全国各地で猛暑日が続く・・・

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】

岡山支部 岡山Bさんからの投稿

◆暦の上ではお盆も明け、24節気の「処暑」が過ぎたにもかかわらず、まだまだ暑い。

 先日、年代ごと、猛暑日の年間の発生日数をデータで追っていた話があ った。

 ネットの中で山口市における発生数を追ってみるとやはり他の地区と同 じような傾向値になっている。(山口県 山口市の気温に関する統計情報より)

 年代     

・1991-2000

4.9日  

・2001-2010

7.3日 

・2011-2020

14.3日 

・2021-24(4年途中経過)年

21.8日(4年間平均) 

明らかに上昇傾向にある。

◆この中でも特筆すべき年もある。

 1994年に 23日、 2018年には 35日とある。従来の例年の10台の日数を大き く超えている。所謂”暑い夏”の年である。

また、90年代は猛暑日がない年もある。

 2020年代になって2024年には47日、2025年も最多の24年に迫ろうとしている。

また、通常年、猛暑日は7月8月に発生していたが、2022年には6月から9月まで発生している。

2025年も6月から発生している。そして、長期の天気予想

 では9月10月も暑い日が続くと言われている今年…

◆80年代初頭の春先、大学のキャンパスある平川の教養部駐輪場の自転車は 平川砂漠の暴風によってなぎ倒されていた。

 自分の出身地では、暴風によって自転車が倒される光景を目にすることが少 なかったのである意味驚きでもあった。

 当時は田園風景に囲まれた平川は風がよく流れる土地で、夏場は洗濯物は半日で乾燥する。夜も扇風機という文明の利器を持っていなくても熟睡できた。

 (日中のアクティブな活動があって、夜は良質の睡眠がとれていた(笑))

 {1905年から培われた亀山にあった文化が1970年代平川への大学移転に伴い途切れそうになったり、層が薄くなった時期があるかもしれない。これを称して「平川砂漠」とは上手く言ったものだ。

 本屋で言うと、亀山、道場門前には、大手の書店としての文栄堂、金子書房をはじめとする古本屋も数軒あった。しかし、平川は文栄堂、金子書房の二軒 だけが書店であった。}

◆今のようにワンルーム下宿(マンション)が主力の時代でなく、農家の納屋や俄か作りの細長い下宿が主力の時代であった。共同風呂、共同トイレ、全てが共同である。

 下宿が二階ともなると今では不安全だが、網戸があれば暑いときは開けっ放しで外気を取り入れるとこで空調をしていた。

 あと、あるとすると団扇が自分用と客人用があるのみ。

 これで過ごせていたから救われる。夕方には上半身は裸になり、バットの素振りで汗が滲むくらいまではスイングを振り込み、そのあと入る共同風呂は格別である。

(岡山B)

