維新後の毛利・高輪邸

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 11月トピックス】

◆長州藩邸、幕末に没収、そして維新後は

長州藩は江戸に上屋敷(日比谷公園)、中屋敷(麻布龍土町)、下屋敷(現ミッドタウン)のほか街並み屋敷や抱え屋敷を持っていた。

このほか支藩の屋敷もあった。

しかし、第一次長州征伐の後の元治元年(1864年)に江戸や京都の拝領屋敷はすべて没収されている。

そして維新。

新政府には長州藩の人材が多く配置されていた。

毛利家では長州藩最後の大名となった第14代藩主・毛利元徳(後に公爵)公が新政府と掛け合って姫路藩酒井家上屋敷跡の大手町の地を手にする。

しかしその後、近くに官庁街が整備されることに伴い、立ち退きを余儀なくされる。

明治政府との折衝で、高輪の筑後久留米藩有馬家の土地を手に入れることになったという。

港区高輪。品川駅西側の一帯で、海がよく見下ろせる景勝地だ。

ここで毛利元徳公は洋館の私邸を建てるが、この間の経緯については洋館建設を請け負った鹿島建設のホームページに掲載されている。

それによれば、毛利公は洋館の邸宅を指向。貴族の邸宅が洋風になるのは欧化政策がとられた明治13年(1880年)以降であり、そうした中鹿鳴館が竣工したのが明治16年(1883年)のこと。明治5年の時点では個人の邸宅が洋館建てというのは例がなく、毛利邸洋館が日本で一番古い日本人私邸の洋館ではないかとされる。ここでは行啓のための建物、あるいは明治政府の外国の賓客をもてなす迎賓館的な使われ方がなされたという。

また、毛利公は私邸建設にあたり、元長州藩士の井上勝に工事監督を依頼した。井上勝といえば、長州ファイブの一人で日本における「鉄道の父」だ。

明治5年(1872年)に新橋―横浜間に鉄道が開通するが、ちょうどそのころ毛利邸の工事が始まり、井上は多忙を極めたようだ。

◆城南五山

城南五山という高級住宅地がある。

当時は高台に建っておりJR品川駅のすぐ東に広がる東京湾が見下ろせる景勝地だった。

いずれも江戸時代から大名屋敷や大名の末裔の私邸があったところで高級住宅街になっている。

品川駅高輪口の前を走る第一京浜の向かい側は八ツ山。大崎寄りに御殿山。JR五反田駅の東に島津山(旧島津公爵邸、現清泉女子大)、五反田駅の北に池田山(備前岡山藩池田家の下屋敷跡)、JR目黒駅に近づくと花房山(外交官花房子爵別邸)がある。

◆八ツ山

現在は高輪といった方が分かりやすい。名称の由来は多説あるが、そのひとつに八人の諸侯の屋敷があったというものがある。

江戸時代には目黒川の洪水復旧、海防のための台場づくり、品川沖埋め立てなどのために山が切り崩されほとんど平地になっている。

明治期には伊藤博文の邸宅があったが、明治22年に三菱の2代目岩崎弥之助が土地を購入、洋館を建てた。今では開東閣という名称で呼ばれており、三菱グループの施設となっている。

また、日立金属が土地の一部を譲り受け、和彊館もあったところだ。

長州歴史ウォークでも訪ねるが、ここには高山稲荷神社が建っていた。品川駅から近く、国道を挟んだ向かい側に位置。この神社には毛利家からかなりの土地の寄進がされたという。

なお、この神社は2023年7月に閉鎖。国道か側から中に入ったところに移築されることになっている。

◆御殿山

桜の名所としても知られていた。徳川家康が建立した「品川御殿」があったことに因む。また江戸時代には歴代将軍が鷹狩の際の休憩所として利用されたようだ。

昭和期には1946年に日本橋で創業したソニーは翌年この地に移転しており、ここがソニー創業の地とされ、本社があった品川と五反田を結ぶ都道317号線には「ソニー通り」という名が付いている。その後2007年にソニー本社は港区に港南に移転した。

