事務局員交替のお知らせ

        事務局員交替のお知らせ

 令和3年4月、鳳陽会東京支部を5年近く支えてきた

事務局担当者、吉澤義則(22期)が退任しました。

後任の担当者として葛見雅之(23期)が就任しました。

 吉澤は引き続き、副支部長として活動していきます。

 コロナ禍ですが、山口大学経済学部同窓会の絆を大切に

精一杯、運営していきます。

 ご指導、ご支援をお願いします。

              鳳陽会東京支部事務局長

              塩塚 保(23期)

東京支部総会中止のお知らせ

        【鳳陽会東京支部総会中止のお知らせ】

 鳳陽会東京支部は新型コロナウイルス感染防止のため

令和3年度総会を中止します。

 東京支部は例年6月に支部総会を開いてきましたが、

新型コロナ収束が見通せないため、昨年度に続き、

開催を見合わせます。

          【長州歴史ウォーク】

鳳陽会東京支部は令和3年6月5日(土)、東京都・六本木周辺で

長州歴史ウォークを開催しようと企画しています。

 3密を避け、感染リスクを抑えた野外行事です。

 母校(山口大学経済学部)ゆかりの長州を基軸に歴史の現場を

巡ります。企画が具体化したら、改めてお知らせします。

青春のザビエルの塔①

         青春のザビエルの塔①

1970年代の早春、わたしは高校の黒い制服を着て、山口駅に降り立った。

明日、山口大学経済学部の入学試験に臨む。

 改札口を出る。駅前通りに立った。愕然(がくぜん)とした。

人がいない。活気がない・・・。

 ―こんな街で青春の貴重な4年間を過ごしたら、

  時代に取り残される。受験はやめた。浪人しよう。

 その場で、決心した。

         ◇天上から鐘の音

だが、せっかく、九州から列車を乗り継いで山口まで来たのだ。

名所を見物してから、帰郷しよう。

駅前通りをまっすぐ進む。早間田交差点を渡った。

そのときだった。

天上から美しい鐘の音色が降り注いできた。

空を見上げる。

亀山の森。教会の白い塔がすっくとそびえている。

ザビエル記念聖堂の塔だった。

 戦国時代、フランシスコ・ザビエルは山口を訪れ、

布教活動を行った。そのゆかりの教会なのだろう。

 亀山のふもとに山口大学経済学部の校舎が建っていた。

格調高い本館と講堂。いいじゃないか。

しかも、正門前広場ではヘルメットをかぶった学生たちが

政治集会を開いている。

 これなら、時代に取り残されることはないだろう。

―よし、明日、本気で入学試験に臨もう。

 受験の結果、なんとか現役で合格することができた。

        ◇クリスマスの夜 

 ロマンチックなクリスマスの夜。

学生たちのデートコースは亀山のザビエル聖堂だった。

寒い夜。なぜか、経済学部の男子学生と教育学部の女子学生の

カップルが多かった。

 甘い、青春の思い出・・・。

        (元山口大学経済学部生)

