豊響関断髪式

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

【2023年1月トピックス】

平成の猛牛との異名とった元前頭豊響の山科親方の断髪式があり、鋏を入れさせて頂いた。

山口県豊浦郡(現下関市)豊浦町出身。

豊響の名前、「豊」は出身の豊浦、また母の名・豊美から取り、「響」は関門海峡の北西に広がる響灘を望む母校・県立響高校から取ったとのアナウンスがあった。

◆半年前の出会い

豊響関との出会いは半年前。

山口県関係者が多く集う会場で、会場に取り巻きの方々と参列していた豊響関とたまたま名刺交換したことで、断髪式への案内状が届いた。

参列するか否か悩んだが、山口出身の関取でもあり、社会勉強だと思って参加表明をした。

参加表明をしたはいいが、こうした業界に馴染みがなく、初めてのことでもあり勝手がわからない。

どのような服で臨むのか、祝儀はどれくらい包むのか、どういう祝儀袋に入れるのか。

相場を調べると断髪式の祝儀は10万~100万と出ていた。これには参った。

重苦しい日が何日か続いたが、断髪式に臨む祝儀相場をよくよく調べていくうちに、より控えめな値を掲げた一文を発見。そこに光明を見出し心が晴れた。

また、昨年暮れに長州歴史ウォークでスタート地点の両国駅前に集合したとき、すぐ横の国技館に向かう方にスーツにネクタイ姿の身ぎれいな紳士が多く目に映った。事後に調べてみると、その時も断髪式(幕内・旭日松・桐山親方)が行われたのだ。

そうか、スーツにネクタイか。これで当日のいで立ちは決まった。

◆400人が鋏入れ

前日の1月28日(土)には横綱白鳳の断髪式があった。

その時の会場は満員。断髪式参加登録者は280名だったが、当日は追加で急遽500名が断髪したという。最後の大銀杏に鋏を入れられ、宮城野親方との会食券も付いた500万円の特別体験プログラムが事前販売されていたが、隣に座った事情通の方によると、当日、祝儀として550円の達磨を当日500万円で買って断髪鋏入れの権利を手に入れたお客がいたという。しかもその達磨が3個売れたそうだ。

その翌日が今回の豊響・山科親方の断髪式。断髪式に臨む参加登録者は400名だ。

断髪式まで各種の出し物が披露され会場から笑いがこぼれる。

断髪式まで時間がかかる。会場をひと回りすると、山口の、そして下関の物産販売コーナーが各所に設けられ、結構賑わっていた。

いよいよ断髪・鋏入れ。

一人一人肩書・名前が呼ばれる。土俵に上がり、敷かれた赤絨毯を進み出て鋏入れ臨む。

中には角界での有名人や、芸能人や著名人も土俵に上がり、その都度会場から拍手が起きた。

◆生涯戦績勝ち越し、そしてひとつの大金星

豊響関は183センチ180キロと恵まれた体躯をしている。

しかし網膜剥離や心臓の不整脈と身体の故障に泣いた。

それを支えたのが美人の奥様。馴れ初めは場内のアイスキャンディーの売り子さんだった奥様に一目ぼれしたという。

豊響関の幕内戦績は347勝403敗30休。

しかし生涯戦績は569勝565敗(66休)と勝ち越しだ。

十両優勝3回。敢闘賞3回。

そして大金星がひとつ。2012年夏場所7日目のことだ。

前日の主役であった横綱白鳳を小手投げで破り、座布団が飛んだ。

平成の猛牛の目にも涙。

その模様が会場のアナウンスで紹介されると、会場が湧いた。

(学23期kz)