トランプ劇場 ⑧動かない国際機関

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】

◆「相互」関税にあらず

止まないロシアのウクライナ攻撃、止まないイスラエルのガザ空爆、米ロ首脳会談、米・ウクライナ首脳会談

そうした中でのダウ(株価)最高値更新・・・

国内では猛暑、洪水、高校野球、そして日韓首脳会談・・・

次々と重なる出来事の中で、トランプ関税はもはや昔の話になったかの感があり、ニュースにも取り上げられなくなった。

しかしこの先、各国でトランプ関税の負のインパクトを消化しようとすれば、それぞれの国に問題が生じることになる。

その結果、世界の経済成長率が鈍化し、マイナスの影響は回り回って米国にも確実に及ぶ。

◆ゲームチェンジ

日本にとって大どころの自動車関税。

「25%から15%になってほっとしている」・・・というような問題ではない。

自由貿易の盟主だった米国がゲームの仕方を変えた。

ルールによって自由貿易で繁栄をもたらしてきたが、物流に水を差す関税を乱暴な形で一方的に課し、これまでのルールではなくディールで対応しようとするトランプ大統領。

報道機関も「相互」関税という、トランプサイドが使う言葉を無批判に使うべきではない。

一方的なトランプ関税なのだから。

こうした貿易交渉、これはルール違反だろう。

いや、トランプ大統領がやっていることはそもそも貿易交渉ではない。

プロレスに近い。しかも大変無礼なプロレスだ。

日本が同じことをやれば、どうなるか。

世界各国から、とんでもないブーイングが起きること必定。

しかし、「大国のやんちゃなリーダー」がやれば、みな黙る。

これいかに。

やんちゃぶりは米国内でも然り。FRB議長(中銀総裁)に対する辞任要求、労働統計をめぐる労働省の担当局長解任・・・

トランプ大統領のすること・なすこと・とんでもないこと、これは世界の大国のパワーゲームの構造を理解するうえで、また米国内の力学構造を解明するうえで、ある意味とても勉強になる。

◆WTO

そうは言っても殿の「やんちゃ」を止める国際機関はないのか。

自由貿易を守る国際機関があるだろう。

そう、ジュネーブのWTO(世界貿易機関)だ。

貿易をウォッチする国際機関たるWTOは何をしているのか。

手を下さないのか。

厳しいペナルティーを科さないのか・・・

WTO加盟国には最恵国待遇という規定がある。

WTOはWTO加盟国である米国に与えられた有利な条件を他の加盟国にも適用されという規定を、改めて米国に通告すべきだ。

少なくともこれがWTOの最低限の役割ではないか。

これまで、最大の出資国でリーダーは米国であった。

米国からこうした大統領が出てくること自体、想定していなかったはずだ。

WTOのトップは誰だ。

◆スパチャイ氏

面識のあるスパチャイ氏がかつてWTOの事務局長になったことがある。

外地勤務のころ、T王国の中央銀行の副総裁だったスパチャイ氏のところに、インタビューに行ったことがある。教養のある、おとなしいジェントルマン、スパチャイ氏。

副首相も歴任し、2002年にはWTO(世界貿易機関)の事務局長へ就任した。

(2005年にはUNCTAD(国連貿易開発会議)の事務局長も歴任)

そのスパチャイ氏が数か月前、日本のマスコミからのインタビューに、次のように答えていた。

「今回のトランプ関税はWTOの基本原則であり、関税などの最も有利な待遇を全ての加盟国に適用する「最恵国待遇(MFN)」のルールにも反する。第1次政権での関税政策でも米国に投資が促されたとは言い難い。

関税政策が長引けば米国は世界貿易に占めるシェアを落とすだろう。国内では3~6か月以内に深刻なインフレが起きるはずだ。

各国は冷静に話し合い、相互関税が破滅につながることを明確に訴える必要がある。」

・・・そのとおり。

しかしトランプ大統領は各種国際機関からの脱退を進めており、WTOも例外ではない。WTOへの拠出金も凍結している。

◆トランプ後は・・・

桁違いのことをなさるトランプ大統領殿。

ターゲットにしているのは1年後の中間選挙なのか。

いや、掟破りの3選かもしれない。

3選が叶わないようなら、米国に平和な世界が戻ってくるのか・・・

いや、副大統領が控え、構えている。

バンス副大統領が。

トランプ氏より読みにくい。

かえって厄介なことにならなければ良いのだが。

(学23期kz)