(学23期kz)

豹(ジャガー)の眼

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 11月トピックス】

1959~1960年にTBSで放映されたテレビ映画の「豹(ジャガー)の眼」をTSUTAYAから借りて来て観たことがあります。
小学生の3~4年生の頃にテレビに釘付けになって毎週、固唾を飲んで観ました。
大瀬康一が主演の「月光仮面」「豹(ジャガー)の眼」「隠密剣士」や波島進や千葉真一主演の「七色仮面」、勝木敏之主演の「快傑ハリマオ」は圧巻でした。

鳳陽会メンバーの方の中でも、私以上の年齢の方でないとご覧になられていないのであのワクワク感は理解出来ないと思います。
一回り下の横浜の友人はこれらの番組をTVK(テレビ神奈川)の再放送で観たと言っています。

そしてこれらの作品の大半は広告会社の宣弘社がプロダクションとして関わっています。
サラリーマン時代に仕事で宣弘社とはお付き合いがありました。
(展示会やフェアの際のブースの会場設営、屋外広告のネオン看板等)
会長をされていた小林利雄さん(1921年~2007年、享年86歳)の名前がプロデューサーとして出てきます。
月光仮面の撮影では制作費が足りないので、苦肉の策で中学生の息子さん(後の社長)を新聞少年として起用されたとか。
宣弘社は作詞家の阿久悠氏が新卒として7年間勤務していた会社でもあります。

♪「豹(ジャガー)の眼」歌詞♪

正義のために決然立って
もえる血潮をたぎらせる
悪をこらしめひとすじに
苦難の道を恐れない
撃つぞ豹 撃つぞ豹
出て来い豹(ジャガー)

追記)
小学3年生の頃に漸く我が家にもコロムビア製の白黒テレビが入りました。
それ迄は好きな大相撲中継は近所のお金持ちの家で見させて貰っていました。
当時、テレビを観ない時は画面をスダレ型の緞帳のような布で上から垂れ下げて被っていました。
(学22期 Y・Y)

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伊藤博文公の墓前祭に参加して

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 11月トピックス】

ハルビンで暗殺された命日にあたる10月26日(木)、墓前祭が行なわれた。

墓は西大井にある。

墓前祭の主催は伊藤公追頌(ついしょう)会(会長・林芳正議員)、防長倶楽部。

伊藤公の出生地である山口・光市束荷の束荷神社から森重宮司を祭主に迎えて祭礼が執り行われ、伊藤公の遺徳を偲んだ。

日本国憲法の制定、内閣制度設立の功績から初代内閣総理大臣になった。「初代」というのが光っている。

初代内閣総理大臣を選任するにあたり、三条実美公が最有力視されていたという。

誰を選任するか。

同郷の親友・井上馨が決め手となるひと言を発する。

「総理は英語が読めなくではならない」

これで伊藤公の「初代」が決まる契機となった。

井上馨とは同じ松下村塾の仲間で、公使館焼き討ち事件でも行動を共にし、共にロンドンで学び、馬関戦争勃発の時には二人で緊急帰国した仲だった。

◆伊藤公の語学力

領収ファイブの一人としてロンドンの大学で学んだ際、他の日本人と異なり外国人の前で堂々と英語を話し、その姿が外国人の間でも評判となったという。

また、伊藤を出世に導いた事件がある。「神戸三宮備前兵事件」。明治新政府に西宮の警備を命じられた備前兵が、兵の隊列を横切った外国の水兵に発砲した事件だ。この時、両国の間に入って交渉をまとめたのが伊藤公であり、これが評価され伊藤公の明治政府における後々の途が開かれる端緒になったという。

墓前祭には伊藤公の血筋を引くご家族も参列され、94歳の最長老の方は伊藤公に顔かたちがよく似ておられた。

また、墓前の奉献酒は東洋美人、獺祭、それに貴、などであった。

(学23期kz)

皇太子殿下、雅子妃の思い出

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 11月トピックス】

日本ボーイスカウト連盟に会社として協賛していて1997年でしたが、帝国ホテルでの75周年記念パーティに広告部長の名代として休日を返上し、来賓として列席したことがありました。