最後の取組ー長男と次男

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趣味は将棋(へぼですが・・・)同好会編

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【2023年1月トピックス】

将棋が好きです。

数年前、地元の将棋同好会に入会しました。

将棋同好会には初段から8段まで有段者が多数います。

みなさんお強い。

ちなみに私は1級(初段の下)です。

◇日曜日の例会

 将棋同好会は毎週日曜日の午後、例会を開いています。

抽選で対局者が決まります。1日で3~4人と対局するのです。

下級者が有段者と平手で対局すれば、ほぼ、全戦全敗します。

大相撲の幕下力士が幕内力士と対戦するようなものです。

これではおもしろくない。

ハンディをつけます。

持ち時間(考える時間)の制限(例えば私が30分で、有段者は3分)や駒落ち(例えば有段者が飛車落ち)で対局します。

ハンディをつけると、理論上、勝負は五分五分のはずなのですが、そうはならないところが悩ましい。3段以上の強者に勝つのは至難です。

 対局の勝敗は公式記録として残します。

半年間の結果、成績が良ければ昇段・昇級します。

成績のよかった人(3段)が4段に昇段しました。みんなが拍手で祝福。とても喜んでいました。

逆に成績が悪ければ、降段・降級もあるのです。

怖い。

 私は昨年、よんどころない事情で例会を長い間、欠席していました。

最近、例会に復帰しました。しばらく実戦から遠ざかっていたせいか、このところ、連戦全敗です。

このままの状態が続けば、来期は降級の危機か・・。

◇将棋合宿

 同好会は年に1回、合宿を行います。

私も参加したことがあります。

房総半島の海辺のホテルに1泊しました。

昼過ぎに到着。さっそく対局が始まります。

夕方、入浴。そして1杯やりながら楽しく食事。

食後もまた、将棋、将棋・・・。

翌日も午前中は再び、将棋です。

1泊2日で10数局指しました。人生でこれほど多く将棋を指したのは初めて。頭がぱんぱんになりました。

◇プロ棋士の指導対局

 コロナ禍の前まで、同好会は年に1~2回、プロ棋士を招いて指導を受けていました。若くてスマートな7段棋士が地元に来て指導してくれます。

将棋盤をたくさん並べて、プロ棋士は同時に数人の同好会員と対局するのです。

実力に応じて駒落ちで対戦します。

私は6枚落ち(飛車、角、桂馬2枚、香車2枚)でお願いしました。

 相手は攻め駒を持っていません。私は端から攻めて行き、飛車が相手陣地に突入。そのままの勢いで押し切った。

1級の私がプロ棋士に勝ったのです。

 プロ棋士はしばしば、アマチュア愛好家に勝利の喜びをプレゼントしてくれます。

そうとわかっていてもプロ棋士に勝った。

あのときのうれしさは忘れられません。

 (鳳陽会東京支部 将棋愛好家 S)

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集金旅行(1957年松竹映画)

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【2023年1月トピックス】

監督:中村登
原作:井伏鱒二

ストーリー)
亡くなったアパートの主人の代わりに旗良平(佐田啓二)は住民を代表して中国、四国への集金旅行に出掛ける。
これに残された子供と同じくアパートの住民の小松千代(岡田茉莉子)は昔付き合った慰謝料をとる相手がその方面に大勢いることから同行する。
岩国、山口、萩、松江、瀬戸田、徳島への珍道中です。

感想)
ふたりはウマが合わなくて、二人ともぎくしゃくとし、岡田茉莉子はつんつんしています。
旅先で出会う、伊藤雄之助、市村俊幸、沢村貞子、トニー谷、花菱アチャコ等の懐かしい俳優さんが出て来て大笑いです。

旅先で次第に軟化し、これはと思った良い雰囲気のところで、岡田茉莉子は後妻として徳島で花菱アチャコと結婚します。

佐田啓二は徳島名産の焼き餅を貰いますが、包み紙を鳴門のうず潮に投げ込みます。
正に花菱アチャコの名セリフ、「無茶苦茶でござります。」

二枚目の佐田啓二はこの映画では三枚目役です。
私に取って岩国、山口、萩、松江はゆかりの場所だけに懐かしい。
ただ、私は7年前に観ましたが、山口市のロケ地がどこだったのかどうしても思い出せませんでしたが、山口市ファンクラブの方からザビエル記念聖堂の内部が集金の舞台となったと教えていただきました。
一昨年2021年10~11月に劇団民藝がで東京公演をされたようです。
(主演 樫山文枝)

キャスト)
佐田啓二(31)
岡田茉莉子(24)
十朱久雄
桂小金治
伊藤雄之助
市村俊幸
沢村貞子
トニー谷(40)
花菱アチャコ(60)


(学22期 Y・Y)

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育て、目利き人②

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【2023年1月トピックス】

◆人材交流の好機としての転職や副業

これまではもっぱら終身雇用制がもてはやされてきた。異業種交流という言葉あっても、企業の間ではさほど真剣に考えられてこなかった。

しかし、この終身雇用制はすでに時代遅れになった感がある。

最近では副業の推奨、出向の推奨が盛んになされており、一歩進んで、他業・他社への出向を経験しておかないと幹部に登用しないとする大手企業も出てきた。企業の中では正社員の副業を認める企業が半数を超えたという調査結果もある。