スパチャイ氏
WTOのロゴ

随筆 横目で眺めた経済学 ⑭インフレ・デフレ 思い出話

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】

◆ケインズ政策・・・デメリットのインフレ

インフレ下では貨幣価値が下がる。

私が幼少の頃、生前の祖母から、私のために苦労して「10万円」を貯めたという話を聞いた。

今の貨幣価値に直せば100万円ほどを貯めていたような言い方だった。

昭和の時代に入るとインフレで貨幣価値が大幅に目減りした。激減だ。

祖母も不本意だったに違いない。

◆貨幣価値の下落・・・これは悪い話ばかりではない。

借金をしている身にとっては、借金がインフレ分だけ実質的に目減りし、負担が軽くなる。

いわゆる債務者利得というやつだ。

私が社会人になった頃、上司が新居を購入。オイルショック後のインフレで、給料は上がるわ、住宅ローンの「実質」残高は減るわで、返済が楽だったはずだ。

◆しかし、市民社会への影響をフローで見ると少し違った姿になる。

賃金と物価。

賃金は物価の上昇に連れて上がっていくが、そのスピードは通常物価上昇幅を追い越すことはない。

常に後追いだ。

従って実質賃金は切り下がることになる。

ただ、こうした問題を抱えたまま、経済は活況を呈することになる。

なぜか。

前向きの「予想」があるからだ。

モノの値段が上がっていく時は、値段が上がる前に買いたい。

このために先買いでモノが売れ、企業は生産し、従業員の給与も増え、経済は活況を呈する。

実際、当時はそういう経済サイクルであった。

賃金上昇が一時的に物価に追いつかなくても、あとで追いついてくれる。

毎日の生活が目に見えて変わっていき、時代の高揚感があった。

ユーフォリア・・・

当時、日本の姿はどの国よりも立派であるような感覚に浸かっていた気がする。

これに比べ、デフレは厄介だ。

続く

(学23期kz)

参考

◆国立大学授業料の変遷

(単位は円)

1963年(昭和38年) 12,000

  ↓

1971年(昭和46年) 12,000  

1972年(昭和47年) 36,000

1976年 (昭和51年)96,000

1978年(昭和53年)144,000

1980年(昭和55年)180,000

1982年(昭和57年)216,000

1987年(昭和62年)300,000

1993年(平成 5年)411,600

2005年(平成17年)535,800

ゴルフ 何でそうなるの! ⑭早いプレー

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】

◆プレーが早いのはジョージ.H.W.ブッシュ元大統領(第41代大統領、いわゆるパパブッシュ)という話がある。タイガー・ウッズが証言しているが、プレーが早く、ツーサムなら2時間で1ラウンド回るという。

それに匹敵するほどプレーが早い、おらが国の大将は角さん(田中角栄元総理)。

「早打ち、早歩きで」、アドレスしたら素振りなしで、いきなりショット。

グリーンに乗ったらパットはせず、2パットのカウントで次のホールへ。

1日4ラウンド&ハーフも回ったこともあったという。

角さんがクラブを握ったのは齢40代の頃だという。ロッキード事件で1974年に首相を辞任した後は空いたスケジュールを埋めるようにゴルフをした。

スコアは90前後。距離は出ないがまっすぐに飛ぶ、ウォームアップをせずにどんどん打つタイプ。

ティーショットを打ち、ボールが着地する前に歩き出す。

いかにも角さんらしい。

また、日本の歴代首相の中でも安倍元首相はうまい部類で「中の上」、スコアは80代前半。

距離のあるホールでも刻まず、果敢に前へ前へとグリーンを狙っていくゴルフをしたという。

米国の大統領にもゴルフ好きが多い。

日米のトップ同士、一緒にラウンドした様子が放映された。

(学23期kz)

令和元年5月

第7回ヒロシマの高校生が描いた「原爆の絵」展in有楽町

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】


◆今日(8月16日(土))の東京は最高気温が32℃と少し下がったとはいえ、連日の暑さです。
こうした中、母校の広島市立基町高校の創造表現コースの生徒及び卒業生が被爆者の体験を直接聞き取り、絵画として描いた「原爆の絵」展(8月10日~16日)に5年連続で行って来ました。

◆最終日の11:35に到着し、事務局長の大越貴之さんにご挨拶しましたが、昨年の日本被団協のノーベル平和賞受賞を追い風に今年は戦後80年の年の開催で特別な思いもあるようです。
1時間20分かけて約35点のパネル展示他を鑑賞しました。
描いた場面の説明、描いた高校生のコメント、被爆体験証言者のコメントもあり、素晴らしい催しでした。
今回、特別企画として小説「黒い雨」…特別講演会、原爆にまつわる絵本の朗読会や紙芝居の上演等もありました。

