大学時代の“ひとこま”を振り返る その②

Myz(鳳陽会宇部・山陽小野田支部 大学17期)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 2月トピックス】

◆秋のリーグ戦が終り、次のキャプテンは大学15 期の S さん(西日本相互、現西日本シティ)。

私は、2 年生となったが、体力的にはまだまだ。ヒットを打つのも内野の間を抜けるか、頭を越えるのがやっとであった。それでも、少しずつ練習の成果が出てきだしたのは2年の秋ごろからか、経済グランドの10周もそんなに辛くなく走り切れるようになった。

本当に力が付いたと感じたのは、3年生の春のリーグ戦。広島大学との試合で、初めてライトオーバーの3塁打が打てたことであった。当然、その試合は、久しぶりに広島大学に勝利した。

その当時の大学17期、同期の活躍も見逃せない。ピッチャーの M 君(三菱商事)、 サードで4番の O 君(山口銀行)、センターで2番の Y 君(福岡相互 現西日本シティ)、 セカンドで7番の M 君(郵便局)、そしてショートで 1 番の私(三和銀行)と、メンバーは揃っており、確か優勝し、西日本大会に出場を果たした記憶がある。私が3年半所属している中では、この時が一番強かったような気がする。

◆その年の秋のリーグ戦が終わり、17 期のキャップテンは O 君。しかし、春のリーグ戦後に彼は、足のケガで試合に出られなくなり、そのあと、M 君がキャップテンに。合宿・練習、そして後輩たちもうまい選手が何人か入部してきたが、その後、どうだったのだろうか、詳細の記憶はあまりない。いい成績ではなかったのか?

◆春のリーグ戦は、心地よい“久世球場での藤棚”の下での弁当、秋のリーグ戦は、つるべ落としの夕焼け、またリーグ戦が終わり、久世駅から津山経由で岡山駅へ、岡山駅乗り換え時は真夜中で、夜行列車の時間待ちにプラットホームでの“狐うどん”が美味であった。

◆野球に打ち込んだ青春時代を綴ってきたが、今思い返せば、この時に培った精神的・肉体的な強さが、社会人として約 35 年間を支えてくれた基礎になったのではと、感謝している。

つづく

(大学17期 Myz)

3年生時 春のリーグ戦(対広島大) ライトオーバーの3塁打を放つ 
    

大学時代の“ひとこま”を振り返る その①

~大学卒業後55 年、学生時代の青春を振り返ってみるのも悪くない~

Myz(鳳陽会 宇部・山陽小野田支部 大学17期)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 2月トピックス】

◆昭和 40 年(1965 年)春、私の大学生活は始まった。入学式は経済学部の講堂で行われた。

当時の入学者(私が入った班)の写真が、いま手元にある。よく見ると“純真であどけなさ”と希望に満ちた学園生活(?)が始まる安堵感(1 年浪人)がうかがえる。

私は、小さい頃から野球が大好き、周りからも“上手だね!”といわれ、日が暮れるまで 草野球で遊ぶ毎日を過ごしていた。当然、高校時代の成績はもう一つで、1 年目の受験に失敗。浪人時代は、大学で思い切り野球を楽しむことを心に誓い、しばし、野球を頭から外して勉学に集中した。

◆そのこともあったのだろか、入学式後に野球ができるという“嬉しさ” にひたりながら、経済学部グランド(当時は亀山)にあった野球部部室を覗き、入部を申し出た。硬式野球と準硬式野球部があり、私は準硬式野球部を選択した。この部を選んだ理由はよく覚えていないが、硬式野球ボールで野球をやったことはなく、硬式では何となく不安もあったのかなと、今では思う。

入部当初は知らなかったが、準硬式野球部の公式戦は、春、秋の中国リーグ戦と毎年 7 月 に開催されていた中国五大学戦が中心で、その他リーグ戦で優勝すれば、西日本大会や全国大会(神宮球場で開催)出場もできた。その他、下関市立大、山口印刷等との練習試合もあった。