皇太子殿下、雅子さまがご臨席されるとは事前には知らされておらず、パーティ会場に到着して初めて知り吃驚しました。
会社も事前に判っていれば私のようなペイペイには参加させなかったでしょう。
当時、社長、会長を歴任されたS相談役が理事長でした。
粗相があっては断じて許されません。

ボーイスカウトがアーチを作ってお迎えしましたが、皇太子殿下、雅子さまとノーガードで90㎝の至近距離で拝顔することが出来、大感動でした。
勿論、写真は直前にNGを言い渡されましたが貴重な体験でした。

それから一週間は会社に出社しても、園遊会に招待されたような気分になり、自分が偉くなったような錯覚に陥り、上司や同僚がしもじもの者に見え、ぼうーっとしていましたが、一週間が経つと元の木阿弥で、ただの人になり、漸く我に返りました。(笑)
(学22期 Y・Y)

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ペリー来航と長州藩 その3 伊藤利助(博文)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 11月トピックス】

ペリー来航に伴い相州警備を任された長州藩。若き伊藤利助は相州・上宮田での陣屋勤めに就く。

しかし、相州・上宮田の陣屋勤めは1年で交代する。伊藤が配属された指揮官来原良蔵は伊藤が長州に帰る際、伊藤に来原の昵懇な友人・吉田松陰を訪ねるよう伝えた。

長州へ戻った利助はさっそく松下村塾の松陰を訪ねる。

松陰は利助を「才劣り、学幼き」と評しているが、続けて「質直にして華なし。僕、頗(すこぶ)るこれを愛す」としている。

松陰が久坂玄瑞に宛てた手紙では「中々周旋家になりそうな」ともしている。

周旋家。間に入って物事を取りまとめる人物。政治家にとって欠かせない才の一つだ。大物政治家になる素質があったのだろう。

安政5年(1858年)18歳の時、松下村塾の縁で三歳年上の山縣らと京都で情報収集にあたる「飛耳長目(ひじちょうもく)」として活躍している。これは行動の人松陰らしく、行動するには正確な情報が必要だとして松陰はこれを重視していたようだ。

またその年には、洋式兵術を学ぶため、長崎海軍伝習所に来原の手付(従者)として同行しており、来原の死後も来原の遺志を継いで活動する。

その翌年、安政6年には来原の義理の兄・桂小五郎の手付として江戸へ上る。

初めての江戸だ。見るもの聞くものが全て新鮮だったという。

ペリーが来航して5年ほど。大老・井伊直弼は開国論の下、安政5年(1858年)、米国(ハリス)と日米修好通商条約を締結したのを始め、オランダ、ロシア、イギリス、フランスなど4か国と修好通商条約(安政の5か国条約)を結ぶ。

世間では開国論と攘夷論が拮抗していたが、長州では攘夷運動が活発化していたこともあり、文久2年(1862年)には品川御殿山の英国公使館焼き討ち事件を起こす。

しかし、攘夷を実行しても所詮外国勢には敵わず、アヘン戦争の末路の二の舞ともなりかねない。むしろ外国から学ばなければ日本が立ち行かないとの機運が生まれ、長州ファイブの英国ロンドン行きにつながった。

◆恩人・来原良蔵

来原によって伊藤公が世に出る途が一気に開かれた。

来原によって、伊藤は吉田松陰の門を叩き、松下村塾で高杉晋作、山縣有朋らと出会う。また伊藤は江戸で来原の義理の兄・桂小五郎の従者として動き、「周旋家」としての器を広げ、磨いていった。

伊藤公が名をなした源は来原だった。

伊藤公は来原良蔵のことを「人生に渡り最大の恩人」としている。

◆来原良蔵の墓

来原は不幸にして34歳にして自害に至る。

来原の墓は山口とは別に「吉田松陰先生他烈士墓」として世田谷・松陰神社にも置かれている。

(学23期kz)