深夜食堂「蛇の目寿司」

深夜食堂「蛇の目寿司」

1970年代、山口大学経済学部(亀山校舎)の学生たちは鳳陽寮や

亀山、一の坂川周辺の下宿などで暮らしていた。

 若かった学生時代、深夜になると、腹が減る。

 当時、山口には深夜営業のコンビニや牛丼店はなかった。

  ◇午前零時も営業

 友人と議論(1970年代は熱い時代だった。私たちは政治、文学、

恋愛、そして人生論などをめぐって激しく語り合った)や麻雀で

夜が更けると、だれかが言い出す。

 「腹減ったなあ。蛇の目に行くか」

 「異議なし」

 蛇の目とは山口駅方面の裏通りにある「蛇の目寿司」のことだ。

この店は山口では珍しく、午前零時を過ぎても、営業している。

 ◇大盛りカツ丼

のれんをくぐる。年配のおかみさんがしゃがれた声で「いらっしゃい」という。

私たちは席に座るや、メニューを見ることなく、早速、注文する。

 「カツ丼、お願いします」

 「僕も、カツ丼」

 「私も・・・。」

 学生が寿司を注文することはまず、ない。決まってカツ丼である。

 大盛りのカツ丼が出てくる。

豪快にかっこむ。うまい。完食。満腹。大満足。

  ◇伝説

  カツ丼1杯でおなかいっぱいになった。

だが、経済学部の某先輩がお代わりを注文して2杯、たいらげたという

伝説(私は目撃していない)が語り継がれていた。

寿司屋のカツ丼。

昭和の時代のよき思い出である。

(元山口大学経済学部生)

山口市歴史雑感

はぼ半世紀前に山口市市街地で4年間の学生生活を送った。1年目は山口大神宮近くの学生寮(松風寮)で、2年目からは瑠璃光寺にほど近い上竪小路に下宿した。

今、思えば毛利藩庁跡を中心にそこいら一帯は明治維新に関わる長州藩士が活躍した史跡の宝庫であったが、その当時は歴史の教養に乏しくたとえ史跡に出会っても何の感慨も持たず目の前を通り過ぎるだけであった。

そもそも竪小路自体が古びたしもた屋が立て込んだ何の変哲もない道に過ぎないと思っていたが、下宿の前の通りは高杉晋作や久坂玄瑞も駆け抜けた萩往還の山口側の出入り口であったとは今振り返ってみて己の無知にあきれる。

社会人となって司馬遼太郎を初めとする作家、歴史家の著作やドラマに触れて幕末から明治にかけての劇的な変化の詳細を知ることとなり、今になって十分に時間的余裕のあった学生時代に維新に関係する史跡に関心を持たなかった自分が少し悔やまれる。

特に最近になって知ったのは、戊辰戦争にて使用された官軍の錦の御旗が山口市後河原(正確には水の上町)にあった藩の養蚕所の一室で秘密裏に製作された事実である。

鳥羽伏見の戦いにおいて京の東寺に薩長軍の錦旗がひるがえったことで、幕軍側が戦意を喪失したエピソードは余りに有名であり、映像の中においても官軍が勢いを増す象徴的なシーンとしてよく登場するが、その錦旗が下宿から数分先の一の坂川河畔において秘密裏に製作されたとは全く知らなかった。

ネットで検索すると、現在は現地に「錦の御旗製作所跡」として案内板や板塀が山口市により整備されているそうだが、石碑はかなり以前から設置されていたとのことで学生時代でもこの事実を確認することができたようである。

この錦旗が誕生する経緯は司馬遼太郎の作品「加茂の水」に記されているが、岩倉具視の陰謀に近い企てに主要なプレーヤーとして大久保利通や品川弥二郎が参画したもので、その後の歴史に及ぼした影響は誠に大きく興味深い。

(鳳陽会東京支部 Y生)