その年は、4 月後半から本格的な練習を開始。当時のキャプテンは大学14 期の N さん (三菱重工業)。5 月のリーグ戦には参加できなかったが、7 月の五大学戦からレギラー(セ カンドで 2 番)で出場できた。この年は、広島大学が当番、野球は当時の広島市民球場で試合ができたことはラッキーであった。本活的な黒土のグランドは初めてで、プロはこんな素晴らしいグランドでプレーが出来るのかと、うらやましくもあった。ヒットも 1 本(センター 前)打てたことも、今では、いい思い出だ。

◆その後、9月初旬からの秋の合宿、確か 2 週間 (?)、それから秋のリーグ戦へと。

リーグ戦は、岡山の“久世”(真庭市、蒜山高原の近く)で、小郡(新山口)から、急行で岡山へ、岡山から津山線で津山へ、さらに姫新線で久 世へ、長旅であった。思い出したが、出発が早朝であったため、私の母が“おにぎり”、“た まごやき”を大量に作ってくれて列車の中で頬ばり、喜んでもらった記憶がある。

その後、 リーグ戦の都度、そのことがしばらく、慣例となった。当時の食料事情も十分ではなく、今 思えば、そのことが本当に懐かしい。

つづく

(大学17期 Myz)

前列右から5番目が筆者
2年生時 秋のリーグ戦で優勝した時の全員写真 表彰状が写っている。

映画「オッペンハイマー」

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 2月トピックス】  

広島市中区八丁堀で、八丁座とサロンシネマの2館を経営されている(株)序破急 取締役総支配人の住岡正明さんから今年も年賀状の返信をいただきました。
広島勤務時代に知り合い、暫くして私は東京に転勤となりましたが、知り合って30年近くになります。
3月29日に日本公開される映画「オッペンハイマー」をどう感じるか自分の眼で観てみたい。

追記)
私からは11月に母校の広島基町高校東京支部同窓会で舞台女優の中村香織さんと知り合い、彼女が原爆を題材にした「アサガオの雫」という朗読劇をされていることに触れました。
(学22期 Y・Y)

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学生時代に ふく 食ふ

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 2月トピックス】

会報「鳳陽」180号に松永理事長が、学生時代にフグを食することへの憧れがあった話が掲載されていた。

そして、今回は東京支部のSさんが韓国釜山まで出向き、真っ赤なフグ鍋のおいしい話を伺ったら、40年前の学生時代のアルバイトの賄いの話をしないわけにはいかない。

製造業に携わったものには禁断の月一で放映されている「魔改造の夜」風に少しイニシャルを使用しよう。(例えば、日立製作所は「H」製作所となる)

学生時代湯田温泉にあった温泉旅館「M屋」でアルバイトをしていた。最初は皿洗いから始まり、少し出世して、板場(料理場)のお手伝いをするようになった。これは、学生時代からの無二の親友「K」隆さんの紹介であった。

板場のアルバイトの楽しみは、仕事が終わった後の賄いである。そして、大浴場の貸し切りの入浴。

冬は大概野菜たっぷりの鍋に、お造りをした残りの鮮魚を刺身の盛り合わせにして提供して戴いた。毎回、ビール付きで、時給が安い高いの世界を超越した、至福の時が待っていた。

卒業を控えたある夜、鍋に見慣れない鳥のブツのようなものが入っていた。そして、鶏唐げ?更に見たことのない、薄緑の大皿に菊の花弁のように盛り付けられた薄造り。もみじおろしに小葱のみじん切りに、さらにポン酢。

勘のいい方は、すぐ気づいたであろう。山口のふく!ひとまずのフルコースを準備してくださったのである。

 てっちり、ふくのから揚げ、てっさと揃っていたのである。

(蛇足ですがふくがてっぽう(鉄砲)と言われるのは、当たれば命にかかわるところからくる)最後にヒレ酒まで飲んでしまった。

山国育ちの自分には、今までに食したことのない食感、旨味。

 ひとこと、旨い!!