フィンランド方式からすると、最近の若者の転職を肯定的に捉えるべきかもしれない。

◆中央の人材の活躍の場

また若者だけではなく、壮年、あるいは企業の重鎮、リタイアー世代でもIターンやJターン・Uターン、また転職という形を伴わず、籍を中央に残したまま、居住地を変えないで副業として地方企業で働くこともできるようになった。

地方でも中央で活躍した専門性の高い人材を求めており、彼らが地方に貢献することで、地域創生、地域活性化に一役買うこともできる。

またこうした働き方は、自身の社会人としての度量を広げ、仕事のキャリアアップにもつながるのだ。

地方医での具体的な取り組みを見てみると、鳥取では地方の自治体が地元企業へ中央の大手企業の人材を地方企業の副社長に迎える斡旋をする「週一副社長」の取り組みがなされている。

鳥取の知事は全国知事会会長を務めている平井氏だ。平井氏は総務省出身である。中央の人材が地方で活躍することを地で行っている。

「鳥取にはスタバはないがスナバ(鳥取砂丘)はある」という具合に軽妙なジョークも飛ばしながら、地域おこしの先頭に立っている感がある。

◆山口の取組み

山口県の人口はピークの162万人(昭和33年)から令和3年には132.7万人となり、(最近では人口減のスピードが加速していることが気にかかる)。

これに伴い生産年齢人口も減ってきている。

一般的に言えば、こうした状況下では社会の活力が失われていく。

このため山口では山口フィナンシャルグループが、中央のプロの人材を抱える東京の人材サービス会社と組み、こうした中央人材と地域企業のマッチングを手掛けている。

ここでは転職して地方に移住しなくても、月イチの出張やリモートワークで活躍できるプロの人材を集めることで、地方の企業とのマッチングサービスを行っている。

このようにコロナ禍でのリモートの働き方を奇禍として、中央の大手企業の人材が知見を活かし、地方の異なる業種に身を置くことができる取組みが盛んになってきた。

なかなか進まなかったフィンランド方式の人事交流もコロナが背中を押した格好だ。

◆私の身近にも

そういえば私の周りにもそういう人材が出てきた。

高校・大学と同窓で後輩のH君。最近30年務めたメガバンクを退職し、九州の企業に再就職した。自宅は東京にあるので単身赴任となる。

中央の知見を活かし、九州の企業支援、引いては九州の活性化に貢献して頂くとともに、こうした働き方は自信にとってもプラスにならないはずはない。

九州の活性化への貢献、ご活躍を祈る。

(学23期kz)

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育て、目利き人①

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【2023年1月トピックス】

目利きが重要であることはいうまでもない。

その道のプロであっても申し分なく目を利かせることは難しい。官民を問わず、計画の策定、プロジェクトの企画遂行はもちろんのこと、人材の採用と選抜にも目利きが命となる。

その眼力によってプロジェクトの成否が左右され、このためプロジェクトに従事する人の人生にも大きな影響を及ぼす。

目利きができる人材の発見と活用、さらには目利きができる人材の育成、これ無くしては日本経済の再生は危ぶまれる。

◆目利人の育成

ではどのようにして目が利く人材を育成していくのか。

これは官民を問わずどこの業界にも共通する難問で、これができれば話は簡単だ。

この目利きは、特にリーダーの資質として致命的に重要だ。

人はそれぞれ独自の直観力や天賦の資質、独特の個性を持っている。

その発見と活用も重要なことだが、それだけでは足りない。

経験の積み重ねが要る。その経験についても、特定の分野だけで経験を積めば怖いものなしかと言えばそうではない。

周辺分野や全く異なる業界、違う世界を知らなければ、自分たちが置かれた座標軸を客観視できず、適正な判断が下せない場合が多い。ましてや最近は我々を取り巻く環境の変化は加速化・複雑化しており、これまでのビジネス慣行は瞬く間に古くなり、場合によっては間違いとなってしまう恐ろしい時代になった。

こうした中で、今後の展開を予想し、同時代人の発送より常に一歩先を見据えた判断力を養うには何が必要か。

◆フィンランドの事例

以前経済危機に陥った際、官民を含む人材交流の活発化によって目利き人材を育てることにより経済再生を果たしたモデル国があった。森林面積が67%の日本。その日本を超える73%森林に囲まれながら、ノキアを生んだフィンランドだ。