山大・花の経済学部 その8作田莊一

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 11月トピックス】

河上肇(旧制山口高等学校—東京帝国大学)と同じ経歴を辿った河上の一年後輩に作田莊一(しょういち)がいる。明治11年(1878年)12月生まれ、防府・三田尻出身。

家が貧しかったため作田家の養子に入ったことで上級学校への進学が可能となった。

◆河上との交流

学生時代は旧制山校の前身である山口高等中学校の寮で河上と1年間同室だったという。二人は濃密な時間を過ごしたのだろう。

作田は河上を追うように東京帝国大学に進学する。

東大卒業後、明治45年(1912年)に山口高商の教授に就任した。しばらく山口高商で教授職を務めていたが、大正10年(1921年)には既に京都帝国大学の教授に就任していた河上の推薦で京都帝国大の助教授を兼務することになる。京大でも研究室が隣同士で交流が密であったようだ。

作田は京大兼務となった2年後、京大が本務となり、昭和5年(1930年)京大教授に就任する。河上が京大教授になって15年後の京大教授就任だったが、もともと相当な底力があることが認められ、翌昭和6年には経済学部長を務めている。

作田は思想的には河上とは違っていた。後に文部省が国体に関する正統的な解説書作成のために立ちあげた「国体の本義」編集委員を務めたように、マルクス主義に傾いていった河上とは思想的には真逆の立場だった。

作田は昭和13年(1938年)に開学した満州国務院直轄の国立大学である満州建国大学の副総長となっている。満州建国大学の校長は国務大臣が兼務することになっており、実質的な総長は副総長の作田が務めていた。事実上の校長だ。

建国大学では「五族協和」のスローガンのもと、日本、中国、朝鮮、モンゴル、ロシアから、極めて優秀な若人が集い、寄宿舎で学んだ。

建国大学が開学した昭和13年とは日中戦争が始まっていた時にあたる。盧溝橋事件が起きたのが開学の前年にあたる1937年だ。時は日中戦争に突入していた。こうした中、ある時憲兵隊から反日の嫌疑を掛けられ中国人を中心とした多くの学生が憲兵に引っ張られるという事件が起きた。

人情に厚い作田は学生の釈放を求めて憲兵隊の庁舎に何度も足を運び、熱心に掛け合うが、学生の釈放は叶わなかった。

これを苦に作田は副総長を辞任している。

◆柴田との交流

作田はこのシリーズで取り上げた世界的な経済学者・柴田敬とも山口高商つながりで関係が深い。

作田が京大助教授を兼務した年に、柴田が山口高商に入学している。柴田は山口高商から京大に進学し、京大卒業後の身の振り方についても作田に相談していた模様だ。

結局柴田は京大に残り、同大学院を経て講師、助教授と階段を登っていき、昭和14年(1939年)に教授に就任する。

柴田は教授就任になった翌年に満州に出張し、作田が実質的な校長を務めて3年目の満州建国大学で講演している。

京都帝国大学経済学会は作田の還暦を祝す書籍「作田博士還暦記念論文集」(昭和14年)を刊行しており、柴田敬も「資本主義と支那事變」というタイトルで執筆陣に名を連ねている。

河上肇と作田莊一、それに柴田敬。

この三人を山口高商の三碩学と呼ぶ人もいる。

(学23期kz)

作田莊一

「君の名は」(1953年松竹映画)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 11月トピックス】

2015-10-30mixi日記投稿分の引用です。

レンタルDVDを借りて観ました。
1952年からNHKで放送されたラジオドラマの映画化されたもので、3部作からなっています。
ラジオドラマの放送が始まると、女湯がカラになるという伝説を生んだメロドラマです。
美男の佐田啓二、美し過ぎる岸惠子。
佐田啓二は中井貴一、中井貴惠兄妹のお父様で若くして交通事故で亡くなっています。
(享年37歳)