板長だった「S」井さん、「s」吉さん、「y」本さんと「「K」隆さん」と自分の5人で囲んだ鍋。

ある意味、学窓山口を出でていく春を控え、心のこもった、ちっちゃな門出の祝宴を準備して戴いたのであろう。

別の機会に、旅館の専務からも声をかけられた。「あんたたちは、時間が経つと偉ろうなるんやから、偉うなったら、うちの店を使こうてくれんさいよ」 返事は、勿論「はい!」

時がたち、山口を再訪する機会があった。宿泊先に先ずは「M屋」をと思い、宿泊の電話を入れようとした。電話は繋がらず、既に廃業されていた。一宿一飯の恩義は何としても果たしたいと思い、古い記憶を辿りながら、所在があった場所を歩いて探した。しかし、そこは既に更地になっていた。

卒業後、少ししてバブルの仇花が咲き、膨らみ、そして、バブルの泡は弾けた。

その後の失われた10年、いや20年・・・その中で時代に淘汰されてしまった湯田温泉街のホテルも少なくないはずだ。

山口は亀山時代は勿論、平川時代になっても学生を大切に、そして優しく育ててくれ続ける町である。 

今もっても、感謝、感謝です。        

(岡山支部 B)

雪の日の思い出

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 2月トピックス】  

◆思い出(1)

 ワンダーフォーゲル部に所属し、春合宿の前だった。メンバーで訓練のための山行に臨んだ。山口からバスに乗り木戸山峠を越えていく途中雪が降り始めた。だんだん激しくなって積もり始める中、峠の急こう配に差し掛かる。心配していた通りタイヤがスリップして動けなくなった。運転手は無線でやりとりしていたが、救援の車がタイヤチェーンを持ってくるまで一時間ぐらい動けないという。メンバー6人で後ろから押してみましょうかと申し出た。じゃあやってもらえるか、だがスリップしてガードレールに挟まれたり、転んで後輪に轢かれる危険があるので、くれぐれも注意してくれと言われる。バスがエンジンをゆっくりふかす中、皆で力を合わせて後ろからぐーっと押す。すると大きなバスが少しずつ動き始めた。ゆっくりとバスが進む中、バスの乗り口に向かって皆で走る。バスを止められないので飛び乗ってくれと運転手が叫ぶ。後輩が皆乗り込んだのを見届け、最後に自分が飛び乗った。やったーという気持ちでほっとした途端、かたずをのんで見守っていたバスの乗客達から大きな拍手が起きた。思いがけず、でもちょっと誇らしかった。

思い出

◆思い出(2)

雪のしんしんと降る深夜だった。道場門前近くの友人の下宿から自転車で帰る途中、リヤカーを引くおばあさんを見かけた。一の坂川を越える少し勾配のあるところで、うーんと力を入れているが雪で滑ってだろうかリヤカーは動かない。とっさに自転車を道に乗り捨て、リヤカーを後ろから押した。おばあさんは驚いたようだったが、勾配を登りきったところで声をかけ自転車に戻った。倒れた自転車を起こし、大丈夫かなとリヤカーの方を見ると、おばあさんが私に向かって手を合わせている。周りには人はおらず、ただ真っ白な雪が降り積もる静かな夜だった。おばあさんはどこまで帰ろうとしていたのか、もっと押すのを手伝わなくてよかったのか、今でも思い出す光景である。

【元ワンゲル部員A】

大相撲一月場所を終えて

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 2月トピックス】  

照ノ富士、復活優勝‼
凄い。
琴ノ若、大関昇進へ。
今場所は初日に序ノ口から国技館観戦。
千秋楽まで優勝争いが繰り広げられ、照ノ富士、霧島、琴ノ若の3力士が千秋楽まで残りました。
豊昇龍が怪我で休場し、14日目に照ノ富士との一番や千秋楽の琴ノ若戦が観られなかったのは残念ですが。
霧島は最後まで優勝戦線に残ったのは立派ですが、下半身が安定しているものの横綱というにはもう少し力強さが物足りません。
照ノ富士は2敗した時は休場や引退を危惧しましたが、千秋楽まで良く頑張り、土俵が締まりました。
今場所、5日目が終わった時点で、優勝は琴ノ若か朝乃山と予想しましたが、朝乃山の怪我での途中休場は残念でしたが、再出場し9番勝ちました。
来場所以降に期待です。
序盤で休場した貴景勝は首の怪我の悪化で来場所も厳しいか。