    冬山合宿

              冬山合宿  

1970年代の冬、山口大学ワンダーフォーゲル部は冬山合宿を行った。

重いリュックを背負って山口を出発。列車とバスを乗り継いで広島県と島根県の

県境にある山地に到着した。ふもとにテントを張り、寝袋に潜り込んで宿泊した。

 翌早朝、起床。空は青く、晴れ渡っている。

さあ、出発だ。部員6人は意気揚々登っていく。

先頭を行くのはサブリーダーだ。1回生、2回生が続き、最後尾はリーダー。

 冬山合宿のリーダーはN先輩(経済学部3回生)だった。

中腹まで登った。山は雪でおおわれている。登山道が見えない。

頂上の方向を目指し、ひたすら、まっすぐ、登っていった。

          ◇天候急変

 8合目あたりに達した。頂上が見える。あと、ひと息だ。

ところが、突然、空が暗くなった。風が強く、吹く。雪が降る。

猛烈な吹雪となった。リーダーが登山停止を命じた。

 「全員、その場で足踏み」

 吹雪の中、歩みを止めると、身体が冷え切る。動けなくなる。

重いリュックを背負ったまま、足踏みをして体温を維持する。

 1時間ほど経過した。吹雪はますますひどくなる。リーダーが指示した。

 「リュック下ろせ。チーズを出して足踏みしながら食べろ」

部員は非常用食糧としてチーズひと箱をリュックに入れている。

チーズを取り出し、立ったまま、かじる。エネルギー補給だ。

          ◇リーダーの決断

 暫くして、ようやく吹雪が収まった。青空が広がる。頂上が見える。

さあ、登山再開だ。

 ところが、リーダーが下した決断は意外なものだった。

登頂断念。下山。

 ―えっ、天気は回復した。頂上は目前なのに・・・。

 リーダーの決定に従い、私たちは未練を断ち切って下山した。

こうして私たちは全員、無事に猛吹雪の冬山から生還することができた。

 若きリーダーの見事な判断と決断。いま、思い出してもほれぼれする。

(元山口大学ワンダーフォーゲル部員)

ボランティアガイドの効用

        ボランティアガイドの効用

            ◇歴史散策

数年前に会社を定年退職して、膨大な余暇を前に何をやろうかと考えた。

何を始めるにしても条件はお金がかからないこと、地元の仲間ができること、自分の興味に適したこととした。その結果、たどり着いたのが地元の歴史散策ガイドである。

            ◇横浜市都筑区        

現在、住んでいる横浜市都筑区は横浜市の北部に位置し、東京にも近い。都筑区と言っても馴染みのない人が多いだろうが、都筑郡という地名は律令時代から昭和初期まで1200年以上使われたもので、その名前が平成6年の横浜市北部再編に伴う新区名として復活したものである。

都筑区の特徴は計画的に開発したニュータウン地域と農業専用地区が分かれているが、開発から免れた地域や古い街道(大山街道、中原街道など)周辺には神社仏閣、旧家など古俗もかなり残っている。都市計画により、15㎞に渡って車と交差しない緑道が街中を巡っており、安全な散策にも事欠かくことがない。

歴史的にも鎌倉から江戸時代にかけての文書、伝聞が多く残っている。

             ◇コース選定

以上の街の特徴を元に緑道や農専地区、古街道を織り交ぜて3時間程度で歩けるコースを数か所選定して参加者を募る。ガイドするためにはその予習も必要である。おかげで街の歴史には詳しくなった。知らないことや、疑問が湧いてきて夢中になって調べる楽しみもできた。その結果を仲間と議論したり、参加者に披露する場もある。

定年後は地域に戻ることでもあるので、地元に多くの仲間ができたことは喜ばしい。元気な間は少しでも長くボランティアガイドを楽しみたいと思っている。

(山口大学経済学部22期生)