誰が悪いのでもなくこれは運命で悲恋なのであろう。
還暦過ぎてではなく、もっと若い時に見たかったなあ。
空襲下の数寄屋橋でそんな出逢いがあったとは…。
岸惠子が首に巻いた真知子巻が流行ったなんて知りませんでした。
小学生の頃、クラスに「真知子」っていたなあ。お母さんが、「君の名は」のファンだったのだろう。

原作 菊田一夫
監督 大庭秀雄
音楽 古関裕而

キャスト
岸惠子
佐田啓二
淡島千景
川喜多雄二
月丘夢路
野添ひとみ
笠智衆
北原三枝

(学22期 Y・Y)

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インターネットが連れてきたもの

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 10月トピックス】

インターネットで大変便利になった最近の世の中。

しかし、知らず知らずに、恐ろしいことにもなってきたことに留意する必要がある。

特にインターネットの検索機能、これが問題だ。

これを巡っては以下のような現象が生ずることが判ってきた。

解説記事をみると、インターンネット特有の厄介な事象が生じているとの説明が載っている。

【エコーチェンバー現象】

ネットの掲示板やSNSなど自分と似た価値観を持つ者集まる閉鎖的な空間で同種のコミュニケーションが山彦のように繰り返され、自分の意見が増幅・強化されること。

【フィルターバブル】

過去のユーザー情報に基づき各人に最適化されたコンテンツが表示されることで、知らず知らずのうちに、似たような情報や価値観に囲まれてしまい、他の価値観から隔絶された状況になること。

このほかにも個人の一般的な心理的な性癖として、「確証バイアス」なるものもある。

【確証バイアス】

自分の願望や信念を裏付ける情報を重視・選択し、これに反する情報を軽視・排除する心的傾向。

なるほど、知らず知らずのうちに恐ろしいことになることがわかる。

これらは個人の意見、好み、そして歪みまでも肯定し、そうした方向性を是正するどころか、個人の持っていているこうした意見や立場を補強する方向に作用する。

これが洋の東西を問わず、バランスや公平さを欠いた個人の見解を固めることにより、他者との溝を深め、社会を分断する方向に作用するのではないか。

いや、既に現在そうした方向に作用しているのではないか。

どのような立場に置かれた個人であれ、インターネットが強い味方になり、自分の立場を超えて融和へ向かう機会さえ失わせているのかもしれない。

特に、いったん社会から疎外れた者たちの価値観に響くものを提供し、彼らの立場に塩を送る機能を果たしている可能性がある。

親の言うことを聞かなくても良いではないか。

学校に行かなくてもようではないか。

就職しないでもよいではないか。

親のすねをかじり続けてもよいではないか。

(子離れしない親も喜ぶし)

結婚しなくても良いではないか。

子どもを持たなき手も良いではないか。

・・・ひいては

自分の意見を修正する必要はないではないか・・・

こうしたことになりかねない。

こうした意識の変化は日本だけの現象ではない。

世界各地で起きていると思われる。

しかも無意識に。

アジアでも、ヨーロッパでも、そして民主主義の総本山アメリカでも然り。

こうした中で主義の選択、政治の選択になれば、混沌を極めることになりはしないか。

ただし、こうしたインターネットが提供する個人にとって心地よいクセと一緒に過ごしていると、意見が一定の方向に振れ出せば、一斉に同じ方向になびき出すことになり、軌道修正が難しいことになりはしないか。

こうならないようにするにはどうすべきか。

自分と違う意見を聞けという意見がある。

しかし、これは難しい。手っ取り早く自分と違う見解を示してくれるのはwebであり、そうした見解に対する個人好みの見解を示してくれるのもwebであるからだ。

中二階的な切り札が生成型AIというのはどうだろう。

半分冗談、半分真面目にそう思う。

問いの発し方に工夫すれば、個人の見方の歪みや偏りを、誰に遠慮することもなくストレートに伝えてくれるかもしれない。

(学23期kz)

第十九回 福の花山口地酒の会 長門峡の陣に参加

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 10月トピックス】

別邸福の花 浜松町店で、10月28日(土)18時~20時の予定で開催の掲記会に初めて参加させて頂きました。

長門峡は鳳陽会東京支部トピックスの今年6月24日に「偶然の一致(2)(長門峡の人)」で投稿させて頂きましたように思い出の峡谷です。(詳細は当時の投稿をご覧下さい。)