今場所は負け越したものの熱海富士の巻き返し、新入幕の大の里、怪我で幕下に陥落した伯桜鵬の若手が力強く楽しみです。
直ぐに三役になりそうな程、逞しく圧倒的な強さです。
又、若隆景の幕下優勝と来場所の関取復帰は嬉しい。

応援している力士の中では阿炎が5連敗した時は今場所の大敗を覚悟したが、7連勝し勝ち越したのは良かったが、千秋楽に足がついて行かず、三役の可能性を逃したかと思いましたが、番付運に恵まれ、小結には復帰出来そうです。ほっ。
大関争いでは霧島、豊昇龍、琴ノ若に先を越されたが、来場所に期待。臥薪嘗胆。
平戸海、玉鷲8勝7敗。
幕下20枚目のご両親繋がりで応援している春日野部屋の栃神山が2勝5敗と負け越し。
関取への壁が厚く、臥薪嘗胆、頑張れ。
石川県羽咋市出身の深井3勝4敗。
錣山部屋の王輝、7番相撲で4勝3敗と勝ち越し。
山口市繋がりで応援している将軍、2勝5敗と負け越し。
千代大宝、2勝5敗。
式秀部屋の最上桜全勝ならずも6勝1敗。
大当利4勝3敗と勝ち越し。

最後に初代若乃花を彷彿させる若元春を今場所から応援力士に加えることにしました。
玄人好みする相撲は魅力です。
平成30年初場所前に両国わとんでの会で西幕下6枚目だった若元春さんにお会いしていたのを最近知りました。
東前頭14枚目だった阿炎関を囲んでの集合写真を撮って頂いた時のシャッター係でした。🙇
(学22期 Y・Y)
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冬の釜山にて真っ赤なフグ鍋を食らう

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 1月トピックス】  

冬。フグのうまい季節がやってきた。

前回は、山口大学経済学部の学生時代から「一生に一度は食べたいものだ」と願っていた本場・下関の名店、春帆楼(しゅんぱんろう)にてフグを食した。

今回(2024年1月)は、妻とともに韓国・釜山を訪れた。

目的はただひとつ。真っ赤なフグ鍋をいただく。

◇久々の成田空港

 成田空港から大韓航空機で釜山に向かう。電車で成田空港駅に到着。

第1ターミナル・北ウイングを目指す。現役時代は年に何回も成田空港から世界に飛び立っていたが、コロナ禍もあって久々の成田空港だ。

 大韓航空の受付で搭乗手続き。事前に航空機予約票をプリントして準備していたが、パスポートを提示するだけで手続きは完了した。保安検査を済ませ、出国手続き。12時45分発の大韓航空機に乗り込む。順調に飛行。玄界灘を越え、15時20分に釜山空港に到着した。

 郊外の空港から地下鉄を乗り継いで港町の釜山市南浦(ナンポ)へ。韓国の地下鉄の進化に驚いた。地下鉄の駅には駅舎がない。駅員もいない。完全自動システムだ。

どうやって地下鉄に乗ればいいのか。

戸惑ったが、市民に乗車券の買い方(自動販売機)、乗り換え方法などを教えてもらい(私は少々、韓国語を話せる)なんとか、ホテルに辿り着いた。

◇いざ、釜山のフグ料理店へ

日が暮れる。ホテルを出発。地下鉄に乗り込む。ネット(日本語で釜山の料理店を検索できる)で事前に調べたフグ料理店「釜山ポクチブ(フグの店)」に向かう。交通の要所、西面(ソミョン)で下車。地上に上がる。道路は放射線状に伸びている。目指す「釜山ポクチブ」の住所は文化路25番地だ。手帳に記してある。さて、どの道を進めばいいのか。わからない。通りかがったおじさんに聞く。おじさんは適当にいった。

