赤、黄、黒、緑」の横縞模様がデザインされている。 企業名など見えなくとも色のついた懸賞旗で、あのお茶漬け海苔の企業さんの懸賞旗だな!とわかる。
歌舞伎座の  「 黒色、柿色、萌葱(もえぎ)色の3色が縦に並んだ幕 」の  定式幕、これが白黒の幕になると・・・ 弔事の時に使用する幕  。。。


全体として、商品梱包も色のある世界から白黒の二色の世界へ・・・特別な場合を除いては戴けない。


◆この例でもわかる様、もう既に我々の頭の中では、色によってイメージされている豊かな世界がある。

人によっては、白黒の世界にも「赤、黄、黒、緑」や「 黒色、柿色、萌葱(もえぎ)色」がイメージできる人もいるかもしれない。しかし、頭の中では、ある意味AIの様にものすごいエネルギーとしての発熱を必要とするかもしれない。

旧型の「マーチャン大神宮」であっても、色も楽しめる商品棚であり続けてほしい。

(岡山B)

三人の財界巨人 その8 藤田伝三郎⑦

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年6月 トピックス】 

◆事業拡大

<橋梁工事>

軍靴製造の次に伝三郎が関わったのが高麗橋の橋梁工事だ。

伝三郎の本店のある大通りに掛かり、大阪城の防衛上重要な橋で、天満橋、天神橋などと並ぶ幕府管理の公儀橋になっていたところだという。

明治3(1870)年この橋を鉄鋼の橋に掛け替える橋梁工事に関わった。

<鉄道建設>

次の事業は明治4年・1871年の京都-大阪間の鉄道建設。

この鉄道建設は当時、大蔵大輔(たゆう、次官)の大隈重信と大蔵小輔(しょうゆう、次官補)伊藤博文が組み、諸藩が割拠する地域に鉄道を敷設することで古い体質を打破し、人心を統一しようとしたものとされる。

まず、①新橋-横浜間、次に②大阪-神戸間、③三番目に大阪-京都間で工事が進められ、伝三郎は三番目の京都-大阪間の工事を請け負っている。

この時の契約は、初の「本格的な総合請負方式(ゼネコン)」。

こうした鉄道工事の話が来たのは、長州出身の「鉄道の父」・井上勝が関与したとされる。

ここでも長州つながりがものをいった。

<井上馨の先収会社>

また、明治7年、井上馨は財政縮減を巡って司法卿江藤新平と対立し益田孝とともに大蔵省を辞し下野するが、その際、地租引き当て米や軍事物資など扱う商事会社である先収会社を一時期2年ほど立ち上げるが、伝三郎は井上馨から実務経験を請われて先収会社(三井物産の前身)の頭取に就任している。

◆こうした大きな話が手元に来た幸運もさることながら、伝三郎の方ではこうした話を受けてよく事業に取り組んだものだ。

もともと、萩では酒や味噌の醸造のほか、下級武士相手の金貸しをやっていただけの藤田伝三郎のはずだが。

器用なのか、要領がよいのか、運が良いのか。

親戚の醸造会社も工夫をして3年復興させており、事業の才能があったのだろう。

◆藩閥のつながり

明治新政府では藩閥のつながりがものをいう。

薩摩の五代友厚が大久保利通と通じたように、土佐の岩崎弥太郎は後藤象二郎や板垣退助との繋がりがあった。

また、藤田も長州出身者とのつながりがあった。

◆藤田一族での経営

事業が忙しくなり、伝三郎は兄弟を呼び寄せたのが明治6年のことだ。

明治6年(1873)に久原家に養子に行った伝三郎の兄・庄三郎(久原房之介の父)が萩に見切りをつけ、伝三郎を頼って単身上阪。房之介が5歳の時だ。

藤田の長男鹿太郎も庄三郎とともに上阪している。
明治8年には井上馨の縁で初代山口県令となった、江戸生まれの中野梧一も藤田組に合流。

藤田一族での同族経営が軌道に乗った。

◆事業はさらに拡大

このさき、伝三郎が藤田財閥の中で育てた人材が藤田グループの中核企業を切り盛りし、土木(大成建設)はもとより、建築施工(帝国ホテル、歌舞伎座、赤十字病院、日銀、京都帝国博物館、二高、三高)、鉱山(現DOWAホールディングス)、阪堺鉄道(南海電鉄の前身)、北浜銀行(旧三和銀行、現三菱東京UFJ銀行の前身のひとつ)、紡績(東洋紡)、宇治川電機(関西電力の前身)、大阪毎日新聞(毎日新聞の前身)のほか、大規模で難工事の児島湾干拓にも関わるようになる。