例えば金融機関に籍を置く人物が、特定の期間、大学で研究し、その後、行政の世界でも一定の経験を積み、金融機関に戻るというような事例だ。

誰もかれもこうした経験を積むことは難しいだろうが、中核を担えそうな若者群を選抜し、異質な経験を積ませ、これが各種プロジェクトの成功率を高めたとされた。

お互い別々の業種やサークルに属したままでは、他のサークルのことがよく分からない。こうした状況ではプロジェクトの成功確率が低くなる。逆に、異なる職や近隣の業界の職を体験すれば、土地勘が働き、成功確率が高まることも考えられる。

こうした官民を含めた人材交流は若者や中堅だけではなく、よりシニアな層、考えようによってはトップに近い層の交流も面白いかもしれない。

実際、ヘッドハントなどを通じて、こうしたことは一部実現されているとみることもできる。(つづく)

(学23期kz)

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第10代横綱・雲龍久吉の末裔

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【2023年1月トピックス】

先の第3回長州歴史ウォークの際に塩塚支部長より、両国の回向院の力塚で説明がありましたが、14年前にmixiに投稿したのをすっかり忘れていました。
追手風部屋の黒海の話をお聞きしたのは記憶にありましたが、人間、否私の記憶は当てにならないものと痛感しています。

2008-5-13mixi投稿分より引用

昨日、6月開催の同窓会の会場打ち合わせの為、市ヶ谷の私学会館(アルカディア)に出向いた。
待ち合わせ時間に遅れる人が出て、一年後輩で、今回、司会進行の塩塚さんという人と談笑した。
現在はマスコミ界の某新聞社に勤務している。
私の相撲好きを知っていて、最近、追手風部屋の後援会に入ったという。特別会員ではなく番付を送ってくる程度の会員で安価だという。
因みに特別会員は、年5万円とのこと。
以前は、相撲巧者の追風海がいたが、最近は黒海が所属する部屋として有名である。
なぜ、追手風部屋なのかというと、先祖が雲龍型で有名だった第10代横綱の雲龍久吉だというのである。
塩塚という名前も、福岡県の柳川市にしかない苗字とのことであった。
しばし、本人も13日目に国技館に観戦に行ったとかで、相撲談議に花を咲かせた。

追手風部屋の師匠は学生相撲出身の元大翔山である。
昔、広島の安芸乃島の地元の安芸津巡業があり、北の湖親方に会いにいったことがあるが、宿泊先のグリンピアは関係者以外立ち入り不可であったが、タクシーで乗り付けた私を見て、守衛さんが、行司さんですねとフリーパスで笑ってしまった。
そしてなぜか、当時の大翔山関が、タクシーの後ろの荷物入れに大きな身体を忍ばせていて出て来た思い出があります。(定員オーバーだったのかな)

ご参考)
雲龍久吉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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雲龍久吉雲龍 久吉(うんりゅう きゅうきち、ひさきちとも、1822年(文政5年) – 1890年(明治23年)6月15日)は、財団法人日本相撲協会が認定している第10代横綱である。本名は塩塚久吉→佐藤喜太郎。筑後国山門郡大和村(現福岡県柳川市)の生まれ。身長179cm、体重135kgと伝わる。

大坂相撲の陣幕部屋にいたが、1846年(弘化3年)江戸に出て追手風の弟子となり翌年幕下付出で江戸相撲の初土俵を踏んだ。柳川藩のお抱え力士。大関昇進は1858年(安政5年)正月、1861年(文久元年)9月横綱免許。入幕から何と4場所連続優勝相当成績。しかし、その後は体力の衰えがあり通算成績は普通となっている。幕内通算成績は26場所127勝32敗15分5預55休、勝率.799。優勝相当成績7回。現役引退後は年寄追手風を襲名、会所の筆頭(ふでがしら=現在の理事長に相当する)まで勤め、明治維新後の大相撲復興に努力した。

2つの横綱土俵入りのうち、不知火型の考案者といわれている。これは、雲龍型と不知火型の名が途中で入れ替わったとする通説による。 しかし、雲龍と第11代横綱の不知火光右衛門の土俵入りが立派であったため後世に名のみが残され、正式に型の名をつける際によく調べなかったため入れ替わったとの見方もある。実際にこの二人の土俵入りがどのような型だったかは、錦絵や写真から判断されている。(両手を広げた不知火型で土俵入りする雲龍の錦絵が残されていたり、不知火が雲龍型のポーズをとっている写真もある。

また、実在性に乏しい横綱の初代「明石志賀之助」から3代目「丸山権太左衛門」を公式の横綱に認定したのは彼であるとされる。

彼の記した手記によれば、第17代横綱「小錦八十吉」までの横綱について記されている。

(学22期 Y・Y)