◆この日は日本時間の早朝からアラスカで、プーチン大統領とトランプ大統領の米ロ首脳会談があり、行方が気になる中での参加となりました。


追記)
私事ですが、今回は怪我に加え、体調を崩し病院通いの日々で、到底無理と諦めていましたが、母校の「継続は力なり。」との教えを思い出し、最終日に何とか辿り着きました。

(参考)「原爆の絵」展in有楽町

2025年8月10日(日)~16日(土)
11:00~18:00
東京交通会館地下1階ギャラリー「エメラルドルーム」及び「シルバーサロンC」
(東京都千代田区有楽町2-10-1)
【協力金(入場料)500円】(税込、中学生以上)*小学生以下及び障がい者は無料
【主催】井伏鱒二先生生誕125周年記念「黒い雨」プロジェクト実行委員会

(学22期 Y・Y)
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「経済白書」よもやま話 その②

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】

岡山支部 岡山Bさんからの投稿

◆そもそも白書とは何か?

改めて確認すると意外なことを知った。

英国議会では内閣が議会に提出する公式報告書を「white paper」白い表紙を使用していたから「白書」、それを真似た日本の「白書」も次のものから始まる。

(現在使われている英国で使われている「white paper」は政策建白書的な意味があるという)

通称官庁発刊の「白書類」は白書、白書と言われているから、白だと決めつけてはいけない。外務省が発行するもの「外交青書(白書)」となっている。

これは、英国での外交官の報告を「blue book」と呼んでいた流れを汲み、青い表紙である。

◆1947年、戦後から2年経過した中で「経済実相報告書」なるものが発刊されている。白書の原型、つまり初の経済白書だ。その副題は「財政も企業も家庭も赤字」と名付けられていたという。

この主筆者は都留重人であった。あの70年代から80年代の定番の経済学の教科書「サミュエルソン 経済学」の翻訳者。経済安定本部に籍を置いていた。

戦後80年が2025年、経済白書は2027年には傘寿を迎えることになる。

願わくば、2027年には政府刊行物だけなく、豪華論客で紙面をまとめたエコノミストの、そして週刊東洋経済の”特集号としての「経済白書」”を読みたいと願うのは筆者だけだろうか?

◆しかし、出版業界は厳しい。学生時代、経済セミナーと言う”月刊誌”があった。

この経済セミナーの中から生まれた経済学の教科書の名著も多い。しかし、今二カ月に一回の発刊となり、ここから教科書が生まれる可能性は低くなっている。同じように法律セミナーと言う”月刊誌”もあった。これは2025年3月までは月刊誌であったが、2025年度になって、経済セミナー同様二カ月に一回の発刊になっている。(経済セミナーは早い段階からその流れ...)

◆最後に白書の意味について、平成2年(1990年)の坂本内閣官房長官の言葉(国会答弁)がある。その言葉は重い。 

言葉の中にある国民の皆さんには「御批判を願う、そして御協力をいただく」と。

「白書というものは中央官庁の編集する政府刊行物である、そしてその内容は政治、経済、社会の実態及び政府の施策の現状について国民に周知させることを主眼とするものである、こういうことであります。だから、国民の皆さん

に現実の政治あるいは行政の動きをよくお知りをいただいて、そして御批判を願う、そして御協力をいただく、それが私は眼目だろうと思います。」

(岡山B)

「経済白書」よもやま話 その①

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】

岡山支部 岡山Bさんからの投稿

◆経済学徒にとって今も昔も変わらない重要白書は「経済白書」であろう。

ちょうど夏休みの間に発刊されることが多い。政府刊行物として、書籍に纏まった形での提供。そして今では担当官庁の所管のホームページを覗くと、「白書類」と言ったフォルダーが準備されていて、自由に閲覧することが出来る。(今はなんと無料で「白書」にアクセスできる!)