側近の育てた者には、十二分にその才能を発揮し、有能な経営者として花を咲かせる。

こうした伝三郎の人材を発掘する眼力にも恐れ入る。

(学23期kz)

北尾さんと川島さんの話

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【20266月 トピックス】

岡山支部 岡山Bさんからの投稿

◆SBIホールディングスの北尾吉孝さんのYoutubeの中で何度も名前を呼ばれる人がいる。

プレジデント社が”Youtube”の中で、SBIホールディングスの北尾さんに”リーダーシップ”について取材をしている(プレジデント社編集長・星野貴彦の北尾吉孝会長へのインタビュー動画(2026年3月24日撮影)「リーダーの器」-決断の裏側)

 
今ではSBIホールディングスは800社の会社を傘下に、そして関連する職員数は19000人といわれている。
その中で野村證券時代からの部下である川島克哉さん(鳳陽会・学33期)は何度か名前が挙がった。

◆元々野村證券でも、いつかは社長の任を担うであろうと期待されていた北尾吉孝さん。野村證券の歴代社長に嘗ていた大田淵、小田淵のうち、小田淵・田淵義久さんに可愛がられた。
証券業界を揺るがした各主要証券会社の損失補填問題。その責を取って、田淵義久さんは
社長を退任する。機をほぼ一にして、北尾吉孝さんも1995年に野村證券を退職。以前より資金調達でお付き合いがあったソフトバンクの孫正義さんの誘いに応じ、ソフトバンクに移る。
そして、孫さんから北尾さんにその話があった時、外の車で待っていたのが川島さん。”一を聞いて十を知る”の言葉の如く、北尾さんの言葉は聞かなくとも、様子から「ソフトバンクに来るようにお話がありましたね?」と北尾さんに声をかける川島さんがいたという。孔子の弟子でいくと”顔回”の存在となる。

「自分を慕って、60名くらいの人間が野村からソフトバンクに移ってきた。川島君は子供さんも小さかったが奥さんとよく相談して、僕についてきてくれた」と名前を挙げて語る北尾吉孝さん。

◆その後SBIの株を外資に売り払うようにし、 2005年にはソフトバンクから離れ、資本関係を断つこととなる。今までは金融サイドの人間であったのが、これを機に企業家として独り立ちするようになる。

その北尾吉孝さんが語る。リーダーたるもの、信・義・仁の三つの徳が兼ね備わることが必要と。

それぞれの「信・義・仁」について語られる内容を拾ってみよう。
信:社会や他者からの信頼を裏切らないこと。
義:損得勘定ではなく、社会正義や道理に照らし合わせて「正しいことを行う」という強い意志と規範。
仁:相手の立場に立って物事を考え、思いやりを持って他者に接する心

この3つの徳目を大切にし、経営、判断の「ものさし」とすることで、目先の利益を追うだけでなく、社会課題の解決や持続可能な社会の実現にも貢献できるとされる。
そして、北尾吉孝さんが番組の中で何度が口にされるのが「天意」という言葉だ。天命と相通じる言葉のようだが、 自らに与えられた使命に対しては、全身全霊で全うし、その結果は天に任せるという生き方。

◆1995年、2005年、北尾さんにとって、人生の分岐点ともなるそれぞれの選択は、天意に基づくものである。

偉大な経営者の最後の大きな課題は次に誰にバトンを渡すかという問題。


我々年代でみても、野村證券に就職されたのは、一期上ヨット部主将、そして、我々同期は陸上部中距離ランナー。そして、33期の川島さん。

何れにしてもタフネス、そして優秀な人材が挙って就職していることは間違いなさそうだ。

◆最後に、北尾吉孝さん流の仕事観、令和の時代となると少し違和感を覚える方もいるかもしれない。「我々が人間として成長していくからには、働くという行為なくしてはありえない」
何のために働くのか?誰のために働くのか?「自分の為なくして、他には何もない」と言い切る。そして、パワハラだとかいう言葉はあまり好まれないようだ。「愛情をもって、部下を叱る!これは、人の成長を願ってのことであって、叱る場合はその理由もしっかり説明をする。そして、その理由を理解し、すみませんと詫びた部下には翌日からはその叱ったことは不問に付す」という潔さだ。