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第94回鳳陽ゴルフ大会のご案内

第94回鳳陽ゴルフ大会のご案内
令和5年1月吉日
題記の件、第94回鳳陽ゴルフ会を、下記にて開催予定です。
尚、表彰式は、前回同様、簡素化して行ないます。
但し、新型コロナの感染状況次第で、開催を断念せざるを得ない場合も
考えられますので、お含みおき頂きたく、宜しくお願い致します。
出欠のご連絡は、2月24日(金)迄にお願い致します。
又、上限6組の予約の為、誠に申し訳ございませんが、先着24名様
とさせて頂きます。
                    記
 
○日 時  令和5年3月15日(水) 9:31 アウトスタート
○場 所  筑波カントリークラブ
          〒300-2301 茨城県つくばみらい市高岡830-2
                 電 話  0297-58-1515
○集 合  9:00現地
○交 通  電車 : つくばエクスプレス
        秋葉原7:16→みらい平7:59 クラブバス8:04
        秋葉原7:43→みらい平8:28 クラブバス8:33
                         コースまで約8分
               車 : 常磐自動車道谷田部I.Cより伊奈方面へ直進4Km 
○プレー費  約17,000円(含、食事代・キャディ)
           利用税、65歳以上軽減あり。
○参加費  3,000円(予定)
○連絡先 伊藤博司(学22期)
           自宅電話 047-332-7597
           携帯電話 090-3682-1034
           E-mail :  tlrp1859@yahoo.co.jp
           田中敬一郎(学22期)
                 E-mail :  9186iqzx@jcom.zaq.ne.jp
               長谷川誠也(学22期)
                 E-mail  : chika3good@yahoo.co.jp

そうだったのか、橋本左内

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【2023年1月トピックス】

◆小塚原回向院

荒川区の南千住の回向院のあたりには、江戸時代に小塚原といわれ処刑場があった。

ここでは杉田玄白や前野良沢が刑死者の腑分けに立ち会い、それをきっかけに解体新書を翻訳したといわれているところだ。

寛文年(1667年)その地に、第3回長州歴史ウォークでも訪ねた本所の回向院が刑死者を供養するため、開設したのが小塚原(南千住)回向院で、その一番奥に安政の大獄で処刑された吉田松陰の墓、右手に橋本左内の墓がある。

◆越前福井の天才

幕末の志士の中では、佐久間象山、村田蔵六(大村益次郎)と並らぶ、学問好きのマルチ系逸材である。

橋本左内は天保5年(1834年)に福井藩士の奥医師の子として生まれる。

14歳で江戸に出て医学を学んだ後、大坂の適塾で西洋医学を修める。蔵六が適塾の塾頭を務めていたが、蔵六が郷里へ帰った後も適塾に長くとどまった。塾の空き時間を利用して自己流で物理や化学の原書を読み、実験も試むなど知的好奇心が旺盛だった。

またこのとき、優れた国家的指導者がリーダーシップをとり、それを雄藩が支えるとする幕政改革を伴う国家の在り方に関する考えを深めつつ、幅広い学問を身に付けていった。

昼間は師の緒方洪庵の代わりに代診として往診もしていたが、夜もこっそりと塾を向け出して貧しい者の病気を診てやり、薬を渡すなど、貧民への情も厚かったという。

また、安政元年(1854年)、二十歳の時に大阪から江戸に出て、杉田玄白の下で、蘭学と医学を学び、この江戸で水戸の藤田東湖や西郷隆盛と出会っている。

何と20代そこそこで福井藩主松平慶永井(春嶽)に認められ、横井小楠、由利公正らと共に開明的学者として側近に取りたてられており、藩医と共に、御書院番、藩校明道館学監(学頭補佐)、藩主・春嶽の相談役も務めた。早熟ぶりが伺い知れ、福井の天才と言われるゆえんだ。

◆将軍後継問題

左内は将軍後継問題で、藩主・春嶽に与する形で一橋慶喜擁立に尽力した。

このため、井伊直弼に目を付けられることとなり、安政の大獄で吉田松陰らとともに散ることになる。

当時、松陰は29歳、左内は25歳。

◆西郷隆盛からの敬意

西郷は世に尊敬すべき人物として一に藤田東湖、二に橋本左内を挙げている。

藤田東湖は徳川斉昭の腹心で水戸学の大家。西郷よりも22歳も年上だ、片や橋本左内は西郷よりも6歳も年下だ。

西郷も6歳下の他藩士・橋本の力量を素直に認め、左内の見解に服するとしたのは大変立派であるが、そうした西郷を感服させるものを有する樫本左内も褒められるべきだろう。

一橋慶喜擁立では、左内と同様、西郷隆盛と慶喜擁立で立場を同じくした。

先が見えすぎる頭脳、頭脳の回転の良さ、英国のアジアや日本への接近への対抗策としてロシアとの関係を考慮すべきとするなど、外国との在り方を考察した逸材だ。

ホッとする話をひとつ。

左内は猫の物まねがうまかったという。

同時に人の物まねをよくしたという。得意だったのは「西郷どん」だったらしい。

(学23期kz)