40年位前は、政府刊行物とは別に、少し時期をずらして、毎日新聞社から「エコノミスト 経済白書特集号(**年度版)」、また、週刊東洋経済からは「解説経済白書(**年度版)と二社からその特集号が発刊されていた。

◆大学正面門前にあった文栄堂で、あるいは道場門前の文栄堂本店で、先ずは立ち読み、その年の経済白書に関し、経済学者、エコノミスト、官界エコノミストの解説者の顔ぶれ、解説、そして、力点を置いている論点を概略掴み、どちらの特集号を買うかを決めていた。また、キーワードになる用語を整理している項目も大切な項目である。(経済学を学ぶ者にとって、テクニカルタームと言われるその世界独特で、かつきっちり覚えておいたほうが良い語彙)

勿論、その両者は政府刊行物よりは安価で、そして微妙な価格差もあったと記憶している。貧乏学生でも、その価格差が購入選択の基準ではなかった。

(互いに1000円未満の特集号)

◆当時は本屋で紙袋に入れてもらった白書、自転車で下宿先に帰宅、開封。

各章、各節に題目として散りばめられているキーワードは何か?少しワクワク感があった。その副題にも…今も変わらないが、当時も経済学の教科書をしっかり読むとか、経済の古典を読むほどの学生ではなかった。実態の経済はどのように動いているのか、どのような観点が重要視されているのかには強い興味があった記憶がある。

読み始めたのは、恐らく専門に進級して、学部の二年生の頃からだろう。

◆社会人になっても、経理や管理部門と担当していた頃は特集号を読んでいた。転勤に伴う何回かの転居のうち、かつての特集号は殆どの手元からは散逸してしまった。

きっとその中には線引きが施されていたり、赤鉛筆で落書きに近い内容も残っていたかもしれない。若い頃の思索の足取りが辿れるとしたら、何と貴重なものを失ってしまったか・・・

(岡山B)

戦後80年 「語り継ぐ 私の戦争体験」を読む

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】

岡山支部 岡山Bさんの投稿

◆岡山県北のある市が編纂した「語り継ぐ 私の戦争体験」、というものがネットに出ていました。戦後2014年発刊ですので、今から11年前の話です。

兵士として出兵された方々が語られた「私の戦争体験」が主要なもの。その中で異色のものとして、親と家族の手紙のやりとりを通して、子供から見た「私の戦争体験」が記載されています。

それは、たまたま高校の物理の先生自らのご幼少の頃について、語り継がれていたものでした。(編集当時79歳)

◆お父様は旧広島高工出身で中国電力の技師、広島に転勤されてからに召集されています。

先生は、終戦時は10歳。お父様と奥様の他、お家の人との葉書、手紙のやりとりで、自宅に保管されている。それらから文字起こしされ、投稿されています。

記載されている文面からは、当時のお父様の声が聞こえてきます。

(8歳ぐらいから10歳ぐらいまで、戦地と自宅とでやり取りされた葉書、手紙)

子供の怪我の様子、家での行事、子供の家での勉強のこと、また、親戚のこと等様々な心配、いや心配りに満ちた内容です。また、時には、幼い子供の為に、末筆にはカタカナのみで書いたりされているので、如何に子煩悩であったか、その姿が偲ばれます。

当時のご時世として、郵便物に関して、軍の検閲も想定されるご時世。

人名を使って派遣される地域を伝えるために、夫婦の間でだけ分かり合えるちょっとした暗号帳のようなものも残っています。

(例えば、東京=森君、神戸=水島君、山口=上田君とかの様)

また、葉書の各行、五月雨で”段落ちに文字を拾う”と本当は伝えたいのだけど検閲に引っかかるような情報も”段落ちに文字を拾う”夫婦間二人だけには通じ合う文字が拾えます。きっとそれを読み取るに奥様が使用したと思われる赤〇をされた文字。