川島克哉さんは、現在株式会社SBI新生銀行代表取締役社長の重責にある。

いま高市総理が「働いて働いて働いて働いて、働いてまいります」に通ずるか?
何処か昭和の頑張る親爺感がそこにはあって、まだまだ量的・質的成長の追い求めていた元気な日本がそこにはありそうだ。

(岡山B)

随筆 横目で眺めた経済学 経済政策の効果 ③

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年6月 トピックス】

◆政策効果の検証

これまで重要な社会問題に対して各種の対策が講じられてきた。

こうした施策は、予算をいくら使ってどの程度の効果が有ったのか検証されるべきだ。

しかし、これが難しい。

例えば少子化問題。

これまでに、○○プラン ○○戦略 ○○ビジョンなど首相が変わるたびに新たな対策が考案されてきた。

こうした新たな対策は過去の効果の有無につき、しっかりした検証を経たうえで戦略的に実施されているのだろうか。

検証作業がないと、判断がつかず、“wise spending” どころか無駄な支出、極端な言い方では「カネをムダに捨てる」といようなことになりかねない。

◆政策効果の測定

客観的な政策効果の検討はどのようにすればできるのか。

・国会での決算委員会での討議はどうか。

国会での質疑応答は答弁者が財政当局であり、経済対策が無駄な支出であったとは立場上言わないだろう。

・会計検査院の調査はどうか。

検査院の指摘事項は予算の使い残しであったり、また予算が違うところに使われていたというような指摘が多い。

それはそれで、重要なことではあるが、予算がきっちりその目的に使われていたとして、その政策効果はどうであったか、どの程度効いたかということについては触れられていない。

打った政策が果たして効果が有ったのか、どの程度効果が有ったのか客観的、定量的に測定しておかないと、次の施策が効果的に打てないことにもなりかねない。

◆仮説検定作業

なお、政策が講じられた結果、その効果が有ったか否かについて、「仮説の有意差検定」という作業を行う手がないわけではない。

検定はA群とB群、例えば出産支援プログラムを実施したグループと、実施しなかったグループのデータを比較する。

二つのグループで、政策の有効性の証明をするが、その際、背理法による手法を用いるのがミソだ。

すなわち、政策が有効であったことを証明したい場合、「政策が有効ではなかった(両グループに差がない)」という仮説(帰無仮説)を立て、その下で、ナマのデータが極端な確率(P値)を取ったとする。

その確率値(P値)が有意水準以下、一般的には5%以下になれば、帰無仮説を棄却し、反対の仮説(政策が有効であるという仮説、すなわち対立仮説)が正しいことを証明する方法だ。

そうすることで、95%のデータには差がある=因果関係があることになると考える。

しかし、こうした検定作業も、問題なしとは言えない。

取り上げるデータの期間の問題、この間イレギュラーな出来事があったか否か、A群とB群のデータが、原因と結果、すなわち因果関係にあるのか否か、注意深く見ないと誤った判断につながりかねず、神経を使うし、結構使いにくい。

◆独立機関

海外にはこうした各種検定を含め、政策の検証作業を実施し客観的な検証を行う独立的な専門機関がある。

特に米国では1960年代からEBPM (Evidence-based Policy Making)、いわゆるデータに基づいた政策に沿って各種政策が試みられている。その政策検証を担うスタッフは経済学の知識とデータ処理能力を持った経済学博士集団だ。

例えば米国には議会予算局(CBO)がある。議会予算局は議会に対して、予算に関する基本データや政策に関する情報を提供するとともに、予算に関する調査を行う党派を超えた客観的な独立機関だ。

日本でもデータに基づいた政策の重要性が叫ばれるようになったが、地に足がついていない感がある。

そうした作業を担うスタッフを見てみると、日本の役所では理科系の技官を除き、政策を扱うセクションには博士はおろか、修士を持ったスタッフもほとんどいない。また、政府としても各省庁から独立した専門集団を育成するような試みもなされていない。