「こっちのほうじゃないか」

どうもあやしい。

若い男女2人組に改めて聞き直す。

若者はさっそく、スマホで店を検索してくれた。

若い女性が日本語でいった。

「この道をまっすぐ行って。左側にあります」

―えっ、日本語が上手ですね。どこで習ったんですか

「どくがく・・・。自分で日本語を勉強しました」

―すばらしい。ありがとう。

彼女が教えてくれた道を進む。確かに左側にフグの店があった。ネオンが輝いている。

         

◇フグ鍋に焼酎

 店内に入る。高級料理店ではなく、食堂といった雰囲気だ。おじさんグループや男女二人連れが焼酎をあおりながら、フグ鍋をつついている。

 店の女将さんに早速、注文する。

「フグ鍋2人前。それと焼酎1本」

サービスで小皿がたくさん、出て来る。フグの天ぷら。フグの皮のあえもの。海藻類。そしてキムチなど・・・。箸をつけずにじっと待つ。

 しばらくして、ぐつぐつ煮えたフグ鍋が運ばれてきた。ガスコンロの上に置く。

大量の唐辛子で真っ赤だ。フグのぶつ切り。フグの白子。セリなどの野菜類。全部、鍋にぶちこんで煮込んでいる。

 日本では大皿に盛った淡白で上品なフグの切り身をすこしずつ、鍋に入れ、煮えたところをもみじおろしとポン酢でいただく。高級店では女性従業員がなべ奉行を務め、給仕もしてくれる。酒は純米吟醸の冷酒がいい。盃に酒を満たし、静かに食する。

 だが、韓国は豪快である。フグ鍋には唐辛子とニンニクがたっぷり入っている。野趣あふれるフグ鍋をふうふういいながら、食らう。焼酎を一気飲みする。うまい。またたくまに焼酎が空になった。

 「おばさん、焼酎、もう一本」

 フグ鍋2人前を食べ切った。このあとにもうひとつ、楽しみが待っている。残った汁にごはんをいれて真っ赤なフグ雑炊に。これがまた、うまい。辛い。

 釜山のフグ鍋を堪能した一夜であった。

(鳳陽会東京支部 S)

 

講談師・神田京子独演会

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 1月トピックス】

◆あまりに平易なことばのなかに

1月25日(木)によみうりホールで行われた神田京子独演会—「金子みすゞ」伝。

歯切れ良く、気持ちの乗った抑揚のある神田京子の語り。

その語り口で、金子みすゞの詩を織り込みつつ、金子みすゞの26年という短い生涯が紹介された。

金子みすゞの詩。

あまりに平易なことばの中に、恐ろしく深い真理、時を突き抜けた真理を気付かせてくれる。

やはり金子は「天才」といってもいいかもしれない。

今では金子みすゞの記念館がは生まれ故郷の長門市仙崎にある。

◆蜂と神様

独演会の終わりに、あるセレモニーがあった。

この日、金子みすゞの「再発見者であり、伝達者」ともいえる金子みすゞ記念館館長・矢崎節夫氏が会場に来ておられ、神田京子のリクエストに応え、矢崎館長自らの朗読によって金子みすゞの詩がひとつ披露された。

「蜂と神様」

蜂はお花の中に

お花はお庭の中に

お庭は土塀の中に

土塀は町の中に

町は世界の中に

世界は神様の中に

そうして、そうして

神様は小っちゃな蜂の中に

◆バチカンで

会場では披露されなかったが、この詩にはあるエピソードがある。

バチカンにて。

金子みすゞの「蜂と神様」をご覧になったローマ法王は涙を流されたという。

「我々何万人の神父によっても、これだけわかりやすく、明快に(説法を)伝えられない」と。

(学23期kz)