戦地に赴く前に約束(”通信要領”)を作り、それを拾うと心が通じあえるようにされています。

19年11月以降は戦況の厳しさに伴い、航空郵便は途絶え、送金する際の通信欄が唯一の連絡のやりとりになっていきます。

◆戦死公報によると、お父様の最後はフィリピンの本部詰めで勤務されていて、そこで戦死をされています。その年月日は”昭和20年7月”になっています。

戦後、無事の復員を願いつつ過ごされた月日、昭和23年1月になって戦死公報が届きます。戦後いろいろな混乱が続いていたことでしょう。

県からは紙切れ一枚、岡山県民生部長発のもので、哀悼の言葉(1月16日付)は尽くされたものですが、日付、宛名のみ追加で手書きされたもの。戦死通知は別の木箱。

戦死の公報伝達(1月20日付)については津山市長の”職務権限”で戦死に伴う戸籍の抹消処理がなされることを記されています。また両者ともあくまで”事務的なもの”です。

戦後になって、奥様はご自身で軍での同僚だった人を探しあて、一人で夫の消息調査を進められています。

本部詰め士官11人の中で、生き残ったのは2人。その一人の話では昭和20年には本部が壊滅した時の状況、事実を突き詰めています。

◆戦後80年ではすでに集めることの出来なくなっている「語り継ぐ 私の戦争体験」がその中にはありました。

高校時代、その物理の先生は大変苦学されて大学を卒業され、教師になられた話、それは生徒間では言い伝えられていました。その苦学の謎が解けた50年後の8月。

先生は出身大学で物理学を、そして晩年は出身地の最寄りの大学、高専で物理を教え続けられました。

追記:

2024年のノーベル平和賞は、被爆者の立場から核兵器廃絶を訴えてきた日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)が受賞されました。

「語り継ぐ」ことの難しさに直面されています。

一方、多くの学徒が戦陣に散りました。1947年の「はるかなる山河」に続き、1949年には「きけ わだつみの声」が発刊されています。その中には、我々の先輩の山口高商関係者の投稿もあります。

(小樽商大では毎年8月15日、学徒出陣などで亡くなられた学生たちを追悼する慰霊祭が行われています)

(岡山B)

高杉晋作のはなし その4

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】

◆師・松陰の評価

高杉晋作は松下村塾に在って、久坂玄瑞と並ぶ逸材とされる。

高杉晋作に関する本を読むと、勇ましい話、奇跡的に成功した話、リーダーシップを発揮して組織を統括・牽引する話は出てくるが、不名誉な話はあまり伝わってこない。

ひとつのエピソードがある。

江戸での話。

師の松陰が11代将軍家斉の側用人であり井伊直弼の配下で通商条約の勅許を得、一橋派や尊王攘夷派を弾圧した老中・間部詮勝(まなべあきかつ)を討つというくだりだ。

大老井伊直弼は幕政に批判的な勢力を抑えるために老中の間部詮勝を京都に送り、朝廷を動かそうと考えた。

強引な井伊直弼は水戸藩が引き受けることに呼応し、長州藩にも協力を申し入れてきており、松陰は京都にいる間部詮勝を討つと、言い出した。

これには長州藩の重鎮、例えば松陰の理解者の周布政之助のほか弟子のみんなも反対した。

晋作も反対したところ、松蔭が他の者に宛てた「高杉はもっと考えのしっかりした男と思っていたが、期待はずれ」とした文書を目にする。

晋作は誤解を解こうと野山獄の松陰に手紙を出すが、無駄であった。

返ってきたのは怒りの手紙だったという。

晋作が酒を飲むようになったのはこの頃からだという。

ある夜、酒を飲んで帰る途中、野良犬が横切ったので、二尺五寸の刀で犬を真っ二つに切った。

◆死に際に

面白き こともなき世に 面白く・・・

同志であり、幕末の女流歌人・野村望東尼(ぼうとうに)が受けた下の句

・・・すみなすものは・・・

晋作が死ぬ間際に「ヨシダ・・・」と言った。

ヨシダ・・・

晋作最高の業績である奇兵隊の本陣があった吉田なのか。

あるいは松陰のことなのか。

下の句

ヨシダ先生 捧げん我が志・・・

(学23期kz)