このため、わが国は政策評価後進国といえ、こうした専門機関の早期設置が望まれる。

◆高い独立性

ここで重要なことは、こうした機関に高い独立性を持たせ、また出てきた結果についてはデータも含め、国民のもとに晒すべきだ。そうしないと、検定に恣意性があったか否か定かにはならないからだ。

こうした検証結果は公共物であるべきだからだ。

また、こうした機関が内閣府に設置されたとしても、調査結果が内閣府にコントロールされるようなことがあってはならない。

また、仮に○○省や△△庁が設置したとしても、その省庁の監督を受けるようなことがあってはならない。

こうした注文は言うは易いが、かなり難しい注文だ。

しかし、そうしないと、真に効果的な政策が打てず、いたずらに効果が不明な施策が累積的に講じられることにより、さらに財政赤字が積み上がるあがることにもなりかねない。

(学23期kz)

決算委員会

日曜日の早起き、お愉しみ「演芸図鑑」

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

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◆日曜日の早起きを促してくれていた「演芸図鑑」と言う番組が、今は「YOSE NI YOSE」(寄席に寄せ)と言う番組に衣替えしている。

曾ての「演芸図鑑」は東西の落語家の師匠が一人で司会をし、演芸(漫才、コント、色物のいずれか、落語の一席は必須)を二席、そして最後に各界の第一人者との対談と言う構成。
いろいろ学ぶ事が出来るオーラルストーリーがそこにはあった。大御所どうしのやり取には”味”がある。
一方、「YOSE IN YOSE」は東西の若手女流落語家が2人のやり取りをしながら、演芸二席を普通に進める。何となく、軽やかで軽妙。
番組名にも、ローマ字で準備し、新しい試みだ。

◆6月14日放映のYOSEは、三席。
所謂色物と言われる「紙切り」と若手落語家の新作落語、それに加えて、その新作落語をオペラ仕込みで別の歌手がソロでも熱唱。
最後の三席目は演芸として、新たなコラボが誕生(プッチーニの曲に落語の内容を詞として織り込む)

一席目の紙切りの演題は客席の声を題材に黒い紙に鋏を入れる。
今日のお題は”お茶っ!って母に声かけるお父さん”また、”テレビの前で横になっているお父さん”とくる。
いやいや、テレビを観ている側で、実はテレビから我が家を見られている様に錯覚するすら感じる御仁も多いのでは?(笑)

普通”紙切り”の演芸は、演者は紙切りのお題についてお話をしながら、また座布団の上で体を左右前後に恰も円を描きながら、鋏を進めていく。
しかし、これが話をせず、体を動かさないと…(笑)

人の手の平を上向きに動かすと”陽気”になり、下向きにすると”陰気”になると言う。
例えば、喧嘩を諌める時は”まぁまぁ…”と言って陰の手、下向きがマストだ。
ここを誤って陽の手、上向きに手を動かすと喧嘩に油を注ぎ、火を炙る事になる。
また、”恨めしや〜”と言って、ちょっとジメッとした感で、幽霊が出てくる場面で陽気な上の手で出てくる幽…おちゃらけた幽霊になってしまう。
やはり、目で入ってくる情報と頭の中で映像とが一致しないと頭は混乱する。
先の”微動だに動きのない紙切りの芸”になると頭は???(笑) 新たな笑いが生まれる。

◆レトロな演芸場で繰り広ろげられる新たな笑い♪
やはり、新たな取組みは大層力がいるが、何につけても必要だ。

芸が披露されるレトロな舞台の上に掲げられた額縁には、父の日が近い事もあって「御父上様」の四文字が掲げられていた。これも今の時代となっては、新たな取組みさえ、感じる。(笑)

(岡山B)

「千鍛万錬」のTシャツ

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

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◆アラカン(60前後)になってから、山に登りだした。朝の散歩は体力維持の為には不可欠だ。