古き、よき酒場「大万」②

        古き、よき酒場「大万」②

        ◇日本一安い(?)フグ鍋

1970年代、山口市道場門前に古き、よき酒場「大万」があった。

連日、学生や市民で、にぎわった。

店の壁には安くて、おいしいメニューがずらりと貼ってある。

おでんの一品、卵、厚揚げ、ちくわ、大根、じゃがいも、こんにゃく、ごぼてん・・・。

一品料理の餃子、玉子焼き、肉野菜炒め、湯豆腐、冷奴、肉じゃが・・・。

 寒い季節に登場するのが、ふく(フグ)鍋だ。

小さな鍋に骨付フグ、豆腐、そして白菜とネギ。

私の記憶が正しければ、580円だったと思う。日本一安いフグ鍋と評判だった。

骨にフグの白身がへばりついており、舌の先ですくいとるようにして食べる。

それでも十分、おいしかった。

 しんしんと冷える夜、友とフグ鍋を囲み、熱い酒を飲む。

 ああ、あの日に戻りたい。

 ◇メニュー順にどんどん注文

ある夜、私は後輩たちを連れて大万ののれんをくぐった。

アルバイトの収入がたっぷりあった。

 「よし、今夜はおれのおごりだ。メニューの端から順番に全部、

注文しよう」

 後輩たちは本当に順番にどんどん注文し、次々にたいらげていく。

だが、若い胃袋にも、限界というものがある。メニューの最後までたどり着くことはできなかった。あの夜の贅沢な宴・・・。今も思い出す。

        ◇消えた酒場

山口大学経済学部を卒業。永い歳月が流れ、山口を再訪した。

―今夜は大万で飲む。と、決めていた。日が暮れて道場門前を訪れた。

だが、古き、よき酒場「大万」は消えていた。隣の映画館「金龍館」(あの、仁義なき戦いを見た)も閉館していた。青春の酒場がない。喪失感・・・。悲しかった。

 いつ、大万は閉店したのだろうか。ご存知の方、教えて下さい。

               (元山口大学経済学部生 S )

古き、よき酒場「大万」①

        古き、よき酒場「大万」① 

          ◇初めて大万で飲む

1970年の春。夕暮れどきだった。

山口大学・鳳陽寮(当時、山口市亀山のふもとに健在だった)の廊下で

外出しようとした先輩(経済学部生)に声を掛けられた。

 「ちょうどいい。いっしょに飲みに行くか」

 「はい」(喜んで)

 先輩に初めて連れていかれたのが、山口市道場門前の

酒場「大万」だった。テーブル席とL字型のカウンター席。

おでんの湯気がもうもうとたちこめる。

わたしたちはカウンター席に座った。まずは瓶ビールを注文し、

飲み始めた。私が丸々太った女将さんに

初対面のあいさつをしたところ、いきなり、こういわれた。

 「あなたは 経済学部やろ」

 「はい、そうです」

 「やっぱ、経済の学生さんは、ちょっと違うね」

 そんなもんだろうかと思いながらも悪い気はしない。

     ◇経済学部生の試験心得

しばらく飲んでいると、隣に学生が座った。

彼もまた、経済学部の先輩だった。その先輩が

経済学部生の試験心得について語り始めた。

 「あのな、試験で、優なんか、とるもんじゃないぞ」

 「はあ」(なぜ、優をとってはいけないのか。私には理由がわからない)

 「といっても、不可は論外だ」

 「そりゃ、そうですね」

 「いいか、可が一番だ」

 「はあ」

 「経済の学生は可、可、可、可で全部、単位をとる。これだ」

私は先輩のいいつけをよく守った。 優は卒業論文だけ。他は、ほとんど可だった。

鳳陽寮の青春

◇入寮

1970年代、鳳陽寮は山口市亀山のふもとに健在だった。学生たちは伝統を誇る寮で暮らし、青春を謳歌した。

私が入寮したのは昭和45(1970)年春。旧制高校を思わせる蛮カラの気風が荒々しく、なにやら恐ろしく感じたものだ。

鳳陽寮は5寮で構成されていた。南寮、中寮、西寮、北寮、そして西北寮である。私は北寮2階の部屋を割り当てられた。北側廊下の窓ガラスはことごとく割れ、吹きさらしの状態だった。隣室の先輩の部屋には戸がない。真冬には雪が枕元に吹き込んだ。

それぞれの寮には独自の気風、伝統があった。寮長がいて、寮歌がある。ストームの流儀も異なった。   

4月、それぞれの寮で新入寮生歓迎会が開催される。最初に覚えるのが寮歌だ。

【鳳陽寮歌】

「花なき山の 山かげの

月も宿さぬ 川の辺の」

【山都逍遥歌】

「春を弔う落英か

朧(おぼろ)に流る 椹野川」

ときは春。一の坂川河畔の桜は満開だ。惣野旅館でしこたま酒を飲み、声高らかに寮歌を歌いながら、帰寮する。心地よい。ああ、快なるかな、快、快・・・。

◇ストーム

 コンパの後は、ストームだ。北寮寮長が寮務室でマイクを握り、館内放送する。

「ただいまより、北寮がストームを行う」

南寮の全寮生が勢ぞろいして待ち受ける。南北寮生がそれぞれの寮歌を歌う。そして最後に肩を組み、山都逍遥歌を高唱する。北寮生は南寮生の見送りを受け、意気揚々と次の中寮、そして西寮、最後に西北寮へと向かうのだ。西北寮の寮歌は“焼酎讃歌”だった。私は好んでよく歌った。