長門峡は山口市と萩市に跨がりますが、萩市の地酒「長門峡」の岡崎酒造の岡崎社長が上京されると山口市ファンクラブメンバーでベアーズコーポレーション中嶋唯雄社長からの案内で参加しました。

山口県の数々の海と山の幸の素材を生かした料理と長門峡の9種類地酒を堪能しました。
同じテーブルに初対面でしたが、6名の愉快な方々とご一緒させて頂き、普段は殆ど日本酒は口にしない私が、こんなに日本酒を飲んで饒舌になったのは初めてです。(普段は甘党でビール小ジョッキ1杯と薄めの水割りです。)
岡崎社長の説明を聴きながら、大学入学時の文化会サークルの新入生歓迎の山口女子短大との合ハイで一度行った長門峡に思いを馳せました。
岡崎社長とツーショトを撮って頂き、Facebookでも友達になって頂きました。
最後に中嶋社長にツーショットをお願いし、20時30分中締めとなり、帰途に就きました。
父は広島・西条の賀茂鶴や亀齢、呉の千福を若い時は1日一升飲む酒豪でしたが、遅ればせながら私は山口県の日本酒の博士を目指したいです。💦

すぐ近くの貿易センタービルは建て替えの為に平地となっていましたが、私が通っていたT社の浜松町本社ビルは再開発の為に壊されると聞いていますが、まだありました。
(学22期 Y・Y)


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ペリー来航と長州藩 その2 伊藤利助(博文)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 11月トピックス】

ペリー来航に伴い、幕府から長州藩に相模国(神奈川)での沿岸警備の命が下った。

これを萩で聞きつけた若き伊藤利助は相州(相模)行きを志願する。士分ではないその身。長州に居るままでは士分の連中に劣後する人生を歩まざるを得ない。進路が閉ざされ、敗北的で悲観的宿命を何とか断ち切りたい。そういう思いで相州行きを願い出たのだろう。

相州行き、これが認められる。この時安政3年(1856年)。1841年生まれの利助が、数えで16歳の時だ。

◆文武両道の達人・来原良蔵との出会い

来原(「くるはら」とも、「くりはら」とも呼ばれる)は若くして学問を身に付け、洋学にも親しんだ。西洋兵学にも通じ、武道にも通じた豪傑だ。

来原の嫁は桂小五郎(木戸孝允)の妹・治子(はるこ)であり、桂は義理の兄にあたる。

また、来原は江戸での遊学中、1歳下の吉田松陰と江戸で出会い、意気投合。松陰が脱藩し肥後の宮部鼎蔵と東北遊歴に向かった折は藩から脱藩幇助として譴責処分を受けており、また松陰から海外密航の相談を受けるなど、気脈の通じた松陰の良き理解者であった。

若い伊藤は相州・三浦半島警備の本陣が置かれた上宮田でこの来原の部下に配属された。

◆来原の眼力

来原は伊藤に「ものになる」ものを見出したのだろう。

個人的に伊藤の指南にかかる。冬の朝4時から厳しい教育が始まった。熟睡している利助を叩き起こしての修業だ。

中国の古典の読み書きのほか「愚痴と弱音は武士の禁物」として武士の精神を伊藤に叩き込んだ。戸外修業では寒い冬場でも草履を履かせずに訓練した。戦地で草履がなくなった時を想定しての訓練だ。

この時受けた教育の様子は伊藤の日記で読むことができ「一生忘れることのできない良い教育を受けた」としている。

伊藤公は来原を高く評価していた。

ある時、高杉晋作から木戸と来原の人物評を聞かれた伊藤公は処世の術(すべ)は別として、学問、見識、人格、いずれも木戸よりも来原がはるかに上、と高く評価していたようだ。後々これを噂で伝え聞いた木戸はしばらく機嫌が悪かったという。

(学23期kz)