朝歩いていると近所にある消防署本署で早朝ランニングをしている署員を見かける。
署員たちの軽やかなランニングは羨ましい限りだ。そして、その走りを眺めているとあることに気付いた。
本署の建物の周りをぐるぐる周回するのは同じ。しかし、建物の直ぐ近くの周りをまわるグループと敷地目いっぱいの外周を回るグループがいる。
一周の距離にすると同じ周回回数でもざっくりでも1.3倍近く長い距離を走っているグループがあった。

「鍛錬」・・・

ある学生のTシャツ 背中に一つの言葉が刻まれていました。 『千鍛万錬』と…
鍛錬が鍛錬で終わる様なら、それは訓練を強化したもの…。しかし、『千鍛万錬』とくると本物になる。
「千鍛万錬(せんたんばんれん)」は、宮本武蔵の兵法書『五輪書』に記されたものを言葉の起源とする。
「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす」という言葉に由来する四字熟語。一つの技や道を究めるために、果てしない時間をかけて地道な努力と鍛錬を積み重ねることを意味す。

外周を回るグループ を引っ張って先頭を走っている人がインターバルとして休憩時間。その時に質問した。
「実は自分は剣道をやってはいたのですが、走るのはそんなに得意としていない。しかし、オレンジの服・・・(レスキュー班)で仕事をすることになってからは、自分の体力が仕事の源泉になっていることに気づいた。だから、自ら望んで外周走りをしています。そして、レスキューのチームを組んでいる皆も自然と外回りをするようになりました」と笑顔で語った。

ランニングをしていた署員のシャツは内回り組も外回り組も同じ紺色の消防署のTシャツである。しかし、外回りの組の背中には「 『千鍛万錬』  」の言葉が浮かんで見えるような気がする。
 
何かにつけて、自分に、自己に厳しくする事は難しい。これは他の為ならず、自の為なり。


◆アラカンになると友人にも周りの人の中にも、病に会い、その治療の一環として厳しいリハビリを病院側から求められることがある。
今病院でのリハビリは、術後だからと言って自分を甘やかすことを許していない病院もある。点滴の器具を持ちながら歩行訓練。ベットで出来る負荷が軽いプチ筋トレ等々。

計画的な、そして早期のリハビリがその後の回復のスピード、回復の質に大きく影響する様だ。自分に課された課題!  互いに  それに汗し、傾注し、力を注いでみよう、『千鍛万錬』

(岡山B)

三人の財界巨人 その7 藤田伝三郎⑥

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

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◆長州つながり

大阪では同郷の大賀大眉(たいび、号は幾助)を頼り、その下で製靴業に従事した。

大賀とは幕末に、ともに攘夷運動で行動を共にした仲だった。

その当時、軍は輸入した革靴を兵士に支給していたが、舶来品は高い。このため、軍は国産への切り替えを望んでいた。

時の(1872年・明治5年)大阪鎮台の司令官は四条隆謌(たかうた)陸軍少将。

幕末期、少将は攘夷派公家で、八月十八日の政変で「七卿落ち」し長州へ移った一人。このため長州人に親しみを持っていたことが幸いした。

また大賀は五稜郭の戦いで一緒に戦った兵部大丞(だいじょう・兵部省軍務局長)山田顕義(あきよし)が少将として兵部省大阪陸軍所に赴任していたことから、藤田伝三郎を引き合わせる。

山田は元長州藩士(萩出身)、14才で松下村塾に入り、軍事の才あり。戊辰戦争では討伐軍の指揮をとり、西郷隆盛から「小ナポレオン」と称された「大村益次郎の秘蔵っ子」だ。

伝三郎はその山田から、西洋風軍靴の製作依頼を受ける。これが明治2(1869)年のことだ。

◆なぜに軍の拠点が大阪に

もともと大村益次郎は薩摩士族の動きを警戒しており、陸軍の本拠は東京ではなく、九州に睨みが利く大阪にすべきとし、大阪に陸軍士官学校も建てる計画を立てていたが計画半ばで暗殺されたという経緯がある。山田顕義は兵部省の中堅幹部として、九州方面の守りの要所・大阪に身を置いていたのだ。