高杉晋作の墓(下関市大字吉田町)

高杉晋作のはなし その3

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】

元治元年12月15日(1865年1月12日)、功山寺の挙兵では、後に石川小五郎率いる遊撃隊50名も参加し、80名で奇跡を起こす。

12月15日、雪が降る中、80人が功山寺を出て未明に下関の藩の新地会所を襲って占拠し、軍資金や武器弾薬を奪って萩の保守派政府(いわゆる俗論派)に宣戦布告した。

さらに高杉は三田尻に向かい、藩の軍艦3隻を奪って下関に戻った。

これにより山縣有朋も方針を転換せざるを得なくなり、高杉の軍勢いが強まる。

萩の正規軍も反乱鎮静軍として、軍勢は3800人。

しかし、高杉軍は山縣らの参道により兵の増強もあったが、それでも2000名。しかし奇襲攻撃で鎮静軍を撃破した。

1865年7日から16日までの「大田・絵堂の戦い」により、高杉軍(正義派)が椋梨の保守派(俗論派)を打ち負かし、再び藩の主導権をとった。

こうして長州は急進派・改革派・正義派主導で四境戦争(第2に長州征伐)を経て、維新へと突き進むことになる。

ここでも奇襲戦法で、幕府軍をかき回した。

刀のように実態を超える、出来すぎた幻の高杉晋作像でなければ良いのだが。

四国艦隊との賠償問題解決(1864年9月)、彦島引き渡し拒否、本当にそうだったのか。

細部がよく伝わってない。

どうもぼやけているように気がしてならない。

不透明だが、結果はうまい具合に伝えられている。

しかし、やはり、歴史精通者の解説を聞くと、電撃・奇襲作戦で、勝ちを引き寄せているようだ。

◆四境戦争(1866年6月)

四境戦争(第2次長州戦争)では小倉口を任された高杉。

幕府軍数万に、高杉騎兵隊4千。

ここでも奇跡的な勝ち方をしている。

高杉の奇襲攻撃を受けて、政府軍の大型艦船が傷の拡大・沈没を恐れて撤退したため、奇跡的な勝利を得ている。

この時にも高杉は、歴史家や軍事の識者をして「軍事の天才」と呼ばせている。

◆彦島租借案件

下関事件の後始末で連合艦隊との交渉役でも、高杉が呼ばれ、スポットライトが当たった。

当時は脱藩の罪で牢につながれていたが、藩庁から胆力を買われて交渉の担当役に抜擢されたのだ。

下関事件の果てに300万ドルの賠償金問題と彦島租借問題が持ち上がった。

賠償金問題については、長州藩は幕府が命じた異国船打ち払い令を実行しただけとの理由で支払いを拒否、幕府側の問題であるとして、逃げることに成功した。

四国連合は賠償金支払いに難色を示した場合、下関開港を要求しようとしており、開港となった場合、その大きな利益を産む海外貿易のメリットが長州藩に生まれるため、賠償金の支払いに応じることになったものだ。

もう一つ彦島租借問題が残った。

高杉は租借となった場合について、上海で身をもって体験しており、何としても租借問題を回避したかった。

事実はよくわかっていないが、当時通訳として交渉の日本側通訳の一員として入っていた英国帰りの伊藤博文によると、交渉にあたり古事記のくだりを長々と諳んじて、交渉相手を辟易させたようである。

しかし真実のところはわからない。

結局彦島租借は立ち消えになったが、これには租借を要求する英国にフランスが抵抗したというのが実情ではないか。

仮に租借が実現できたとしても当時、島に海兵隊を駐留できるのは英国だけということもあり、フランスが反対したこともあり、結局彦島は無傷となった。

つづく

(学23期kz)

彦島(下関の南端)Wikipedia