品川神社を訪ねる

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 1月トピックス】

昨年の晩秋、長州歴史ウォークで訪れたスポットの一つに品川神社がある。

日本橋から京都までの東海道五十三次。

品川はもっとも江戸城に近い宿場町だ。

多くの人が行き交うところで、江戸を発ち、また江戸に入る大名行列も品川神社に立ち寄り、参拝した各地の藩主も多かったはずだ。

徳川家康もその一人。

天正18年(1590年)家康は秀吉の命で江戸城に居を移した。

慶長3年(1598年)に秀吉が薨去すると、次の天下人を決める戦いが始まる。関ケ原の合戦だ。

家康は慶長5年(1600年)9月1日に関ヶ原を目指して江戸を西進する。総勢3万2700名。

家康の行程をみると、1日目は神奈川のいずこか、2日目に藤沢、3日に小田原、4日目に三島に着いたとされる。

家康は品川神社に戦勝祈念に訪れたが、その行程からみると、当日の昼時に品川神社に参拝したのだろう。

品川神社の鳥居は双龍の鳥居となっている。

正面に向かって左が上り龍、右が下り龍。

また拝殿に向かい石段を上るが、かなりの傾斜だ。

宇部出身・庵野監督作品のシン・ゴジラ。

映画の中ではゴジラが品川一帯の建物を壊しながら闊歩する姿を、住民や通行人が、眺望がきく石段の「観客席」から不安げに眺めるシーンが出てくるが、この石段が品川神社の石段だ。

階段を上り切る途中、左手に富士塚の入り口がある。

富士信仰の集団「富士講」の人たちで実際に富士登山できない人々が富士山を拝めるような遥拝(ようはい)場として、築山が作られているが、ここを登り、「富士山」の頂上に登れば、海がいい角度で眺望できたのだろう。

家康は合戦の後、戦勝の御礼にお面と神輿を奉納する。

「天下一嘗(ひとなめ)の面」と「葵神輿」だ。

この面と神輿は拝殿の脇に展示されている。

◆板垣退助の墓

板垣退助の墓が社殿の裏側にある。

この品川神社を通らないと行けないところにある。

ここは東海寺の塔頭・高源院の境内だったが、関東大震災後寺だけが世田谷に移転し、墓だけがここに残ったという。

ここには「板垣死すとも自由は死せず」と記した石碑があり、熊毛郡田布施町出身の佐藤栄作が揮毫している。

品川神社の隠れた名所だ。

(学23期kz)

山口大学時代から110回目の献血ー鳳陽会岡山支部からの投稿

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 1月トピックス

能登半島地震の報道に接し、被災地の厳しい状況に思いを致し、心よりお見舞い申し上げます。命のありがたさを改めて感じ入ります。

 私は約40年前、山口大学経済学部に入学しました。教養部時代、友人に誘われて何気なく、献血を始めました。以来、献血を続けています。

 2024年の新年早々、人間ドックに行った後、献血に行きました。

101回目(のプロポーズ)を過ぎ、108(の煩悩)を超え、110回目の献血となりました。

 80回を超えたとき、「100回に挑戦してみよう」と思いました。そして100回を超えたとき、赤十字の看護師さんから「次は120回を」と声をかけてもらいました。その声に先達され、導かれています。

 人間ドックで採血を担当した看護師も感慨深げにこういいました。

 「あなたの献血で救われている命が数々、あるかも・・・。そして、あったかもしれませんね」

 今までは小沢昭一さんのように「明日は明日の心だぁ~」って生き方に近かった私ですが、微力ながら献血を継続していこうと決意しました。献血は70歳の朝飯を食べるまでできます。健康状態や副用薬で制限を受けない限りできるのです。

 今回、献血を終えた後、顔なじみになった看護師さんが笑顔でいいました。

「また、来てね」

 私は健康管理の一環として朝の散歩をやっています。

今日もまた、力強く、一歩を踏み出します。

 (鳳陽会岡山支部 B)