◆軍靴製造

それまでの兵士の足元はなんと草鞋履き。

しかし耐久性のある頑健な舶来品の軍靴は値段が高い。

伝三郎は軍靴の試作に取り組み、舶来品と遜色ないものが半値ほどで作ることに成功する。

大阪での軍とのつながりを機に、身を寄せていた大賀幾助から事業を継承し製靴業に乗り出し、

明治2(1869)年、藤田伝三郎商社を設立した。

ここでは靴の製造のほか、軍備品の調達を行った。

また、靴の製造に当たっては、和歌山西洋沓(くつ)伝習所の製靴指導教官だったドイツ人・ハイトケンペルを明治9(1876)年に雇い入れ、藤田製革所を設立、本格的な軍靴の製造に取り掛かる。

これが現在のリーガルコーポレーションの前身だという。

明治の初めは政情が不安定で、佐賀の乱や神風連の乱があり、軍備品はよく捌けたという。

(学23期kz)

山田顕義 
陸軍中将。司法卿、司法大臣に就任。民法・刑法などの法整備にも貢献し。日本大学の学祖。

注射における 蜂の一刺し

 山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

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嘗て「蜂の一刺し」と言う言葉が時の流行語となったことがある。(1981年)
自分には大きな損害が及ぶかもしれないが自身の身を削りながらも強大な権力や組織に対して
強烈な一撃を加える様子を例えたもので、時の総理の地位をも揺るがした。

蜂ほど衝撃はなくとも、「蚊の一刺し」はなかなか厄介だ。

随筆『枕草子』の中「にくきもの」・・・
「ねぶたしと思ひて臥したるに、蚊の細声にわびしげに名のりて、顔のほどに飛びありく。羽

風さへ、その身のほどにあるこそ、いとにくけれ」

蚊の針を刺された時はわからないが、あとになって痒くなり、刺されたことに気付く。そして

赤く腫れると言う厄介なやつだ。

注射する際の注射針の挿入が「蚊の一刺し」になると有り難いものになるから不思議だ。

チクリと一刺し! 献血の回数を重ねていくとその施業する看護師さんの腕の良し悪しも分かる

男となる。そう、コーヒーの味の違いが分かる大人の男と同様、注射針の針先の動きが分かる男

となるのだ。

上手い看護師さんは構えから違っていることに気付いた。ある看護師さんのスタイルは、肩幅よ

り少し広めに両足を広げて、腰を低く構える。腕と針先との挿入するときの絶妙な角度、タイミ

ングを探っているのであろうか? 