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春高バレー2023

誠英(旧三田尻女子)が準優勝の快挙

春高バレーが1月4日から8日まで東京体育館で行われました。
山口県代表は男子が防府市の高川学園、女子も防府市の誠英でした。

高川学園は初戦敗退、誠英(33年連続43回目)は5年ぶりに4強進出で準決勝は大阪の強豪、金蘭会と対戦、1セット目は差をつけられ、2セット目も相手にセットポイントを許したもののそこから3連続得点で逆転した。
第3セットも取ってリードすると最終セットは主将の北窓絢音選手のスパイクから中盤に5連続得点で試合を決めた。
チームスローガンは「泥んこバレー」
(LIVE視聴)

宮城県代表の古川学園との決勝戦はフジテレビで放映され、1セット目19-25と先取されたものの2、3セットを連取し、大手をかけましたが、第4セットを取られ、第5セットで力尽きた。
ノーシードからの準優勝は天晴れでした。
ゲスト解説は誠英OBで04年アテネ、08年北京五輪代表の栗原 恵さんでした。

春高バレーは幼稚園、小学生(単一クラス)、中学生時代のクラスメイトO君が崇徳高校バレー部に進学し、在学中に高校総体、国体で全国制覇を成し遂げています。
その後、コーチを経て監督に就任し、春高バレーで上京した際は小学校時代のクラスメイトが集まり、新橋の居酒屋で激励会を開催し、代々木迄応援に駆けつけたものです。
そのO君も2011年に肺がんの病に倒れ、61歳で亡くなりました。
6人のお子さんに恵まれ、バレーボールチームが出来たのに…。
その崇徳高校も毎年のように春高バレーに出場していますが(9年連続49回目)、全国のレベルが高く、今回の春高も1、2戦は突破したものの、昔のようには勝ち進めません。

写真はスポーツニッポン掲載分より
(学22期 Y・Y)


教育熱心だった長州藩 ④

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【2023年1月トピックス】

◆時習館(僧月性)

月性(げっしょう)は現在の柳井市遠崎(とおざき)の妙円寺で生まれている。

幼少の頃から学問を好み、漢学、仏学、詩学の師を求めて旅に出ている。

15歳の時、豊前の恒遠氏の私塾で詩学を学んでいるさなか、訪れた長崎で欧米列強に接して脅威を感じ、海防の必要性を意識し、強く主張するようになる。「海防僧」という俗称もここから出ている。

23歳で帰郷するが、27歳にして京阪に学問の修行に出る。

この時作った詩を妙円寺の壁に書き残して柳井を去るが、この時の詩が有名だ。

「・・・学もし成るなくんば、還らず・・・人間(じんかん)至る処青山(せいざん)あり」

32歳で京阪から帰り、妙円寺の境内に私塾・清狂草堂(時習館)を開く。当時は「西の松下村塾、東の清狂草堂」と並び称せられた。

月性は破天荒な性格で、詩作の際には昼夜を忘れて没頭し、腹が減れば大食いし、酔えば大声で詩吟を唸り、剣をとって乱舞した。

身なりには拘らず、頭は剃らず生やし放題、僧衣も破れ放題だったらしい。

こうした豪放磊落なそうであったことから交友関係も広かった。

世代としては、吉田松陰よりも少し世代が上で、吉田松陰の兄・杉梅太郎、久坂玄瑞の兄・久坂玄機とは同世代であり、三人はよく飲み、議論を戦わせたようだ。

久坂家にはよく泊りに行ったようだが、玄機が病死し、母が死に、その翌年父も死に、久坂家は玄瑞が一人残される。

月性は玄瑞に学問や社会情勢を説くようになり、ゆくゆくは吉田松陰に学ぶことを進める。

月性と吉田松陰とは面識はなかったが、梅太郎との縁もあり。名前も聞こえていた知識人。

月性に兄を見ていた玄瑞は、素直に吉田松陰の門を叩いた。

(学23期kz)

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