西寮のストームは独特だった。通称“パンツストーム”。西寮の寮長が館内放送でストーム開始を告げる。  

鳳陽寮は騒然となる。全寮生がそれぞれの洗面場に飛び出し、バケツに水をためて待機する。そこへ西寮生が走って来る。真冬でもパンツ一丁だ。盛大に水をかけ、大騒ぎとなる。

寮ごとの公式ストームとは別に個人ストームもあった。寮生は酔って帰寮し、高揚した状態で「ストーム」と叫びながらひと部屋、ひと部屋すべて回る。寮生は就寝中でも「ストーム」の声が聞こえると、布団をたたみ、正座して迎えるのが不文律だった。このとき、出身高校と学部、姓名を大声で名乗るのが流儀である。

「福岡県立〇〇高校出身、花の経済学部1回生、〇〇 〇〇」

経済学部生は「花の経済」と美称を付けて名乗る。経済学部生は誇り高かった。

  ◇寮生の日常

鳳陽寮は、自治寮だった。

学生が自らの力量で寮を運営していた。重要な事案は寮生大会で議論し、決した。

外部からの電話を取り次ぐのも学生(当番制)だ。館内放送で呼び出す。

「〇寮の○○君、電話です」

女子学生からの電話が入ると・・・。

「〇寮の○○君、お電話です」

違いがわかるだろうか。「お電話」が入ると、寮生は寮務室にバタバタと駆けて行ったものだ。

大食堂で食事をした。若い女性スタッフが献立を考えていた。スコッチエッグなど、しゃれた料理を初めて食べたのも鳳陽寮の食堂だった。

新入生向けに社交ダンス講習会も開かれた。ダンス上手の先輩が指導する。踊る相手は寮生(男子)・・・。1~2週間後、ようやく椹野寮生(女子)と合同練習を行うことができた。

酒を飲みに行くこともあった。道場門前の「大万」。日本一安いというふぐ鍋が名物だった。確か、580円だったと記憶している。

深夜、空腹になってくると、寮生たちは町に出かけた。行先は「蛇の目寿司」。寮生が寿司を注文することはまずない。カツ丼だ。うまかった。満腹になった。

  ◇寮祭

鳳陽寮が最高潮に盛り上がるのが寮祭だ。寮祭の準備は樽みこしを作ることから始まる。5寮がそれぞれ工夫して作る。

北寮生は一の坂川近くの造り酒屋(蔵元)に押し掛け、空いた酒樽を担いで帰る。続いて長い縄を寮の廊下に伸ばし、しめ縄を作る。寮生が総出で縄を持ち、先輩の掛け声に合わせ、より合わせていく。大相撲の横綱作りと同じ要領だ。作業を繰り返すと、太いしめ縄が出来上がる。

2本の竹の上に酒樽を組み上げ、しめ縄で括り付ける。笹の葉を飾って樽みこしの完成だ。

寮祭当日、寮生たちはみこしを担いで道場門前を練り歩く。市民があたたかく、迎えてくれた。そうだ。あの頃の山口は「学生さん」を大切にしてくれたように思う。

ところが、伝統を誇る鳳陽寮は老朽化が進んでいた。山口大学経済学部の平川移転も重なった。鳳陽寮は廃寮となることが決まった。

1970年代。寮祭が敢行された。寮祭最終日の夜、ファイアーストームが行われた。寮生たちは焚き火を囲む。全員、肩を組み、山都逍遥歌を高唱した。

通常は逍遥歌4番の「消えゆく鐘に目覚むれば 弦月白し鴻の峰」を2回繰り返して終わる。

だが、この夜は違った。何度も、何度も、いつ果てることなく繰り返した。鳳陽寮の終焉を惜しむかのように。若い歌声が鴻の峰に消えていった。

              (元鳳陽寮北寮寮長)