看護師さんがこのタイミングと思ったと思われる瞬間、先ず針先が腕に、そして血管まで一気に

針先まで届く。

勿論、肌に異物が挿入されるので、神経はチクリとする。しかし、痛くないのだ。

注射針における”蚊の一刺し”! 池波正太郎の必殺仕事人に出てくる「梅安先生」版の看護師だ。

あまり上手くない看護師さんだと先ず針先が腕に、そして、それから針先が血管を探る、手繰る

ように動く。そうはしてないとしてもそうしていると感じるくらい痛い。

先の看護師さんの施業後の止血用のシールにほとんど出血の後がない。しかし、後者の看護師

さんの止血用のシールには小さな「血の丸」が。。。

”蝶のように舞って、蚊の様に刺す”、そんな看護師さんには身も心も、腕も採血も、全身全霊で

預けたい。

◆一方、その注射針自身も実は長足の進歩を遂げている。
採血用の針とは異なるが 約60万人の糖尿病患者がインスリンを自分で注射する治療をしている

その注射針の話。

ある医療機器メーカーは患者さんの痛みを和らげたいという思いで「痛くない注射針」を発案。

そもそも針を刺して「痛くない」針と言った発想から凄い。

その針開発に当たっては名だたる企業さんも含め100社以上に製作を依頼したが断られ続ける。

 携帯電話の小型電池ケースなども生産する会社、また金属の絞り加工で卓越した技術を持つ精密

深絞り加工の岡野工業に白羽の矢がたつ、そして、開発に尽力。

針の先端が蚊の口吻とほぼ同じ、外径200 μm、内径80 μm。そうなると蚊に刺されたと同様、痛く

ないそうだ。

理論的には不可能と言われた加工をステンレス素材のプレス加工で実現させた。

自分自身の拙いメーカー勤務の経験から言うと微細な金型加工が出来、そしてその型を準備する。

超薄くプレスしたステンレス素材を巻き、絞り込んで繊細な針に仕上げ、その加工品にはバリや歪

みのないプレス加工が出来る技術の高さを予想させる。

◆それを完成させたのは、東京東向島にある先の岡野工業という所謂町工場だ。

 先端わずか 外径200 μm と従来品より2割も細い微細加工で、「蚊に刺された程度の痛み」しか

感じない注射針。

開発までの期間は5年間というから将に根気のいる”飽きない商い”をして、初めて成り立つ商売だ。

当時岡野工業の岡野雅行社長は語っている。「意気に感じて作ったものが選ばれ最高」と。重い責任を背負って、又背負わされて押しつぶされるようになることがあるかも知れない。しかし、このやりがいのある仕事、そしてその完成品を 「意気に感じて作ったものが選ばれ最高」と語れる職人は職人冥利に尽きる。

しかし、あることも契機になったのか、今は岡野工業は廃業されている。日本のものづくりの盛衰が兎角言われる。世界に冠たる技術は大手にも 勿論多くあるのだろう。
その裾野を支える町工場、零細企業にもその意気が、その技術が確かに存在している日本である。
 「誰もできないことをやる。その挑戦の先に成功がある」とも語っている。

(岡山B)

塩塚さんの思い出

山口在住 香原詩彦氏(有限会社ラグタイム代表取締役、1971年山大経済入学)からの投稿

好きな音楽を仕事にした山口県で数少ないプロモーターで、2023年6月30日、エフエム山口 ラジオ放送「山口大学大人ウォーク~今宵は山大」に出演した。

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年6月 トピックス】

 1971年に北九州から山口大学に入った頃、教養部一番教室の屋上ベランダで黒いヘルメットを被り、アジっている男が居た。その後長いお付き合いになるとは思ってもいなかった「塩塚保」さん(注)であった。彼と知り合ったのはその翌年、彼が結成した「アップルハウス」というグループが『唄の市』というコンサートを、完成したばかりの山口市民会館で開催し超満員にした頃からと記憶する。(『唄の市』とは泉谷しげる、ケメ、古井戸etc.が参加するエレックレコードの企画イベント)

(注)塩塚保氏:本年3月まで鳳陽会東京支部長

その翌年アップルハウスは経済講堂にて『日本版ヘアー』というミュージカルを企画。余程の人材不足なのか僕も誘われるままに出演、生の演奏を交えたお芝居で勿論主演は塩塚さん。このイベントは後日「平凡パンチ」の1ページまるまる使って『山口にて「日本版ヘアー」上演!』という全国ニュースにもなってしまった。

この頃は「黒テント」や「曲馬館」等アングラ演劇の波も山口に押し寄せる時代であり山口大学演劇部も随分と影響を受け、活発な活動を実践していた。そして塩塚さんも僕も演劇部の連中と仲良くなっていった。演劇部の有志が1977年に『飛行舎』というライブ喫茶を開店し僕も開店準備から少し手伝った記憶があり、オープニングのライブとして「南正人」を招聘して一層深い付き合いとなったのだが、実はこの店の開店資金は塩塚さんが出資したという事実は3年ほど前に初めて本人から聞いた。

*3年前、アーケードを一緒に歩いていて、そんな話や「鳳陽寮」の事、バイト先の「モリイケ」(文房具)「山陰堂」(外郎)での事なども聞かされた。

*「僕は学生起業家の先駆けだよ!」と笑っていたのが印象的だった。

その後塩塚氏とは音信不通であったが6~7年前頃から学部の特別授業や「鳳陽会東京支部」の支部長として山口に来た時は昔の演劇仲間、学生運動仲間らと共に一夜の再会を喜んでいた。ここ5年ほど、僕が(学生時代に暮した)竪小路の町おこしイベントを企画し塩塚さんもサイドから支援して頂いていた。毎年資金面で苦労するこのイベントであるが(今年が最後と思いつつ)開催を決意し、塩塚さんを想い浮かべようと思う。

@「たてこうじ音楽祭〜まちなみアート」〜塩塚保氏を偲んで〜

@2026年11月21日〜22日(築山跡史跡公園と竪小路界隈にて)

宜しければご参加ください!

(翌23日は八坂神社をスタートとした、伝統ある『天神祭』があります。)

学生時代の塩塚保さん(1970年山大経済入学)